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沙漠の古都(さばくのこと)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-2 7:36:09 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


        十五

 私はその像を見ているうちに、誰の銅像だか解って来た。すなわちそれは既に死んだ袁世凱の像である。どういう訳で袁爺えんやの像が、ここに置かれてあるのだろうかと、私はしばらく考えて見たが、それの解ろう道理がない。袁爺の像はここばかりでなく、十字形をなした長廊下のその真ん中にも置いてあった。廊下の真ん中に置いてある袁爺の像を発見みつける前に、私は奇怪な地下の館の、あらゆる場所を見歩いたのであった。蜘蛛手くもでに延びている無数の廊下! 廊下の左右には室の扉がズラリと一列に並んでいた。私は室の扉を叩いて見た。誰も中から返辞をしない。返辞こそしないが室の中には沢山の人達がいると見えて、賑やかな声が聞こえていた。しかも賑やかなその声は、何かに酔ってでもいるように、濁った、だらしのない喉音こうおんである。
 それから私は尚懲りずに、二、三の室の扉を叩いて見たがやっぱり返辞をするものがない。濁った、だらしのない、喉音だけがガヤガヤ聞こえて来るばかりである。一つの室からはハッキリとうたを唄うのが聞こえて来た。

古木天を侵して日已に沈む
天下の英雄寧ろ幾人ぞ
此の閣何人か是れ主人
巨魁来巨魁来巨魁来

「あの詩をうたっているんだな」
 私は別に気にもかけず、先へズンズン歩いて行った。そして廊下の十字路のその中央に置いてある袁爺の銅像の前まで来て、像を見上げて佇んだ。
 すると、忽然と、像の影から、一人の支那人があらわれた。見れば、意外にも、その男は、金雀子街で姿を見せた、穢い年寄りの苦力クーリーであった。今日もやっぱり酔っている。ヒョロヒョロとあぶなそうに歩いている。
「おや!」
 と、私は仰山に、驚きの声を洩らしたのである。しかし老人は見向きもせず、右の方へユラユラと行きかけたが、その時、またも、囁いた。
「ズンズン行くがいいぞ! 張教仁! 左へ左へ左へとな! 突き当りのとばりをかかげるがいい……」
 云ってしまうと、老苦力は銅像の影へ身を寄せた。ともうどこへ行ったものか、どう見ても姿は見えなかった。
 冒険を覚悟のこの私は、苦力の言葉に従って、左へ左へ左へと、足を早めて歩いて行った。二十分あまりも歩いた時、長い廊下が行き詰まり、そこに一つの室があった。しかも扉は半ば開き、内側に垂れた錦繍の帳の色さえ見分けられた。私は少しの躊躇もせず、グッと帳をかかげると共に、室へスルリとはいったのである。
 ああ、夢のような室のさまよ!
 ほんとに夢のような小さい室! その室を仄かにかおらせるものは、甘い阿片アヘンの匂いである。室を朦朧と照らしているのは、薄紫の燈火である。それは天井から来るらしい。天井から来る薄紫の燈火の光に照らし出されて、幽かに見える一つの寝台。白衣の乙女がその上で、のどかに阿片を飲んでいる。
 乙女の顔を見た時の、私の驚きと喜びとは、筆にも言葉にも尽くされない。乙女は尋ねる紅玉エルビーであった。……私は寝台に走り寄った。そして紅玉エルビーを抱きしめた。
「お前は紅玉エルビー! ああ紅玉エルビー!」
 私の洩らした言葉と言えば、たった二言のこれだけであった。これだけを洩らすと私の眼から滝のように涙が流れ出た。
 すると、彼女は――紅玉エルビーは、眠げにその眼をひらいたが、私の顔をじっと見て、そして異様に微笑した。それからまたも眼を閉じたが、やがて静かに語り出した。夢見るようなその言葉つき……。
「……私あなたを知っています。張教仁さんね。そうでしょう……かすかに覚えておりますわ。沙漠であなたと逢ったことも! そして、そうそう、金雀子街で不意にあなたと別れたことも――遠い遠い昔のことよ! 五年も十年も二十年も――そして私はその頃は、あなたを愛しておりましたわ! そして、あなたも、私をね……でももう駄目よ! そうでしょう! 私は他人の物ですもの。ですから二人は諦めて赤の他人になりましょうね……泣いては厭よ、ねえあなたや……それよりも阿片でも飲みましょうよ。阿片を飲んで、飲んで、飲んで、涙を忘れましょうね」
紅玉エルビー! 紅玉エルビー! ああ紅玉エルビー! お前は阿片に酔っているよ! お前の本心は麻痺している! それとも本当に無垢のお前を、穢した人間があるというなら、そいつを私に明かしておくれ! そうだ、そいつを明かしておくれ!」
 私はほとんど半狂乱のうろうろ声で云い迫った。
 しかし紅玉エルビーはそう云われても、尚譫言うわごとをつづけるのであった。

