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食魔(しょくま)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-26 7:49:55 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 三度に一度の願いがかなって医者に注射をして貰ったときには病友は上機嫌で、へらりへらり笑った。食慾を催して鼈四郎に何を作れかにを作れと命じた。
 ねぎとチーズを壺焼つぼやきにしたスープ・ア・ロニオンとか、牛舌オックス・タングのハヤシライスだとか、莢隠元アリコベルのベリグレット・ソースのサラダとか、彼がふだん好んだものを註文ちゅうもんしたので鼈四郎は慥え易かった。しかし家鴨あひるの血を絞ってその血で家鴨の肉を煮る料理とか、大鰻をぶつ切りにして酢入りのゼリーで寄る料理とかは鼈四郎は始めてで、ベッドの上から病友に差図されながらもなかなか加減は難しかった。家鴨の血をアルコールランプにかけた料理盤でき混ぜてみると上品なしる粉ほどの濃さや粘りとなった。これをしお胡椒こしょうし、家鴨の肉の截片を入れてちょっと煮込んで食べるのだが、鼈四郎は味見をしてみるのに血生臭ちなまぐさいことはなかった。巴里パリの有名な鴨料理店の家の芸の一つでまず凝った贅沢ぜいたく料理に属するものだと病友はいった。鰻の寄せものは伊太利イタリア移民の貧民街などで辻売つじうりしている食品で、下層階級の食べものだといった。うまいものではなかった。病友はそれらの食品にまつわる思い出でも楽しむのか、慥えてやってもろくに食べもしないで、しかし次々にふらふらと思い出しては註文した。鴨のない時期に、鴨に似た若い家鴨を探したり、夏けてさやは硬ばってしまった中からしなやかな莢隠元さやいんげんを求めたり鼈四郎は、走りまわった。病友はまたずっとさかのぼった幼時の思い出を懐しもうとするのか、フライパンで文字焼を焼かせたり、炮烙ほうろくで焼芋を作らせたりした。
 これ等を鼈四郎は、病友が一期の名残りと思えばこそ奔走しても望みを叶えさしてやるのだが、病友はこれ等をたのしみ終りまだ薬の気が切れずに上機嫌の続く場合に、鼈四郎を遊び相手にわずらわすのにはさすがの鼈四郎も、病友が憎くなった。病友は鼈四郎にうしろ頸に脹れ上って今はまりのぞいているほどになっている癌の瘤へ、油絵の具で人の顔を描けというのである。「誰か友だちを呼んで見せて、人面疽じんめんそが出来たと巫山戯ふざけてやろう」鼈四郎が辞んでも彼は訊入ききいれなかった。鼈四郎は渋々筆を執った。繃帯ほうたいを除くとレントゲンの光線けと塗り薬とで鰐皮色わにがわいろになっているうずたかいものの中には執拗しつような反人間の意志の固りが秘められているように思われる。内側からしんの繁凝しこりが円味を支え保ち、そしてその上に程よい張度の肉と皮膚が覆っている腫物はれものは、鋭いメスをぐさと刺し立てたい衝動と、その意地張った凝り固りには、ひょぐって揶揄やゆしてやるより外に術はないという感じを与えられる。腫物の皮膚に油絵の具のつきはよかった。彼は絵の具を介して筆尖ひっせんでこの怪物の面を押し擦るタッチのうちに病友がいかにこの腫物を憎んだか。そして憎み剰った末が、悪戯いたずらごころに気持をはぐらかさねばならないわけが判るような気がした。「思い切り、人間の、苦痛というものをばかにした顔に描いてやれ、腫物とは見えない人の顔に」彼は、人の顔らしく地塗りをし、隈取くまどりをし鼻、口、眼と描き入れかけた。病友はここまで歯を食い縛って我慢していたが、「た た た た た た」といって身体をすさらせた。彼はいった。「さすがにたまらん、もう、ええ、あとはたれか痛みの無くなった死骸しがいになってから描き足してれ」それゆえ、腫物の上に描いた人の顔はひとみは一方しか入れられずに、しかも、ずっている。鼈四郎は病友がいった通り、彼が死んでからも顔を描き上げようとはしなかった。隻眼をすがめにしてにらみながら哄笑こうしょうしている模造人面疽もぞうじんめんその顔は、ずった偶然によってかえって意味を深めたように思えた。人生の不如意を、諸行無常を眺めやる人間の顔として、なんで、この上、一点の描き足しを附け加える必要があろう。
 鼈四郎は病友の屍体したい肩尖かたさきに大きく覗いている未完成の顔をつくづく見瞠みいり「よし」と独りいって、屍体を棺に納め、共に焼いてしまったことであった。
