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青春の逆説(せいしゅんのぎゃくせつ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-29 10:05:30 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


      四

 半時間ほど戎橋筋を駈けずりまわったが、紀代子の姿は見つからなかった。おかげで雑閙のなかで女の顔を撲るという不愉快なこともせずに済んだと、ほッとした。が、同時にひどく意気込んでいただけに、がっかりして諦め切れぬ気持が残った。なおも未練たらしくうろつき廻った挙句、魂の抜けたような顔をして喫茶店にはいって行った。
「らっしゃいませ」
 ひどくはすっぱな声がしたので、びっくりして顔をあげると、厚化粧をした女の顔が五つ、六つ赤い色の電燈に照らされて、仮面のようにこちらを向いていた。カフェではなかったかと、豹一は思わず入口の方を振り向いたが、カウンターが入口にあるところや、女たちが皆突っ立っているところを見ると、そうでもなさそうだった。しかし、それにしてもまるでカフェのような喫茶店だと思うと、豹一は逃げ出したくなった。この際ミルクホールのようなしょんぼりした喫茶店でぽかんとしているのが適しいのである。が、うかうかと間違ってはいった以上、こそこそ逃出して、似顔画描かなにかと思われては癪だと、ルンバの音を腹立しく聴きながら、隅の方の席へ坐った。
 女たちはいずれもあくどい色のイヴニングを着て、ルンバに合せて、妖しく尻を振っていた。例外なしに振っているところを見ると、営業者の命令であるのかもわからなかった。安来節踊りの腰付きのようなものもあれば、レヴューガールのような巧妙なのもあった。が、いずれにしても醜悪を極めていた。ふと女たちの眼が一せいに自分に注がれているのに気がついた。豹一は自分の眼の方向を見抜かれたと思い、みるみる赧くなった。
 ところが、女たちが彼の方を見ていたのは、彼が実に一風変っていたからである。彼はまるで飯屋へ入るような容子で、ここへはいって来たのだ。普通男たちは例外なしに、多少とも気取ってはいって来るものである。わざと何気ない顔を渋くつくろう方などは良い方で、レコードの調子に合せてステップを踏みながら席につくなど、ざらである。帽子に手をかけたり、ネクタイにさわったりするのが十人のうち六人ぐらい。友達づれは、たいていわざとらしく話をしながらはいって来るか、誰か一人が女の立っている傍の席を見つけると、他の者がへっへと笑いながら随いて来る。女と顔見知りの者は「あいつ来てへんかったか」といいながら来るのが十人のうち四人。黙って顔をにらみつけながらはいって来るのが四人。あとの二人は、「どうぞこちらへ」というまで坐らない。
 ざっとこんな風だったから、豹一のようになんの気取りもなしに、行きつけの飯屋へはいるような容子でぶらりとはいって来るのは珍らしいのである。実は元来気取り屋の豹一も、ここへはいって来る瞬間、さすがに気取るだけの心の張りを無くしていたのである。だから、随分人眼をひいた。おまけに彼は美貌だった。つまり彼女たちに言わせると、一風変っていたのである。
 眉毛を細く描いた眼の細い女が、豹一のテーブルへ近づいて来て、
「あんた、ボタンがとれちゃってるわよ」と、豹一の上衣にさわった。彼女も、もし豹一が赧くなっているのでなかったら、こんな風に馴々しくしなかったのだ。普通、若くて美しい男は蒼い顔をして、じっと眼を据えているものである。つまりどこか不良くさいと、一応は敬遠されるものだ。豹一はおどろいて、上衣を見た。二つともボタンがとれていた。一つは戎橋の上でちぎって捨てた記憶はあるが、あとの一つはどこでとれたのかわからなかった。
「恋人につけて貰いなさいよ。みっともないわよ」私がつけてあげますよと言わんばかりだったが、そんな眼つきがわかるほどには、豹一はすれていなかった。
「恋人なんかあるもんか」殆んど口に出かかった言葉をぐっとのみ込んだ。紀代子のことがちらりと頭に泛んだからである。恋人がないということが、この際なにか恥しいことのように思えた。なお、ボタンがとれていることも、なにか失業者じみている。だいいち、上衣のボタンの無いのが眼につくのは、寒空にオーバーも着ていないというはっきりした証拠になる!
(よし、この女を恋人にしてやる)
 だしぬけにそう決心した。みっともないと言われたことが、我慢がならなかった。おまけに東京弁だ!
