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元時代の蒙古人(げんじだいのもうこじん)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-4 8:59:09 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: 桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑
出版社: 岩波書店
初版発行日: 1968(昭和43)年2月13日
入力に使用: 1968(昭和43)年2月13日
校正に使用: 1968(昭和43)年2月13日

底本の親本: 東洋史説苑
初版発行日: 1927(昭和2)年5月10日

 

今日は元時代の蒙古人の話を申すのですが、諸君の中の多數は此學校で既に幾分東洋史も習つて居るだらうし、又中學校あたりで東洋史も習つたであらうから、元時代の蒙古人の話は大概知つて居るだらうと思ひます。東洋史の中で一番面白いのは蒙古時代であつて、彼等の活動した舞臺が非常に廣いといふことと、又それが後世に及ぼした影響もなかなか廣い。例へて云へばアメリカ發見即ち新大陸發見も決して偶然に起つたことではない。無論イタリーのコロンブスが發見したのであるが、彼をしてさういふ新大陸を發見せしむるに至つた最も有力なる原因は蒙古が起つたことと非常に關係して居る。蒙古が起つた爲に支那といふ國が西洋の方へ知られ、その支那及び印度へ行く目的でコロンブスが西の方から出て遂にアメリカの方へ到着したのであります。
 唯に東洋史上に於ての興味ある時代であるのみならず、恐らく世界史の中でも蒙古時代ほど面白い時代はなからうと思ふ(拍手)。盛に四方を征伐して大いなる舞臺に活動したことはギリシアのアレキサンダーもあるし、ローマのシーザーもあるし、それから以後にも種々の英雄豪傑が澤山出て居りますけれども、其等の人々の事業は蒙古人の其に比べては殆ど太陽の前の星のやうなもので、到底比較にならぬのである。併しながら私は今日斯では蒙古人が、どんな大きな事業を立てたか、どんな戰爭をしたかといふことは言はない。それは普通の東洋史を習ふ時にも大抵聽き居ることと思ふ。例へば成吉思汗ジンギスカンが西域を征伐したとか、速不台スブタイ哲別チエベらがロシアの方を征伐したとか、或はそれから十年餘り經つてから成吉思汗の孫に當る拔都バツがロシアからハンガリー、ドイツ或はイタリーまで侵入して行つた話とか、或は又それから殆ど二十年ばかり經つて成吉思汗の同じく孫に當る旭烈兀フラグといふものがペルシアからシリア征伐に出掛たなどといふこともあるですけれども、それは以前ならば兔も角も今日では多少人も知つて居るし、夫等の大體の話は他に聽き得る便宜も多からうと思ひますから、私はそれよりもう一つ進んで其時分の蒙古人は如何なる状態であつたか、如何なる生活をして居つたか、如何なる家に住んで居つたか、如何なる食物を食つて居つたかといふことを申して見たいと思ふ。
 其事は今まで殆ど誰も餘り注意して居らない問題である。その内には吾々が今日から見ると隨分奇妙なこともあるのです。此樣なる話は聽いて居つては或は蒙古の戰爭の話よりも面白くないかも知れぬが、實際其方が有益なことで、蒙古人が大いなる事業をしたといふ所の根底も其間に横たはつて居るのである。所が前にも申す通り此問題といふものは今迄誰もさう調べたことのない問題でありますから、吾輩が此處で話をしようと思うて實は三日程前から一寸調べて見たけれども、いろいろな用事もあるし、なかなかどうもそのはや旨く往かない(笑聲起る)。それで今日はまあ其時間が來たからして、仕方なしに出て來たものの、自分の希望を云へばもう二三日延ばすともう少し面白く、もう少し完全に諸君の前にその話をすることが出來ると思ひますが、唯今となりては致し方もありません(笑聲起る)。
 さて元時代の蒙古人が如何なる有樣であつたかといふことを調べるのには支那の書物は殆ど參考するに足らぬ。全く間に合はないとは申さぬけれども、それは丁度砂を披きて金を拾ふと同じことで、偶には砂金などというて見付からぬことはないかも知れぬけれども、それは惡くすると殆ど徒勞に屬するのであります。それでは元時代に於ける蒙古人の風俗を知るのに何が一番の材料であるかといふと、それは當時のヨーロッパ人の旅行記を讀むのであります。
