秘密は解けたり!
そうして林の一方には、周囲五町もある大古沼が、葦だの萱だのに岸を茂らせ、水面に浮藻や落葉を浮かべ、曇った鏡のように月光に光り、楕円形に広がっていた。そうして沼の中央に在る、岩で出来ている小さい島の、岩の頂にある小さい祠が、鳥の形に見えていた。 でも人影はどこにもなかった。失望して頼母は佇んだ。 と、又もや歌声が、行手の方から聞こえてきた。 (さてはむこうか)と頼母は喜び、跫音を忍ばせてそっちへ走った。 茨と灌木と蔓草とで出来た、小丘のような藪があったが、その藪の向こう側から、男女の話し声が聞こえてきた。 (さては?)と頼母は胸をドキつかせ、藪の横から向こう側を覗いた。 一人の娘と一人の老人とが、草に坐りながら話していた。 老人は白髪白髯の、神々しいような人物であったが、しかしそれは一向見知らない人物であった。しかし、女の方はお八重であった。田安中納言家の腰元で、そうして自分が想いを懸けた、その美しいお八重であった。 (これは一体どうしたことだ。こんな深夜にこんな所に、お八重などがいようとは?) 夢に夢見る心持で、頼母は一刹那ぼんやりしてしまった。 しかし、老人の膝の側に、龕燈が一個置いてあり、その龕燈の光に照らされ、淀屋の独楽に相違ない独楽が、地上に廻っているのを眼に入れると、頼母は俄然正気づいた。 (独楽がある! 淀屋の独楽が! 三つ目の独楽に相違ない!) この時老人が話し出した。 「ね、この独楽へ現われる文字は『真昼頃』という三つの文字と『背後北、左は東、右は西なり』という、十一文字の外にはない。……もう一つの独楽に現われて来るところの『見る日は南』という五つの文字へ、この独楽へ現われた文字を差し加えると「真昼頃、見る日は南、背後北、左は東、右は西なり」という、一首の和歌になるのだよ。……そうしてこの和歌は古歌の一つで、方角を教えた和歌なのさ。広野か海などをさまよって、不幸にも方角を失った際、それが真昼であったなら、先ず太陽を見るがよい。太陽は南にかかっているであろう。だから背後は北にあたり、左は東、右は西にあたる。――ただこういう意味なのだよ」 「でも、そんな和歌が淀屋の財宝と、どんな関係があるのでございます?」と好奇心で眼を輝かせながら、お八重は息をはずませて訊いた。 「淀屋の財宝の所在が、この和歌の中に詠まれているのだよ。……太陽を仰いでいる人間の位置は、東西南北の中央にある。その人間の位置にあたる所に、淀屋の財宝が隠されてあるのさ」 「ではどこかの中央に?」 「この屋敷の中央に?」 「この屋敷の中央とは?」 「荏原屋敷は大昔においては、沼を中央にして作られていたものさ」 「まア、では、財宝は古沼の中に?」 「沼の中央は岩の小島なのさ」 「まア、では、沼の小島の内に?」 「小島の中央は祠なのだ」 「では淀屋の財宝は祠の中に隠されてあるのね」 「そうだ」と老人は感慨深そうに云った。 「そうしてそのことを知っている者は、荏原屋敷の先代の主人と、この飛加藤の亜流だけなのさ。そうしてそのことを記してあったのは、三つの淀屋の独楽だけだったのさ。その独楽は以前には三つながら、荏原屋敷にあったのさ。ところがいつの間にか三つながら、荏原屋敷から失われてしまった。だがその中の一つだけは、ずっとわしが持っていた。……それにしても淀屋の独楽を巡って、幾十人の者が長の年月、悲劇や喜劇を起こしたことか。……でも、いよいよ淀屋の独楽が、一所に集まる時期が来た。……お八重、わしに従いておいで。淀屋の財宝の莫大な額を、親しくお前の眼に見せてあげよう」 地上の独楽を懐中に納め、龕燈を取り上げて飛加藤の亜流は、やおら草から立ち上った。 お八重もつづいて立ち上ったが、 「でも叔父様、船もないのに、沼を渡って、どうして小島へ……」
因果応報