「どうしてとれちゃったの?」女はなおも上衣にさわっていた。香油の匂いが鼻をついた。豹一は顔をしかめた。
(まるで質屋の小僧のように俺の洋服を調べてやがる)豹一の決心はいよいよ固くなった。かつて、毎日質屋へやらされたことを腹立しく想い出した。続いて、かつてのさまざまなみじめな出来ごとが、次から次へ頭へ泛んで来た。
(こんなみじめな俺が衆人環視のなかで、この女を恋人にして見せるのは、面白い)
 紀代子の顔を撲れなかった代償としても、充分やり甲斐のあることだと、豹一は胸を熱くしていた。が、衆人環視のなかで、恋人にしてみせるとは、いったいどんなことなのか、豹一にはわからなかった。ふと、顔が赧くなるような、乱暴なことを思いついた。が、さすがに実行出来なかった。それどころか、物を言おうとすると、体が固くなって来た。
(こんなことでは駄目だぞ! よし、百数えるうちに、この女の手をいきなり掴むのだぞ)そう言い聴かせた。握るといわずに、掴むというところが、豹一らしい。
「ねえ? あんた、おうちどこなの?」
 豹一は返事をしなかった。一つ二つと数え出していたからである。
(五つ、六つ……十、十五、……二十、……)
 いきなり煙草の銀紙をまるめた玉が飛んで来て、豹一の肩に当った。
(二十七、二十八、……どいつだ? 二十九、三十、……)
 豹一はじろりと部屋の中を見廻した。若い男と視線が合った。咄嗟ににらみかえして、豹一は、
(あいつ、この女に気があるらしいな)と、思った。その男もじっと眼を据えて、にらみかえしていた。女は素早く二人の容子に気がついて、
「およしよ。あの人、不良よ」豹一の耳の傍で言った。
 不良と聴いて、豹一の眼は一層凄みを帯びた。余りににらみ過ぎて、泪が出そうになったので、あわてて、眼をこすって、またにらみかえした。
(よし、あの男の眼の前で、この女の手を掴んでやる! それから、あの男に飛び掛って行くんだ! おっと、数えるのを忘れていた。一足飛びに五十と行こう。……五十一、五十二、……)
 豹一の顔はだんだん凄く蒼白んで来た。ルンバの早いテンポに合わせて、数え方も早くなって行った。
(百数えて、これが実行出来なければ、お前はおしまいだ! 一生人に軽蔑され続けるんだぞ。それでも良いか? お前の母親は辱しめられたんだぞ)
 もうあとへ引けないと思うと、豹一はだんだん息苦しくなって来た。銀紙を投げた男はいまにも飛び掛って来そうだった。
(六十二、六十三……、六十七、六十八、……)
 豹一ははげしく胸の音を聴いた。ついぞこれまで女の手を握ったことが無いのである。
「七十、七十一、七十二、……七十五、……」
 はねつけられた時のことを考えると、だんだん勇気が挫けて来た。いきなり、豹一は声を立てて数えはじめた。
「七十六、七十七、七十八……」
 女はあきれてしまった。(この人気違いではないかしら?)
