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半七捕物帳(はんしちとりものちょう)54 唐人飴

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-28 18:56:52 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: 時代推理小説 半七捕物帳(五)
出版社: 光文社時代小説文庫、光文社
初版発行日: 1986(昭和61)年10月20日

 

    一

 こんにちでも全く跡を絶ったというのではないが、東京市中に飴売りのすがたを見ることが少なくなった。明治時代まではかねをたたいて売りに来る飴売りがすこぶる多く、そこらの辻に屋台の荷をおろして、子どもを相手にいろいろの飴細工を売る。この飴細工と※(「米+參」、第3水準1-89-88)しんこ細工とが江戸時代の形見といったような大道だいどう商人あきんどであったが、キャラメルやドロップをしゃぶる現代の子ども達からだんだんに見捨てられて、東京市のまん中からは昔の姿を消して行くらしく、場末の町などで折りおりに見かける飴売りにも若い人は殆ど無い。おおかたは水洟みずっぱなをすすっているような老人であるのも、そこに移り行く世のすがたが思われて、一種の哀愁を誘い出さぬでもない。
 その飴売りのまだ相当に繁昌している明治時代の三月の末、麹町の山王山さんのうさんの桜がやがて咲き出しそうな、うららかに晴れた日の朝である。わたしは例のごとく半七老人をたずねようとして、赤坂の通りをぶらぶら歩いてゆくと、路ばたには飴屋の屋台を取りまいて二、三人の子どもが立っている。
 それは其の頃の往来にしばしば見る風景の一つで、別に珍らしいことでも無かったが、近づくにしたがって私に少しく不思議を感じさせたのは、ひとりの老人がその店の前に突っ立って、飴売りの男と頻りに話し込んでいることであった。彼は半七老人で、あさ湯帰りらしい濡れ手拭をぶら下げながら、暖い朝日のひかりに半面を照らさせていた。
 半七老人と飴細工、それが不調和の対照とも見えなかったが、平生へいぜいから相当に他人ひとのアラを云うこの老人としては、朝っぱらから飴屋の店を覗いているなどは、いささか年甲斐のないようにも思われた。この老人をおどすというほどの悪意でもなかったが、わたしは幾らか足音を忍ばせるように近寄って、老人のうしろから不意に声をかけた。
「お早うございます」
「やあ、これは……」と、老人は急に振り返って笑った。
「又お邪魔に出ようと思いまして……」
「さあ、いらっしゃい」
 老人は飴売りに別れて、わたしと一緒にあるき出した。
「あの飴屋は芝居茶屋の若いしゅでね」と、老人は話した。「飴細工が器用に出来るので、芝居の休みのあいだは飴屋になって稼いでいるんです」
 成程その飴売りは三十前後の小粋こいきな男で、役者の紋を染めた手拭を肩にかけていた。その頃の各劇場は毎月開場すること無く、一年に五、六回か四、五回の開場であるから、劇場の出方でかたや茶屋の若い者などは、休場中に思い思いの内職を稼ぐのが習いで、焼鳥屋、おでん屋、飴屋、※(「米+參」、第3水準1-89-88)しんこ屋のたぐいに化けるのもあった。したがって、それらの商人の中にはなかなかいきな男が忍んでいる。芝居の話、花柳界の話、なんでも来いというような者もあって、大道商人といえども迂濶うかつに侮りがたい時代であった。かの飴屋もその一人で、半七老人とは芝居でのお馴染であることが判った。
 家へゆき着いて、例の横六畳の座敷へ通されたが、飴の話はまだ終らなかった。
「今の人たちは飴細工とばかり云うようですが、むかしは飴の鳥とも云いました」と、老人は説明した。「後にはいろいろの細工をするようになりましたが、最初は鳥の形をこしらえたものだそうです。そこで、飴細工を飴の鳥と云います。ひと口に飴屋と云っても、むかしはいろいろの飴屋がありました。そのなかで変っているのは唐人とうじん飴で、唐人のような風俗をして売りに来るんです。これは飴細工をするのでなく、ぶつ切りの飴ん棒を一本二本ずつ売るんです」
