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眉かくしの霊(まゆかくしのれい)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-23 10:39:57 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



      二

「何だい、どうしたんです。」
「ああ、旦那。」と暗夜やみよの庭の雪の中で。
さぎが来て、うおねらうんでございます。」
 すぐ窓の外、間近だが、池の水を渡るような料理番――その伊作の声がする。
人間ひとが落ちたか、かわうそでもまわるのかと思った、えらい音で驚いたよ。」
 これは、その翌日の晩、おなじ旅店はたごやの、した座敷でのことであった。……

 境は奈良井宿に逗留とうりゅうした。ここに積もった雪が、朝から降り出したためではない。別にこのあたりを見物するためでもなかった。……昨夜は、あれから――鶫をなべでとあつらえたのは、しゃも、かしわをするように、ぜんのわきで火鉢ひばちへ掛けて煮るだけのこと、と言ったのを、料理番が心得て、そのぶつ切りを、皿に山もり。目笊めざるに一杯、ねぎのざくざくを添えて、醤油しょうゆも砂糖も、むきだしにかつぎあげた。お米が烈々と炭を継ぐ。
 こしの方だが、境の故郷いまわりでは、季節になると、この鶫を珍重すること一通りでない。料理屋が鶫御料理おんりょうり、じぶ、おこのみなどという立看板を軒に掲げる。鶫うどん、鶫蕎麦そばと蕎麦屋までが貼紙びらを張る。ただし安価やすくない。何のわん、どのはちに使っても、おんあつもの、おん小蓋こぶたの見識で。ぽっちり三臠みきれ五臠いつきれよりは附けないのに、葱と一所ひとつけて、鍋からもりこぼれるような湯気を、天井へ立てたはうれしい。
 あまっさえ熱燗あつかんで、くまの皮に胡坐あぐらで居た。
 芸妓げいしゃの化けものが、山賊にかわったのである。
 寝る時には、厚衾あつぶすまに、このくまの皮が上へかぶさって、そでを包み、おおい、すそを包んだのも面白い。あくる日、雪になろうとてか、夜嵐よあらしの、じんと身にむのも、木曾川の瀬のすごいのも、ものの数ともせず、酒の血と、獣の皮とで、ほかほかして三階にぐっすり寝込んだ。
 次第であるから、朝は朝飯から、ふっふっと吹いてすするような豆腐のしるも気に入った。
 一昨日いっさくじつの旅館の朝はどうだろう。……どぶの上澄みのような冷たい汁に、おん羮ほどにしじみが泳いで、生煮えの臭さといったらなかった。……
 山も、空も氷をとおすごとく澄みきって、松の葉、枯木のきらめくばかり、晃々きらきらがさしつつ、それで、ちらちらと白いものが飛んで、奥山に、熊が人立じんりつして、針をくような雪であった。
 朝飯あさが済んでしばらくすると、境はしくしくと腹がいたみだした。――しばらくして、二三度はばかりへ通った。
 あの、饂飩うどんたたりである。鶫を過食したためでは断じてない。二ぜん分をみにした生がえりのうどん粉の中毒あたらない法はない。おなかおさえて、饂飩を思うと、思う下からチクチクと筋が動いて痛み出す。――もっとも、戸外そとは日当りに針が飛んでいようが、少々腹が痛もうが、我慢して、汽車に乗れないという容体ようだいではなかったので。……ただ、誰も知らない。この宿の居心のいいのにつけて、どこかへのつらあてにと、逗留とうりゅうする気になったのである。
 ところで座敷だが――その二度めだったか、かわやのかえりに、わが座敷へ入ろうとして、三階の欄干てすりから、ふと二階をのぞくと、階子段はしごだんの下に、開けた障子に、ほうきとはたきを立て掛けた、中の小座敷に炬燵こたつがあって、床の間が見通される。……床に行李こうりと二つばかり重ねた、あせた萌葱もえぎ風呂敷ふろしきづつみの、真田紐さなだひもで中結わえをしたのがあって、旅商人たびあきんどと見える中年の男が、ずッぷり床を背負しよって当たっていると、向い合いに、一人の、中年増ちゅうどしまの女中がちょいと浮腰で、ひざをついて、手さきだけ炬燵に入れて、少し仰向くようにして、旅商人と話をしている。