「ナーニ、わしは飛加藤の亜流だよ。どんなことでも出来る人間だよ。そうしてわしに従いてさえ来れば、お前もどんなことでも出来るのだよ。……沼を渡って行くことなども……」 二人は沼の方へ歩いて行った。 藪の陰に佇んで、見聞きしていた頼母は太い息を吐き、 「さてはそういう事情だったのか」と声に出して呟いた。 (淀屋の独楽の隠語は解けた。淀屋の財宝の在場所も知れた) このことは頼母には有り難かったが、飛加藤の亜流とお八重とが揃って、財宝の所在地へ行くということが、どうにも不安でならなかった。 (財宝を二人に持ち出されては、これまでの苦心も水の泡だ) こう思われるからであった。 (俺も沼の中の島へ行こう) ――頼母は飛加藤の亜流の後を追い、沼の方へ小走った。 頼母が沼の縁へ行きついた時、彼の眼に不思議な光景が見えた。 月光に薄光っている沼の上を、飛加藤の亜流という老人が、植木師風のお八重を連れ、まるで平地でも歩くように、悠々と歩いて行くのであった。重なっていた浮藻が左右に別れ、水に浮いて眠っていた鴨の群が、これも左右に別れるのさえ見えた。 (水も泥も深い沼だのに、どうして歩いて行けるのだろう?) 超自然的の行動ではなくて、水中に堤防が作られていて、陸からはそれが見えなかったが、飛加藤の亜流には解っていたので、それを渡って行ったまでである。しかし頼母には解っていなかったので、呆然佇んで見ていたが、 (そうだ、飛加藤の亜流には、出来ないことはないはずだった。水を渡ることなど何でもないのだろう。……飛加藤の亜流にさえ従いて行けば、こっちの身も沼を渡れるだろう) 頼母は沼の中へ入って行った。 しかし数間とは歩けなかった。水が首まで彼を呑んだ。蛭、長虫が彼を目指し、四方八方から泳ぎ寄って来た。 「助けてくれーッ」と悲鳴を上げ、頼母は岸へ帰ろうとした。 しかし深い泥が彼の足を捉え、彼を底の方へ引き込んだ。 突然彼の姿が見えなくなり、彼の姿の消えた辺りへ、泡と渦巻とが現われた。 と、ふいにその水面へ、一つの独楽が浮かび上った。頼母の持っていた独楽であって、水底に沈んだ彼の懐中から、水の面へ現われたのであった。独楽にも長虫はからみ付いていた。そうしてその虫は島を指して泳いだ。飛加藤の亜流とお八重との姿が、その島の岸に立っていた。そっちへ独楽は引かれて行く。
閉扉の館の二階では、なお血闘が行なわれていた。頼母の家来の数名の者が、死骸となって転がっていた。 髪を乱し襟を拡げ、返り血を浴びた主税がその間に立ち、血にぬれた刀を中段に構え、開いている雨戸から射し込んでいる月光に、姿を仄かに見せていた。 その背後に息を呑み、あやめとお葉とが立っていた。二人の女の持っている刀も、ヌラヌラと血にぬれていた。そうして二人の女の裾には、ほとんど正気を失ったところの、松女が倒れて蠢いていた。 階段の下からは罵る声や怒声が、怯かすように聞こえてくる。 しかし登っては来なかった。 これ迄に登って行った者一人として、帰って来る者がないからであった。決死の主税に一人のこらず、二階で討って取られたからであった。 しかしにわかにその階下から、主馬之進の声が聞こえてきた。 「お松、お松、お松は二階か! 心配するな、俺が行く!」 つづいて勘兵衛の声が聞こえる。 「旦那、あぶねえ、まアお待ちなすって! ……とてもあぶねえ、うかつには行けねえ! ……行くなら皆で、みんなで行きやしょう! ……覚兵衛殿、覚兵衛殿、あんたが真先に!」 しかし飛田林覚兵衛の声は、それに対して何とも答えなかった。 「お松、お松!」と主馬之進の声が、また悲痛に聞こえてきた。 「すぐ行くぞよ、しっかりしてくれ!」 「勘兵衛放せ、えい馬鹿者!」 つづいて階段を駆け上る音がし、階段口を睨んでいる主税の眼に、主馬之進の狂気じみた姿が映った。 「…………」
人々の運命