「じゃあ、和国橋わこくばしの髪結い藤次の芝居に出る唐人市兵衛、あのたぐいでしょう」
「そうです、そうです。更紗さらさでこしらえた唐人服を着て、鳥毛の付いた唐人笠をかぶって、くつをはいて、かねをたたいて来るのもある、チャルメラを吹いて来るのもある。子供が飴を買うと、お愛嬌に何か訳のわからない唄を歌って、カンカンノウといったような節廻しで、変な手付きで踊って見せる。まったく子供だましに相違ないのですが、なにしろ形が変っているのと、変な踊りを見せるのとで、子供たちのあいだには人気がありました。いや、その唐人飴のなかにもいろいろの奴がありまして……」
 そら来たと、わたしは思わず居住いずまいを直すと、老人はにやにやと笑い出した。
「うっかりと口をすべらせた以上、どうであなたの地獄耳が聞き逃す筈はありません。話しますよ。まあ、ゆっくりとお聴きください」
 有名の和蘭おらんだ医師高野長英が姓名を変じて青山百人まち(現今の南町六丁目)にひそみ、捕吏とりかたにかこまれて自殺したのは、嘉永三年十月の晦日みそかである。その翌年の四月、この「半七捕物帳」で云えば、かの『大森の鶏』の一件から三月の後、青山百人町を中心として、さらに新しい事件が出来しゅったいした。
 江戸の地図を見れば判るが、青山には久保ちょうという町があった。明治以後は青山北町四丁目に編入されてしまったが、江戸時代には緑町、山尻町などに接続して、武家屋敷のあいだに町屋まちやの一郭をなしていたのである。久保町には高徳寺という浄土宗の寺があって、そこには芝居や講談でおなじみの河内山こうちやま宗春そうしゅんの墓がある。その高徳寺にならんで熊野権現ごんげんやしろがあるので、それに通ずる横町を俗に御熊野横町と呼んでいた。
 御熊野横町の名は昔から呼び習わしていたのであるが、近年は更に羅生門横町というあだ名が出来た。よし原に羅生門河岸らしょうもんがしの名はあるが、青山にも羅生門が出来たのである。その由来を説明すると長くなるが、要するに嘉永二年と三年との二年間に、毎年一度ずつここに刃傷沙汰にんじょうざたがあって、二度ながら其の被害者は片腕を斬り落とされたのである。江戸時代でも腕を斬り落とされるのは珍らしい。それが不思議にも二年つづいたので、渡辺綱が鬼の腕を斬ったのから思い寄せて、誰が云い出したとも無しに羅生門横町の名が生まれたのである。
 この久保町、緑町、百人町のあたりへ、去年の夏の末頃からの唐人飴を売る男が来た。ここらには珍らしいので相当の商売になっているらしかったが、これを誰が云い出したか知らず、あの飴屋は唯の飴屋でなく、実は公儀の隠密であるという噂が立った。そのうちに高野長英の捕物一件が出来しゅったいして、長英は短刀を以って捕手とりての一人を刺し殺し、更に一人に傷を負わせ、自分も咽喉のどを突いて自殺するという大活劇を演じたので、近所の者はきもを冷やした。そうして、かの唐人飴は公儀の隠密か、町方まちかたの手先が変装して、長英の探索に立ち廻っていたに相違ないということになった。
 ところが、その唐人飴は長英一件の後も相変らず商売に廻って来た。飴売りは年ごろ二十二三の、色の小白い、人柄の悪くない男で、誰に対しても愛嬌を振り撒いているので、内心はなんだか薄気味悪いと思いながらも、特に彼をみ嫌う者もなかった。彼も平気で長英の噂などをしていた。そのうちに、その年の冬から翌年の春にかけて、ここらで盗難がしばしば続いた。
「あの唐人飴は泥坊かも知れない」
 人の噂は不思議なもので、最初は捕吏かと疑われていた彼が、今度は反対に盗賊かと疑われるようになった。昼間は飴を売りあるいて家々の様子をうかがい、夜は盗賊に変じて仕事をするのであろうという。実際そんなことが無いとも云えないので、その噂を信ずる者も相当にあったが、さりとて確かな証拠も無いのでどうすることも出来なかった。
