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血曼陀羅紙帳武士(ちまんだらしちょうぶし)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-3 6:56:46 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


    恩讐壁一重

 彼は、故郷くにからの音信たよりで、忠右衛門の忰の頼母が、自分を父の敵だと云い、復讐の旅へ出たということを知った。彼は冷笑し、(討ちに来るがよい、返り討ちにしてやるばかりだ)とその時思った。そうして現在いまでは、天国を求める旅のついでに、こっちから頼母を探し出し、討ち取ろうと心掛けているのであった。
 正気にかえると見えて、お浦が動き出した。肉附きのよい、ムッチリとした腕を、二本ながら、夜具から脱き、敷き布団の外へ抛り出した。
 と、左門は、刀箱を掴んだが、素早く、自分の背後へ隠し、その手で、膝脇の自分の刀を取り上げた。女が正気に返り、騒ぎ出したら、一討ちにするつもりらしい。武道で鍛えあげた彼の体は、脂肪あぶら贅肉ぜいにくも取れて、痩せすぎるほどに痩せていた。それでいて硬くはなく、しないそうなほどにも軟らかく見えた。そういう彼が、左の手に刀を持ち、それを畳の上へ突き及び腰をし、長く頸を延ばし、上からお浦を覗き込んでいる姿は、昆虫――蜘蛛が、それを見守っているようであった。紙帳の中へ引き入れられてある行燈あんどんの、薄黄いろい光は、そういう男女を照らしていたが、男女を蔽うている紙帳をも照らしていた。内部うちから見たこの紙帳の気味悪さ! 血蜘蛛の胴体どうは、厚味を持って、紙帳の面に張り付いていた。左衛門が投げ付けたはらわたの、皮や肉が、張り付いたままで凝結こごったからであった。それにしても、蜘蛛の網が、何んとその領分を拡大ひろめたことであろう! 紙帳の天井にさえ張り渡されてあるではないか。血飛沫ちしぶきによって作られた網が! 思うにそれは、先夜、飯塚薪左衛門の屋敷で、左門によって討たれた浪人の血と、片足を斬り取られた浪人の血とによって、新規あらたに編まれた網らしく、血の色は、赤味を失わないで、今にも、糸のように細いしずくを、二人の男女ものへ、したたらせはしまいかと思われた。
 お浦は、夜具からはみ出した腕を、宙へ上げ、何かを探すような素振りをしたが、
「頼母様! 天国様を持って参りました!」
 と叫んだ。もちろん、夢中で叫んだのである。

 その頼母は、ずっと以前まえから、壁一重へだてた隣りの部屋へやに、お浦を待ちながら、粛然と坐り、「一刀斎先生剣法書」を、膝の上へ載せ、行燈の光で、読んでいた。
 下婢おんなの敷いて行った寝具よるのものは、彼の手で畳まれ、部屋の片隅に置かれてあった。女を待つに寝ていてはと、彼の潔癖性が、そうさせたものらしい。前髪を立てた、艶々しい髪に包まれた、美玉のような彼の顔は、淡く燈火の光を受けて、りを深くし、彫刻のような端麗さを見せていた。
「事ノ利ト云フハ、我一ヲモツテ敵ノ二ニ応ズル所也。タトヘバ、撃チテケ、外シテ斬ル。是レ一ヲ以テ二ニ応ズル事也。請ケテ打チ、外シテ斬ルハ、一ハ一、二ハ二ニ応ズル事也。一ヲ以テ二ニ応ズル時ハ必ズ勝ツ」
 彼は口の中で読んで行った。
(すなわち、積極的に出れば必ず勝つということなのだな)
 彼は、本来が学究的の性格だったので、剣道を修めるにも、道場へ通って、竹刀しないや木刀で打ち合うことだけでは満足しないで、沢庵禅師の「不動智」とか、宮本武蔵の「五輪の書」とか、そういう聖賢や名人の著書をひもとくことによって、研究を進めた。今、「一刀斎先生剣法書」を読んでいるのもそのためであった。
(積極的に出れば必ず勝つということだな……少なくも、五味左門と出合った時には、この法で、この意気で、立ち合わなければならない)
(お浦はどうしたものであろう?)
 頼母は、「一刀斎先生剣法書」から眼を放し、考えた。
 さっき、縁側で人の気配がしたので、それかと思ったところ、隣りの部屋の襖が開き、そこへはいって行ったらしく、音沙汰なくなった。その後は、人の来る様子もなかった。
(浮気者らしかったお浦、俺のことなど忘れてしまったのかも知れない)
 時が経って行った。寝静まっている旅籠はたごからは、何んの物音も聞こえて来なかった。