 なつかしい浮世のさまを、山のがけから掘り出して、旅宿やどめたように見えた。
 座敷は熊の皮である。境は、ふと奥山へてられたように、里心が着いた。
 一昨日おととい松本で城を見て、天守に上って、その五層いつつめの朝霜の高層に立って、ぞっとしたような、雲に連なる、山々のひしと再び窓に来て、身に迫るのを覚えもした。バスケットに、等閑なおざりからめたままの、城あとのくずぼりこけむす石垣いしがきって枯れ残った小さなつたくれないの、つぐみの血のしたたるごときのを見るにつけても。……急に寂しい。――「お米さん、下階したに座敷はあるまいか。――炬燵に入ってぐっすりと寝たいんだ。」
 二階の部屋々々は、時ならず商人衆あきんどしゅう出入ではいりがあるからと、望むところの下座敷、おも屋から、土間を長々と板を渡って離れ座敷のような十畳へ導かれたのであった。
 肱掛窓ひじかけまどの外が、すぐ庭で、池がある。
 白雪の飛ぶ中に、緋鯉ひごいの背、真鯉のひれの紫は美しい。梅も松もあしらったが、大方は樫槻かしけやきの大木である。ほおの二かかえばかりなのさえすっくと立つ。が、いずれも葉を振るって、素裸すはだか山神さんじんのごとき装いだったことは言うまでもない。
 午後三時ごろであったろう。枝にこずえに、雪の咲くのを、炬燵で斜違はすかいに、くの字になって――いいおんなだとお目に掛けたい。
 肱掛窓をのぞくと、池の向うの椿つばきの下に料理番が立って、つくねんと腕組して、じっと水をみまもるのが見えた。例の紺の筒袖つつッぽに、しりからすぽんと巻いた前垂まえだれで、雪のしのぎに鳥打帽をかぶったのは、いやしくも料理番が水中の鯉を覗くとは見えない。大きなばんが沼のどじょうねらっている形である。山も峰も、雲深くその空を取り囲む。
 境は山間の旅情を解した。「料理番さん、晩の御馳走ごちそうに、その鯉を切るのかね。」「へへ。」と薄暗い顔を上げてニヤリと笑いながら、鳥打帽を取ってお時儀をして、また被り直すと、そのままごそごそとくぐってひさしに隠れる。
 帳場は遠し、あとは雪がややしげくなった。
 同時に、さらさらさらさらと水の音が響いて聞こえる。「――また誰か洗面所の口金を開け放したな。」これがまた二度めで。……今朝三階の座敷を、ここへ取り替えない前に、ちと遠いが、手水ちょうずを取るのに清潔きれいだからと女中が案内をするから、この離座敷はなれに近い洗面所に来ると、三カ所、水道口みずぐちがあるのにそのどれをひねっても水が出ない。さほどの寒さとは思えないがてたのかと思って、こだまのように高く手を鳴らして女中に言うと、「あれ、みます。」とけ出して行くと、やがて、スッと水が出た。――座敷を取り替えたあとで、はばかりに行くと、ほかに手水鉢ちょうずばちがないから、洗面所の一つをひねったが、その時はほんのたらたらとしたたって、かろうじて用が足りた。
 しばらくすると、しきりに洗面所の方で水音がする。炬燵こたつからもぐり出て、土間へ下りて橋がかりからそこをのぞくと、三ツの水道口みずぐち、残らず三条みすじの水が一齊いちどきにざっとそそいで、いたずらに流れていた。たしない水らしいのに、と一つ一つ、丁寧にしめて座敷へ戻った。が、その時も料理番が池のへりの、同じところにつくねんとたたずんでいたのである。くどいようだが、料理番の池に立ったのは、これで二度めだ。……朝のは十時ごろであったろう。トその時料理番が引っ込むと、やがて洗面所の水が、再び高く響いた。