「あの飴屋が来ても買うのじゃあないよ」
 土地の人たちは子供らを戒めて、飴を買わせないようにした。商売がなければ、自然に来なくなるであろうと思ったのである。こうして土地の人たちから遠ざけられているにも拘らず、彼はやはり商売に廻って来た。子供が買っても買わなくても、かれはかねをたたいて、おかしな唄を歌って、唐人のカンカン踊りを見せていた。この頃は碌々に商売もないのに、こんよく廻って来るのは怪しいと、人々はいよいよ白い眼を以って彼を見るようになったが、彼は一向に平気であるらしかった。或る人がその名をいたらば、虎吉と答えた。家は四谷の法善寺門前であると云った。
 四月十一日の朝である。久保町の豆腐屋定助が商売柄だけに早起きをして、豆腐のうすいていると、まだ薄暗い店先から一人の女が転げるように駈け込んで来た。
「ちょいと、大変……。あたし、本当にびっくりしてしまった」
 女は、この町内の実相寺門前に住む常磐津の師匠文字吉で、なんのがんがあるか知らないが、早朝に熊野さまへ参詣に出てゆくと、御熊野横町、即ちの羅生門横町で人間の片腕を見付けたと云うのである。
「あの羅生門横町で……。又、人間の腕が……」
 定助も顔の色を変えた。しかも彼は自分ひとりで見届けに行くのを恐れて、文字吉同道で先ずちょう役人のかどを叩いた。それから近所へも触れて歩いた。
 人間の腕が往来に落ちていたというのは、勿論一つの椿事出来しゅったいに相違ないが、それが彼の羅生門横町であるだけに、一層ここらの人々を騒がせた。これで腕斬りが三年つづく事になるのであるから、御幣ごへいかつぎの者でなくても、又かと顔をしかめるのが人情である。近所近辺の人々は寝ぼけまなこをこすりながら、われ先にと羅生門横町へ駈けつけると、彼等をおどろかす種がまた殖えた。
「あの腕は……。唐人飴屋だ」
 往来に落ちていたのは男の左の腕で、着物の上から斬られたと見えて、その腕には筒袖が残っていた。筒袖は誰も見識っている唐人飴の衣裳である。疑問の唐人飴屋がここで何者にか腕を斬られたに相違ない。それに就いて又いろいろの噂が立った。
「あいつはいよいよ泥坊で、お武家の物でも剥ぎ取ろうとして斬られたのだ」
「いや、泥坊には相違ないが、仲間同士の喧嘩で腕を斬られたのだ」
 いずれにしても、尋常の唐人飴屋が夜更よふけにここらを徘徊している筈がない。斬られた事情はどうであろうとも、彼が盗賊であることは疑うべくもない。たとい腕一本でも、それが人間のものである以上、犬や猫の死骸と同一には取り扱われないので、町でも訴え出での手続きをしている処へ、ひとりの男がふらりとはいって来た。
 男は半七の子分の庄太であった。庄太は浅草の馬道うまみちに住んでいながら、その菩提寺は遠い百人町の海光寺であるので、きょうは親父の命日で朝から墓参に来ると、ここらには唐人飴の噂がいっぱいに拡がっていた。彼も商売柄、それを聞き流しには出来ないので、町役人の玄関へ顔を出したのである。
 彼は先ずその腕を見せて貰った。その腕に残っていた筒袖をあらためた。その飴屋の年頃や人相や、ふだんのあきない振りなどに就いても聞きあわせた。それから熊野権現の近所へまわって、羅生門横町の現場をも取り調べた。ここは山尻町との境で、片側には小さい御家人ごけにん小商人こあきんどの店とが繋がっているが、昼でも往来の少ない薄暗い横町で、権現のやしろの大榎おおえのきが狭い路をいよいよ暗くするようにおおっていた。
 庄太が帰ったあとで、又もやここらの人々をおどろかしたのは、かの唐人飴の虎吉が、相変らずかねを叩いて来たことである。腕斬りの一件を聴いて、かれは眼を丸くして云った。
「それは驚きましたね。だが、わたしはこの通りだから御安心ください」
 彼は両手をひろげて、いつものカンカン踊りをやって見せた。その両腕はたしかに満足に揃っていた。こうなると、ここらの人々は唯ぽかんと口を明いているのほかは無かった。

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