(六)
研究所は一ヶ月程つゞいた。それきりお麗さんはばつたり来なくなつた。 それはお麗さんに、画家たちがモデル代を支払はなかつたからであつた。 研究所は閉鎖しなければならなかつた。その後蘭沢の口から、私の『最後まで疑問にしてゐたこと』お麗さんが少しも裸体をおそれなかつた理由を聞きだすことができた。 私は最初からの思惑通り彼女が芸術の理解者ではなくて、お麗さんの家は非常に貧困で、彼女が芸術のためにの口実に、両親や、姉妹のために米代をかせぐべくモデルとなつたことが判つた。 勿論親たちが彼女の裸になつてゐることは知らなかつた。 研究生がさつぱりあつまらず、それになにかにと経費を意外につかつてゐたので僅か三十円の金であつたがとうとう彼女へは支払へなかつた。 蘭沢を始め人々は、彼女の裸を散々絵筆で突つき廻した揚句金を払はないなどゝいふ行為をこの上もなく罪悪と感じた。 ――神よ我々を罰し地獄におとし給へ。 仲間はかく内心にさけび、そして悲壮な顔をした。 しかし私と秋辺とは彼女の羞恥心をうばつたことを、彼女への大きな報酬と信じてゐた。 そして私は、そのお麗さんを描いたもの、その一枚の裸婦の画題を『未来派万歳』と命名したのであつた。 ------------------------ 憂鬱な家 この一篇をマルキストに捧ぐ
(一)
屋根の上の物音、禿鷹のやうに横着で、陰気な眼をした、あんまり飛び廻つて羽の擦りきれた鴉の群であつた。 こ奴等は、私の家の上で絶えず仲間同志争つた。 私はジット室の中に閉ぢこもつて、この屋根の上を駈け廻る物音を聞いた。不吉な鳥達が、黒いあしうらで跳ね廻つてゐることを知ると、私はたいへん不快な気持にとらはれた。 そして今度は戸口の物音である。 近所に住んでゐるらしい病気の犬こ奴の姿も私には気に喰はない。 何時も腰を、ズルズル曳きづつて歩く、ちよつと見ては、坐つてゐるのか、立つてゐるのか判らない犬であつた、 この犬が戸口に体を一生懸命にこすりつけて、枯れ草のやうな音をたてるのであつた。 逃げてゆくその斑犬の後姿を見ると、まるで赤ん坊のやうにすつかり毛がぬけてしまつてゐる。 頸や肢は哀れに痩てゐるが、腹だけは何つも大きく瓶のやうにふくらんでゐた。 私の郊外の家を、訪れる物音といつたら、まづこの不吉な鴉と、毛のぬけた犬位なものであつた。 海のやうに展けた雪原には何日も何日も吹雪が続いた、殊にこの吹雪のやんだ翌日の静けさは、実に惨忍に静まり返つた。 私の会社に出勤した後の、このぽつちりと雪の中に建つた私の家の中には、どんなに妻は退屈に留守をしてゐるか。 彼女は、室中に縦横に麻繩を張り廻し、凡太郎のむつきを掛け、どんどんと石炭をストーブにくべて、この黒、白、黄、の斑点のあるしめつた旗を乾かしたり、室中をぐるりぐるり子供を背負つて、どうどう廻りをしたり、また流し元でたつた二つよりない飯茶碗を湯の中でコリ/\コリ/\いはせながら何つまでも撫廻してゐることであらう。 凡太郎は部屋の真中にほうりなげられ、円を描いてくる/\廻りながら、手近なものを、なんでも口に頬ばる、畳の間から藁屑を摘み出して頬張つたり、乾からびた飯粒、石炭の小さい塊やら、新聞紙の切つ端や、蝋燭の屑、など片つ端から口にいれた、そして嚥み下されるものは嚥み、嚥みこめないものは吐き出てゐたが、看視人である母親は、鈍感であるので多くの場合知らなかつた。 たまに母親はこれを発見するが落付いたものであつた。 ――凡太郎、なんだい、今口へ入たものは、まあ驚いた、これは炭滓ぢやないの、なんといふ判らない児だらうね、お前は、口に入れることの出来るものは、なんでも喰べられるとでも思つてるのかい。 母親は、まだ歩き出すことも出来ないやうな凡太郎に向つて、威猛高になつてかう叫ぶのであつた。 その頃から凡太郎は、しきりに赤い唇を動かして ――あ、あ、あ、あ、あ、 と意味の通じない、小さな叫びをあげるやうになりだした。 ――凡太郎は、そろそろ、ものをいひ出すのでは、ないでせうか。 かういつて母親は、すつかり嬉しがつてゐるのであつた。
(二)
