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夢殿(ゆめどの)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/9/2 6:01:01 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: 日本の英雄伝説
出版社: 講談社学術文庫、講談社
初版発行日: 1983(昭和58)年6月10日
入力に使用: 1983(昭和58)年6月10日第1刷
校正に使用: 1983(昭和58)年6月10日第1刷

 

   一

 むかし日本(にほん)の国(くに)に、はじめて仏(ほとけ)さまのお教(おし)えが、外国(がいこく)から伝(つた)わって来(き)た時分(じぶん)のお話(はなし)でございます。
 第(だい)三十一代(だい)の天子(てんし)さまを用明天皇(ようめいてんのう)と申(もう)し上(あ)げました。この天皇(てんのう)がまだ皇太子(こうたいし)でおいでになった時分(じぶん)、お妃(きさき)の穴太部(あなとべ)の真人(まひと)の皇女(おうじょ)という方(かた)が、ある晩(ばん)御覧(ごらん)になったお夢(ゆめ)に、体(からだ)じゅうからきらきら金色(こんじき)の光(ひかり)を放(はな)って、なんともいえない貴(とうと)い様子(ようす)をした坊(ぼう)さんが現(あらわ)れて、お妃(きさき)に向(む)かい、
「わたしは人間(にんげん)の苦(くる)しみを救(すく)って、この世(よ)の中を善(よ)くしてやりたいと思(おも)って、はるばる西(にし)の方(ほう)からやって来(き)た者(もの)です。しばらくの間(あいだ)あなたのおなかを借(か)りたいと思(おも)う。」
 といいました。
 お妃(きさき)はびっくりなすって、
「そういう貴(とうと)いお方(かた)が、どうしてわたくしのむさくるしいおなかの中などへお入(はい)りになれましょう。」
 とおっしゃいますと、その坊(ぼう)さんは、
「いや、けっしてその気(き)づかいには及(およ)ばない。」
 と言(い)うが早(はや)いか踊(おど)り上(あ)がって、お妃(きさき)の思(おも)わず開(あ)けた口の中へぽんと跳(と)び込(こ)んでしまったと思(おも)うとお夢(ゆめ)はさめました。
 目(め)がさめて後(のち)お妃(きさき)は、喉(のど)の中に何(なに)か固(かた)くしこるような、玉(たま)でもくくんでいるような、妙(みょう)なお気持(きも)ちでしたが、やがてお身重(みおも)におなりになりました。
 さて翌年(よくねん)の正月元日(しょうがつがんじつ)の朝(あさ)、お妃(きさき)はいつものように御殿(ごてん)の中を歩(ある)きながら、お厩(うまや)の戸口(とぐち)までいらっしゃいますと、にわかにお産気(さんけ)がついて、そこへ安々(やすやす)と美(うつく)しい男(おとこ)の御子(みこ)をお生(う)みおとしになりました。召使(めしつか)いの女官(じょかん)たちは大(おお)さわぎをして、赤(あか)さんの皇子(おうじ)を抱(だ)いて御産屋(おうぶや)へお連(つ)れしますと、御殿(ごてん)の中は急(きゅう)に金色(こんじき)の光(ひかり)でかっと明(あか)るくなりました。そして皇子(おうじ)のお体(からだ)からは、それはそれは不思議(ふしぎ)なかんばしい香(かお)りがぷんぷん立(た)ちました。
 お厩(うまや)の戸(と)の前(まえ)でお生(う)まれになったというので、皇子(おうじ)のお名(な)を厩戸皇子(うまやどのおうじ)と申(もう)し上(あ)げました。後(のち)に皇太子(こうたいし)にお立(た)ちになって、聖徳太子(しょうとくたいし)と申(もう)し上(あ)げるのはこの皇子(おうじ)のことでございます。

