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東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-26 8:00:54 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


「坂の途中で、江尻へ忘れて来た仕事のこと思い出してさ。帰らなきゃなるまい。いま、奥で一ぱい飲みながら考えていたところさ」
 中老の男はじろじろ私を見るので主人は正直に私の身元を紹介した。中老の男は私には丁寧ていねい
「自分も絵の端くれを描きますが、いや、その他、何やかや八百屋でして」
 男はちょっと軒端のきばから空を見上げたが
「どうだ、日もまだ丁度ぐらいだ。奥で僕と一ぱいやってかんかね。昼飯も食うてったらどうです」
 と案内顔に奥へ入りかけた。主人は青年ながら家で父と晩酌を飲む口なので、私の顔をちょっと見た。私は作楽井というこの男の人なつかしそうな眼元を見ると、反対するのが悪いような気がしたので
「私は構いませんわ」と言った。
 粗壁の田舎家の奥座敷で主人と中老の男の盃の献酬がはじまる。裏の障子を開けた外は重なった峯のそばが見開きになって、その間から遠州の平野が見晴せるのだろうが濃い霞がよどんでかかり、金色にやや透けているのは菜の花畑らしい。覗きに来る子供を叱りながらおかみさんが斡旋あっせんする。私はどこまで旧時代の底に沈ませられて行くか多少の不安と同時に、これより落着きようもない静な気分に魅せられて、傍でで卵などいていた。
「この間、島田で、大井川の川越しに使った蓮台を持ってる家を見付けた。あんたに逢ったら教えて上げようと思って――」
 それから、酒店のしるしとして古風に杉の玉を軒に吊っている家が、まだ一軒石部の宿に残っていることやら、お伊勢参りの風俗や道中唄なら関の宿の古老に頼めば知っていて教えて呉れることだの、主人の研究の資料になりそうなことを助言していたが、私の退屈にも気を配ったと見え
「奥さん、この東海道というところは一度や二度来てみるのは珍らしくて目保養にもなっていいですが、うっかりはまり込んだら抜けられませんぜ。気をつけなさいまし」
 嵌り込んだら最後、まるであめにかかった蟻のようになるのであると言った。
「そう言っちゃ悪いが、御主人なぞもだいぶ足を粘り取られてる方だが」
 酒は好きだがそう強くはない性質らしく、男はあかい顔に何となく感情を流露りゅうろさす声になった。
「この東海道というものは山や川や海がうまく配置され、それに宿々がいい工合ぐあいな距離に在って、景色からいっても旅の面白味からいっても滅多に無い道筋だと思うのですが、しかしそれより自分は五十三次が出来た慶長頃から、つまり二百七十年ばかりの間に幾百万人の通った人間が、旅というものでめる寂しみや幾らかの気散じや、そういったものが街道の土にも松並木にも宿々の家にも浸み込んでいるものがある。その味が自分たちのような、情味にもろい性質の人間をしびらせるのだろうと思いますよ」
 いて同感を求めるような語気でもないから、私は何とも返事しようがない気持をただ微笑に現してうなずいてだけいた。すると作楽井は独り感に入ったように首を振って
「御主人は、よく知ってらっしゃるが、考えてみれば自分なぞは――」
 と言って、身の上話を始めるのであった。
 家は小田原在に在る穀物商で、妻もめとり兄妹三四人の子供もできたのだが、三十四の歳にふと商用で東海道へ足を踏み出したのが病みつきであった。それから、家に腰が落着かなくなった。ここの宿を朝立ちして、晩はあの宿に着こう。その間の孤独で動いて行く気持、前にった宿には生涯二度と戻るときはなく、行き着く先の宿は自分の目的の唯一のものに思われる。およそ旅というものにはこうした気持は附きものだが、この東海道ほどその感を深くさせる道筋はないと言うのである。それは何度通っても新らしい風物と新らしい感慨にいつも自分を浸すのであった。ここから東の方だけ言っても
 程ヶ谷と戸塚の間の焼餅坂に権太坂
 箱根旧街道
 鈴川、松並木の左富士
 この宇津の谷
 こういう場所は殊にしみじみさせる。西の方には尚多いと言った。
 それに不思議なことはこの東海道には、京へ上るという目的意識が今もって旅人に働き、泊り重ねて大津へ着くまでは緊張していて常にうれしいものである。だが、大津へ着いたときには力が落ちる。自分たちのような用事もないものが京都へ上ったとて何になろう。
 そこで、また、汽車で品川へ戻り、そこから道中双六すごろくのように一足一足、上りに向って足を踏み出すのである。何の為めに? 目的を持つ為めに。これを近頃の言葉では何というのでしょうか。憧憬、なるほど、その憧憬を作る為めに。
 自分が再々家を空けるので、妻は愛想を尽かしたのも無理はない。妻は子供を連れたまま実家へ引取った。実家は熱田附近だがそう困る家でもないので、心配はしないようなものの、流石さすがにときどきは子供に学費ぐらいは送ってやらなければならぬ。
 作楽井は器用な男だったので、表具やちょっとした建具左官の仕事は出来る。自分でふすまを張り替えてそれに書や画もかく。こんなことを生業なりわいとして宿々に知り合いが出来るとなおこの街道から脱けられなくなり、家を離散さしてから二十年近くも東海道を住家として上り下りしていると語った。
「こういう人間は私一人じゃありませんよ。お仲間がだいぶありますね」
 やがて
「これから大井川あたりまでご一緒に連れ立って、奥さんを案内してあげたいんだが何しろ忘れて来た用事というのが壁の仕事でね、乾き工合もあるので、これから帰りましょう。まあ、御主人がついてらっしゃれば、たいがいの様子はご存じですから」
 私たちは簡単な食事をしたのち、作楽井と西と東にわかれた。暗い隧道がどこかに在ったように思う。
 私たちはそれからとうげを下った。軒の幅の広い脊の低い家が並んでいる岡部の宿へ出た。茶どきと見え青い茶が乾してあったり、茶師の赤銅色の裸体がくすんだ色の町に目立っていた。私たちは藤枝の宿で、熊谷蓮生坊が念仏を抵当に入れたというその相手の長者の邸跡が今は水田になっていて、早苗さなえがやさしく風に吹かれているのを見に寄ったり、島田では作楽井の教えて呉れた川越しの蓮台を蔵している家を尋ねて、それを写生したりして、大井川の堤に出た。見晴らす広漠とした河原に石と砂との無限の展望。初夏の明るい陽射しも消し尽せぬ人間の憂愁の数々に思われる。堤が一髪を横たえたように見える。ここで名代なのは朝顔眼あきの松で、二本になっている。私たちはその夜、島田から汽車で東京へ帰った。

