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世界怪談名作集(せかいかいだんめいさくしゅう)六

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-27 10:17:23 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: 世界怪談名作集 上
出版社: 河出書房新社
初版発行日: 1987(昭和62)年9月4日
入力に使用: 2002(平成14)年6月20日新装版初版
校正に使用: 2002(平成14)年6月20日新装版初版

 

世界怪談名作集

信号手

ディッケンズ Charles Dickens

岡本綺堂訳




「おぅい、下にいる人!」
 わたしがこう呼んだ声を聞いたとき、信号手は短い棒に巻いた旗を持ったままで、あたかも信号所の小屋の前に立っていた。この土地の勝手を知っていれば、この声のきこえた方角を聞き誤まりそうにも思えないのであるが、彼は自分の頭のすぐ上のけわしい断崖の上に立っている私を見あげもせずに、あたりを見まわして更に線路の上を見おろしていた。
 その振り向いた様子が、どういうわけであるか知らないが少しく変わっていた。実をいうと、わたしは高いところからはげしい夕日にむかって、手をかざしながら彼を見ていたので、深いみぞに影を落としている信号手の姿はよく分からなかったのであるが、ともかくも彼の振り向いた様子は確かにおかしく思われたのである。
「おぅい、下にいる人!」
 彼は線路の方角から振り向いて、ふたたびあたりを見まわして、初めて頭の上の高いところにいる私のすがたを見た。
「どこか降りる所はありませんかね。君のところへ行って話したいのだが……」
 彼は返事もせずにただ見上げているのである。わたしも執拗しつこく二度とは聞きもせずに見おろしていると、あたかもその時である。最初は漠然とした大地と空気との動揺が、やがて激しい震動に変わってきた。わたしは思わず引き倒されそうになって、あわてて後ずさりをすると、急速力の列車があたかも私の高さに蒸気をふいて、遠い景色のなかへ消えて行った。
 ふたたび見おろすと、かの信号手は列車通過の際に揚げていた信号旗を再び巻いているのが見えた。わたしは重ねていてみると、彼はしばらく私をじっと見つめていたが、やがて巻いてしまった旗をかざして、わたしの立っている高い所から二、三百ヤードの遠い方角を指し示した。
「ありがとう」
 私はそう言って、示された方角にむかって周囲を見廻すと、そこには高低のはげしい小径こみちがあったので、まずそこを降りて行った。断崖はかなりに高いので、ややもすれば真っ逆さまに落ちそうである。その上に湿しめりがちの岩石ばかりで、踏みしめるたびに水がみ出してすべりそうになる。そんなわけで、わたしは彼の教えてくれた道をたどるのがまったくいやになってしまった。
 私がこの難儀な小径を降りて、低い所に来た時には、信号手はいま列車が通過したばかりの軌道レールの間に立ちどまって、私が出てくるのを待っているらしかった。
 信号手は腕を組むような格好をして、左の手であごを支え、そのひじを右の手の上に休めていたが、その態度はなにか期待しているような、また深く注意しているようなふうにみえたので、わたしも怪訝けげんに思ってちょっと立ちどまった。
 わたしは再びくだって、ようやく線路とおなじ低さの場所までたどり着いて、はじめて彼に近づいた。見ると、彼は薄黒いひげを生やして、睫毛まつげの深い陰鬱な青白い顔の男であった。その上に、ここは私が前に見たよりも荒涼陰惨というべき場所で、両側には峨峨ががたる湿しめっぽい岩石ばかりがあらゆる景色をさえぎって、わずかに大空を仰ぎ観るのである。一方に見えるのは、大いなる牢獄としか思われない曲がりくねった岩道の延長があるのみで、他の一方は暗い赤い灯のあるところで限られた、そこには暗黒なトンネルのいっそう暗い入り口がある。その重苦しいような畳み石は、なんとなく粗野そやで、しかも人を圧するような、えられない感じがする上に、日光はほとんどここへし込まず、土臭い有毒らしい匂いがそこらにただよって、どこからともなしに吹いて来る冷たい風が身に沁みわたった。私はこの世にいるような気がしなくなった。