     二

 さて太子(たいし)はお生(う)まれになって四月(よつき)めには、もうずんずんお口をお利(き)きになりました。明(あ)くる年(とし)の二月(がつ)十五日(にち)は、お釈迦(しゃか)さまのお亡(な)くなりになった御涅槃(ごねはん)の日でしたが、二歳(さい)になったばかりの太子(たいし)は、かわいらしい両手(りょうて)をお合(あ)わせになり、西(にし)の方(ほう)の空(そら)に向(む)かって、
「南無釈迦仏(なむしゃかぶつ)。」
 とお唱(とな)えになったので、おつきの人たちはみんなびっくりしてしまいました。
 太子(たいし)が六歳(さい)の時(とき)でした。はじめて朝鮮(ちょうせん)の国(くに)から、仏(ほとけ)さまのお経(きょう)をたくさん献上(けんじょう)してまいりました。するとある日(ひ)太子(たいし)は、天子(てんし)さまのお前(まえ)へ出て、
「外国(がいこく)からお経(きょう)がまいったそうでございます。わたくしに読(よ)ませて頂(いただ)きとうございます。」
 とお申(もう)し上(あ)げになりました。
 天皇(てんのう)はびっくりなすって、
「どうしてお前(まえ)にお経(きょう)が分(わ)かるだろう。」
 とおっしゃいますと、太子(たいし)は、
「わたくしはむかしシナの南岳(なんがく)という山に住(す)んでいて、長年(ながねん)仏(ほとけ)の道(みち)を修行(しゅぎょう)いたしました。こんど日本(にほん)の国(くに)に生(う)まれて来(く)ることになりましたから、むかしの通(とお)りまたお経(きょう)を読(よ)んでみたいと思(おも)います。」
 とお答(こた)えになりました。
 天皇(てんのう)ははじめて、なるほど太子(たいし)はそういう貴(とうと)い人の生(う)まれかわりであったのかとお悟(さと)りになって、お経(きょう)を太子(たいし)に下(くだ)さいました。
 太子(たいし)が八歳(さい)の年(とし)でした。新羅(しらぎ)の国(くに)から仏(ほとけ)さまのお姿(すがた)を刻(きざ)んだ像(ぞう)を献上(けんじょう)いたしました。その使者(ししゃ)たちが旅館(りょかん)に泊(とま)っている様子(ようす)を見(み)ようとお思(おも)いになって、太子(たいし)はわざと貧乏人(びんぼうにん)の子供(こども)のようなぼろぼろなお姿(すがた)で、町(まち)の子供(こども)たちの中に交じってお行きになりました。すると新羅(しらぎ)の使者(ししゃ)の中に日羅(にちら)という貴(とうと)い坊(ぼう)さんがおりましたが、きたない童(わらべ)たちの中に太子(たいし)のおいでになるのを目ざとく見付(みつ)けて、
「神(かみ)の子がおいでになる。」
 といって、太子(たいし)に近(ちか)づこうといたしました。太子(たいし)はびっくりして逃(に)げて行こうとなさいました。日羅(にちら)はあわてて履(くつ)もはかず駆(か)け出(だ)してお後(あと)を追(お)いかけました。そして太子(たいし)の前(まえ)の地(じ)びたにぺったりひざをついたままうやうやしく、
「敬礼救世(きょうらいぐぜ)観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)。妙教流通(みょうきょうるづう)東方日本国(とうほうにっぽんこく)。」
 と申(もう)しますと、日羅(にちら)の体(からだ)から光明(こうみょう)がかっと射(さ)しました。そして太子(たいし)の額(ひたい)からは白(しろ)い光(ひかり)がきらりと射(さ)しました。日羅(にちら)の言(い)った言葉(ことば)は、人間(にんげん)の世(よ)の苦(くる)しみを救(すく)って下(くだ)さる観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)に、そしてこの度(たび)東(ひがし)の果(は)ての日本(にほん)の国(くに)の王(おう)さまに生(う)まれて、仏(ほとけ)の教(おし)えをひろめて下(くだ)さるお方(かた)に、つつしんでごあいさつを申(もう)し上(あ)げますという意味(いみ)でございます。
 大きくおなりになると、太子(たいし)は日羅(にちら)の申(もう)し上(あ)げたように、仏(ほとけ)の教(おし)えを日本(にほん)の国中(くにじゅう)におひろめになりました。はじめ外国(がいこく)の教(おし)えだといってきらっていた者(もの)も、太子(たいし)がねっしんに因果応報(いんがおうほう)ということのわけを説(と)いて、
「人間(にんげん)のいのちは一代(だい)だけで終(おわ)るものではない。前(まえ)の世(よ)とこの世(よ)と後(のち)の世(よ)と、三代(だい)もつづいている。だから前(まえ)の世(よ)で悪(わる)いことをすれば、この世(よ)でその報(むく)いがくる。けれどこの世(よ)でいいことをしてその罪(つみ)を償(つぐな)えば、後(のち)の世(よ)にはきっと幸福(こうふく)が報(むく)ってくる。だからだれも仏(ほとけ)さまを信(しん)じて、この世(よ)に生(い)きている間(あいだ)たくさんいいことをしておかなければならない。」
 こうおさとしになりますと、みんな涙(なみだ)をこぼして、太子(たいし)とごいっしょに仏(ほとけ)さまをおがみました。けれど中でわがままな、がんこな人たちがどうしても太子(たいし)のお諭(さと)しに従(したが)おうとしないで、お寺(てら)を焼(や)いたり、仏像(ぶつぞう)をこわしたり、坊(ぼう)さんや尼(あま)さんをぶちたたいてひどいめにあわせたり、いろいろな乱暴(らんぼう)をはたらきました。太子(たいし)はその人たちのすることを見(み)て、深(ふか)いため息(いき)をおつきになりながら、
「しかたがない、悪魔(あくま)を滅(ほろ)ぼす剣(つるぎ)をつかう時(とき)が来(き)た。」
 とおっしゃって、弓矢(ゆみや)と太刀(たち)をお取(と)りになり、身方(みかた)の軍勢(ぐんぜい)のまっ先(さき)に立(た)って勇(いさ)ましく戦(たたか)って、仏(ほとけ)さまの敵(てき)を残(のこ)らず攻(せ)め滅(ほろ)ぼしておしまいになりました。
 こうしてこの太子(たいし)のお力(ちから)で、いろいろの邪魔(じゃま)を払(はら)って、仏(ほとけ)さまのお教(おし)えがずんずんひろまるようになりました。摂津(せっつ)の大阪(おおさか)にある四天王寺(してんのうじ)、大和(やまと)の奈良(なら)に近(ちか)い法隆寺(ほうりゅうじ)などは、みな太子(たいし)のお建(た)てになった古(ふる)い古(ふる)いお寺(てら)でございます。