 結婚後も主人は度々たびたび東海道へ出向いた中に私も二度ほど連れて行って貰った。
 もうその時は私も形振なりふりは関わず、ただ燻んでひやりと冷たいあの街道の空気に浸り度い心がいた。私も街道に取憑とりつかれたのであろうか。そんなにさびれていながらあの街道には、蔭に賑やかなものが潜んでいるようにも感じられた。
 一度は藤川から出発し岡崎で藤吉郎の矢矧やはぎの橋を見物し、池鯉鮒ちりうの町はずれに在る八つ橋の古趾を探ねようというのであった。大根の花もさやになっている時分であった。
 そこはやや湿地がかった平野で、田圃たんぼと多少の高低のある沢地がだるく入り混っていた。畦川が流れていて、濁った水に一ひらの板橋がかかっていた。悲しいくらい周囲は眼をさえぎるものもない。土地より高く河が流れているらしく、やや高い堤の上に点を打ったように枝葉を刈り込まれた松並木が見えるだけであった。「ここを写生しとき給え」と主人が言うので、私は矢立を取出したが、標本的の画ばかり描いている私にはこの自然も蒔絵まきえの模様のようにしか写されないので途中で止めてしまった。
 三河と美濃の国境だという境橋を渡って、道はだんだん丘陵の間に入り、この辺が桶狭間おけはざまの古戦場だという田圃みちを通った。戦場にしては案外狭く感じた。
 鳴海なるみはもう名物の絞りを売っている店は一二軒しかない。並んでいる邸宅風の家々はむかし鳴海絞りを売って儲けた家だと俥夫しゃふが言った。池鯉鮒よりで気の付いたことには、家の造りが破風はふを前にして東京育ちの私には横を前にして建ててあるように見えた。主人は
「この辺から伊勢造りになるんです」
 と言った。その日私たちは熱田から東京に帰った。