 またしても三条の水道が、残らず開け放しに流れている。おなじこと、たしない水である。あとで手を洗おうとする時は、きっとれるのだからと、またしても口金をしめておいたが。――
 いま、午後の三時ごろ、この時も、さらにその水の音が聞こえ出したのである。庭の外には小川も流れる。奈良井川の瀬も響く。木曾へ来て、水の音を気にするのは、船に乗って波を見まいとするようなものである。望みこそすれ、きらいも避けもしないのだけれど、不思議に洗面所の開け放しばかり気になった。
 境はまた廊下へ出た。果して、三条ともそろって――しょろしょろと流れている。「旦那だんなさん、お風呂ふろですか。」手拭てぬぐいを持っていたのを見て、ここへ火を直しに、台十能じゅうのうを持って来かかった、お米が声を掛けた。「いや――しかし、もう入れるかい。」「じきでございます。……今日はこの新館のがきますから。」なるほど、雪の降りしきるなかに、ほんのりと湯の香が通う。洗面所のわき西洋扉せいようどが湯殿らしい。この窓からも見える。新しく建て増した柱立てのまま、むしろがこいにしたのもあり、足場を組んだところがあり、材木を積んだ納屋なやもある。が、荒れたうまやのようになって、落葉にもれた、一帯、脇本陣わきほんじんとでも言いそうな旧家が、いつか世が成金とか言った時代の景気につれて、くわかいこも当たったであろう、このあたりも火の燃えるような勢いに乗じて、贄川にえがわはその昔は、煮え川にして、温泉いでゆの湧いた処だなぞと、ここが温泉にでもなりそうな意気込みで、新館建増しにかかったのを、この一座敷と、湯殿ばかりで、そのまま沙汰さたやみになったことなど、あとでかった。「女中ねえさんかい、その水を流すのは。」閉めたばかりの水道のせんを、女中が立ちながら一つずつ開けるのをて、たまらずなじるように言ったが、ついでにこの仔細しさいも分かった。……池は、の根にといを伏せて裏の川から引くのだが、一年に一二度ずつ水涸みずがれがあって、池の水がようとする。こいふなも、一処ひとところへ固まって、あわを立てて弱るので、台所の大桶おおおけみ込んだ井戸の水を、はるばるとこの洗面所へ送って、橋がかりの下をくぐらして、池へ流し込むのだそうであった。
 木曾道中の新版を二三種ばかり、まくらもとに散らした炬燵へ、ずぶずぶともぐって、「お米さん、……折り入って、お前さんに頼みがある。」と言いかけて、初々ういういしくちょっと俯向うつむくのを見ると、猛然として、喜多八を思い起こして、わが境は一人で笑った。「ははは、心配なことではないよ。――おかげで腹あんばいも至ってよくなったし、……午飯ひるを抜いたから、晩には入り合せにかつ食い、大いに飲むとするんだが、いまね、伊作さんが渋苦い顔をして池をにらんで行きました。どうも、鯉のふとり工合ぐあい鑑定めききしたものらしい……きっと今晩の御馳走ごちそうだと思うんだ。――昨夜ゆうべつぐみじゃないけれど、どうも縁あって池の前に越して来て、鯉と隣附き合いになってみると、目の前から引き上げられて、まないたで輪切りはひどい。……板前の都合もあろうし、またわがままを言うのではない。……
 いきづくりはお断わりだが、実は鯉汁こいこく大歓迎なんだ。しかし、魚屋か、何か、都合して、ほかの鯉を使ってもらうわけには行くまいか。――差し出たことだが、一ぴきか二ひきで足りるものなら、お客は幾人だか、今夜の入用いりようだけは私がその原料を買ってもいいから。」女中の返事が、「いえ、この池のは、いつもお料理にはつかいませんのでございます。うちの旦那も、おかみさんも、お志の仏の日には、鮒だの、鯉だの、……この池へ放しなさるんでございます。料理番さんもやっぱり。……そして料理番あのひとは、この池のを大事にして、可愛かわいがって、そのせいですか、ひまさえあれば、黙ってああやって庭へ出て、池を覗いていますんです。」「それはおあつらえだ。ありがたい。」境は礼を言ったくらいであった。