 豹一はもうそんな女の顔を見向きもしなかった。ただ、じっと男の顔をにらみつけていた。
「七十九、八十、八十一、……」
 ルンバの騒音は豹一の声を殆んど消していた。が、豹一の真赤になった耳は自分の声と格闘を続けていた。
「八十一、八十二、八十三、……」
「らっしゃいませ」
「珈琲ワン」
「ありがとうございます」
「ティワン」
 喧騒のなかで、豹一の声は不気味に震えていた。
「八十四、八十五、八十六、……」
 色電球の光に赤く染められた、濛々たる煙草のけむりの中で、豹一の眼は白く光っていた。
「八十七、八十八、八十九……」
[#改段]

 第二部  青春の逆説

    第一章

      一

「……九十、九十一、九十二、九十三……」
 唱名のように声をだして、豹一は数を読みつづけて行った。
 豹一は顫えていた。声まで顫えていた。
 いつもの豹一ならそんな自分を許しがたいと思ったところだ。いつ如何なる場合にも声が顫えるようなことは金輪際あってはならないのだ。それが豹一の掟だった。いったいにわれにもあらず興奮した姿を見せるのは、かねがね醜態ということに決めているのである。だいいち、この場合声を出すことすらいけないのである。百読む間に女の手を握るという思いつきは、余り賢明な思いつきとはいえないが、それは兎も角、数を読むならば黙って読めば良いのである。動物的に浅ましく声を出し、おまけにその声が顫えるなど以ての外である。
 しかし、無我夢中になっていた豹一には、そこまで気がつく余裕はなかった。いわば耳かきですくうほどの冷静さも残っていなかった。興奮をおそれなくなるほど、興奮していたのである。
「……九十四、九十五、……」
 相変らず、いやな声を出していた。
「……九十六、九十七、……」
 あと三つで百だと思うと、むしろ情けなかった。百になれば、女の手を握らなくてはならない。この死ぬほどの辛さと来ては、百ぺん失業した方がましだと思うぐらいだった。
 だいいち豹一にはついぞこれまでどの女の手を握った経験もない。友人と握手するのさえ照れる男である。それが初対面の女の手をいきなり握ろうというのだから、いってみれば無暴だった。しかも豹一は坐っていて、女は立っている。物かげでこっそり握るというわけにはいかなかった。衆人環視のなかである。たとえどさくさまぎれで握るとしても少くとも二つの眼だけはそれを見逃すまい。挑み掛るようにじっとこちらを睨んでいる二つの眼、――いまさき煙草の銀紙をまるめて投げた男だ。しかし、それよりも豹一がおそれているのは、手を握ろうとして女にはねつけられた場合のことである。
「いやな人!」と、逃げられたら、自尊心を傷つけられた想いに先ず当分は悩まなくてはならない。いや、逃げられるぐらいならまだ良い方だ。「キャッ!」と、声を立てられたりなぞすれば、眼もあてられない。しかも、その可能性はどうやら無限大だった。女はべつに好意を示しているわけでもないと、豹一は思っていた。それどころか、どうやら軽蔑していると思われる節もある。冬空にオーバーもなしに、柄にもない喫茶店へまぎれ込んで来た男など、充分軽蔑に価する筈だ! おまけに女は歯切れの良い東京弁と来ている。
 だからこそ、握り甲斐もあるわけだと、そんな妙なことを思いついた自分を、豹一はいますっかり後悔していた。しかし、乗り掛った船だった。それが実行出来ないようでは、死んだ方がましだと、豹一は「ひるむ心に鞭あてた」気持を振い起していた。自然、声も出る。
「……九十八……」あと二つだ。
「手相を見てやろう」などといって、こそこそ握るようなやり方では駄目だぞと、豹一は咄嗟に自分に言いきかせた。
「……九十九……」
 九十九・五というのはない。ぐっしょり汗をかいた。一秒だった。
「百!」
 豹一は無我夢中で手を伸した。そして女の手を掴んだ。手は引込められようとした。豹一はあわててぐっと力を入れた。女の掌は顔に似合わず、ざらざらしていた。しかし、さすがに若い女らしい温みがあった。咄嗟のうちに、豹一はそれを感じた。女の手に急に力がはいった。それも感じた。しかし、豹一は女の顔をよう見なかった。見れば、うんざりしたところだ。女はびっくりして、随分頓間な顔をしていたからである。しかし、それも豹一のせいだ。いきなり握る――のは良いとしても、それはまるで掴むといった方が適しいほど味もそっ気もない乱暴な握り方だった。酔っぱらいでも、少し相手が女だということは、勘定に入れている筈だ。少くとも握った瞬間に、妙な骨の音なぞしない。しかし、豹一は成功の喜びに酔うていた。(おれは衆人環視のなかで此の女をものにしたのだ!)
