二
昔なら、たとえば平安時代なら、美貌の男女の関係を述べるのに、一頁も要しなかったところだろうが、現代の、しかも頗る自負心の強いこの二人には右のような数々の偶然が必要であった。 女中が想像するぐらいだから、極めてありふれたことにはちがいないというものの、そうした偶然がなければ、かりにお互いにどれだけ好き合っているにしても、めったにそういう関係に陥らなかったであろう。 もはやなにひとつ拒むものがなくなってからも、多鶴子は思い出したように、豹一を突き飛さんばかりにした。が、突き飛したといえば、豹一の方も同様であった。 彼の精神状態はいかに逆上しているときでも、全部は朦朧としてしまわないという点で、特異性があった。頑固な牧師のようにひそかに抱いているある種の嫌悪は、その時も敏感な蛇のように鎌首を擡げていた。母親の顔、東銀子の薄い胸細い足、それらが泛んでは消え、消えては泛んだ。そのため、豹一はもっとも楽しかるべきときでさえ、残酷な犯罪を犯したあとのようなけわしい表情になっていた。嫌悪しているものに逆に惹きつけられるという、捨鉢な好奇心は彼に慟哭の想いをさせてしまったのである。 義務を果したという、自尊心の満足もこの時はてんで役に立たなかった。なぜなら、彼の自尊心は矢野の顔を想い出すことによって、勝利感どころか、全く粉微塵になってしまったのだ。 (あいつはこの女を自由にしていたのだ!)自分を情けない状態に置くためには、そのことを思うだけで充分だった。(この女もあいつの自由になることを喜んでいたのだ! 丁度こんな風に……)それを感覚的に想像するに及んで、彼の苦悩は極まった。 自尊心を問題外に考えても、感覚的な嫉妬とともに始った最初の恋ほど苦しいものはまたとあるまい。女の魅力が増せば増すほど、嫉妬の苦しみは大きいのだ。 可哀相に豹一は夜通し悩み続けた。ことにやりきれなかったのは、彼がいままで嫌悪していたことは、女の意志に反して行われるものと思っていたのに、意外にもそれは思いちがいだったということだった。 彼は女の生理の脆さに絶望してしまった。彼がいきなり多鶴子を突き飛ばしたのも無理はなかった。 (女って駄目だ!)なぐりつけたいような気になった。 「矢野とはなんにもなかったと、誓ってくれ!」半泣きの声を出して、そんな無理なことを言ったかと思うと、 「いまでも矢野が好きなんだろう?」噛みつくように言って、ピシャリと多鶴子の頬をなぐった。 いかにも内気らしくおどおどしたり、つんと済ましこんでいたり、随分ぎこちない豹一ばかり見て来た多鶴子は、そんな情熱的な豹一を見ると、思わず唇の端に微笑を泛べた。そして、恐らくは無意識だったろうが、もっと彼を苛めるようなことを、ふといってしまった。 「ダンサーをしていた時、いろんな人に口説かれて困ったわ、伊太利人もあったわ」 ちょっとした昔話と、きき流せることも出来る言い方だったが、豹一の顔は途端に曇った。 「好きになったんだろう? 誰か……」 「そりゃ、少しは……。しかし、たいしたことはなかったわ」 「どんな人?」 「やっぱり踊りの上手な人ね。リードのうまい人だったら、踊ってる間だけ、ちょっと迷わされるわ」 豹一の顔はにわかに歪んだ。数えきれぬほど沢山な男に抱かれて踊っていたのだと思うだけでもやりきれなかったのに、踊ることによって自他ともにひそかに愉む気があったのかと思えば、もう豹一の嫉妬は果てしがなかった。 そんな豹一を見て、多鶴子はもう自分の年齢を気にしなくとも良いと思った。じつは多鶴子は、隠してはいたが、豹一よりも六つも年上であることに女らしい負目を感じていたのであった。なお彼女は、豹一の狂暴的な嫉妬に心を打たれてしまった。矢野は嫉妬の素振りも見せぬほど円熟していた。ときには憎いと思われるぐらい紳士であった。それに比べると、豹一の表情のひとつひとつはそのまま恋する男のそれであった。 (こんな情熱的な人を見たことがない)多鶴子はそう思った。 豹一がもし四十男であったなら、彼の嫉妬ぶりにはさすがの多鶴子もうんざりしたところであろうが、その点彼の若さがそれを救っていた。 (初心なんだわ)感激した彼女は豹一に、 「これまであんたほど好きになった人はないわ」と、言った。 自尊心の強い彼女としては、よくよくの言葉だった。他の男、たとえば矢野には言えなかった言葉だった。相手が豹一だから言えたのである。だから、豹一は喜んでもよかったのだ。ところが、豹一は「これまで……」といういい方が気にくわなかった。 (これまで何人の男に惚れたんだろう?) ほんの言葉の端にも、(嫉妬)がひっ掛かって行くのだった。なお、そんな風に「好きになった」とはっきり言われるのも辛かった。いっそ嫌いだと言われた方がサバサバするのだった。愛されていると思うと、一層嫉妬の苦しみが増すばかりだった。 豹一は朝までけわしい表情を続けていた。そして、朝になると、その表情は一層はげしくなった。 朝刊に昨夜「オリンピア」の表で暴行事件があったと、出ていたのである。
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