    立ち向かった左門と頼母

 突然、隣りの部屋から、女の叫び声の聞こえて来たのは、さらにそれからしばらく経った後のことであった。(はてな?)と頼母は耳を澄ました。(変だ!)……というのは、その女の叫び声が「頼母様!」と聞こえ、「天国様を」と聞こえたからであった。しかしそれだけで、後は聞こえて来なかった。
(空耳だったかな)
 そのくせ頼母は、かたわらの刀を掴み、立ち上がった。襖をあけて縁側へ出た。すぐ眼にはいったのは、月光で、霜でも降ったように見える広い中庭と、中庭をへだてて立っている母屋おもやとであった。縁側を左の方へ数歩あゆめば隣り部屋の前へ行けた。そこで頼母は足音を忍ばせ、隣り部屋の前まで行き、また、耳を澄ました。たしかに人のいる気配はあったが、声は聞こえなかった。
(これからどうしたものだろう?)
 不躾ぶしつけに襖をあけることは出来なかった。とはいえ、女の声で、自分の名を呼び、天国様をと云ったからには、――空耳でないとして――声の主を確かめたかった。
(まさかお浦が、こんな部屋ところへ来ていようとは思われないが……)
 しかし……いや、しかしも何もない、声の主を確かめさえすればよいのだ! ……しかし、それをするには、やっぱり襖をあけなければ……。
とがめられたら、部屋を間違えたと云えばよい)
 頼母は、わざと無造作に襖をあけた。
「あッ」
 声と一緒に、ほとんど夢中で、頼母は、庭へ飛び下り、これも夢中で抜いた刀を、中段に構え、切っ先越しに、部屋の中をにらんだ。
 見誤りではなかった。帳内なかで灯っている燈の光で、橙黄色だいだいいろに見える紙帳が、武士の姿を朦朧もうろうと、その紙面おもてへ映し、暗い部屋の中に懸かっている。
(林の中に釣ってあった紙帳だ。では、あの中にいる武士は、五味左門に相違ない。……先夜は、知らぬこととはいえ、同じ飯塚薪左衛門殿の屋敷へ泊まり合わせ、今夜は、同じこの旅籠の、しかも壁一重へだてた部屋に泊まり合わせようとは)
 運命の不思議さ気味悪さに、頼母は、一瞬間茫然としたが、
(左門は親の敵、あくまで討ち取らなければならないのであるが、あの凄い腕前では……)
 体の顫えを覚えるのであった。
 しかし彼にとって、一抹の疑惑があった。紙帳は、左門ばかりが釣っているとは限らない。紙帳の中の武士は、左門ではないかもしれない……。
(何んといって声をかけたらよかろうか?)
 彼はしばらく紙帳を睨んで躊躇ためらった。
 紙帳は、そういう彼を、嘲笑うかのように、そよぎもしないで垂れている。
「卒爾ながら、紙帳の中のお方にお訊ね致す」
 と、とうとう頼母は、少しこわばった声で云った。
「貴殿、先夜、飯塚薪左衛門殿の屋敷へ、お泊まりではなかったかな」
 こう云ってから、これはいいことを訊いたと思った。泊まったといえば、紙帳の中の武士は、五味左門に相違ないからであった。何故というに、左門は、先夜、自分の本名をなのって、薪左衛門の屋敷へ泊まったということであるから。
 しかし紙帳の中からは、返辞がなく、紙帳に映っている人影も、動かなかった。
 頼母は焦心あせりを感じて来た。それで、ジリジリと、縁側の方へ歩み寄りながら、
「貴殿はもしや、五味左門と仰せられるお方ではござらぬかな?」と訊いた。
 すると、ようやく、紙帳に映っている人影が動き、しわがれた声で、
「そう云われる貴殿は、どなたでござるかな?」
 と訊き返した。
「拙者は……」
 と、頼母は云ったが、当惑した。本名を宣るものだろうか、それとも、偽名を使ったものだろうか?
(相手が五味左門なら、当然宣りかけて討ち取らなければならないし、もしまた人違いなら、無断に襖をあけ、抜き身をさえ構えて誰何すいかした無礼を、これまた、本名を宣って詫びなければならないのだから……)
 頼母は、本名を宣ることにした。
「拙者ことは、伊東頼母と申し、隣りの部屋へ泊まり合わせたものでござる」
 俄然騒動が起こった。
「おお頼母様でございますか! わたしはお浦でございます! ……部屋を取り違えて……」
 という声が、紙帳の中から起こり、すぐに、女の立ち上がる影法師が、紙帳の面へ映った。が、それは一瞬間で、たちまち悲鳴が起こり、女の姿がたおれるのが見え、つづいて燈火が消え、部屋の闇の中に、ぼんやりと白く紙帳ばかりが残った。
 しかし、やがて、紙帳の裾が、鉄漿おはぐろをつけた口のようにワングリと開き、そこから、穴から出る爬虫類ながむしかのように、痩せた身長せいの高い武士が出て来た。刀をひっさげた左門であった。左門は、縁先まで一気に出、その気勢に圧せられ、後へ退り、抜き身を構えている頼母をにらんだが、
「貴殿が伊東頼母殿か、拙者は五味左門、巡り逢いたく思いながら、これまでは縁なくて逢いませなんだが、天運つたなからず今宵こよい逢い申したな。本懐! ……貴殿にとっては拙者は、父の敵でござろうが、拙者にとっても貴殿は、父の敵の嫡宗ちゃくそううらみがござる! 果たし合いましょうぞ!」
 と、例の、嗄れた、陰湿とした声で云った。