        十六

「きっとあなたは知っていらっしゃるわね。近頃北京ペキンから田舎まで、妙なうた流行はやっているでしょう。あの詩の意味を知っていて? 『古木天を侵して日已に沈む』こう真っ先にあるでしょう。あの意味はこうよ、こうなのよ――天のように偉かった支那の国に、古い大木が蔓延はびこって、支那の国を蔽うたので、日光を透すことが出来なかった。そのうちにその日が沈んでしまった。つまり日というのは文明のことよ……『天下の英雄寧ろ幾人ぞ』こうその次にあるでしょう。この意味は読んで字の通りよ。つまりそうなった支那の国には、英雄などというものは、一人もないと云っているんだわ。『此の閣何人か是れ主人』これが三番目の文句ですわね。閣というのは他でもない、地下に出来ている館のことよ。私達のいるここのことよ。そうしてここは阿片窟よ。阿片窟ではあるけれど、同時にここは秘密結社の一番大事な本部なのよ。こういうとあなたは訊くでしょう。いったい何の秘密結社かってね。私教えてあげますわ。世界征服を心掛けている恐ろしい秘密の結社ですの……そして結社の首領というのは――そうよ、結社の首領というのは、大変偉い人ですの、私をここへ呼び寄せたのも秘密結社のその首領よ――そして私はその人に、愛情を捧げておりますの!」
「いったいそいつは何者だ! いったいそいつはどこにいる!」私は思わず怒鳴りつけた。それほど紅玉エルビー譫言うわごとは私の心を傷つけたのであった。
 すると彼女は同じ調子で、私にそれを物語った。
「あなたはその人を知っている筈よ。少くもあなたはその人の銅像を知っている筈よ」
「銅像だって※(感嘆符疑問符、1-8-78) どんな銅像?」
「廊下に立っていたでしょう」
「あれは袁世凱の銅像だ!」
「昔はそういう名でしたわね」
「袁世凱は、とうの昔、この世から死んでしまった筈だ!」
「世人はそう云っていますけれど、ほんとは生きているのですよ」
「夢だ夢だ! くだらない、夢だ!」
「いいえそんな事はありません! いいえそんな事はありませんわ!」
 私は怒って烈しい声で、紅玉エルビーを叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)しようとしたが、しかしそれは不可能であった。何ぜかというにその一刹那、遙かに遠く警笛の音が地下室の静寂を破ったからで。続いて二笛! また三笛! 忽ちどよめく声がする。怒声、哀願、女の泣き声……それから拳銃の鋭い音! 剣の鞘のガチャつく音! 警官が襲い込んだらしい。
 私は一言も物を云わず、紅玉エルビーを肩に引っ担いだ。それから室を走り出た。長い廊下を一散に、右へ左へ走り廻る。カッと燃え上がる火の光が、行手の廊下をふさいでいる。地下室は焔々と燃えているらしい。煙りに咽せて私は思わず廊下へ倒れようとした。その時私を呼ぶ者がある。
「左手の壁のボタンを押せ! そこから上へ登って行け! 躊躇せず走れ張教仁!」
 私はハッと刎ね起きて、声のする方へ眼をやった。煙りに包まれ火を踏んで、一人の支那人が立っている。両手に二挺の拳銃をもち、正面を睨んだその姿! それは意外にも金雀子街と、銅像の前とで邂逅した、穢い老人の苦力クーリーであった。しかし姿は苦力であるが、付け髯と付け眉とをかなぐり棄てた、生地きじの容貌をよく見れば、思いきや、それは、羅布ロブの沙漠で、私が裏切って捨てて逃げた、西班牙スペインの花形、ラシイヌ大探偵! 私に何んの言葉があろう! ただもう恥じ入るばかりである。やにわに私は頓首した。それから左手の壁を見た。はたしてボタンが一つある。そいつを押すと、壁の一部が、そのまま一つの扉となり、ギーと内側へ開いた隙から、紅玉エルビーを抱えて飛び込むと、扉はハタと閉ざされた。
 暗中にかかった階段を、私は紅玉エルビーを抱えたまま、上へと、命の限りに登って行った。
 こうして階段を行き尽くし、ようやく地上へ出て見れば、そこは案外にも金雀子街の、他人の家の庭の空井戸であった。そしてもう夜は明けていた。……(備忘録終り――)