木枯しの身は竹斎に似たるかな

 十一月も末だったので主人は東京を出がけに、こんな句を口誦くちずさんだ。それは何ですと私が訊くと
「東海道遍歴体小説の古いものの一つに竹斎物語というのがあるんだよ。竹斎というのは小説の主人公の藪医者の名さ。それを芭蕉が使って吟じたのだな。確か芭蕉だと思った」
「では私たちは男竹斎に女竹斎ですか」
「まあ、そんなところだろう」
 私たちの結婚も昂揚時代というものを見ないで、平々淡々の夫婦生活に入っていた。父はこのときもう死んでいた。
 そのときの目的は鈴鹿を越してみようということであった。亀山まで汽車で来て、それから例の通り俥に乗った。枯桑の中に石垣の膚をそびえ立たしている亀山の城。関のさびれた町に入って主人は作楽井が昨年話して呉れた古老を尋ね、話を聞きながらそこに持ち合っている伊勢詣りの浅黄あさぎ脚絆きゃはんや道中差しなど私に写生させた。福蔵寺に小まんの墓。

関の小まんが米かす音は一里聞えて二里響く。

 仇打あだうちの志があった美女の小まんはまた大力でもあったのでこういう唄が残っているといった。
 関の地蔵尊に詣でて、私たちは峠にかかった。
 満目粛殺しゅくさつの気に充ちて旅のうら寂しさが骨身に徹る。
「あれが野猿の声だ」
 主人はにこにこして私に耳を傾けさした。私はまたしてもこういうところへ来ると生々して来る主人を見て浦山うらやましくなった。
「ありたけの魂をすっかり投げ出して、どうでもして下さいと言いたくなるような寂しさですね」
「この底に、ある力強いものがあるんだが、まあ君は女だからね」
 小唄に残っているあい土山つちやまへひょっこり出る。屋根附の中風薬の金看板なぞ見える小さな町だが、今までの寒山枯木に対して、血の通う人間に逢う歓びは覚える。
 風が鳴っている三上山のふもとを車行して、水無口から石部の宿を通る。なるほど此処ここの酒店で、作楽井が言ったように杉の葉を玉に丸めてその下に旗を下げた看板を軒先に出している家がある。主人は仰いで「はあ、これが酒店のしるしだな」と言った。
 琵琶湖の水が高い河になって流れる下を隧道に掘って通っている道を過ぎて私たちは草津のうばが餅屋に駆け込んだ。硝子ガラス戸の中は茶釜ちゃがまをかけたかまどの火で暖かく、窓の色硝子の光線をうけて鉢の金魚は鱗を七彩に閃めかしながら泳いでいる。外を覗いてみると比良も比叡も遠く雪雲を冠っている。
「この次は大津、次は京都で、作楽井に言わせると、もう東海道でも上りの憧憬の力が弱まっている宿々だ」
 主人は餅を食べながら笑って言った。私は
「作楽井さんは、この頃でも何処かを歩いてらっしゃるでしょうか、こういう寒空にも」
 と言って、漂浪者の身の上を想ってみた。