    難剣「逆ノ脇」

 左門は急に驚いたように、
「貴殿とは、今宵が初対面と思いましたが、そうではござらぬな。過ぐる夜拙者、道了塚のほとりの、林の中で野宿をいたし、通りかかりのお武家を呼び止め、腰の物拝見を乞いましたところ、拒絶ことわられ、やむを得ず、一当てあてて……フッフッ、若衆武士殿を気絶させましたが、どうやらそれが貴殿らしい。……頼母殿、さようでござろう」
 痛いところへさわられた頼母は、赤面し、切歯し、黙っていた。しかし彼には左門が気味悪く思われてならなかった。黒く大きく立っている離座敷はなれ、――壁と襖とは灰白はいじろかったが、その襖の開いている左門の部屋は、洞窟ほらの口のように黒く、そこに釣ってある紙帳は、これまた灰白く、寝棺のように見え、それらの物像もの背後うしろにして、痩せた、身長せいの高い左門が、左手に刀を持ち、その拳を腰の上へあて、右手の拳も腰の上へあて、昆虫むしが飛び足を張ったような形で、落ち着きはらって立っている姿は、全く気味悪いものであった。
 左門は云いつづけた。
「ところで、先刻さきほど、一人の女子が、拙者の巣へ――寝所へ、迷い込んでござる。美しい女子ではあり、先方から参ったものではありして、拙者、遠慮なく、いたわり、介抱いたし……女子も満足いたしたかして眠ってござる。……しかるにその女子、貴殿が姓名を宣られるや、眼覚め、叫びましたのう。『頼母様でございますか、妾はお浦でございます。……部屋を取り違えてこんな目に』と。……さては、お浦という女子、貴殿の恋人そうな。……気の毒や、拙者、貴殿の恋人を……」
 ここで左門は例の含み笑いをしたが、
「それにいたしても、不思議のことがござったよ。……そのお浦という女子、天国の剣を所持し参ったことじゃ。……おお、そうそう、そういえば、そのお浦儀、夢の中で『頼母様、天国様を持って参りました』と叫びましたっけ。……さては、貴殿へお渡ししようため、天国を持参したものと見える。……今もお浦儀、その天国を、大事そうに抱いて寝てござる」
 こう云って来て左門は、お浦がああ叫んで立ち上がったところを、一当てあてて気絶させ、気絶したお浦が、刀箱の上へ仆れた姿を、脳裡へ描き出した。
「天国の剣を欲しがるは拙者で、貴殿ではない筈。その理由は申すまでもござるまい。……拙者といたしては、天国の剣をもって、貴殿はじめ、伊東家の一族を、族滅ぞくめついたしたいのでござる。……とはいえ、ああまで大切そうに、お浦殿が抱きしめている天国を、もぎ取るも気の毒。では、この関ノ孫六で、貴殿の息の根を止めることと致そう。行くぞーッ」
 と叫んだ時には、左門は庭へ飛び下りてい、関ノ孫六は引き抜かれていた。
 ハーッとばかりに呼吸いきを呑み、思わず数歩飛び退いた頼母は、相手の構えを睨んだ。何んと、左門の刀身が見えないではないか! 見えているものは、肩から、左の胴まで湾曲している右の腕と、踏み出している右足とであった。そう、そういう姿勢で、ノビノビと立っている左門の体であった。
(何んという構えだ! おお何んという構えだ!)
 頼母は、おびえた心でこう思った。(あれが反対ぎゃくなら、脇構えなのだが)
 そう、刀を自分の右脇に取り、切っ先を背後にし、斜め下にし、刀身を相手に見えないようにし、左足を一歩踏み出したならば、五法の構えの一つ、脇構えになるのであるが、左門の構えは、反対なのであった。
(では反対の脇構え――「逆ノ脇」なのであろうか?)
 それにしても、あの構えは、どう変化することであろう? こっちが、彼奴きゃつの真っ向へ斬り込んだならば、それより先に、彼奴は、背後に隠している刀で、こっちの胴を払うかもしれない。こっちから相手の胴へ斬り込んだならば? それより先に、相手は、こっちの頸へ、刀を飛ばせるかもしれない。突いて出たならば? 払い上げて、胸を突くだろう! どう変化するか解らない隠された刀の恐ろしさ!

