海野十三全集 第12巻 超人間X号 |
三一書房 |
1990(平成2)年8月15日 |
1990(平成2)年8月15日第1版第1刷 |
深夜の事件
黒眼鏡に、ひどい猫背の男が、虎猫色の長いオーバーを地上にひきずるようにして、深夜の町を歩いていた。 めずらしく暖い夜で、町並は霧にかくれていた。もはや深更のこととて行人の足音も聞えず、自動車の警笛の響さえない。 黒眼鏡にひどい猫背の男は、飄々として、S字状に曲った狭い坂道をのぼって行く。この男こそ、名乗りをあげるなら誰でも知っている、有名な頑張り探偵の袋猫々その人であった。彼こそは、かの大胆不敵にして奇行頻々たる怪賊の烏啼天駆といつも張合っているので有名なわけだった。そして彼は、おおむね烏啼のためにしてやられることが多く、従来のスコアは十九対一ぐらいのところであった。しかし名探偵袋猫々には、常に倦まず屈しない頑張りの力があった。それは猫力というやつであったが、彼はこの猫力でもって、いずれ近いうちにめでたく、怪賊烏啼めを刑務所の鉄格子の中に第二封鎖せんことを期しているのだった。 さてその袋猫々探偵が、S字状の坂道を半分ばかりのぼったとき、彼はとつぜん足を停め、右の耳に手をあてがって首をぐるぐる左右へ何回も動かした。はて心得ぬ物音を感じたからである。甚だ微かではあったが、それは……。 スットン、スットン、スットン、スットン……。 どこまで行っても、スットン、スットンとその音は切れない。六十サイクルで二デシベルの音響だと、耳のいい探偵は悟った。一体どこからその音は発しているのであろうか。 「おおッ……」 われにもなく袋猫々は、おどろきの声を発した。彼は軒下にふしぎなものを見たのだ。 その店舗は果実店であったが、もちろん戸はぴったり閉じられていたが、カンバス製の日蔽いが陽も照っていないのに、軒からぐっと前へ伸びて屋根をつくっていた。彼がおどろいたのはこの日蔽いではない。 その日蔽いの下にあたる舗石の上に、白い藁蒲団が敷いてあった。そしてその上に、やはり真白な毛布にくるまった一人の若い紳士が横たわっていたのである。その紳士の胸のところには、黒い風呂敷に包んだ骨壺の箱ほどの大きなものを首からぶら下げていた。 「もしもし、あなた。こんなところであなたは病院の夢を見ておいでなんですか。それとも病院から放りだされた……」 「く、苦しい。た、助けてくれイ……」 藁蒲団の上の若紳士は、袋探偵の質問をみなまで聞かずに、救いをもとめた。 「た、助けてあげましょうが、一体あなたはどうした状況の下にあるんですか。どこの病院から出て来られたんですか」 袋探偵は顔を真赤にして訊いた。 「病院……病院へ、これから行きたいのだ。早く連れてってくれ」 「ごもっともです。しかし一体あなたはどういう事情でこのような軒下に藁蒲団を敷き、そして……」 「人殺しッ!」若紳士は意外な叫声をあげた。 「ええっ。わしは君を殺すつもりはない」 「盗まれたッ。盗まれちまったんだ、僕の心臓を盗んでいきやがったんだ」 「なに、心臓を盗まれた。それは容易ならぬ出来事だ。あなたは心臓を盗まれたというんですね。ほう、昂奮せられるのはごもっともですが、どうか気を鎮められたい。そんなばかなことがあってたまるものか」 「早く僕の心臓をかえせ。僕は死んじまう……」 「ははあ、察するところあなたは“ベニスの商人”の物語に読み耽けられたんだな。心配はいらんです。ここにはシャイロックは居ませんし……」 「ああ僕は死ぬ、心臓がなくなっては……」 「それがあなた真理に反しているのですよ。いいですか、およそ人間たるものが、心臓を失ったら、立ち処に死んでしまうでしょう。しかるに君はちゃんとこうして生きて居らるる。それならば君の心臓は盗まれていないと帰納してよいじゃありませんか。どうです」 袋探偵は、若紳士に対して噛んで含めるように説いたつもりであった。気の毒な若紳士よ。君はこの頃にはめずらしい神経衰弱にかかり、恐ろしい幻影に怯やかされているのであろう。 だが探偵の説得は、効を奏しなかった。かの若紳士は、毛布の中から血だらけの手を出すと、自分の胸を指して叫んだ。 「このとおり僕の心臓はなくなっている。