(来たな!)と主税は雀躍したが、相手を身近く引寄せようとして、かえって部屋の隅へ退いた。 「あなた!」とさながら巾を裂くような声で、倒れている松女が叫んだのは、主馬之進が階段を上り尽くし、二階へ現われた時であった。 「お松!」と叫んで蹣跚々々、主馬之進はお松の方へ走り寄った。 「…………」 「…………」 が、その瞬間あやめとお葉とが、左右から飛鳥のように躍りかかり、 「お父様の敵!」とあやめは叫び、脇差で主馬之進の胸を突くと、 「お父様の敵!」とお葉も叫び、主馬之進の脇腹を匕首で刺した。 グタグタと主馬之進は仆たれが、必死の声を絞って叫んだ。 「ま、待ってくれ! 少し待ってくれ! どうせ殺されて死んでゆく俺、殺されるのは恐れないが、それ前にお松へ云いたいことがある! それも懺悔だ、お松へのお礼だ! ……おおおおお松、よくまアこれまで、貞女を保ってくらして来たなア。……俺と夫婦にはなったものの、拒んで拒んで拒みとおして、俺とは一度の枕も交わさず、よくまア貞操を立て通したものだ! ……そのため俺はどんなに怒り、どんなに苦しみ苦しんだことか! ……しかし今になって考えてみれば、けっきょくお前が偉かったのだ! ……俺はただ名ばかりの良人として、荏原屋敷の格と財産とを、今日まで守護して来たばかりだった。……」 「主馬之進殿オーッ」 松女は松女で、主馬之進へ取り縋り、 「あなたが御兄上の頼母様ともども、わたくしの家へ接近なされ、先代の主人わたくしの良人と、何くれとなく懇意になされ、やがては荏原屋敷の家政へまで、立ち入るようになりましたので、苦々しく思っておりましたところ、わたくし良人の申しますには『わしはもう長の病気、余命わずかと覚悟しておる。わがなき後はこの大家族の、荏原屋敷を切り廻してゆくこと、女のお前ではとうてい出来ない。幸い主馬之進殿そなたに対し、愛情を感じておるらしく、それに主馬之進殿の兄上は、田安家の奥家老で権勢家、かたがた都合がよいによって、俺の死んだ後は主馬之進殿と、夫婦になって荏原屋敷を守れ』と……その時妾はどんなに悲しく『いいえ妾はあなたの妻、あなたがおなくなりなさいました後は、有髪の尼の心持で、あなた様のご冥福をお祈りし』『それでは屋敷は滅びるぞ! 先祖に対して相済まぬ!』『では妾は形ばかり主馬之進様の妻となり……』こうして妾は良人の死後……」 「その御先代の死態だが……」 いよいよ迫る死の息の下で、主馬之進は云いついだ。 「変死、怪死、他殺の死と、人々によって噂され、それに相違なかったが、しかし決してこの主馬之進が、手をくだして殺したのでもなく、他人にすすめて殺したのでもない! ……わしの僕のあの勘兵衛、わしがこの家へ住み込ませたが、性来まことにかるはずみの男、勝手にわしの心持を……わしが先代のこの屋敷の主人の、死ぬのを希望んでいるものと推し、古沼から毒ある長虫を捕り、先代の病床へ投げ込んで……」 しかしこれ以上断末魔の彼には、言葉を出すことが出来なくなったらしい、両手で虚空を握むかと見えたが、体をのばして動かなくなった。 「あやめよ、お葉よ、二人の娘よ!」と、これは精神の過労から、死相を呈して来た松女は叫んだ。 「お前たちの母は、荏原屋敷の主婦は、おおおお決してお前たちの、思い込んでいたような悪女でないこと……お解りかお解りか! ……なき良人の遺言を守って、家のためにこの身を苦しめ……でも、もう妾は生きていたくない! ……可哀そうな主馬様の後を追い……」 「お母様アーッ」 「お母様アーッ」 意外の事の真相に、心を顛動させた二人の娘は、左右から母へすがりついた。 「そうとは知らずお母様を怨み……」 「そうとは知らず主馬之進殿を殺し……」 「わたしたちこそどうしよう!」 「お母様アーッ」 「主馬之進様アーッ」 「いやいや」と、本当に最後の息で、主馬之進は言葉を発した。 