 義務を果してしまえば、もう用のなくなった女の手を、豹一はいきなり離してしまった。他愛もないことだが、豹一にとっては、女をものにするという欲望は、この程度の簡単なことで満足されるのだった。二十歳の年頃にしては、少し慾が無さすぎるかも知れない。手を握るという義務を果せば、もうあと用事はなく、二度と会うこともあるまいなどと、まるで昆虫のようなあっけ無さである。もっとも、もし豹一がそこで女の顔を見れば、為すべきことが未だ少し残っていると思ったかも知れない。――女はぷっとふくれた顔をしていた。豹一があまり早く手を離したので、莫迦にされたと思ったのである。そんな不満な表情を見れば、豹一のことだから、嫌われたのだと早合点して、もう一度握りかえさねばと、思い直したことであろう。――しかし、もっけの倖いには、豹一はそんな無駄なことをせずに済んだ。
 銀紙の玉を投げた男がいきなり傍によって来たからである。男の手が女を退けるまえに、女は傍を離れた。その時、まるでわざとのようにルンバの曲がやんだ。レコードを仕かえるまで、少し間があった。
「あんさんとは今日こんお初にござんす……」案の定、わざとらしいはったりの仁義を掛けて来た。鼻に掛った声だった。「……野郎若輩ながら、軒下三寸を借りうけましての仁義失礼さんにござんす……」そうして、男は聴馴れぬ調子でぺらぺら喋り立てたが、再び電気蓄音機が鳴り出したので、はっきり聴きとれなかった。曲は「赤い翼」。豹一は自分が案外落着いているのを嬉しく思った。
「表へ出くされ!」柄のわるい妙な大阪訛で男がいった。これは聴き洩さなかった。聴き洩すと、恥になる。豹一は伝票を掴んで立ち上った。
 勘定を払って表へ出ると、男はしきりに洟をかみながら待っていた。蓄膿症らしい。(随分威勢のあがらぬ与太者じゃないか)豹一はその男を小馬鹿にしたくなった。男は洟をかんだあとの紙を小さく畳んで袂にいれると、鼻をクスンクスンさせながら、「随いて来い」と、言った。豹一は黙ってうなずいた。
 男は御堂筋をナンバの方へ歩きだした。ぞろりと着流しの上へ総絞りの兵児帯を結んだ男の恰好はいかにもちゃちな与太者めいていたが、歩を移すたびにその結び目が尻の上で揺れるので、うしろから見て豹一はふとおかしくなった。女のような大きな尻だった。
 御堂筋から南海通の方へ折れて行った。黙々として歩きながら、豹一はどうした訳か気持が些かも殺気立って来ないのに弱った。
 男は振り向いた。そして、
「来くされ!」はき出すように言った。
 南海通の漫才小屋の細長い路次をはいって行った。二人並んで歩けないほど狭かった。弥生座の裏手あたりまで来て、男は立ち止った。そして洟をかんだ。それが済むとねちねちした口調で言った。
「おい! お前逃げもせんと、よう随いて来たな。ええ度胸や」
「そうかね」豹一は四十男のような口を利いた。男はちょっと考えて、
「ええ度胸かなんか知らんけど、生意気な真似しやがると、承知せえへんぞ! ええか、おい、ちょっと男前や思て、ひとのスメ(娘)に手エ出しやがって、それで済む思てけつかんのか、おれを誰や思てけつかんのや、道頓堀の勝いうたら、お前みたいな、へなちょこの軟派とちょっと違うネやぞ。――さあ、どやしたるさかい、面を出しくされ!」
 しかし、道頓堀の勝の手が伸びて来るまで、少し間があった。そのため豹一はすっかり焦れていたので、いよいよ道頓堀の勝の拳骨が飛んで来た時、待ってましたと思ったぐらいだった。
「待ってました!」
 弥生座の舞台にレヴュー「銀座の柳」の幕が上った途端、二階の客席からそう奇声があがった。
「東銀子頑張れ!」
 知らぬ人は、東銀子とは舞台の前方へ一人抜け出してチャールストンを踊っている主役の踊子だと、思ったかも知れぬ。が、実は後列の隅の方で沢山の踊子にまじって細い足を無気力にあげている胸の薄い少女が、東銀子だった。
「銀ちゃん、頑張って頂戴」
 声のする方を見あげて、銀子は、あ、北山さんだと、手をあてた腰を動かしながら、ふっと泪が落ちそうになった。いつの間にまぎれ込んだのか、二階の客席でしきりに銀子の名をよんでいるのは、文芸部の北山だった。