    紙帳を巡って

 左門に逢ったなら「我の一をって敵の二に応じ」よう。すなわち、攻撃的に出て、機先を制しようなどと考えていた頼母は、相手の構えを見ただけで、萎縮してしまった。しかし、心中の怒りは、その反対にたかまった。恋人などではないお浦が、どう左門に扱われようと、意に介するところではなかったが、しかし、左門が、お浦をこの身の恋人と解し、その恋人を……そうしてこの身を嘲笑していることが、怒りに堪えなかった。天国を左門に取られたことも、欝忿うっぷんであった。自分の手へ渡ったなら、打ち砕くべき天国なので、刀そのものに執着があるのではなかったが、左門の手へ渡ったとあっては、自分の父忠右衛門の、天国不存在説が、あまりにもハッキリと破壊されたことになる。欝忿を感ぜざるを得なかった。
(父の敵、自分の怨み、おのれ左門、討たいで置こうか!)
 怒りは頼母を狂気させた。
 しかし左門の凄さ!
(どうしよう?)
 この時、忽然と思い出されたは、やはり伊藤一刀斎の、剣道の極意を詠った和歌であった。
(切り結ぶ太刀たちの下こそ地獄なれ身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。……そうだ、身を捨ててこそ!)
 頼母は猛然と斬り込んだ。
 と、その瞬間、左門は、水の引くように、なめらかに後へ退いた。
(逃げるぞ!)
 頼母は驚喜した。自分の気勢に恐れて、左門が逃げたと思ったからであった。頼母は追った。
 何んたる軽捷けいしょう! 左門は、背後うしろざまに縁の上へ躍り上がった。構えは? 依然として逆ノ脇! そこへ柳が生えたかのように、しなやかに、少し傾き、縁先まで追って来た頼母を見下ろしている。危ないかな頼母! 左門の、例の、肩から左胴まで柔らかに湾曲している腕が延び、その手に握られて、背後ざまに隠されている刀が、電光のように閃めき出た時、お前の脳天は、鼻から頤まで、切り割られるのを知らないのか!
 それにしても左門は、何んのために縁まで退いたのであろう? 暗い部屋の中の、灰白い紙帳を背後にして立っている左門が、心の中で叫んでいる声を聞いたなら、その理由を知ることが出来よう。
「父上よ父上よ、あなたをはずかしめ、あなたを憤死させました、忠右衛門の忰頼母めを、今こそ討ち取りまして、父上の怨みの残りおります紙帳へ、その血を注ぐでございましょう。止どめは、天国の剣で致しまする」
 つまり左門は、頼母の血を、亡父の怨恨うらみの残っている紙帳へ注いでやろうと、紙帳間近まで、頼母をおびき寄せて来たのであった。