「やっぱりわしは殺されていい男……荏原屋敷を横領し、隠されてある淀屋の財宝を、ウ、奪おう、ト、取ろうと……殺されていい身じゃ殺されていい身じゃ」 まったく息が絶えてしまった。 途端に松女もガックリとなった。 この時階段の上り口から、勘兵衛の狼狽した喚き声が聞こえた。 「不可ねえ、殺れた、旦那が殺れた! ……オ、奥様も死んだらしいわ――ッ」 バタバタと階段から駈け下りる音が、けたたましく聞こえてきた。 しかし、その音は中途で止んで、呻き声が聞こえてきた。見れば階段の中央の辺りに、勘兵衛の体が延びていた。 紐が首に捲き付いている。 そうしてその紐は手繰られて、勘兵衛の体は階段を辷って、二階の方へ上って行った。紐を手繰っているのはあやめであった。 「古沼から蝮を捕らえて来て、この座敷へ投げ入れて、直々お父様を殺した汝! 今度こそ遁さぬくたばれくたばれ!」 勘兵衛の体が二階へ上るや、あやめは勘兵衛に引導を渡し、脇差で勘兵衛の咽喉をえぐった。 ある時は主馬之進の若党となり、ある時は見世物の太夫元となり、ある時は荏原屋敷の僕となり、又ある時は松浦頼母の用心棒めいた家来となって、悪事をつくした執念深い、一面道化た勘兵衛も、今度こそ本当に殺されたのであった。
なお階下にいる敵の輩下を、討って取ろうと主税[#「主税」は底本では「主悦」]やあやめ達が、二階から階下へ駈け下りるや、飛田林覚兵衛が先ず逃走し、その他の者共一人残らず、屋敷から逃げ出し姿を消してしまった。 こうして今までは修羅の巷として、叫喚と悲鳴とで充たされていた屋敷は、静寂の場と化してしまった。わけてもあけずの館の二階は、無数の死骸を抱いたまま凄じい静かさに包まれていた。 と、その部屋へ雨戸の隙から、子供のような物が飛び込んで来た。 それは藤八猿であった。 乱闘の際に懐中から落とした、主税[#「主税」は底本では「主悦」]の持っていた淀屋の独楽が、部屋の片隅にころがっているのへ、その藤八猿は眼を付けると、それを抱いて部屋を飛び出し、雨戸の隙から庭へ下り、さらに林の中へ走り込んだ。 でも古沼の縁まで来た時、その独楽にも飽きたと見え、沼を目掛けて投げ込んだ。 と独楽は自ずと動いて、小島の方へ進んで行った。飛加藤の亜流が超自然の力で、独楽を島の方へ招いたのでもあろうか。いややはり長虫が巻き付いていて、島の方へ泳いで行ったからである。
お八重よりも一層生死を共にし、苦難に苦難を重ねたところの、あやめと主税[#「主税」は底本では「主悦」]とは夫婦になり、一旦は辛労で気絶したものの、息吹き返した貞婦の松女や、妹娘のお葉と一緒に、荏原屋敷に住むようになったのは、それから間もなくのことであり、そういう事実をさぐり知り、主税[#「主税」は底本では「主悦」]との恋を断念したお八重は、父の許秩父の山中へも帰らず、飛加藤の亜流の弟子となり、飛加藤の亜流に従って、世人を説き廻ったということである。 淀屋の財宝はどうなったか? 一つに集まった独楽と一緒に、いぜんとして古沼の島の中にあるか、飛加藤の亜流やお八重の手により、他の場所へ移されたか? 謎はいまだに謎として、飛加藤の亜流とお八重以外には、知る者一人もないのであった。しかし飛加藤の亜流の教義が、その後ますます隆盛になり、善人に対し善事に対し、飛加藤の亜流は惜気もなく、多額の金子を与えたというから、淀屋の財宝はその方面に、浄財としてあるいは使われたのかもしれない。 松女がその後有髪の尼として、清浄の生活を継続し、良人や主馬之進をとむらいながら、主税[#「主税」は底本では「主悦」]夫婦やお葉によって孝養されたということや、お葉が良縁を求めながら、その優しい心持から、藤八猿を可愛がり、いつまでも手放さなかったというようなことは、あえて贅言する必要はあるまい。
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