 昭和…年頃のあやしげなレヴュー団によくあった例だが、そのレヴュー団、ピエロ・ガールスではたいていの踊子たちは入団した途端に女にされてしまう。そのたび、文芸部の北山はものの哀れを感じたといって、泥酔してしまうのだった。
 東銀子は十七歳、一月前に入団したとき、その少年のような胸を見て、北山は男優一同に、
「此の子にさわるでねえぞ!」と常にない凄んだ声で駄目を押した。
「するてえと、バッカスの旦那が、泡盛の肴に生大根を囓るって寸法ですかい」
 北山は先生とはよばれず、バッカスの旦那で通っていた。未だ三十五、六だが、浅草にいた頃の電気ブラン、浅草から千日前へ崩れて来てからの泡盛のために頭髪がすっかり禿げあがって、爺むさかった。
「莫迦野郎! おれは小便臭いのは此の小屋の臭いだけで充分だ」
 そうはいったものの、しかし間もなく起った「北山老人は東銀子にプラトニックラブを捧げている」という噂を、北山自身敢て否定しなかった。そう思わせて置く方が銀子をまもるためにも良いのだと、つまり北山もいつかその噂を否定しがたい気持になっていた。毎夜小屋がハネると、南海通の木村屋喫茶店へ銀子を連れて行った。銀子は、
「北山さんはお酒のむから、きらいやわ」
 北山をげっそりさせた。
 噂によると、これまでどの女優にもそんなことをしなかった品行方正の北山が、舞台稽古の時たまりかねたのか、銀子をわざわざ舞台裏へ連れ込んで、永いこと銀子の頭に手をのせていたということである。銀子は随分いやがっていたということである。北山はすっかり面目をなくした。
 しかしそんな噂のおかげで、そしてまたしょっちゅう銀子の身辺から眼を離さなかったおかげで、銀子はどうやら此の一月無事だった。
 ところが、昨夜徹夜で舞台稽古をしたとき、北山は不覚にも泡盛に足をとられて、千日前の金刀比羅の境内で打っ倒れていた。その隙に、銀子は誰かに女にされてしまった。と、知ると、北山はやけくそになって朝っぱらからの迎酒に泥酔したあげく、ふらふらと二階の客席にまぎれこんで、しきりに銀子の名を呶鳴り出したのだった。
 頭の上まで足をあげながら、銀子は身が縮む想いだった。
「銀ちゃん、頑張れ、頑張れ!」
 北山は立ち上って銀子の踊りに合わせて、あやしげな身振りで踊りだした。どっと、笑い声が起った。見物人は舞台より二階の余興の方に気を取られてしまった。

ジャズで踊って、リキュルでふけて、
明けりゃダンサーの涙雨

 北山はしわがれた声で歌い出した。踊子たちはくすくす笑い出した。しかし、銀子は笑えなかった。踊りが済むと、銀子は楽屋へ駆け込んで、窓側にしょんぼり坐った。次の幕の衣裳をつける気もしなかった。泣けもしない顔を窓にくっつけていると、
「銀ちゃん、何してるの?」寄って来た踊子は、ふと路次を見て、「あら、誰や倒れたはるわ。銀ちゃん、見て御覧」
 銀子はいきなり子供のように声をあげて、
「みんな来て御覧! 誰や倒れてはるし」
 どやどやと窓側に寄って来た。
「ほんに。――喧嘩やろか」
 豹一はしょんぼり立ち上って、すごすご路次を出て行った。道頓堀の勝はとっくに姿を消していた。

      二

 薄暗い電燈の下で、お君は仕立物の針仕事をしていた。
 下寺町の坂を登って来る電車の音や、表を通る下駄の音は凍てついた響きに冴えて、にわかに夜が更けたようだった。お君は針の目に糸を通しながら、豹一の帰りのおそいのを想った。夜業でおそくなることもあるが、しかしこんなにおそいのははじめてだった。深くは気にかけなかったが、しかし犬の遠吠をきいていると、戸外の寒さが想いやられた。安二郎がけちだから、ほんのちょっぴり炭火をいれているだけだったが、それでも家の中はさすがに温みはあった。
 安二郎は背中を猫背にまるめて、しきりに算盤をはじいていた。算盤をはじいているときほど楽しいことは、またとないのだ。ことにそれが女房に貸しつけた金の元利計算と来ては、ぞくぞくするほどたまらない。夜のふけるのも知らなかった。しかし、繰りかえし計算したあげく、安二郎はおやと、不安になった。安二郎はお君の仕立賃のほか、最近は豹一がお君に渡す月給の幾割かをも右左にまきあげていたので、正直な計算によれば、もはや取るべきものはすっかり取ってしまったどころか、取り過ぎている勘定になっているのだった。安二郎は狼狽した。これ以上お君の手から取りあげるのは不正所得なのだ。われながらも浅ましいほど高い利率を課して来たのに、もうすっかり返済されているとは、なんとしたことか。かえすがえす残念だった。安二郎は自分の計算を疑った。もう一度おそるおそる計算してみた。同じことだった。この上は不正所得であろうとなかろうと、欺して取るより仕方がないと、安二郎は覚悟を決めた。しかし、お君は欺せても、豹一の眼はいまいましいほど鋭い。