 雪の頂から星が一つ下がったように、入相いりあいの座敷に電燈のいた時、女中が風呂を知らせに来た。
「すぐにぜんを。」と声を掛けておいて、待ち構えた湯どのへ、一散――例の洗面所の向うのを開けると、上がり場らしいが、ハテ真暗である。いやいや、提灯ちょうちんが一燈ぼうと薄白く点いている。そこにもう一枚ひらきがあって閉まっていた。そのなかが湯どのらしい。
半作事はんさくじだと言うから、まだ電燈でんきが点かないのだろう。おお、ふたどもえの紋だな。大星だか由良之助ゆらのすけだかで、鼻をく、鬱陶うっとうしい巴の紋も、ここへ来ると、木曾殿の寵愛ちょうあいを思い出させるから奥床しい。」
 と帯を解きかけると、ちゃぶり――という――人が居て湯を使う気勢けはいがする。この時、洗面所の水の音がハタとやんだ。
 境はためらった。
 が、いつでもかまわぬ。……ひとが済んで、湯のあいた時を知らせてもらいたいと言っておいたのである。誰も入ってはいまい。とにかくと、解きかけた帯をはさんで、ずッと寄って、その提灯の上から、にひったりとほおをつけて伺うと、そでのあたりに、すうーと暗くなる、蝋燭ろうそくが、またぽうとあかくなる。影があざになって、巴が一つ片頬かたほに映るように陰気にみ込む、と思うと、ばちゃり……内端うちわに湯が動いた。何の隙間すきまからか、ぷんと梅の香を、ぬくもりで溶かしたような白粉おしろいの香がする。
婦人おんなだ」
 何しろ、この明りでは、男客にしろ、一所に入ると、暗くて肩も手もまたぎかねまい。乳に打着ぶつかりかねまい。で、ばたばたと草履ぞうりを突っ掛けたまま引き返した。
「もう、お上がりになりまして?」と言う。
 通いが遠い。ここでかんをするつもりで、お米がさきへ銚子ちょうしだけ持って来ていたのである。
「いや、あとにする。」
「まあ、そんなにおなかがすいたんですの。」
「腹もすいたが、誰かお客が入っているから。」
「へい、……こっちの湯どのは、久しく使わなかったのですが、あの、そう言っては悪うございますけど、しばらくぶりで、お掃除そうじかたがた旦那様だんなさまに立てましたのでございますから、……あとで頂きますまでも、……あの、まだどなたも。」
「かまやしない。私はゆっくりでいいんだが、婦人の客のようだったぜ。」
「へい。」
 と、おかしなベソをかいた顔をすると、手に持つ銚子が湯沸しにカチカチカチと震えたっけ、あとじさりに、ふいと立って、廊下に出た。一度ひっそり跫音あしおとを消すや否や、けたたましい音を、すたんと立てて、土間の板をはたはたと鳴らしてけ出した。
 境はきょとんとして、
「何だい、あれは……」
 やがてぜんを持ってあらわれたのが……お米でない、年増としまのに替わっていた。
「やあ、中二階のおかみさん。」
 行商人と、炬燵こたつむつまじかったのはこれである。
御亭主ごていしゅはどうしたい。」
「知りませんよ。」
「ぜひ、承りたいんだがね。」
 半ば串戯じょうだんに、ぐッと声を低くして、
「出るのかい……何か……あの、湯殿へ……まったく?」
「それがね、旦那、大笑いなんでございますよ。……どなたもいらっしゃらないと思って、申し上げましたのに、御婦人の方が入っておいでだって、旦那がおっしゃったと言うので、米ちゃん、大変な臆病おくびょうなんですから。……久しくつかいません湯殿ですから、内のお上さんが、念のために、――」
「ああそうか、……私はまた、ちょっと出るのかと思ったよ。」
「大丈夫、湯どのへは出ませんけれど、そのかわりお座敷へはこんなのが、ね、貴方あなた。」
「いや、結構。」
 おしゃくはこの方が、けっく飲める。
 夜は長い、雪はしんしんと降り出した。床を取ってから、酒をもう一度、その勢いでぐっすり寝よう。晩飯ばんはいい加減で膳を下げた。