 そうと知らない頼母は不幸であった。自分の気勢に圧せられて逃げる左門、たかが知れている! もう一息だ! こう思った頼母は不幸であった。
 微塵みじんになれ! と、頼母は、縁へ躍り上がり、斬り付けた。
「あッ」
 左門の姿が消え、眼前に紙帳が、風にあおられたかのように、そよいでいた。
(部屋の中へ逃げ込んだのだな)
 頼母は突嗟とっさに思った。
(紙帳の中へはいった筈はない。……では、背後に?)
 さすがに用心をし、頼母はソロソロと部屋の中へはいって行った。敷居をまたぎ左右を見た。正面三、四尺の間隔へだたりを置いて、紙帳が釣ってあり、その左右は闇であり、闇の彼方あなたには、部屋の壁が立っている筈であった。……左門の姿はどこにも見えなかった。
(紙帳の背後に隠れているのか、それとも、左右どっちかの、紙帳の横手に、身をひそめているのか?)
 頼母は、紙帳を巡って、敵を討とうと決心しながらも、右へ行こうか、左へ行こうかと迷った。しかしとうとう、左手へ心を配りながら、右の方へ進んだ。紙帳の角がすぐ前にあった。角の向こう側に、左門が隠れているかもしれない。頼母は、やにわに刀を突き出して見た。闇を突いたばかりであった。額に、冷たい汗を覚えながら、頼母はホッと息を洩らし、紙帳の角まで進んだ。前方むこうを睨んだ。部屋の壁と、紙帳の側面とで出来ている空間が、ただ、暗く細長く見えるばかりで、敵の姿は見えなかった。頼母は、ソロソロと進んだ。すぐに、紙帳の二つ目の角まで来た。
 頼母の足は動かなくなった。(あの角の向こう側にこそ)こう思うと、居縮いすくむのであった。ほんのさっきまで、左門など何者ぞと、気負い込んでいた彼の自信も勇気も、今は消えてしまった。技倆うでの相違がそうさせるのであり、十畳敷きほどの狭いこの部屋の中に、恐ろしい相手が確かにおりながら、その姿が見えないということが、そうさせるのであった。
(どうしたものか?)
 この時、霊感のようなものが心に閃めいた。
 頼母はやにわに刀を空にふるった。紙帳の釣り手を切ったのである。紙帳の一角が、すぐに崩れ出した。やわやわとたわみ、つづいて沈み、方形であった紙帳が、三角の形となって、暗い中に懸かって見えた。しかし、左門の姿は見えなかった。三つ目の紙帳の角へ来て、その釣り手を切った時にも、左門の姿は見えなかった。紙帳は今や、二つの釣り手を切られ、庭に面した残りの二筋の釣り手によって、掲げられているばかりとなり、開けられてある襖を通し、中庭が見えていた。
(左門の隠れ場所が解った。紙帳の四つ目の角の蔭だ)頼母はこう思った。