 その翌日のことである。中華民国警務庁の、保安課の室に十四、五人のかなり重大な人々が、ラシイヌ探偵を取り囲んで、じっと話に聞き惚れていた。
「……まあそう云った塩梅あんばいで、いろいろ研究をした結果、形の見えない何者かが形の見えない糸をもって引っ張って行くという、その事実は、催眠術に過ぎないと、このように目星をつけてからは、その方針で進みました。ところがはたしてある晩のこと、金雀子街を歩いていると、貴公子風の支那青年と、土耳古トルコ美人とが月に浮かれて、向こうから歩いて来ましたが、二人のうちのどっちかが暗示状態に落ち入っていると、早くも私は見て取ったので、何気なく警告を与えました。それというのも、その貴公子を私が知っていましたからで。するとはたして土耳古トルコ美人が、ものの三十歩ほども歩いた頃、例の調子で、例のように、走り出したというものです。驚いて貴公子は追って行く。もちろん私も追って行く。貴公子は中途で倒れましたが私は最後まで追いかけました。するとどうでしょうその美人は、北京ペキン中散々駈け廻った後、やっぱり同じ金雀子街へ帰って来たじゃありませんか。そうして、その街の街端れの、陶器工場の廃屋の中へ走り込んだという訳です。私もそこまで行きました。忽ち地上へ穴が開く、地下室へ通う階段がある、それを二人は下りました。すると恐ろしく広い立派な阿片窟へ来たというものです。私はいろいろ調べました。その阿片窟の設計図さえ私は手に入れたというものです。そして阿片窟の経営者が誰であるかを突き止めました。袁更生という男です。そして自分では袁世凱の後身だと云っているのです。そして世界の各国へ阿片窟の支部を設立し、世界中の人間を堕落させて、そして自分が全世界を征服するのだなどと高言して、愚民をたぶらかしていたそうです。それほど大がかりの阿片窟が、どうして今日まで知れなかったかというに阿片窟へ出入りする人間を、よく吟味して加入させたからで、今云った首領の袁更生が例の催眠術で誘拐して来ても、途中でその人間の強弱を試し、臆病な奴はそのまま途中で、自己催眠で自殺させ、街路で容捨なく捨ててしまい、大胆な者だけを連れて来たので、秘密が保たれていたのです」
 ラシイヌ探偵は云ってしまうと、葉巻を出して火を点けて、さも旨そうにふかし出した。
「残念な事には」とラシイヌはちょっと片眼をひそめたが、「かんじんの首領の袁更生だけを、まんまと取り逃がしてしまったので、こいつは私の失敗でした」
 こう云ってニヤリと苦笑した。