 それから二十年余り経つ。私は主人と一緒に名古屋へ行った。主人はそこに出来た博物館の頼まれ仕事で、私はまた、そこの学校へ赴任している主人の弟子の若い教師の新家庭を見舞うために。
 その後の私たちの経過を述べると極めて平凡なものであった。主人は大学を出ると美術工芸学校やその他二三の勤め先が出来た上、類の少ない学問筋なので何やかや世間から相談をかけられることも多く、忙しいまま、東海道行きは、間もなく中絶してしまった。ただときどき小夜の中山を越して日坂の蕨餅わらびもちを食ってみたいとか、御油、赤阪の間の松並木の街道を歩いてみたいとか、譫言うわごとのように言っていたが、その度もだんだん少なくなって、最近では東海道にいくらか縁のあるのは何か手の込んだ調べものがあると、蒲郡がまごおりの旅館へ一週間か十日行って、その間、必要品を整えるため急いで豊橋へ出てみるぐらいなものである。
 私はまた、子供たちも出来てしまってからは、それどころの話でなく、標本の写生も、別に女子美術出の人を雇って貰って、私はすっかり主婦の役に髪を振り乱してしまった。ただ私が今も残念に思っていることは、絵は写すことばかりして、自分の思ったことが描けなかったことである。子供の中の一人で音楽好きの男の子があるのを幸いに、これを作曲家に仕立てて、優劣は別としても兎に角、自分の胸から出るものを思うまま表現できる人間を一人作りいと骨折っているのである。
 さてそんなことで、主人も私も東海道のことはすっかり忘れ果て、二人ともめいめいの用向きに没頭して、名古屋での仕事もほぼ片付いた晩に私たちはホテルの部屋で番茶を取り寄せながら雑談していた。するとふと主人は、こんなことを言い出した。
「どうだ、二人で旅へ出ることも滅多にない。一日帰りを延して久し振りにどっか近くの東海道でも歩いてみようじゃないか」
 私は、はじめ何をこの忙しい中に主人が言うのかと問題にしないつもりでいたが、考えてみると、もうこの先、いつの日に、いつまた来られる旅かと思うと、主人の言葉に動かされて来た。
「そうですね。じゃ、まあ、ほんとに久し振りに行ってみましょうか」
 と答えた。そう言いかけていると私は初恋の話をするように身の内の熱くなるのを感じて来た。初恋もない身で、初恋の場所でもないところの想い出に向って、それは妙であった。私たちは翌朝汽車で桑名へ向うことにした。