 彼が身動きをする前に、私はそのからだにれるほどに近づいたが、彼はやはり私を見つめている眼を離さないで、わずかにひと足あとずさりをして、挨拶の手を挙げたばかりであった。前にもいう通り、ここはまったく寂しい場所で、それが向こうから見たときにも私の注意をひいたのである。おそらくたずねて来る人は稀であるらしく、また稀に来る人をあまり歓迎もしないらしく見えた。
 わたしから観ると、彼は私が長い間どこかの狭い限られた所にとじこめられていて、それが初めて自由の身となって、鉄道事業といったような重大なる仕事に対して、新たに眼ざめたる興味を感じて来た人間であると思っているらしい。私もそういうつもりで彼に話しかけたのであるが、実際はそんなこととは大違いになって、むしろ彼と会話を開かない方が仕合わせであったどころか、更に何か私をおびやかすようなものがあった。
 彼はトンネルの入り口の赤い灯の方を不思議そうに見つめて、何か見失ったかのように周囲を見まわしていたが、やがて私の方へ向き直った。あの灯は彼が仕事の一部であるらしく思われた。
「あなたはご存じありませんか」と、彼は低い声で言った。
 その動かない二つの眼と、その幽暗な顔つきを見た時に、彼は人間ではなく、あるいは幽霊ではないかという怪しい考えが私の胸に浮かんで来たので、私はそのご絶えず彼のこころに感受性を持つかどうかを注意するようになった。
 私はひと足さがった。そうして、彼がひそかに私を恐れている眼色を探り出した。これで彼を怪しむ考えもおのずと消えたのである。
「君はなんだか私をこわそうに眺めていますね」と、私はしいて微笑ほほえみながら言った。
「どうもあなたを以前に見たことがあるようですが……」と、彼は答えた。
「どこで……」
 彼はさきに見つめていた赤い灯を指さした。
「あすこで……?」と、わたしは訊いた。
 彼は非常に注意ぶかく私を打ちまもりながら、音もないほどの低い声で「はい」と答えた。
「冗談じゃあない。私がどうしてあんなところに行っているものですか。かりに行くことがあるとしても、今はけっしてあすこにいなかったのです。そんなはずはありませんよ」
「わたしもそう思います。はい、確かにおいでにならないとは思いますが……」
 彼の態度は、わたしと同じようにはっきりしていた。彼は私の問いに対しても正確に答え、よく考えてものを言っているのである。彼はここでどのくらいの仕事をしているかといえば、彼は大いに責任のある仕事をしているといわなければならない。まず第一に、正確であること、注意ぶかくあることが、何よりも必要であり、また実務的の仕事という点からみても、彼に及ぶものはないのである。信号を変えるのも、燈火あかりを照らすのも、転轍てんてつのハンドルをまわすのも、みな彼自身の頭脳の働きによらなければならない。
 こんなことをして、彼はここに長い寂しい時間を送っているように見えるが、彼としては自分の生活の習慣が自然にそういう形式をつくって、いつのまにかそれに慣れてしまったというのほかはあるまい。こんな谷のようなところで、彼は自分の言葉を習ったのである。単にものを見ただけで、それを粗雑ながらも言葉に移したのであるから、習ったといえばいえないこともないかも知れない。そのほかに分数や小数を習い、代数も少し習ったが、その文字などは子供が書いたようにまずいものである。
 いかに職務であるとはいえ、こんな谷間の湿しめっぽい所にいつでも残っていなければならないのか。そうして、この高い石壁のあいだから日光を仰ぎに出ることは出来ないものか。それは時間と事情が許さないのである。ある場合には、線路の上にいるよりも他の場所にいることもないではなかったが、夜と昼とのうちで、ある時間だけはやはり働かなければならないのである。天気のいい日に、ある機会をみて少しく高い所へ登ろうと企てることもあるが、いつも電気ベルに呼ばれて、幾倍の心配をもってそれに耳を傾けなければならないことになる。そんなわけで、彼が救われる時間は私の想像以上に少ないのであった。