    左門はたして何処いずこ

 それに相違なかろうではないか。頼母は、部屋へはいるや、右手へ進み、第一、第二、第三、と、三つまで、紙帳の角を通ったのであった。しかも、左門はいなかった。では、残った、最後の紙帳の四つ目の角の向こう側に、おそらく膝を折り敷き、刀を例の逆ノ脇に構え、豹のような眼をして、狙っているに相違ないではないか。
 こう思うと頼母は、また新たに恐怖を感じたが、刀を中段にヒタとつけ、その角をにらみ、様子をうかがった。
 ところが、これより少し以前まえから、母屋に近い中庭に、二つの人影があって、こっちを眺め、ささやいていた。
 角右衛門と紋太郎とであった。
 さっきから中庭で、人の云い争うような声が聞こえた。そこは五郎蔵一家の用心棒である二人であった。身内同士間違いを起こしたのではあるまいかと、二人して寝所から脱け出し、様子を見に来たところ、向こう側の離座敷はなれの襖が開いてい、紙帳の釣ってあるのが見えた。
「紙帳だーッ」
「うむ、紙帳が!」
 二人ながら呻くように云った。
 先夜、飯塚薪左衛門の屋敷で、紙帳の中の武士に、同僚二人を討たれたことを思い出したからである。
 と、紙帳の釣り手が、次々に二ヵ所まで切られたのが見えた。
(何か事件が起こっている)と、二人ながら思った。
「小林うじ」と、角右衛門は、汗を額へ産みながら、「これは、あの時の武士らしゅうござるぞ」
「さよう」と、紋太郎は、若年だけに、一層おびえ、地に敷かれている影法師が揺れるほどに顫えながら、「其奴そやつがまた誰かを……どっちみち、あの部屋で切り合いが……」
彼奴きゃつとすれば同僚の敵、……討ち取らいでは……と云って、あの凄い剣技うででは……こりゃア親分にお話しして……」
乾児こぶん衆にも……」
「うむ。……では貴殿……」
「心得てござる……」
 と、紋太郎は、母屋の縁へ駈け上がり、五郎蔵一家の寝ている、奥座敷の方へ走って行った。
 それを見送ろうともせず、怯えた眼で、角右衛門は、紙帳ばかりを見ていた。
 と、また、釣り手が一筋切られた。
 切ったのは頼母であった。
 頼母は、あるいは左門が、最初の位置から身を移し、紙帳の、第一の角の背後に隠れていようもしれぬと思い、ソロソロと紙帳の裾を巡り、引き返し、真っ先に自分が曲がった紙帳の角まで近付き、釣り手を切って落としたのであった。
「出ろ! 左門!」
 と頼母は叫んだ。しかし、叫んだものの、飛びかかって行こうとはせず、反対に、飛び退くと、部屋の背後の壁へ背をもたせ、刀を、例の中段に構え、眼前を睨んだ。
 釣り手を切られた紙帳の角は、やわやわと撓み、やがて崩れ、今は一筋の釣り手に掲げられている紙帳は、しぼんだ朝顔の花を、さかさに懸けたような形に、斜面をなして懸かっていた。
 左門の姿は見えなかった。
 いよいよ左門の居場所は確実に解った。やはり、最後に残った釣り手の背後――釣り手の角の背後にいるのであった。
 その方へグッと切っ先を差し付け、頼母は大息を吐いた。
 さよう、左門はその位置に、片膝を敷き、片膝を立て、刀を逆ノ脇に構え、最初はじめから現在いままで、寂然せきぜんと潜んでいたのであった。一方は、隣り部屋と境いをなしている壁であり、一方は、閉めのこされてある襖であり、正面は紙帳である。――この三つのものによって、濃い闇を作っているこの場所は、何んと身を隠すに屈竟[#「屈竟」はママ]な所であろう。
 彼は、頼母が、自分の方へは来ないで、反対の方へ進み、紙帳の釣り手を、次々に切っておとすのを見ていた。走りかかり、背後から、一刀に斬りたおすことは、彼にとっては何んでもないことであった。しかし、彼はそれをしなかった。何故だろう? 蜘蛛が、自分の張った網へ、蝶が引っかかろうとするのを、網の片隅に蹲居うずくまりながら、ムズムズするような残忍な喜悦よろこびをもって、じっと眺めている。――それと同じ心理こころを、左門が持っているからであった。
 まだ彼は動かなかった。
 しかし彼には、紙帳の彼方むこうに、刀を構え、斬り込もう斬り込もうとしながらも、こっちの無言の気合いに圧せられ、金縛りのようになっている、頼母の姿が、心眼に映じていた。
 彼は、姿を見せずに、気合いだけで、ジリジリと、相手の精神こころ疲労つかれさせているのであった。