私も、凡太郎の『最初の言葉』といふことに、非常に重大な興味と注意とを感じた。 なにかしら凡太郎が、第一に叫びだす言葉によつて、凡太郎の運命の決まつてしまふやうな、その吉凶を占ふ父親の態度でそれを期待した。 ――凡太郎の奴。突然新約全書の一章でも、ベラ/″\しやべりだしたら、俺はどんなに吃驚するだらう。 すると凡太郎の相場は決まつてしまふ。 親不孝の凡太郎 父親が、ゲジ/″\よりも、大嫌ひな赤い帽子を冠つて、楽隊附で神様を売歩く西洋坊主。 救世軍の士官に相場はきまるのだ。 ――凡太郎。神様のお先棒にだけはなつて呉れるなよ。 すると急に私の赤ん坊時代。清浄でなければならない第一の言葉が、最初に吐きだされた片言が、なにかしら『泥棒』とか『淫売婦』とか『ごろつき』とか『掏摸』とかいつた風な、世の中でいちばん忌み嫌はれてゐる言葉からでも、始たやうにも考へられ、私はそれを凡太郎に怖れて 『花』『太陽』『蝶々』『お星さま』などと、世の中で精々美しい品々を選んで覚えこませようと努力した。 しかし凡太郎が最初に覚えこんだ言葉はなんであつたか。 それは意外にも、私の郊外の家の二つの訪問者であつたのだ。 ――かあ、かあ、かあ、かあ 屋根の上の烏の鳴き声と、それから数日して ――わん、わん、わん、わん 玄関口で、皮膚を鳴らす毛の脱けた病気の犬の鳴き声であつたのだ。 私は落胆した。 ――凡太郎に合図をしてゐるやうですね、嫌らしい烏。 妻は天井を仰いだ。いまにも屋根を剥いて持つてゆきさうに荒々しく屋根を渡り歩き烏どもは鳴きたてた。すると妻のいつたやうにいかにも凡太郎はその尾について ――かあ、かあ、かあ、かあ とやり出すのである。そして不吉な烏と、病気の犬との真似をものゝ十日もつゞけたのであつた。 『唖ではないだらうか』こんな不安を抱き始た。然しそれからまもなく凡太郎は、またもや奇妙な叫びをあげはじめた。 ――まふ、まふ、まふ、まふ。 最初はその意味がどうしても私達には判断が出来なかつた。 ――貴方判りましたよ。凡太郎は牛の真似をしてゐるらしんです。 妻は、或る日凡太郎を抱きあげながら窓際に立つて戸外をながめてゐたが、突然かういつた。 私の家の近くに牧場があつた。そしてその牧柵が、私達の家の窓の下までも伸びてつゞいてゐた。
(三)
牛達はこれまでは、寒い気候なので、牧舎の中で飼はれてゐたが近頃になつて、晴た天気がつゞくので、牛達は雪の上に散歩にだされた。そして嬉し気に毎日 ――もう、もう、もう、もう。と鳴いてゐた。 凡太郎はその牛の鳴き声を覚えこんだものらしい。 何時も片眼をつむつて考へことをしてゐる、底意地の悪さうな牛の鳴き声を凡太郎が覚えこんだことを知ると、私の理想主義が谷底に転げ落たやうな失望を感じた。 『花』『お日さま』『星』『蝶々』などといふ、麗しいものを覚えこまずに病気のごろつき犬や、不吉な鴉や尻に汚らしい糞を皿のやうに、くつゝけて済ました顔をしてゐる牛共の言葉を覚えこむとは何事だらう。 ――しかし考へて見れば、無理もないことだらう。 と私は思ひ返したのであつた。 教へ込ませようとした『花』などは、冬の真中にゐて、到底子供の眼になど触れることが出来ないものであつた。 『太陽』は雪雲の中に、姿を隠してゐて、少しも顔を見せず、地を照してゐる明りは、太陽の光りではなかつた、雲の明りと雪の反射であつたし。 『蝶々』などの、ひら/\陽炎の上を舞ふ春の季節には、まだ五ヶ月も経たなければならなかつたし。 すべてがみな憂鬱な冬の姿の中の、静物のやうに、自分自身がもつてゐる光りで、僅かに自分の周囲の小さな部分を明るくして、生きていかなければならない、惨忍な季節であつたのだ。 どうして幼い凡太郎が。 生れてから、まだ一度も春にめぐり合つたことのない凡太郎が。『花』や『蝶々』や『星』の美しさを知る道理があるだらう。 私の家の、唯一の訪問者である犬、鴉、牛、などの言葉を真似たことが、当然であつたのだ。 ――色々の真似をするところを見ると、唖でもないやうですね。 ――うむ。 と私は妻に、うなづいて心の中で、 ――今度は、きつと人間の言葉を覚えこむだらう。 ことを期待してゐたのであつた。 静かな日が何日も続いた。 濃霧は、私達の家のめぐりを、とり囲んだ。 この霧のたちこめた日は、私の感情をさま/″\に変へた。 美しい夕方の薄い霧は、遠くの方を、幻のやうに見せて、なにか蜜のやうに、甘いものでもあるかのやうに、私をよろこばした。私は凡太郎を抱いて家の前に出て充分に凡太郎の小さい口に吸ひこました。 すると凡太郎は、しまいには、しきりに嚔をするのであつた。 怖ろしいのは夜更の濃い霧であつた、重い濡れた幕のやうに、小さな家の上に掩ひかぶさるやうな恐怖を感じた。 その重いものは、はねのけてもはねのけても、匍つて来て屋根の上に白い獣のやうな腹を載つけた。 硝子窓から、霧の戸外を覗いて見ると、一寸先も見えない。 不意に霧の中に隠れてゐる何者かゞ、私達の家にむかつて、弾丸を撃ち込みはしないかといふ、不安に脅かされる日もあつた。 私の家を訪ねるものは、獣や鴉の他に毎土曜日の、顔の黒ん坊のやうな、煙筒掃除人と、郵便配達の声位なものであつた。 或る日、不意に二人のマルクスが私の家を訪ねて来た。
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