 彼は私を自分の小屋へ誘っていった。そこには火もあり、机の上には何か記入しなければならない職務上の帳簿や指針盤ししんばんの付いている電信機や、それから彼がさきに話した小さい電気ベルがあった。わたしの観るところによれば、彼は相当の教育を受けた人であるらしい。少なくとも彼の地位以上の教育を受けた人物であると思われるが、彼は多数のなかにたまたま少しく悧口りこうな者がいても、そんな人間は必要でないと言った。そういうことは工場の中にも、警察官の中にも、軍人の中にもしばしば聞くことで、どこの鉄道局のなかにも多少はまぬかれないことであると、彼はまた言った。
 彼は若いころ、学生として自然哲学を勉強して、その講義にも出席しているが、中途から乱暴を始めて、世に出る機会をうしなって、次第に零落して、ついにふたたび頭をもたげることが出来なくなった。ただし、彼はそれについて不満があるでもなかった。すべてが自業自得じごうじとくで、これから方向を転換するには、時すでに遅しというわけであった。
 かいつまんで言えばこれだけのことを、彼はその深い眼で私と火とを見くらべながら静かに話した。彼は会話のあいだに時どきに貴下サーという敬語を用いた。ことに自分の青年時代を語るときに多く用いていたのは、わたしが想像していた通り、彼が相当の教育を受けた男であることを思わせたのである。
 こうして話している間にも、彼はしばしば小さいベルの鳴るのに妨げられた。彼は通信を読んだり、返信を送ったりしていた。またある時はドアの外へ出て、列車が通過の際に信号旗を示し、あるいは機関手にむかって何か口で通報していた。彼が職務を執るときは非常に正確で注意ぶかく、たとい談話の最中でもはっきりと区切りをつけ、その目前の仕事を終わるまではけっして口をきかないというふうであった。
 ひと口にいえば、彼はこういう仕事をする人としては、その資格において十分に安心のできる人物であるが、ただ不思議に感じられたのはある場合に――それは彼が私と話している最中であったが、彼は二度も会話を中止して、鳴りもしないベルの方に向き直って、顔の色を変えていたことであった。彼はそのとき、戸外のしめった空気を防ぐためにとじてあるドアをあけて、トンネルの入り口に近い、かの赤い灯を眺めていた。この二つの出来事ののち、彼はなんとも説明し難い顔つきをして、火のほとりに戻って来たが、そのあいだに別に変わったこともないらしかった。
 彼に別れてち上がるときに、私は言った。
「君はすこぶる満足のように見うけられますね」
「そうだとは信じていますが……」と、彼は今までにないような低い声で付け加えた。「しかし私は困っているのです。実際、困っているのです」
「なんで……。何を困っているのです」
「それがなかなか説明できないのです。それが実に……実にお話しのしようがないので……。またおいでになった時にでもお話し申しましょう」
「わたしも、また来てもいいのですが……。いつごろがいいのです」
「わたしは朝早くここを立ち去ります。そうして、あしたの晩の十時には、またここにいます」
「では十一時ごろに来ましょう」
「どうぞ……」と、彼は私と一緒に外へ出た。そうして、極めて低い声で言った。
みちのわかるまで私の白い燈火あかりを見せましょう。路がわかっても、声を出さないで下さい。上へ行き着いた時にも呼ばないで下さい」
 その様子がいよいよ私を薄気味わるく思わせたが、私は別になんにも言わずに、ただ、はいはいと答えておいた。
「あしたの晩おいでの時にも呼ばないで下さい。それから少しおたずね申しますが、どうしてあなたは今夜おいでの時に〈おぅい、下にいる人!〉と、お呼びになったのです」
「え。私がそんなようなことを言ったかな」
「そんなようなことじゃありません。あの声は私がよく聞くのです」
「私がそう言ったとしたら、それは君が下の方にいたからですよ」
「ほかに理由はないのですな」
「ほかに理由があるものですか」
「なにか、超自然的の力が、あなたにそう言わせたようにお思いにはなりませんか」
「いいえ」
 彼は「さようなら」という代りに、持っている白い燈火をかかげた。
 私はあとから列車が追いかけて来るような不安な心持ちで、下り列車の線路のわきを通って自分の路を見つけた。その路はさきに下って来たときよりも容易に登ることが出来たので、さしたる冒険もなしに私の宿へ帰った。