    第四回 上海夜話


        十七

 上海シャンハイ、英租界の大道路、南京路ナンキンルー中央なかほどのイングランド旅館ホテルの一室で、ラシイヌ探偵と彼の友の「描かざる画家」のダンチョンと葉巻シガーを吹かしながら話している。
「……ほほう、そんなに美人かね。ところで君はその美人をモデルにしたいとでも云うのかね。モデルにするのもいいけれど、これまでの君の態度を見れば、どんなに良いモデルがあったところで、『描かざる画家』ダンチョンたる君は、それを描かないんだからつまらないよ。それとも今度からは描くのかね?」
「それはもちろん描きますとも。あんな素晴らしい美人がですね、モデル台の上へ立ってくれたら、自然とブラシだって動きますよ」
「美人美人と云うけれど、君の言葉を聞いていれば、美人は面紗ヴェールに隠れていて、顔を見せないって云うじゃないか」
「顔は一度も見ませんけれど、美人であるということはその体付きで解ります。飛び離れて優秀すぐれたあの体には、飛び離れて美しい容貌が着いていなければ嘘と云うものですよ。美人に相違ありませんな」
「なるほど、君は画家だから、そういうことには詳しいだろう。ところで素晴らしいその美人が君に手紙を手渡したというが、少し変だとは思わないかね?」
「無論変だと思います。つまり変だと思えばこそ、あなたにお話したのですが……」
「君の様子をおかしいと見て僕が質問したればこそ、君はその事を打ち明けたので、そうでなければ、君は黙って、美人の手紙に誘惑されて今夜一人で公園の音楽堂へ行ったに相違ないよ。全く今日の君の様子は、変梃へんてこと云わざるを得なかったよ。蛮的の君がお洒落しゃれをする。頭髪かみを香油で撫でつけるやら、ハンカチへ香水をしめすやら、そしてむやみにソワソワして腕時計ばかり気にしている。正気の沙汰じゃなかったね……平素ふだんの日ならそれでもいいさ。君も充分知っている通り、埋もれた宝庫たからを尋ねようと、西域の沙漠を横断して支那の首府まで来て見れば、一行での一番大事な人のマハラヤナ博士が風土病にかかって北京ペキンから一歩も出ることが出来ず、それの看病をしているうちに、北京警務庁に頼まれて、袁更生の事件に関係して、むだに日数を費してしまった。それでもようやく博士の病気が曲がりなりにも癒ったので、陸路を上海シャンハイまで来たところで博士がまたも悪くなった。それもようやく恢復したので、明日はいよいよ南洋を指して出帆という瀬戸際じゃないか。そいつを君にソワ付かれちゃ、誰だって質問かずにゃいられないよ。訊いたからこそ話したのさ。君が進んで自分から、僕に話したんじゃない筈だよ」
 こう云うラシイヌの口もとにはさすがに微笑が漂ってはいるが、鋭いその眼には非難の光がギラギラ輝いているのであった。
 ダンチョンは次第に首を垂れ、小児こどものように頬を赭らめ、いつまでも無言で聞いていたが、この時フッと眼を上げた。その眼にはいかにも困ったような、嘆願の表情が浮かんでいて、それが滑稽で無邪気なので、ラシイヌは思わず笑いかけた。それを危く取り留め彼は厳然と云い渡した。
「それでは君はその別嬪べっぴんが、手紙で君に指定した通り、今夜公園の音楽堂へ音楽を聞きに行きたまえ。しかし一人では行かせないよ。もちろん見え隠れではあるけれど、僕も一緒に行くことにしよう。そうして君がその美人を、モデルに頼むことに成功するか、それとも美人が君を捕らえて、逆さに釣るして泥を吐かせるか、恋の争闘を見ることにしよう。こいつはとんだ見世物だよ」
 ラシイヌは云って立ち上がった。
「たしか音楽の始まるのは午後八時からだということだね。それまでは君も辛棒して、博士の室へでも行っていて、八時になったら出て行くさ。それまでに僕も僕の用を片付けて置くことにしようかね。もっとも僕の用というのは、街をブラツクことだけれど」
 ラシイヌは室を出て行った。それから彼はホテルを出て、県城指して歩いて行った。