君はみえないのか」 これには袋探偵は目を瞠って、急いで懐中電灯を取出すと、その灯を相手の胸へ向けた。彼は驚愕の声を懸命に嚥んだ。若紳士の左胸に捲いた繃帯は、空気の抜けたゴム毬のようにへこんでいた。 だが、あやしいことにスットン、スットンと音が聞える。正しく心音と思われる。 袋探偵はこのことをまことに若紳士に告げ、その注意を喚起した。 「それは聞えている。しかしその音は、僕の胸の中でしているのではない。そしてその音は、僕が二十四時間聞きなれた僕の心臓の音ではないのだ。――ああ、僕の心臓を奪っていった奴。そやつをとっ捕えて、僕の心臓を取戻してくれ。ああ、神様。いや悪魔でもいい、それをやってくれるなら……」 と、かの気の毒な若紳士は、心臓を奪われた人の声とは思われない張りのある声で述べたのであった。 袋探偵は困惑のどん底になげこまれた形であった。 しかし彼は、かねてそのどん底というやつにぶつかると同時に反作用的に元気を盛りかえす習慣のある人物だったので、どん底に叩きつけられるが早いか、たちまち怒牛のように奮い立った。 もっとも、このときは、翻然奮起すべき一つの素因のためにお尻をどやされたのである。それはどういうことかというと、この奇怪なる心臓盗人の下手人は、かの烏啼天駆めの仕業に違いないと悟ったからである。烏啼天駆めこそ、袋探偵の常に血を逆流させるはげしき相手だったから。
図星の大犯人
「ほら、この通り。この青年紳士安東仁雄君の心臓は、きれいに切り取られてしまって、あとは穴があいているのです」 袋探偵は、あれから早速通報して呼び迎えた検察当局のお役人衆に説明をつけているところである。 「生きている人間の心臓を芟除するなんてことは、かの憎むべき怪賊烏啼天駆めの外に、何人がかかることをなし得ましょうか。実にかの天駆の技術に至っては正に世界一――いや実に憎むべき天駆めである」 ほめているのか、憎んでいるのか、さっぱり分らない。 「なるほど、そういうわけで猫々先生は、烏啼の仕業と判断せられたわけですな」 捜査課長の虻熊警視が挨拶をした。 「いや、烏啼が下手人である証拠は山のようにありますぞ。あなたがたはそれに気がつかれないのですか」 「どうも残念ながら……猫々先生の専門眼を以てお教えにあずかりたい」 言葉の意味とは違って、ぶっきら棒に、課長はいった。 「あなたはわしをおからかいなのではないでしょうか。いいですか。心臓をちょん切って持っていったのを第一とし、次にこの黒い四角い包みがそうなんですが、これは代用心臓が入っているんです。スットン、スットンと音がしているでしょう。あの音は、この箱の中に仕掛けてある喞筒が、正しく一分間に六十回の割合で、この青年の血液を、心臓に代って、全身へ送り出しているんです」 「ほほう」 と、検察官たちは、黒箱へ耳を寄せて、おどろきのあまり口を丸く開く。 「お分りになったでしょうな。このような優秀な代用心臓を供給し、それを見事に取付ける手際からいって、その下手人は烏啼めの外にはないと断言ができます。これが第二の証拠ですわい」 「ほほう」 「そればかりか、この黒い風呂敷をごらんなさい。ここに見えるのは、烏の形をした染め抜き模様です。これは赤ン坊が見てもそれと判断ができるでしょう、この風呂敷が奇賊烏啼の所有品だということは……。これが第三」 「ほほう、これは気がつかなかった」 「第四には、賊はこの青年紳士安東仁雄君の心臓を強奪すると共に、直ちに代用心臓を与えて居る。つまり賊は、被害者の生命の保護ということについて責任ある行動をして居る。このように仁義のある紳士的な賊は、烏啼天駆めの外にはないのです。有名な彼の言葉に――“健全なる社会経済を維持するためには何人といえども、ものの代金、仕事に対する報酬を支払わなければならない。もしそれを怠るような者があれば、その者は真人間ではない。たとえ電車の中の掏摸といえども、乗客から蟇口を掏り盗ったときは、その代償として相手のポケットへ、チョコレートか何かをねじこんでおくべきだ。そういう仁義に欠ける者は猫畜生にも劣る”――というのがありますがな、猫畜生なる言葉は適切ではないが、その趣旨は悪くないと思う。