蜘蛛の夢 |
光文社文庫、光文社 |
1990(平成2)年4月20日 |
1990(平成2)年4月20日初版1刷 |
1990(平成2)年4月20日初版1刷 |
一
文政四年の江戸には雨が少なかった。記録によると、正月から七月までの半年間にわずかに一度しか降雨をみなかったという事である。七月のたなばたの夜に久しぶりで雨があった。つづいて翌八日の夜にも大雨があった。それを口切りに、だんだん雨が多くなった。 こういう年は、いわゆる片降り片照りで、秋口になって雨が多いであろうという、老人たちの予言がまず当った方で、八月から九月にかけて、とかくに曇った日がつづいた。その九月の末である。京橋八丁堀の玉子屋新道に住む南町奉行所の与力秋山嘉平次が新川の酒問屋の隠居をたずねた。 隠居は自分の店の裏通りに小さい隠居所をかまえていて、秋山とは年来の碁がたきであった。秋山もきょうは非番であったので、ひる過ぎからその隠居所をたずねて、例のごとく烏鷺の勝負を争っているうちに、秋の日もいつか暮れて、細かい雨がしとしとと降り出した。秋山は石を置きながら、表の雨の音に耳をかたむけた。 「また降って来ましたな。」 「秋になってから、とかくに雨が多くなりました。」と、隠居も言った。「しかしこういう時には、少し降った方が気がおちついて好うござります。」 ここで夕飯の馳走になって、二人は好きな勝負に時の移るのを忘れていた。秋山の屋敷ではその出先を知っているので、どうで今夜は遅かろうと予期していたが、やがて四つ(午後十時)に近くなって、雨はいよいよ降りしきって来たので、中間の仙助に雨具を持たせて主人を迎えにやった。 「明日のお勤めもござります。もうそろそろお帰りになりましてはいかが。」 迎えの口上を聞いて、秋山も夜のふけたのに気がついた。今夜のかたき討は又近日と約束して、仙助と一緒にここを出ると、秋の夜の寒さが俄かに身にしみるように覚えた。仙助の話では、さっきよりも小降りになったとの事であったが、それでも雨の音が明らかにきこえて、いくらか西風もまじっているようであった。そこらの町家はみな表の戸を締切って、暗い往来にほとんど灯のかげは見えなかったが、その時代の人は暗い夜道に馴れているので、中間の持っている提灯一つの光りをたよりに、秋山は富島町と川口町とのあいだを通りぬけて、亀島橋にさしかかった。 橋の上は風も強い。秋山は傘を傾けて渡りかかると、うしろから不意に声をかけた者があった。 「旦那の御吟味は違っております。これではわたくしが浮かばれません。」 それは此の世の人とも思われないような、低い、悲しい声であった。秋山は思わずぞっとして振返ると、暗い雨のなかに其の声のぬしのすがたは見えなかった。 「仙助。あかりを見せろ。」 中間に提灯をかざさせて、彼はそこらを見廻したが、橋の上にも、橋の袂にも、人らしい者の影は見いだされなかった。 「おまえは今、なにか聞いたか。」と、秋山は念のために中間に聞いてみた。 「いいえ。」と、仙助はなにも知らないように答えた。 秋山は不思議に思った。極めて細い、微かな声ではあったが、雨の音にまじって確かに自分の耳にひびいたのである。それとも自分の空耳で、あるいは雨か風か水の音を聞きあやまったのかも知れないと、彼は半信半疑で又あるき出した。八丁堀へゆき着いて、玉子屋新道にはいろうとすると、新道の北側の角には玉円寺という寺がある。 その寺の門前で犬の激しく吠える声がきこえた。 「黒め、なにを吠えていやがる。」と、仙助は提灯をさし付けた。 その途端に、秋山のうしろから又もや怪しい声がきこえた。 「旦那の御吟味は違っております。」 「なにが違っている。」と、秋山はすぐ訊きかえした。「貴様はだれだ。」 「伊兵衛でござります。」 「なに、伊兵衛……。貴様は一体どこにいるのだ。おれの前へ出て来い。」 それには何の答えもなかった。ただ聞えるものは雨の音と、寺の塀から往来へ掩いかかっている大きい桐の葉にざわめく風の音のみであった。犬は暗いなかでなお吠えつづけていた。 「仙助、お前は何か聞いたか。」 「いいえ。」と、仙助はやはり何にも知らないように答えた。 「それでも、おれの言う声はきこえたろう。」 「旦那さまの仰しゃったことはよく存じております。初めに誰だといって、それから又、伊兵衛と仰しゃりました。」 「むむ。」 言いかけて、秋山はなにか急に思い付いたことがあるらしく、それぎり黙って足早にあるき出して自分の屋敷の門をくぐった。家内の者をみな寝かせてしまって、秋山は庭にむかった四畳半の小座敷にはいって、小さい机の前に坐った。御用の書類などを調べる時には、いつもこの四畳半に閉じこもるのが例であった。 