「えらい冷え込んで来ましたな。炭つぎまひょか」お君が言った。
「なに言うねん。もったいない。きょう日炭一俵なんぼする思てるねん」
 安二郎は痔をわずらっているので、電気座蒲団を使っている。その電気代がたまったものではない。尻に焼けつく思いがするのだ。それを想えば、この上灰にしかならぬ高価い炭をうかうかと使うてなるものか。
(寒いといえば目茶苦茶に炭をつぎやがるし、暑ければ暑いで、目茶苦茶に行水しやがるし、どだいこのおなごの贅沢にも困ったもんや)
 行水をするとき、お君は相変らず何度も水を浴びた。湯気の吹き出た白い体にサッと水が咆り掛って、弾み切った肢体がすくっと立つ――そのなまめかしさを安二郎はたびたびうっとりと愉しむのだったが、やはり、消費される水のことを想えば胸が痛むのだった。水ならまだしも、炭と来てはまるで紙幣を焼いているようなものだ。僅かにお君の肌のほてるような温もりが安二郎の悲しい心を慰めるのだった。寒中炬燵なしでどうにか凌げるからだった。さすがに老齢で、足はチリチリと冷えるが、それも足袋をはいて寝れば、いくらか我慢が出来る。
(しかし、あの餓鬼は若い身空で贅沢に炬燵をいれてけつかる)安二郎はひょんなところでふと豹一のことを想い出した。(たかが炭団代というても莫迦にはならんぞ!)
 一月いくらになるだろうかと暗算して、なるほど莫迦にならぬと思った途端に突如として安二郎の頭に名案が閃いた。炭団代を豹一に払わせるのだ。今まで費した金ばかりに気をとられていて、「実費」を支払わせることが思いつかなかったのは、なんとしたことかと、安二郎は自分のうかつさをののしった。
 安二郎は再び算盤をはじき出した。先ず炭団代何十銭也といれた。間髪を入れず、水道代何十銭、次に電気代は何円何十銭也……。安二郎はにやりと笑った。取るべき実費はいくらでもあるではないか。食費何円何十銭也、部屋代何円何十銭也、――今月からは〆めて何十何円何十銭也を豹一に払わせるのだと、算盤の音は活気を帯びた。われながらうっとり出来る高額だったので、安二郎は今月から取りはじめるのはなんとしても惜しいと、いろいろ考えたあげく、子供の時分からの養育費を取るべきだという結論に達した。しかし、さすがの安二郎もそれは余り残酷だと思ったので、豹一が月給を取るようになってからの分を取ることに負けてやろうと、結局そこへ「手を打つ」ことにした。幾分の思いやりだった。その代りこれまでの分は利子をつけることにした。
 安二郎は余りの幸福さにわれを忘れてしまったので、
「お君!」と、思わず女房の名を呼んだ。しかし、べつに改めて言うべきこともなかったので、咄嗟に考えて、用事を吩咐ることにした。
「電気座蒲団の線はずしてんか」自分で立ってはずすと、その間座蒲団の温もりから尻を離さねばならない。それが惜しいのだ。
「よろしおま」お君は立ってコードをはずした。だんだん座蒲団の温もりがさめて行った。すっかり冷たくなってしまうと、安二郎はやっと尻をあげた。途端に痔の痛みが来た。
「あ、痛、痛、あ、痛ア!」
 尻を突きだしたじじむさい中腰で寝床の方へ歩いて行きながら、安二郎は、
(誰がなんちゅうても豹一から下宿代を取ってこましたるぞ)と、力んだ。(取る権利が無いとは言わせんぞ。そや。おれはあいつの親や。親ならどんな権利でもあるネやぞ)安二郎はこれまで豹一を負債者とばかり考えていたので、実は豹一が、息子であることにうっかりしていたのだった。(親やったら息子の儲を取るのは、こら当然や。あ、痛、痛! あいつはもう一人前の月給取やさかい、父親には下宿代を渡さんならん義務があるネや。それぐらいあいつでも知ってくさるやろ。高等学校まで行きやがって、それ知らんのやったら、こら学校の教育方針がわるいネやぞ)