 病友に痛みの去る暇なく、注射は続いた。流動物しかれなくなって、彼はベッドに横わり胸を喘ぐだけとなった。鼈四郎は、それが夜店の膃肭獣おっとせい売りの看板である膃肭獣の乾物に似ているので、人間も変れば変るものだと思うだけとなった。病友は口から入れるものは絶ち、苦痛も無くなってしまったらしい。医者は臨終は近いと告げた。看護婦もモデルの娘も涙の眼をしょぼしょぼさせながら帰り支度の始末を始め出した。病友は朦々もうもうとして眠っているのか覚めているのか判らない場合が多い。けれども咽頭奥のどおくつぶやくような声がしているので鼈四郎べつしろうが耳を近付けてみると、うたを唄っているのだった。病友がこういう唄を唄ったことを一度も鼈四郎は聞いたことはなかった。覚束おぼつかない節を強いて聞分けてみると、それは子守唄だった。「ねんころりよ、ねんころりねんころり」
 鼈四郎の顔が自分に近付いたのを知って病友は努めて笑った。そしてあえぎ喘ぎいう文句の意味を理解につづってみるとこういうのだった。「どこを見渡してもさっぱりしてしまって、まるで、何にもない。いくら探しても遺身かたみの品におまえにやるものが見付からないので困った。そうそう伯母さんが東京に一人いる。これは無くならないでまだある。遠方にうすくぼんやり見える。これをおまえにやる。こりゃいいもんだ。やるからおまえの伯母さんにしなさい。」
 病友は死んだ。店の旧取引先か遊び仲間の知友以外に京都には身寄りらしいものは一人も無かった。東京の伯母なるものに問合すと、年老いてることでもあり葬儀万端しかるべくという返事なので鼈四郎は、主に立って取仕切り野辺の煙りにしたことであった。


 その遺骨を携えて鼈四郎は東京に出て来た。東京生れの檜垣の主人はもはや無縁同様にはなっているようなものの菩提寺ぼだいじと墓地は赤坂青山辺に在った。戸主のことではあり、ともかく、骨は菩提寺の墓に埋めて欲しいという伯母の希望から運んで来たのであったが、鼈四郎は東京のその伯母の下町の家に落付き、埋葬も終えて、ついでにこの巨都も見物して京都に帰ろうとする一ヶ月あまりの間に、鼈四郎はもう伯母のとりことなっていた。
 この伯母は、女学校の割烹教師かっぽうきょうし上りで、草創時代の女学校とてその他家政に属する課目は何くれとなく教えていた。時代後れとなって学校を退かされてもこれがかえって身過ぎの便りとなり、下町の娘たちを引受けて嫁入り前のしつけをする私塾を開いていた。伯母も身うちには薄倖はっこうの女で、良人おっとには早く死にわかれ、四人ほどの子供もだんだん欠けて行き、末の子の婚期に入ったほどの娘が一人残って、塾の雑事をまかなっていた。貧血性のおとなしい女で、伯母にしかられては使いまわされ、塾の生徒の娘たちからは姉さんと呼ばれながら少しばかにされている気味があった。何かいわれると、おどおどしているような娘だった。
 伯母はむかし幼年で孤児となった甥の檜垣の主人を引取り少年の頃まで、自分の子供の中に加えて育てたのであったが、以後檜垣の主人は家を飛出し、外国までも浮浪さまよい歩るいて音信不通であったこの甥に対し、何の愛憎も消えせているといった。しかし、このまま捨置くことなら檜垣の家は後嗣あと絶えることになるといった。
 甥の檜垣の家が宗家で、伯母はその家より出て分家へ嫁に行ったものである。伯母はいった、自分の家は廃家してもかまわぬ、しかし檜垣の宗家だけは名目だけでも取留めたい。そこで相談である。もし「それほど嫌でなかったら――」自分の娘をめとってれて、できた子供の一人を檜垣の家に与え、家の名跡だけで復興さして貰いい。さすれば自分に取っては宗家への孝行となるし、あなたにしても親友への厚い志となる。「第一、貰って頂き度い娘は、檜垣に取ってたった一人の従兄弟女いとこめである。これも何かのご縁ではあるまいか。」
 始めこの話を伯母から切出されたときに鼈四郎は一笑に附した。あの※(「風+陽のつくり」、第3水準1-94-7)ようようとして芸術三昧ざんまいに飛揚してせた親友の、音楽が済み去ったあとで余情だけは残るもののその木地きじは実は空間であると同じような妙味のある片付き方で終った。その病友の生涯と死に対し、伯母の提言はあまりに月並な世俗の義理である。どうぎ合わしても病友の生涯の継ぎ伸ばしにはならない。伯母のいう末の娘とて自分に取り何の魅力もない。「そんなことをいったって――」鼈四郎はひょんな表情をして片手で頭を抱えるだけてあったが、伯母の説得は間がなすきがなゆるまなかった。「あなたも東京で身を立てなさい。東京はいいところですよ」といって、鼈四郎の才能を鑑検し、急ぎ蛍雪館はじめ三四の有力な家にも小使い取りの職仕を紹介してこの方面でも鼈四郎を引留めるいかりを結びつけた。伯母は蛍雪館が下町に在った時分姉娘のお千代を塾で引受けて仕込んだ関係から蛍雪とは昵懇じっこんの間柄であった。