秋の夜はいよいよ更けて、雨の音はまだ止まない。秋山は御用箱の蓋をあけて、ひと束の書類を取出した。彼は吟味与力の一人であるから、自分の係りの裁判が十数件も畳まっている。そのなかで、あしたの白洲へ呼出して吟味する筈の事件が二つ三つあるが、秋山はその下調べをあと廻しにして、他の一件書類を机の上に置きならべた。それは本所柳島村の伊兵衛殺しの一件であった。 この月の三日の宵に、柳島の町と村との境を流れる小川のほとりで、村の百姓助蔵のせがれ伊兵衛という者が殺されていた。伊兵衛はことし二十二で、農家の子ではあるが瓦焼きの職人となって、中の郷の瓦屋に毎日通っていると、それが何者にか鎌で斬り殺されて、路ばたに倒れていたのである。下手人はまだ確かには判らないが、村の百姓甚右衛門のせがれ甚吉というのが先ず第一の嫌疑者として召捕られた。 甚吉が疑いを受けたのは、こういう事情に拠るのであった。同じ百姓とはいいながら、甚吉と伊兵衛とは家柄も身代もまったく相違して、甚吉の家はここらでも指折りの大百姓であったが、二人は子供のときに同じ手習師匠に通っていたという関係から、生長の後にも心安く附合っていた。伊兵衛は職人だけに道楽をおぼえて、天神橋の近所にある小料理屋などへ入り込むうちに、かの甚吉をも誘い出して、このごろは一緒に飲みにゆくことが多かった。 同年の友達ではあるが、甚吉は比較的に初心である上に双方の身代がまるで違っているので、甚吉は旦那、伊兵衛はお供という形で、料理屋の勘定などはいつも甚吉が払わせられていた。そのうちに伊兵衛の取持ちで、甚吉は亀屋という店に奉公しているお園という女と深い馴染みになって、少なからぬ金をつぎ込んでいると、それを気の毒に思って、ひそかに彼に注意をあたえる者があった。お園と伊兵衛とはその以前から特別の関係が成立っていて、かれらは共謀して甚吉を籠絡し、その懐ろの銭を搾り取って、蔭では舌を出して笑っているというのである。それが果してほんとうであるかないか、甚吉もまだ確かな証拠を見届けたわけではないが、そんな噂を聞いただけでも彼は内心甚だ面白くなかった。 その以上のことは、吟味がまだ行き届いていないのであるが、これらの事情から推察すると、三日の宵に伊兵衛が瓦屋から帰って来る途中で、偶然甚吉に出逢ったか、あるいは甚吉がそこに待ち受けていたか、ともかくも何かの口論の末に、甚吉が彼を殺して逃げ去ったものであろうと認められたのも、一応は無理もなかった。兇器の鎌はあたかもそこらに有り合わせたのか、あるいは甚吉が持ち出して来たのか、それは判らなかった。 しかし甚吉は亀屋のお園のことや、又それに就いて、このごろかの伊兵衛に悪感情を抱いている事などは、すべて正直に申立てたが、伊兵衛を殺害した事件については、一切なんにも知らないと言い張っているので、その吟味は容易に落着しなかった。彼は入牢のままで裁判の日を待っているのであった。その係りの吟味方は秋山嘉平次である。 その秋山の耳に、今夜怪しい声が聞えたのである。――旦那の御吟味は違っております。――それを誰が訴えたか。この暗い雨の夜に、しかも往来で誰がそれを訴えたのか。 訴えた者は、伊兵衛でござります。と自分で名乗った。殺された伊兵衛の魂が迷って来て、ほんとうの下手人をさがし出して、自分のかたきを討ってくれと訴えたのであろうか。それならば単に吟味が違っていると言わないで、本当の下手人は誰であるという事をなぜ明らさまに訴えないのか。秋山は机にむかって暫く考えていたが、やがて俄かに笑い出した。 「畜生。今どきそんな古手を食うものか。」 甚吉の家は物持ちである。その独り息子が人殺しの罪に問われるのを恐れて、かれの家族が何者をか買収して、伊兵衛の幽霊をこしらえたのであろう。そうして、自分の外出するのを窺って、怪談めいた狂言を試みたのであろうと秋山は判断した。 「よし、その狂言の裏をかいて、甚吉めを小っぴどく引っぱたいてやろう。」 甚吉の罪業については、秋山も実はまだ半信半疑であったが、今夜の幽霊に出逢ってから、その疑いがいよいよ深くなった。かれがもし潔白の人間であるならば、その家族どもがこんな狂言を試みる筈がないと思った。
二