 安二郎は豹一がいまは一人前の月給取であることに、父親の顔で悦に入った。
 丁度その時、戸外にしょんぼりした足音がして、今日失業したばかりの豹一が帰って来た。道頓堀の勝に撲り倒された屈辱をもて余して、当もなく夜更の街をさまよい歩き、もう十二時近かった。
 豹一は安二郎の寝巻姿を見て、途端に胸が塞がった。安二郎の着物を畳んでいる母の姿が眼に痛かった。
「どないしてん? えらい遅かったやないか」お君が言ったが、豹一は返辞をせず、さっさと二階へ上ってしまった。むろん安二郎にも挨拶一つしなかった。
 そんな豹一にお君はふっと取りつく島のない気持を感じたが、しかしお君はそれを苦にもせずえらい物言わずの子やなあと、ただそれだけだった。しかし、豹一の寒そうな後姿を見て、
(オーバーたらいうもん買うてやらんならん)
 この頃針仕事の賃を、安二郎の言うままに渡して来たことを、お君はちょっと後悔した。
(内緒で銭を蓄めんならん)長い睫毛のうしろで綺麗な眼の玉をくるりくるりまわしながら、針箱の抽出へこっそり隠すべき一円紙幣や五十銭銀貨を頭に描いた。(オーバーてなんぼ程するのやろか)
 しかし、安二郎が声を掛けたのでお君はその思案を中絶しなければならなかった。そして、白い炬燵になった。
 豹一は二階で長い欠伸をしていた。精も張もない長い欠伸を虚ろに吐き出している自分がさすがに情けなく、乱暴に洋服を脱ぎ捨てた。そして、蒲団のなかへもぐり込んだ。炬燵が入れてあった。ふっと温いものが足から眼に来た。その拍子に、母親に返辞一つしなかった自分の態度がチリチリ後悔された。
 失業したときかすのがいやで、わざと口を利かなかったのだとは、この際良い加減な弁解だった。つまりは、理由もなく口を利く気がしなかったのだ。今日にはじまったことではない。日頃から豹一は安二郎のいる前では母親につとめて口利かず、そんな習慣が出来てしまっていることをひそかに詫びる気持をもちながら、どうすることも出来なかった。そのたび、何か済まない、済まないと思うのだったが、しかし今夜ほどそれが胸をしめつけたことはなかった。気の弱りだろうか、豹一はシンと鼻に泪がたまって来た。
 思えば今日の豹一は、たしかに泣きたくなるほどみじめだった。しかし、それだからとて、こっそり泪を流すとは、日頃の豹一の流儀から言えば、だらしがないのだった。そんな気の弱まりは、かねがね自分には許してない筈だ。しかし、さすがの豹一も母親の顔を見た途端に、徹頭徹尾心の張りをなくしてしまい、失業のことが針のように感じられたのだった。自他ともに颯爽としていた筈の今日の失業も、にわかにみじめになってしまったのである。
 母親が入れてくれたのだと思えば、炬燵の温もりが痛いほど感じられて、豹一は思わず、
「えらいことをしてしまいましてん。失業しましてん。えらい済んまへん」ぶつぶつと声を出して呟いた。
 すっかり気が滅入ってしまった豹一は、誰も見ていないので、もうやけにだらしなく泪を流し、しまいに悔恨の気持が妙に動物的なものになってしまって、こつこつと頭を敲きはじめた。しかし、その動作が豹一にふと、道頓堀の勝に撲られたことを聯想させた。すると、豹一ははじめて決然として来た。あわてて泪をこすると、豹一はいきなり狂暴な表情になり、弥生座の裏路次でぶざまに倒れていた自分の姿を想い出した。
 朝、安二郎は豹一の起きて来るのを待って、
「なあ、豹一」珍らしく自分から話しかけた。
「あのな、……」
 以下の言葉はここに写すまでもあるまい。豹一の答は頗る簡単だった。
「よろしい。欲しいだけ取って下さい。なんなら月末に請求書を出してもらいましょうか」さすがに声は顫えていた。が、請求書という巧い言葉を思いついたので、豹一の興奮はいくらか静まった。
 しかし安二郎は請求書ときいて、飛び上らんばかりに喜んでいた。こんなに簡単に、いざこざなしに話がつくと思っていなかったから、余り話がうますぎると、ちょっぴり不安に思ったぐらいだった。
「用談」が済むと、豹一はいつものように畳新聞社へ出勤する顔で、さっさと家を出た。夕方帰って来た豹一は、しかし昨日のままの失業者に過ぎなかった。

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