 跫音が入り乱れる。ばたばたと廊下へ続くと、洗面所の方へ落ち合ったらしい。ちょろちょろと水の音がまた響き出した。男の声も交じって聞こえる。それがむと、お米がふすまからまるい顔を出して、
「どうぞ、お風呂へ。」
「大丈夫か。」
「ほほほほ。」
 とちとてれたように笑うと、身を廊下へ引くのに、押し続いて境は手拭てぬぐいげて出た。
 橋がかりの下り口に、昨夜帳場に居た坊主頭の番頭と、女中がしらか、それとも女房かと思う老けたおんなと、もう一人の女中とが、といった形に顔を並べて、一団ひとかたまりになってこなたを見た。そこへお米の姿が、足袋たびまで見えてちょこちょこと橋がかりを越えて渡ると、三人のふところへ飛び込むように一団ひとかたまり
「御苦労様。」
 わがために、見とどけ役のこの人数で、風呂をしらべたのだと思うから声を掛けると、一度にそろってお時儀をして、屋根がかやぶきの長土間に敷いた、そのあゆみ板を渡って行く。土間のなかばで、そのおじやのかたまりのような四人の形が暗くなったのは、トタンに、一つ二つ電燈がスッと息を引くように赤くなって、橋がかりのも洗面所のも一齊いっせいにパッと消えたのである。
 と胸をくと、さらさらさらさらと三筋に……こう順に流れて、洗面所を打つ水の下に、さっきの提灯ちょうちん朦朧もうろうと、半ば暗く、ともえを一つ照らして、墨でかいた炎か、なまずねたか、と思う形にともれていた。
 いまにも電燈がくだろう。湯殿口へ、これを持って入る気で、境がこごみざまに手を掛けようとすると、提灯がフッと消えて見えなくなった。
 消えたのではない。やっぱりこれが以前のごとく、湯殿の戸口に点いていた。これはおのずからしずくして、下の板敷のれたのに、目の加減で、向うから影がしたものであろう。はじめから、提灯がここにあった次第わけではない。境は、斜めに影の宿った水中の月を手に取ろうとしたと同じである。
 つまさぐりに、例の上がり場へ……で、念のために戸口に寄ると、息が絶えそうに寂寞ひっそりしながら、ばちゃんと音がした。ぞッと寒い。湯気が天井から雫になって点滴したたるのではなしに、屋根の雪が溶けて落ちるような気勢けはいである。
 ばちゃん、……ちゃぶりとかすかに湯が動く。とまた得ならずえんな、しかし冷たい、そして、におやかな、霧に白粉おしろいを包んだような、人膚ひとはだの気がすッと肩にまつわって、うなじでた。
 脱ぐはずの衣紋えもんをかつしめて、
「お米さんか。」
「いいえ。」
 と一呼吸ひといきを置いて、湯どののなかから聞こえたのは、もちろんわが心がわが耳に響いたのであろう。――お米でないのは言うまでもなかったのである。
 洗面所の水の音がぴったりやんだ。
 思わず立ちすくんで四辺あたりを見た。思い切って、
「入りますよ、御免。」

「いけません。」
 と澄みつつ、湯気にれとした声が、はっきり聞こえた。

「勝手にしろ!」
 我を忘れて言った時は、もう座敷へ引き返していた。
 電燈は明るかった。巴の提灯はこの光に消された。が、水は三筋、さらにさらさらと走っていた。
「馬鹿にしやがる。」
 不気味より、すごいより、なぶられたような、反感が起こって、炬燵こたつへ仰向けにひっくり返った。
 しばらくして、境が、飛び上がるように起き直ったのは、すぐ窓の外に、ざぶり、ばちゃばちゃばちゃ、ばちゃ、ちゃッと、けたたましく池の水のみださるる音を聞いたからであった。
「何だろう。」
 ばちゃばちゃばちゃ、ちゃッ。
 そこへ、ごそごそと池を廻って響いて来た。人の来るのは、なぜか料理番だろうと思ったのは、この池のうおを愛惜すると、聞いて知ったためである。……
「何だい、どうしたんです。」
 雨戸を開けて、一面の雪の色のやや薄いところに声を掛けた。その池も白いまで水は少ないのであった。

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