あくる朝、秋山嘉平次は同心の奥野久平を呼んで、柳島の伊兵衛殺しの一件について特別の探索方を命令した。 「人を馬鹿にしていやあがる。眼のさめるように退治つけてやれ。」と、秋山は言った。 奥野も笑いながら出て行った。 その日の町奉行所に甚吉の吟味はなかった。秋山は他の事件の調べを終って、いつもの通りに帰って来ると、夜になって奥野が彼の四畳半に顔をみせた。彼はひとりの手先を連れて、柳島方面へ探索に行って来たのである。秋山は待ちかねたように訊いた。 「やあ、御苦労。どうだ、なにか面白い種が挙がったかな。」 「まず伊兵衛の家へ行って、おやじの助蔵を調べてみました。」と、奥野は答えた。「すると、どうです。助蔵の家へも幽霊のようなものが出て、――勿論その姿は見えないのですが、やはり伊兵衛の声で、下手人の甚吉は人違いだというような事を言ったそうです。」 「仕様のねえ奴だな。」と、秋山は舌打ちした。「どこまで人を馬鹿にしやがるのだ。それで、助蔵の家の奴らはどうした。」 「あいつらのことですから、勿論ほんとうに思っているようです。いや、助蔵の家ばかりでなく、往来でもその声を聞いた者があるそうです。あの辺の町家の女がひとり、百姓の女が一人、日が暮れてから町境いの川のふち――伊兵衛が殺されていた所です。――そこを通りかかると、暗い中から伊兵衛の声で……。女共はきゃっといって逃げ出したそうです。そんなわけで、あの辺では幽霊の噂が一面にひろがって、誰でも知らない者はないくらいです。」 「そこで、貴公の鑑定はどうだ。そんな芝居をするのは、甚吉の家の奴らか、伊兵衛の家の奴らか。」と、秋山は訊いた。 「そこです。」と、奥野は一と膝すすめた。「あなたの鑑定通り、どうでその幽霊は偽者に相違ありませんが、わたくしも最初は甚吉の家の奴らだろうと思っていました。甚吉の家は物持ちですから、金をやって誰かを抱き込んで、こんな芝居をさせていることと睨んだのですが、だんだん詮議してみると、どうも助蔵の方が怪しいようです。」 「それは少しあべこべのようだが、そんなことが無いともいえねえ。いったいその助蔵というのはどんな奴だ。」 「助蔵は生れ付きの百姓で、薄ぼんやりしたような奴ですが、女房のおきよというのはなかなかのしっかり者で、十八の年に助蔵のところへ嫁に来て、そのあくる年に伊兵衛を生んで、今年ちょうど四十になるそうです。ところで、御承知かも知れませんが、伊兵衛は総領で、その下に伊八という弟があります。伊八は兄貴と二つ違いで、ことし二十歳になります。」 「むむ。」 秋山はうなずいた。兄弟であれば、声も似ている。弟の伊八が作り声をして、兄の幽霊に化けているということはもう判り過ぎるほどに判ってしまった。気の短い秋山はすぐに伊八を引挙げて、手ひどく嚇しつけてやりたいようにも思ったが、彼はもう四十を越している。多年の経験上急いては事を仕損じるの実例をもたくさんに知っているので、しばらく黙って奥野の報告を聴いていると、相手はつづけて語り出した。 「おふくろのおきよは、今もいう通りのしたたか者ですから、今さら甚吉を下手人にして見たところで、死んだ伜が生き返るわけでもないので、慾にころんで仇の味方になって、甚吉は人違いであるということを世間へ吹聴すれば、それが自然に上の耳にもはいると思って、偽幽霊の狂言をかいたらしいのです。無論それには甚吉の親たちから纒まった物を受取ったに相違ありますまい。弟の伊八という奴も、兄貴と同じような道楽者で、小博奕なども打つといいますから、兄貴の死んだのを幸いに、おふくろと一緒になってどんな芝居でもやりかねません。近所の者の話によると、伊兵衛と伊八は兄弟だけに顔付きも声柄もよく似ているということです。」 「それからお園という女も調べたか。」 「天神橋の亀屋へ行って、お園のことを訊いてみると、お園は伊兵衛が殺されても、甚吉が挙げられても、一向平気ではしゃいでいるそうです。もちろん一応は取調べてみましたが、今度の一件に就いてはまったく何にも知らないらしく、甚吉も伊兵衛も座敷だけの顔馴染みで、ほかに係合いはないと澄ましていましたが、それは嘘で、どっちにも係合いのあったことは、亀屋の家も、みんな知っていました。一体だらしのない女で、ほかにもまだ係合いの客があるとかいう噂です。年は二十二だといいますから、甚吉や伊兵衛と同い年で、容貌はまんざらでもない女でした。」 「それだけで伊八とおきよを引挙げては、まだ早いかな。」と、秋山はかんがえながら言った。 「そうですね。」と、奥野も首をかしげた。「もう大抵は判っているようなものですが、何分にも確かな証拠が挙がっていませんから、下手なことをしてしまうと、あとの調べが面倒でしょう。」 こっちに確かな証拠を掴んでいないと、相手が強情者である場合には、その詮議がなかなか面倒であることを秋山もよく知っていた。 「そこで、あとのことは藤次郎にあずけて来ましたが、どうでしょう。」と、奥野は秋山の顔色をうかがいながら言った。 「それでよかろう。」
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