     三

 太子(たいし)のお徳(とく)がだんだん高(たか)くなるにつれて、いろいろ不思議(ふしぎ)な事(こと)がありました。ある時(とき)甲斐(かい)の国(くに)から四足(そく)の白(しろ)い、真(ま)っ黒(くろ)な小馬(こうま)を一匹(ぴき)朝廷(ちょうてい)に献上(けんじょう)いたしました。太子(たいし)はこの馬(うま)を御覧(ごらん)になると、たいそうお喜(よろこ)びになって、
「この馬(うま)に乗(の)って国中(くにじゅう)を一(ひと)めぐりして来(こ)よう。」
 とおっしゃって、調使丸(ちょうしまる)という召使(めしつか)いの小舎人(ことねり)をくらの後(うし)ろに乗(の)せたまま、馬(うま)の背(せ)に乗(の)って、そのまますうっと空(そら)の上へ飛(と)んでお行(い)きになりました。下界(げかい)では、
「あれ、あれ。」
 といって騒(さわ)いでいるうちに、太子(たいし)はもう大和(やまと)の国原(くにばら)をはるか後(あと)に残(のこ)して、信濃(しなの)の国(くに)から越(こし)の国(くに)へ、越(こし)の国(くに)からさらに東(ひがし)の国々(くにぐに)をすっかりお回(まわ)りになって、三日(みっか)の後(のち)にまた大和(やまと)へお帰(かえ)りになりました。この時(とき)太子(たいし)のお歩(ある)きになった馬(うま)の蹄(ひづめ)の跡(あと)が、国々(くにぐに)の高(たか)い山に今(いま)でも残(のこ)っているのでございます。
 またある時(とき)、太子(たいし)は天子(てんし)さまの御前(ごぜん)で、勝鬘経(しょうまんきょう)というお経(きょう)の講釈(こうしゃく)をおはじめになって、ちょうど三日(みっか)めにお経(きょう)がすむと、空(そら)の上から三尺(じゃく)も幅(はば)のあるきれいな蓮花(れんげ)が降(ふ)って来(き)て、やがて地(ち)の上に四尺(しゃく)も高(たか)く積(つも)りました。その蓮花(れんげ)を明(あ)くる朝(あさ)天子(てんし)さまが御覧(ごらん)になって、そこに橘寺(たちばなでら)というお寺(てら)をお立(た)てになりました。
 またある時(とき)、日本(にほん)の国(くに)からシナの国(くに)へ、小野妹子(おののいもこ)という人をお使(つか)いにやることになりました。その時(とき)太子(たいし)は妹子(いもこ)に向(む)かい、
「シナの衡山(こうざん)という山の上のお寺(てら)は、むかしわたしが住(す)んでいた所(ところ)だ。その時分(じぶん)いっしょにいた僧(そう)たちはたいてい死(し)んだが、まだ三人(にん)は残(のこ)っているはずだから、そこへ行って、むかしわたしが始終(しじゅう)つかっていた法華経(ほけきょう)の本(ほん)をさがして持(も)って来(き)ておくれ。」
 とおっしゃいました。
 妹子(いもこ)はおいいつけの通(とお)り、シナへ渡(わた)るとさっそく、衡山(こうざん)という所(ところ)へたずねて行きました。そしてその山の上のお寺(てら)へ行くと、門(もん)に一人(ひとり)の小坊主(こぼうず)が立(た)っていました。妹子(いもこ)がこうこういう者(もの)だといって案内(あんない)をたのみますと、小坊主(こぼうず)はもう前(まえ)から知(し)っているといったように、
「和尚(おしょう)さん、和尚(おしょう)さん、思禅法師(しぜんほうし)のお使(つか)いがおいでになりましたよ。」
 といいました。するとお寺(てら)の中から腰(こし)の曲(ま)がったおじいさんの坊(ぼう)さんが三人(にん)、ことこと杖(つえ)をつきながら、さもうれしそうにやって来(き)て、太子(たいし)の御様子(ごようす)をたずねるやら、昔話(むかしばなし)をするやらしたあとで、妹子(いもこ)のいうままに、一巻(かん)の古(ふる)い法華経(ほけきょう)を出(だ)して渡(わた)しました。妹子(いもこ)はそれを持(も)って、日本(にほん)へ帰(かえ)ったということです。

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