        十八

 あるいは「東洋の紐育ニュウヨーク」もしくは「東洋の桑港サンフランシスコ」――こう呼ばれている上海シャンハイも、昔ながらの支那街としての県城城内へ足を入れれば、腐敗と臭気と汚穢おわいとが、道路そとにも屋内うちにも充ち満ちていて、鋭い神経を持った人は近寄ることさえ忌み嫌った。
 そういう不潔の城内を差してラシイヌは歩いて行くのであった。しかしラシイヌは目的地へすぐに行こうとはしなかった。彼は自分のいる英租界を、黄浦河に沿って悠々と、仏租界の方へ歩いて行った。彼の道順には租界中での一番賑やかな街筋が――すなわち黄浦河の岸上のまちと、蘇州渓の街とが軒を並べ、街路整斉と立っている。街には人が出盛っていた。馬車、自動車は鈴を鳴らし、広い車道をはしって行く。三層五層の大厦の窓は、ことごとく扉を開け放され忙しそうに働く店員達の小綺麗な姿が見えている。上海棉花公司とか、広徳泰れき花廠とか、難解の文字の金看板が、家々の軒にかかっていて、夕陽にピカピカ光っている。九江路キウキャンルーを右に曲がり、福建路フウキンルーを行き尽くし、それから初めて仏租界へ、ラシイヌはゆっくり足を入れた。
 英租界の繁華に比較しては、仏租界の方はやや寂しく、その代り上品で粋であった。紳士と連れ立った淑女達や、大きな金剛石ダイヤの指輪を飾った俳優じみた青年や、翡翠ひすいの帽子を戴いて、靴先に珠玉たまをちりばめた貴婦人などの散歩するのに似つかわしい街の姿である。
 ラシイヌは静かに歩きながらも、左右に鋭く眼を配って、全身の注意を耳にあつめ、ある唄声を聞こうとした。しかし唄声は聞こえない。足音や話し声や笑い声や、器物の動く音などは、行く先々で聞こえてはいたが、聞こうと願う唄はどこからも聞こえては来なかった。ラシイヌは仏租界を歩き尽くし、しばらくそこで躊躇したが、やがてグルリと大迂回をして米租界の中へ進んで行った。
 仏租界ほどの品もなく、英租界だけの規律もなく、ただ米租界は紛然として、繁昌[#「繁昌」は底本では「繁晶」]を通り越して騒がしかった。街々を歩いている人々には、印度インド人もあれば、土耳古トルコ人もある。煙草たばこばかり吹かしている洪牙利ハンガリー人や、顔色の黒いヌビヤ人や、身長せいの高くない日本人や、喧嘩早い墨西哥メキシコの商人などが、黄金かねの威力に圧迫され、血眼ちまなこになって歩いている。各国の領事館や銀行の立派な建築たてものが街々に並び、倉庫、桟橋、郵便局などが、到る所に並んでいる。上海の本当の持ち主の支那の商人は米租界でも最も狡猾なるあきゅうどとしてどこへ行ってもうよついている。
 ラシイヌはゆるゆる歩きながら、左右の光景を眼で眺め、湧き起こる音響を耳で聞き、先へ先へ進んで行った。
 しかしやっぱり聞きたいと願う、その唄声は聞こえなかった。こうして彼は米租界をも、失望をもって通り過ぎた。そして今度は足を早めて、いよいよ目的の県城の方へ、彼はズンズン進んで行った。
 まちは次第に寂しくなる。そして道路の不潔さは、ラシイヌの眼をひそめさせる。
 城内と城外とを距てている城壁の前まで来た時に、いつもながら彼は感嘆してしばらく立って眺めていた。城壁の周囲三十支那里、磚瓦せんがをもって畳み重ね、壁の上には半町ごとに厳しい扶壁が作られている。長髪賊の乱の時初めて備えられた大砲が、扶壁に残ってはいるけれど、ほとんど使用に堪えないまでに青黒く砲身が錆びている。城壁に沿うて丈なす草が、人に苅られず生い茂り、乏しい紅白の草花が咲いているのも野趣がある。昔、戦国の世の時代に、養う食客三千人と、世上の人にうたわれた、春申君と申す人の、長く保った城である。城には七つの郭門もんがある。郭門もんは城内の旧市街にいずれも通じているのであって、道台衙門のある所はすなわち東大門内である。知県衙門のあるところは小東門内の中央である。
 日没を合図に内外の市街まちは――県城内の旧市街と県城外の新市街とは、交通を遮断するおきてであってその日没も近づいているので、ラシイヌは郭門の一つから城内へ急いではいって行った。城内の街の狭隘せまさは、二人並んで歩くことさえ出来ぬ。凸凹の激しいその道には豚血牛脂流れ出しほとんど小溝をなしている。下水の桶から発散する臭気や、ねぎや、山椒さんしょうや、芥子けしなどの支那人好みの野菜の香が街に充ち充ちた煙りと共に人の嗅覚を麻痺させる。小箱のような陋屋ろうおくからは赤児の泣き声や女の喚き声や竹の棒切れで撲る音などが、巷に群れている野良犬の声と、殺気立った合唱コーラスを作っている。
 街には人が出盛っていて、あっちでもこっちでも支那人らしい誇張した声音と身振りとで「負けろ」「まけない」の掛け合い事――つまり、商売をやっている。誰も彼もみんな忙がしそうだ。そういう忙がしい人達を縫って、さも隙そうな若者どもが、小唄を唄いながらぶらついている。仔細に見るとそれらの者はいずれもたくましい体をした働き盛りの若者である。しかも彼らは働こうともせず、唄を唄って歩いている。彼らのうたうその唄こそは、ラシイヌの聞きたがっている唄である。