    斬り下ろした左門

 神気こころ疲労つかれが極点に達した時、相手は自然ひとりでに仆れるか、自暴自棄に斬りかかって来るか、二つに一つに出ることは解っていた。そこを目掛け、ただ一刀に仕止めてやろう。――これが左門の狙いどころなのであった。
 彼の観察は狂わなかった。頼母は、しぼんだ朝顔を逆さに懸けたような形の紙帳の、そのがくにあたる辺を睨み、依然として刀を構えていたが、次第に神気こころが衰え、刀持つ手にしこりが来、全身に汗が流れ、五体からだに顫えが起こり、眼が眩みだして来た。……と、不意に一足ヒョロリと前へ出た。蝦蟇がまが大きく引く呼吸いきをするや、空を舞っている蠅が、弾丸たまのようにその口の中へ飛び込んで行くであろう。ちょうどそのように、頼母は、眼に見えない左門の気合いに誘引おびきよせられたのであった。ハッと気付いた頼母は、背後へ引いた。が、次の瞬間には、ヒョロヒョロと、もう二足前へおびきだされていた。
 猛然と頼母は決心した。
(身を捨ててこそ!)
 畳の上に敷かれてある紙帳を踏み、例の萼にあたる一点を目ざし、真一文字に突っ込んだ。
 グンニャリとした軟らかい物をあしうらに感じた。萼が崩れ落ちた。一筋の釣り手が、切って落とされたのである。その背後へ、巨大な丸太がノシ上がった。自分で釣り手を切って落とし、その刀を上段に振り冠り、左門が突っ立ったのであった。闇の夜空を縦に突ん裂く電光の凄さを見よ! 左門は斬り下ろした! 悲鳴が上がって頼母の体が紙帳の上へ仆れた。しかし悲鳴は女の声であった。斬り損じた刀を取り直し、再度頭上へ振り冠った左門の足もとを、坂を転がり落ちる丸太のように、頼母の体が転がり、縁側の方へ移って行った。紙帳の中の、気絶しているお浦の体を踏んだのは、頼母にとっては天祐であった。それで彼は足を掬われて仆れ、左門の太刀を遁がれることが出来たのである。左門は、転がって逃げる頼母を追った。しかし縁まで走り出た時には、既に頼母は起き上がり、庭を走っていた。
「逃げるか、卑怯者、待て!」
 左門は追い縋った。
 喊声ときのこえが起こった。
 十数人の人影が、抜き身をすすきの穂のように揃え、一団となり、庭を、こっちへ殺到して来ようとしていた。
 五郎蔵の乾児こぶん達であった。
 その中から角右衛門の声が響いた。
彼奴きゃつこそ、先夜、飯塚殿の屋敷で、我々の同僚二人を、いわれなく討ち果たしました悪侍でござる!」
 つづいて、紋太郎の声が響いた。
「我々同僚のかたき、お討ち取りくだされ!」
 その人数の中へ、駈け込んで行く頼母の姿が見えた。
 頼母の声が響いた。
「彼は五味左門と申し、拙者の実父忠右衛門を討ち取りましたる者、本日巡り逢いましたを幸い、復讐いたしたき所存……」
 群の中には、松戸の五郎蔵もいた。寝巻姿ではあるが、長脇差しを引っ下げ、抜け上がっている額を月光にらし、左門の方を睨んでいた。
 彼は、紋太郎によって呼び立てられ、眼覚めるや、乾児たちと一緒に、庭へ出て来たのであった。彼は、来る間に、紋太郎から、紙帳武士のどういう素姓の者であるかを聞かされた。飯塚薪左衛門の屋敷で、角右衛門や紋太郎の同僚を、二人まで、いわれもないのに討ち果たした悪侍とのことであった。しかし彼としては、その言葉を、どの程度まで信じてよいか解らなかった。が、庭へ出て来て、前髪立ちの武士から、その武士が、親の敵だと叫ばれ、その武士が、前髪立ちの武士を追って走って来、自分たちの姿を見るや、刀を背後うしろへ隠して下げ、右腕を左胴まで曲げて柄を握り、右足を踏み出した異様な構えで、全身から殺気をほとばしらせながら、しかも寂然と静まり返って立った姿を見ると、容易ならない相手だと思い、いかさま、人など、平気で幾人でも殺す奴だろうと思った。
「野郎ども」と五郎蔵は、乾児たちに向かって怒鳴った。「あの三ピンを、引っくるんでなますに刻んでしまえ! しかし殺しちゃアいけねえ。止どめはお若衆に刺させろ! やれ!」
 声に応じて乾児たちは、一本の杭を目差して、黒い潮が、四方から押し寄せて行くように、左門を目掛け、殺到した。
 黒い潮が、渦巻き、き立つように見えた。飛沫しぶきが、水銀のように四方へ散った。――白刃が前後左右に閃めくのであった。数声悲鳴が起こった。渦潮は崩れ、一勢に引いた。杭は、わずかにその位置を変えたばかりで、同じ姿勢で立ってい、その前の地面に、三個みっつの死骸が――波の引いた海上に、小さい黒い岩が残ったかのように、転がっていた。左門に斬られた五郎蔵の乾児たちであった。

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