つまり相手から心臓を奪いながら、すぐさま代用心臓を仕掛けて相手の生命を保護するというやり方は、これは烏啼めのやり方です」 「ふふん、ふしぎなやり方ですな」 「ふしぎじゃないですよ。いくら賊にしろ、お互いに人間同志だから、烏啼のようにやるべきですよ。――まだある、第五には……」 「もう、そのへんでよいです」 「いや、大事な証拠をあなたがたが見落して行かれてはならぬ。第五は、この青年がこのとおり軒下ながら、下に藁蒲団を敷き、風邪をひかぬように暖く五枚の毛布にくるまって居る事実に注意せられたい。これはこの青年が用意したことではない。これまたかの烏啼天駆めの責任的行動である。従来の賊なれば、この青年の心臓を抜いて、残りの身体はそのまま溝の中へでも叩きこんでおいたであろうが、わが烏啼――いや、かの烏啼めに至っては、下に藁蒲団を敷き、被害者の身体は純毛五枚で包んだ上で、ここへ捨てていった。烏啼ならでは、こんなことはしない。第六には……」 「待った。もういいです。われわれも、烏啼の仕業たることを大体確認しましたから」 「第六には……」 「いや、それよりもこの被害者を直ちに病院へ移しましょう。こんなところに永く置いて当人に風邪でもひかせたり、死んでしまわれたりすると、われわれの責任になりますからなあ。そうなると、われわれは烏啼天駆に劣ることになります。――事件の尋問は、この安東氏を病院へ収容した上でのことにしましょう」 虻熊課長はそういって、部下に目配せをしたのであった。
恋愛事件
検察陣の大活動が始まった。 怪賊烏啼天駆の行方を厳探に附す一方、非常線はものものしく張られた。 また、事件当夜、かの被害者安東仁雄の足取が詳しく調べられ、そして当夜彼がすこしでも事件に関係があるのではないかと思った事項について厳重な調べがなされた。 だが、烏啼の所在は判明せず、安東の心臓がどこにあるのか、またどうなったのかについても得るところがなかった。そして事件はようやく迷宮入りくさい観を呈するに至った。 猫背の名探偵猫々は何をしていたか。 彼は、安東が心臓を盗まれて後、はじめて安東に近づいた人物であり、且つ遺棄された被害者を初めて発見した人物であるというところから、心臓盗難事件の主役ではないかという嫌疑を多少もたれたため、四五日検察当局の中に泊めておかれた。 だが彼は格別にそれに憤慨するようなこともなく、同じことをいくどでも釈明し、そして穏かにその日数を重ねた。そして最後に嫌疑が晴れて自由の身となることが出来たが、たちまち新聞記者連の包囲にあわねばならなかった。 「あんたは心臓盗人としての嫌疑を受けて拘束せられていたのか」 「そうではありません。当局はわしを、烏啼の賊から保護するために泊めておいたのです」 「じゃあ、出されたのはもうあんたを烏啼から保護しなくも危険はないという事態になったと考えていいのか」 「事態がそうなったというよりも、わしの実力を以てすれば烏啼の輩から危害を受けるおそれなしと当局が認めたせいですよ」 「あんたはこれから烏啼と一騎打をするのか」 「従来からも一騎打をして来たですから、もちろんそれを続けますよ」 「烏啼がどこに居るか、あんたは知っているのか」 「はあ、よく知っていますよ」 「当局は烏啼の所在が分らないといっている。あんたは当局に教えてやらないのか」 「訊かれもしないことについて喋らないでもいいでしょう。当局には当局で、お考えもありまた面子もあるのでしょう」 「あんたは、烏啼が本当に安東の心臓を盗んだと思っているのか」 「はい。そう思っています」 「じゃあ、烏啼は何の目的があって安東の心臓を盗んだと思うか」 「恋愛事件が発生しているのですね」 「ぷッ」と新聞記者は噴きだして「恋愛事件だって。しかし烏啼は男の子だろう。男の子が男の子の心臓を盗んだって一体何になろう。況んや、言葉じゃ“心を盗む”とか、“心臓を自分の所有にする”とかいうが、ほんものの血腥い心臓を盗んだって、なんにもならんじゃないか」 記者たちは笑いながら散っていった。
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