古木天を侵して日已に沈む
天下の英雄寧ろ幾人ぞ
此の閣何人か是れ主人
巨魁来巨魁来巨魁来

 この唄をうたうに若者どもは「巨魁来巨魁来巨魁来」と、最終の一連に力をこめ、いかにも今にもその巨魁がどこからか堂々と乗り込んで来て、姿を現わすのを待っているかのように、勢い込んで唄うのであった。
 ラシイヌはゆるやかに歩みながら、捨て目捨て耳を働かせて、彼らの様子を窺った。そうして心で罵った。
「フン、いくらでも唄うがいい、巨魁来巨魁来巨魁来か! どんな巨魁だかこの俺にはちゃあんと解っておいで遊ばすのだ。どんな野郎が来たところでこの鼻ちゃんは驚かない。どんな野郎でもとっ捕えて見せる。俺達の目的を妨げる奴は張三李四のお構いなく地獄の釜の中へたたき込んで見せる?」
 ラシイヌはそれから尚しばらく、城内をブラブラ彷徨さまよってから、黄浦河の岸へ出て行った。
 県城とそして三つの租界を、東の岸に立たせたまま北へ流れる黄浦河は、水こそ黄色に濁ってはいるが、その河幅は二百間、無数の商船や軍艦や支那船サンパンを満々たる水に浮かべ、揚子江に向かって流れている。目星い大きな工場は、いずれも河の東岸にあって、巨大の煙突、急傾斜の屋根が、空を蔽うて林立し、重い起重機を動かす音や猛獣のような汽笛の音や、のんびりした支那流の掛け声などが、煤煙ばいえんの空に響いている。オリエンタル船渠ドックの工場からは鉄槌の音が聞こえてくるし、対岸に孤立して立っている董家造船所のドックからは汽罐の音が聞こえて来る。
 ラシイヌは河岸を米租界の方へ耳をかしげながら歩いて行った。そのうちに焼けただれた砲弾のような太陽がグルグル廻りながら、平野の地平はてへ没してしまって、間もなく四辺あたりは暗くなった。遙か県城の方角に当たって、関門を鎖ざす軋り音が、一日の終りを告げるかのようにさも重々しく響いたが、その音と一緒に諸所の工場から蟻の群でも出るように職工達が現われた。疲労つかれた声音で挨拶をしてちりぢりに四方へ散って行く。その後は森然しんと静まり返り夜業をすると見えてある工場の、二つの窓から火の光が戸外にカッと洩れて来るのさえかえって寂しく思われた。
 四辺あたりは森然と静かである。
 その時、ラシイヌが歩いている河岸の下の水面から、元気のよい唄声が聞こえて来た。それは、やっぱりあの詩である。

