三
「それよりも、見事なのは、釣竿の上下に、縺るゝ袂、飜る袖で、翡翠が六つ、十二の翼を飜すやうなんです。 唯、其の白い手も見える、莞爾笑ふ面影さへ、俯向くのも、仰ぐのも、手に手を重ねるのも其の微笑む時、一人の肩をたゝくのも……莟がひら/\開くやうに見えながら、厚い硝子窓を隔てたやうに、まるつ切、聲が……否、四邊は寂然して、ものの音も聞えない。 向つて左の端に居た、中でも小柄なのが下して居る、棹が滿月の如くに撓つた、と思ふと、上へ絞つた絲が眞直に伸びて、するりと水の空へ掛つた鯉が――」 ――理學士は言掛けて、私の顏を視て、而して四邊を見た。恁うした店の端近は、奧より、二階より、却つて椅子は閑であつた―― 「鯉は、其は鯉でせう。が、玉のやうな眞白な、あの森を背景にして、宙に浮いたのが、すつと合せた白脛を流す……凡そ人形ぐらゐな白身の女子の姿です。釣られたのぢやありません。釣針をね、恁う、兩手で抱いた形。 御覽なさい。釣濟ました當の美人が、釣棹を突離して、柳の根へ靄を枕に横倒しに成つたが疾いか、起るが否や、三人ともに手鞠のやうに衝と遁げた。が、遁げるのが、其の靄を踏むのです。鈍な、はずみの無い、崩れる綿を踏越し踏越しするやうに、褄が縺れる、裳が亂れる……其が、やゝ少時の間見えました。 其の後から、茶店の婆さんが手を泳がせて、此も走る…… 一體あの邊には、自動車か何かで、美人が一日がけと云ふ遊山宿、乃至、温泉のやうなものでも有るのか、何うか、其の後まだ尋ねて見ません。其が有ればですが、それにした處で、近所の遊山宿へ來て居たのが、此の沼へ來て釣をしたのか、それとも、何の國、何の里、何の池で釣つたのが、一種の蜃氣樓の如き作用で此處へ映つたのかも分りません。餘り靜な、もの音のしない樣子が、夢と云ふよりか其の海市に似て居ました。 沼の色は、やゝ蒼味を帶びた。 けれども、其の茶店の婆さんは正のものです。現に、私が通り掛りに沼の汀の祠をさして、(あれは何樣の社でせう。)と尋ねた時に、(賽の神樣だ。)と云つて教へたものです。今其の祠は沼に向つて草に憩つた背後に、なぞへに道芝の小高く成つた小さな森の前にある。鳥居が一基、其の傍に大な棕櫚の樹が、五株まで、一列に並んで、蓬々とした形で居る。……さあ、此も邸あとと思はれる一條で、其の小高いのは、大きな築山だつたかも知れません。 處で、一錢たりとも茶代を置いてなんぞ、憩む餘裕の無かつた私ですが、……然うやつて賣藥の行商に歩行きます時分は、世に無い兩親へせめてもの供養のため、と思つて、殊勝らしく聞えて如何ですけれども、道中、宮、社、祠のある處へは、屹と持合せた藥の中の、何種のか、一包づゝを備へました。――詣づる人があつて神佛から授かつたものと思へば、屹と病氣が治りませう。私も幸福なんです。 丁度私の居た汀に、朽木のやうに成つて、沼に沈んで、裂目に燕子花の影が映し、破れた底を中空の雲の往來する小舟の形が見えました。 其を見棄てて、御堂に向つて起ちました。 談話の要領をお急ぎでせう。 早く申しませう。……其の狐格子を開けますとね、何うです…… (まあ、此は珍しい。) 几帳とも、垂幕とも言ひたいのに、然うではない、萌黄と青と段染に成つた綸子か何ぞ、唐繪の浮模樣を織込んだのが窓帷と云つた工合に、格天井から床へ引いて蔽うてある。此に蔽はれて、其の中は見えません。 此が、もつと奧へ詰めて張つてあれば、絹一重の裡は、すぐに、御廚子、神棚と云ふのでせうから、誓つて、私は、覗くのではなかつたのです。が、堂の内の、寧ろ格子へ寄つた方に掛つて居ました。 何心なく、端を、キリ/\と、手許へ、絞ると、蜘蛛の巣のかはりに幻の綾を織つて、脈々として、顏を撫でたのは、薔薇か菫かと思ふ、いや、それよりも、唯今思へば、先刻の花の匂です、何とも言へない、甘い、媚いた薫が、芬と薫つた。」 ――學士は手巾で、口を蔽うて、一寸額を壓へた―― 「――其處が閨で、洋式の寢臺があります。二人寢の寛りとした立派なもので、一面に、光を持つた、滑らかに艶々した、絖か、羽二重か、と思ふ淡い朱鷺色なのを敷詰めた、聊か古びては見えました。が、それは空が曇つて居た所爲でせう。同じ色の薄掻卷を掛けたのが、すんなりとした寢姿の、少し肉附を肥くして見せるくらゐ。膚を蔽うたとも見えないで、美い女の顏がはらはらと黒髮を、矢張り、同じ絹の枕にひつたりと着けて、此方むきに少し仰向けに成つて寢て居ます。のですが、其が、黒目勝な雙の瞳をぱつちりと開けて居る……此の目に、此處で殺されるのだらう、と餘りの事に然う思ひましたから、此方も熟と凝視ました。 少し高過ぎるくらゐに鼻筋がツンとして、彫刻か、練ものか、眉、口許、はつきりした輪郭と云ひ、第一櫻色の、あの、色艶が、――其が――今の、あの電車の婦人に瓜二つと言つても可い。 時に、毛一筋でも動いたら、其の、枕、蒲團、掻卷の朱鷺色にも紛ふ莟とも云つた顏の女は、芳香を放つて、乳房から蕊を湧かせて、爛漫として咲くだらうと思はれた。」
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