 何という無抵抗無性格な女であろうか。鼈四郎は伯母の末の娘で檜垣の主人の従姉妹いとこに当るこの逸子という女の、その意味での非凡さにもやがてからめ捕られてしまった。鼈四郎のような生活の些末さまつの事にまで、タイラントのとげが突出ている人間に取り、性抜きの薄綿のような女はかえって引懸りくるまれ易い危険があったのだった。鼈四郎の世間に対する不如意の気持から来る八つ当りは、横暴ないい付けとなって手近かのものへ落ち下る。彼女はいつもびっくりした愁い顔で「はいはい」といい、中腰ちゅうごし駈足かけあしでその用を足そうと努める。自分の卑屈な役割は一度も顧ることなしに、また次の申付けをおどおどしながら待受けているさまは、鼈四郎には自分が電気を響かせるようで軽蔑けいべつしながら気持がよいようになった。世をのろあまって、意地悪く吐出す罵倒や嘲笑ちょうしょう鋒尖ほこさきを彼女は全身に刺し込まれても、ただ情無く我慢するだけ、苦鳴の声さえ聞取られるのに憶している。肌目きめがこまかいだけが取得の、無味で冷たく弱々しい哀愁、れもできない馬鹿正直さ加減。一方、伯母は薄笑いしながら説得の手を緩めない。鼈四郎としては「何の」と思いながら、逸子が必要な身の廻りのものとなった。結婚同様の関係を結んでしまった。ずるずるべったりに伯母の望む如く、鼈四郎は、東京居住の人間となり逸子を妻と呼ぶことにしてしまった。そして檜垣の主人が死ぬ前に譫言うわごとにいった「伯母をおまえにやる。おまえの伯母にしろ」といった言葉が筋書通りになった不思議さを、ときどきおもい見るのであった。
 京都に一人残っている生みの母親、青年近くまで養ってくれた拓本の老職人のことも心にかからないことはないけれども、鼈四郎の現在のような境遇には、彼等との関係はもとからの因縁が深いだけに、それを考えに上すことは苦しかった。この撥ぜ開けた巨都の中で一旗揚げる慾望に燃え盛って来た鼈四郎に取り、親友でこそあれ、他人の伯母さんを伯母さんと呼ぶぐらいの親身さが抜き差しができて責任が軽かった。責任感が軽くて世話をして呉れる老女は便利だった。しかし生きてるうちは好みに殉じ死に向ってはこれを遊戯視して、一切を即興詩のように過したかに見えた檜垣の主人が譫言の無意識でただ一筋、世俗的な糸をこの世にのこし、それを友だちの自分にからみつけて行って、しかもその糸が案外、生あたたかく意味あり気なのを考えるのは嫌だった。
 伯母が世話をして呉れた下町の三四の有力な家の中で、鼈四郎は蛍雪館の主人に一ばん深く取入ってしまった。
 蛍雪館の主人は、江戸っ子漢学者で、少壮の頃は、当時の新思想家に違いなかった。講演や文章でかなりならした。油布の支那服なぞ着て、大陸政策の会合なぞへも出た。彼の説は時代遅れとなり妻の変死も原因して彼は公的のものと一切関係を断ち、売れそうな漢字辞典や、受験本を書いて独力で出版販売した。当ったその金で彼は家作や地所を買入れ、その他にも貨殖の道を講じた。彼は小富豪になった。
 彼はやもめで暮していた。姉のお千代に塾をひかしてから主婦の役をさせ、妹のお絹は寵愛物ちょうあいぶつにしていた。蛍雪の性癖も手伝い、この学商の家庭には檜垣の伯母のようなもの以外出入りの人物は極めて少かった。新来とはいえ蛍雪に取って鼈四郎べつしろうは手に負えない清新な怪物であった。琴棋書画等趣味の事にかけては大概のことの話相手になれると同時に、その話振りは思わず熱意をもって蛍雪を乗り出させるほど、話の局所局所に、逆説的な弾機を仕掛けて、相手の気分にバウンドをつけた。中でも食味については鼈四郎は、実際に食品を作って彼の造詣ぞうけいを証拠立てた。偏屈人に対しては妙に心理洞察のカンのある彼は、食道楽であるこの中老紳士の舌を、その方面からそらんじてしまって、嗜慾しよくをピアノの鍵板けんばんのように操った。鰥暮しで暇のある蛍雪は身体の中で脂肪が燃えでもするようにフウフウ息を吐きながら、一日中炎天の下に旅行用のヘルメットをかぶって植木鉢の植木をさいなんだり、飼ものに凝ったり、猟奇的な蒐集物しゅうしゅうぶつに浮身を※(「哨」の「口」に代えて「にんべん」、第4水準2-1-52)やつしたりした。時には自分になまじい物質的な利得ばかりを与えながら昔日の尊敬を忘れ去り、学商呼ばわりする世情を、気狂いのようになって悲憤慷慨ひふんこうがいすることもある。そんな不平の反動も混って蛍雪のべものへの執し方が激しくなった。

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