 朝、ホテルを出発しようとすると、主人に訪問客があった。小松という名刺を見て主人は心当りがないらしく、ボーイにもう一度身元を聞かせた。するとボーイは
「何でもむかし東海道でよくお目にかかった作楽井の息子と言えばお判りでしょうとっしゃいますが」
 主人は部屋へ通すように命じて私に言った。
「おい、むかしあの宇津で君も会ったろう。あの作楽井の息子だそうだ。苗字は違っているがね」
 入って来たのは洋服の服装をきちんとした壮年の紳士であった。私は殆ど忘れて思い出せなかったが、あの作楽井氏の人懐ひとなつっこい眼元がこの紳士にもあるような気がした。紳士は丁寧に礼をして、自分がこの土地の鉄道関係の会社に勤めて技師をしているということから、昨晩、倶楽部へ行ってふと、亡父が死前に始終その名を口にしていたその人が先頃からこの地へ来てNホテルに泊っていることを聴いたので、早速訪ねて来た顛末てんまつを簡潔に述べた。小松というのは母方の実家の姓だと言った。彼は次男なので、その方に子が無いまま実家の後をいだのであった。
「すると作楽井さんは、もうお歿くなりになりましたか。それはそれは。だが、年齢から言ってもだいぶにおなりだったでしょうからな」
「はあ、生きておれば七十を越えますが、一昨年歿くなりました。七八年前まで元気でおりまして、相変らず東海道を往来しておりましたが、神経痛が出ましたので流石さすがの父も、我を折って私の家へ落着きました」
 小松技師の家は熱田に近い処に在った。そこからは腰の痛みの軽い日は、つえすがりながらでも、笠寺観音から、あの附近に断続して残っている低い家並に松株が挟まっている旧街道の面影を尋ねて歩いた。これが作楽井をして小田原から横浜市に移住した長男の家にかかるよりも熱田住みの次男の家へかからしめた理由なのであった。
「私もときどき父に附添って歩くうちに、どうやら東海道の面白味を覚えました。この頃は休暇毎には必ず道筋のどこかへ出かけるようにしております」
 小松技師は作楽井氏に就ていろいろのことを話した。作楽井氏も晩年には東海道ではちょっと名の売れた画家になって表具や建具仕事はしなくなったことや、私の主人に、まだその後街道筋で見付けた参考になりそうな事物を教えようとて作楽井氏が帳面につけたものがあるから、それをいずれは東京の方へ送り届けようということや、作楽井氏の腰の神経痛がひどくなって床についてから同じ街道の漂泊人仲間を追憶したが、遂に終りをよくしたものが無い中にも、私の主人だけは狡くて、途中に街道から足を抜いたため、珍らしく出世したと述懐していたことやを述べて主人を散々に苦笑させた。話はつい永くなって十時頃になってしまった。
 小松技師は帰りしなに、少し改って
「実はお願いがあって参りましたのですが」
 と言って、暫く黙っていたが、主人が気さくな顔をしてけているのを見て安心して言った。
「私もいささかこの東海道を研究してみましたのですが、御承知の通り、こんなに自然の変化も都会や宿村の生活も、名所や旧蹟も、うまく配合されている道筋はあまり他にはないと思うのです。で、もしこれに手を加えて遺すべきものは遺し、新しく加うべき利便はこれを加えたなら、将来、見事な日本の一大観光道筋になろうと思います。この仕事はどうも私には荷が勝った仕事ですが、いずれ勤先とも話がつきましたら専心この計画にかかって私の生涯の事業にしたいと思いますので」
 その節は、亡父のよしみもあり、東海道愛好者としても呉々くれぐれ一臂いっぴの力を添えるよう主人に今から頼んで置くというのであった。
 主人が「及ばずながら」と引受けると、人懐っこい眼を輝かしながらしきりに感謝の言葉を述べるのであった。そして、これから私たちの行先が桑名見物というのを聞取って
「あすこなら、私よく存じている者もおりますから、御便宜になるよう直ぐ電話で申送って置きましょう」
 と言って帰って行った。
 小松技師が帰ったあと、しばらく腕組をして考えていた主人は、私に言った。
「憧憬という中身は変らないが、親と子とはその求め方の方法が違って来るね。やっぱり時代だね」
 主人のこの言葉によって私は、二十何年か前、作楽井氏が常に希望を持つ為めに、憧憬を新らしくする為めに東海道を大津まで上っては、また、発足点へ戻ってこれを繰返すという話を思い出した。私は
「やっぱり血筋ですかね。それとも人間はそんなものでしょうか」
 と、言った。

 汽車の窓から伊勢路の山々が見え出した。冬近い野は農家の軒のまわりにも、田のあぜにも大根が一ぱい干されている。空は玻璃はりのように澄み切って陽は照っている。
 私は身体を車体に揺られながら自分のような平凡に過した半生の中にも二十年となれば何かその中に、大まかに脈をうつものが気付かれるような気のするのを感じていた。それはたいして縁もない他人の脈ともどこかで触れ合いながら。私は作楽井とその息子の時代と、私の父と私たちと私たちの息子の時代のことを考えながら急ぐ心もなく桑名に向っていた。主人は快げに居眠りをしている。少し見え出したつむじの白髪が弾ねて光る。





底本:「岡本かの子全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1993(平成5)年8月24日第1刷発行
底本の親本:「第六創作集『老妓抄』」中央公論社
   1939(昭和14)年3月18日
初出:「新日本」
   1938(昭和13)年8月号
入力:佐藤洋之
校正:高橋真也
1999年2月6日公開
2005年9月27日修正
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