古木天を侵して日已に沈む
…………
…………
巨魁来巨魁来巨魁来

 ラシイヌはちょっと眉をひそめ、足下の水面をすかして見た。巨大の支那船サンパンが浮いていて、燈火あかりけてない船の中で、二、三十の人影がボンヤリとうごめいているのが眼に付いた。ラシイヌの心臓は動悸を打ち、その眼は急に見開らかれた。彼は楊柳の蔭へこっそり姿をひそませて、じっと様子を窺った。船中の唄声はやがて絶えて、また四辺は寂静ひっそりとなった。すると今度は反対の岸――二百間あまりもかけ隔てた対岸むこうぎしの方からかすかに幽かに同じ唄声が水を渡ってラシイヌの耳へまで聞こえて来た。やがてその詩も途絶えたが、詩の途絶えた方角から、青色の光がただ一点、闇の中へポッツリ浮かび出た。あたかも人魂が迷うようにその青色の燈の灯ともしびは、右に左に静かに動くとまた闇の中へ消えて行った。すると、今度は、彼の足もとの、支那船サンパンの中から同じような青色の燈火あかりが浮かび出たが、空中で五、六回揺れた後でそのままフッと消え去った。
「フフン、何かの合図だな」
 楊柳の蔭でラシイヌは思わずこのように呟いて尚もそのままたたずんで、支那船サンパンの様子を窺った。
 すると支那船は動くともなく、幽かに船体を動かした。闇の河面かわもが静かに動いて、一町あまり隔たっている小さい桟橋の方角へ、人眼を忍ぶように辷って行く。
 そうして桟橋へ着いた時、船の中にいた支那人どもは、一人一人桟橋へよじ登った。二十人あまりの人影が、墨のように橋の上へかたまった時、一個ひとつの大きな黒い箱が船の中から持ち上げられた。桟橋の上の人影が、揃って前へ手を突き出し、その黒い箱を受け取った。するとまたもや船の中から、ゾロゾロ人影が現われて桟橋の上へよじ登ったが、一個の箱を肩に支え、その箱をみんなで取り巻いて、神前へ捧げる御輿みこしのように、敬虔けいけんな態度で歩いて行く。
「さあどうもこいつは解らない」
 ラシイヌは胸へ腕を組んで、渋面を作って呟いた。それから楊柳の蔭を出て、御輿の後を追いかけたが、思い出して腕時計を眺めると、彼は追うのを中止した。
 もう十分で八時である!
 彼は御輿と腕時計とを代わる代わるに見比べてしばらくじっと考えていたが、決心がついたというように、グルリと体の方向を変え、大速力で走り出した。
 公園へ向かって走るのである。
 黄浦河とそして呉松ロウソン江とが、相合流する一角に、居留地の公園は立っていた。北と東が水に臨み、西が英租界に向いている。水に向かった園内の芝の丘に、音楽堂は立っていた。くらめくばかりの電燈が、楽堂の周囲まわりに照り渡り、そこへ集まった聴衆のほくろさえ鮮かに見えるほどである。

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