 約束の時間を正確に守って、わたしは次の夜、ふたたびかの高低のひどい坂路に足をむけた。遠い所では、時計が十一時を打っていた。彼は白い燈火を掲げながら、例の低い場所に立って私を待っていた。わたしは彼のそばへ寄った時にいた。
「わたしは呼ばなかったが……。もう話してもいいのですか」
「よろしいですとも……。今晩は……」と、彼はその手をさし出した。
「今晩は……」と、わたしも手をさし出して挨拶した。それから二人はいつもの小屋へはいってドアをしめて、火のほとりに腰をおろした。
 椅子に着くやいなや、彼はからだを前にかがめて、ささやくような低い声で言った。
「わたしが困っているということについて、あなたが重ねておいでになろうとは思っていませんでした。実は昨晩は、あなたをほかの者だと思っていたのですが……。それが私を困らせるのです」
「それは思い違いですよ」
「もちろん、あなたではない。そのある者が私を困らせるので……」
「それは誰です」
「知りません」
「わたしに似ているのですか」
「わかりません。私はまだその顔を見たことはないのです、左の腕を顔にあてて、右の手を振って……激しく振って……。こんなふうに……」
 わたしは彼の動作を見つめていると、それは激しい感情を苛立いらだたせているような腕の働き方で、彼は「どうぞ退いてくれ」と叫ぶように言った。そうして、また話し出した。
「月の明かるい、ある晩のことでした。私がここに腰をかけていると〈おぅい、下にいる人!〉と呼ぶ声を聞いたのです。私はすぐにって、そのドアの口から見ると、トンネルの入り口の赤い灯のそばに立って、今お目にかけたように手を振っている者がある。その声は叫ぶようなうなるような声で〈見ろ、見ろ〉という。つづいてまた〈おぅい、下にいる人! 見ろ、見ろ〉という。わたしは自分のランプを赤に直して、その者の呼ぶ方角へ駈けて行って〈どうかしましたか、何か出来しゅったいしましたか。いったいどこです〉とたずねると、その者はトンネルの暗やみのすぐ前に立っているのです。私はさらに近寄ってみると、不思議なことには、その者は袖を自分の眼の前にあてている。私はまっすぐに進んで行って、その袖を引きのけてやろうと手をのばすと、もうその形は見えなくなってしまったのです」
「トンネルの中へでもはいったかな」と、わたしは言った。
「そうではありません。私はトンネルの中へ五百ヤードも駈け込んで、わたしの頭の上にランプをさしあげると、前に見えたその者の影がまた同じ距離に見えるのです。そうして、トンネルの壁をぬらしているしずくが上からぽたぽたと落ちています。わたしは職務という観念があるので、初めよりも更にはやい速度でそこを駈け出して、自分の赤ランプでトンネルの入り口の赤い灯のまわりを見まわしたのち、その赤い灯の鉄梯子をつたって、頂上の展望台に登りました。それからまた降りて来て、そこまで駈けて戻りましたが、どうも気になるので、上り線と下り線とに電信を打って〈警戒の報知が来た。何か事故が起こったのか〉と問い合わせると、どちらからも同じ返事が来て〈故障なし〉……」
 この話を聞かされて、なんだか背骨がぞっとするような心持ちになったが、私はそれをこらえながら、そんなあやしい人影などはなにかの視覚のあやまりである。あらぬものの影を見たりするのは神経作用から起こるもので、病人などにはしばしばその例を見ることがあると話して聞かせた。また、そんな人びとのうちには、そういう苦悩を自覚し、それを自分で実験している人さえあるということをも話した。
「その叫び声というのも……」と、わたしは言った。「まあ、すこしのあいだ聴いていてご覧なさい。こんな不自然な谷間のような場所では、われわれが小さい声で話している時に、電信線が風にうなるのを聞くと、まるで竪琴たてごとを乱暴に鳴らしているように響きますからね」
 彼はそれにさからわなかった。二人はしばらく耳をかたむけていると、風と電線との音が実際怪しくきこえるのであった。彼も幾年のあいだ、ここに長い冬の夜を過ごして、ただひとりで寂しくそれを聴いていたのである。しかも彼は、自分の話はまだそれだけではないと言った。
 わたしは中途で口をいれたのを謝して、更にそのあとを聴こうとすると、彼は私の腕に手をかけながら、またしずかに話し出した。
「その影があらわれてから六時間ののちに、この線路の上に怖ろしい事件が起こったのです。そうして十時間ののちには、死人と重症者がトンネルの中から運ばれて、ちょうどその影のあらわれた場所へ来たのです」
 わたしは不気味な戦慄を感じたが、つとめてそれを押しこらえた。この出来事はさすがに※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うそであるとはいえない。まったく驚くべき暗合あんごうで、彼のこころに強い印象を残したのも無理はない。しかも、かくのごとき驚くべき暗合がつづいて起こるというのは、必ずしも疑うべきことではなく、こういう場合も往々おうおうにあり得るということを勘定のうちに入れておかなければならない。もちろん、世間多数の常識論者は、とかく人生の上に生ずる暗合を信じないものではあるが――
 彼の話は、まだそれだけではないというのである。私はその談話をさまたげたことを再び詫びた。
「これは一年前のことですが……」と、彼は私の腕に手をかけて、うつろな眼で自分の肩を見おろしながら言った。「それから六、七カ月を過ぎて、私はもう以前の驚きや怖ろしさを忘れた時分でした。ある朝……夜の明けかかるころに、わたしがドアの口に立って、赤い灯の方をなに心なく眺めると、またあの怪しい物が見えたのです」
 ここまで話すと、彼は句を切って、私をじっと見つめた。
「それがなんとか呼びましたか」
「いえ、黙っていました」
「手を振りませんでしたか」



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