 元時代には蒙古人は東の方は朝鮮から、西の方はロシア、ハンガリーの邊りまでも皆領地にして置いて、アジア大陸を横切つてヨーロッパまで領地にして居りましたから、其間には非常に交通が便利になつて居りまして、ヨーロッパの人なども澤山來たのであります。其來た人は幾らもあります。けれども、其中には極めて不注意な者があつて、そんな時代に來ながら何等の記録を遺さない人もあるし、偶々記録を遺した所が左程參考にもならない記録があるけれども、其中には立派な人があつて、吾々に取つて今日歴史上缺くべからざる材料を給するやうな紀行もあるのです。この紀行が第一の材料になるのです。一體人の風俗習慣などといふものは時分の國の人は却て書かない。他國人が書くのです。自分では自國の風俗習慣などには深く注意せぬが、外國人から見ると是は奇妙とか彼は新奇とかその注意を惹きて記録する樣になるのです。其故すべて過去つた國民の風俗といふものは其の國の人の記録に待つよりも却て他國人で其地方を見物に行つた、其人の記録の方が何時も參考になるのであります。他國人は極めて細かい所まで注意して居る。此元時代も其通りである。前に申す通り支那人などの記録に依るよりも、却て其時分蒙古地方へ旅行した外國人の紀行が間に合ふのであります。その中にいろいろ澤山ありまするけれども、先づ Plan Carpin 又は Plano Carpini それからもう一つは William of Rubruk 又は Gulielmus de Rubruquis といふのがあります。それから三番目は Marcopolo 有名な人であります。
 一番さきのプラノ・カルピニといふ人は――私のは兔に角六ケ敷いことを言ひますが、併しながら六ケ敷いだけ覺えて置いたら確に後の爲になる(笑聲起る)。このプラノ・カルピニといふ人は千二百四十五年にヨーロッパを發しまして千二百四十七年にヨーロッパへ歸つて來たのであります。丁度足掛け三年の間不在であつたのです。この人はインノセント四世といふローマ法皇の命令を奉じて蒙古へ使者に行つた。此時は蒙古の王樣は成吉思汗の孫の定宗の時です。其時行きまして、さうして西暦の千二百四十六年七月から十一月まで五ヶ月の間蒙古に滯在して居つて、蒙古を見物した。其見物したことをいろいろ記録してあります。歐洲を立つてから歐洲へ歸るまでは三年ですけれども、實際蒙古地方に滯在して蒙古のことを見聞したのは今申した通り西暦千二百四十六年七月から十一月まで、十一月に蒙古を發足して歐洲へ歸つて來ました。
 其次ぎのウヰリアム・ルブルック、此人はフランスのサンルイと云ふ王樣の命令に依て蒙古の方へ行つたのですが、これは成吉思汗の孫で、定宗の次に立つた憲宗の時に行つたのです。此人は今申す通りヨーロッパを出發したのが千二百五十三年で千二百五十五年にヨーロッパへ歸つて來ましたので、矢張り三年掛つて居りますが、此人の蒙古に居つたのは前のプラノ・カルピニよりも少し長くして千二百五十三年の十二月から翌年即ち千二百五十四年の八月まで、それですから足掛け九ヶ月居りました。九ヶ月の間蒙古の状態を能く視察しました。
 それから一番後のマルコ・ポーロといふ、是は諸君も能く聽いて居るだらうと思ひますが、歐洲を出發したのが千二百七十一年で、歐洲へ歸つて來たのが千二百九十五年であります。二十五年ばかり歐洲を留守に致しました。十七歳の折りに出發しましたから四十二歳位の時分に歸つて來たのです。併しながら此人の蒙古の方に居つたのは此時代悉く皆ではありませぬ。蒙古に居つたのは千二百七十五年から千二百九十二年まで十八年ばかりであつて、此人が一番長かつた。けれども此人は千二百七十一年から九十五年まで、兔も角も自分の家即ちイタリーのベニスですが、其處へ二十五年目に歸つて來る。其時にはまるで蒙古人の風をして毛皮の衣服を着て二十五年目で故郷へ歸つて來ましたが、故郷の者は既に二十五年前にマルコ・ポーロが出たきり歸つて來ないので、彼奴は死んだのだらうて思つて居つた。今時分は佛樣になつて居るだらうと――耶蘇教ですから佛樣はないけれども、皆で其跡始末をして、此人の遺した家は親族で保存して居りましたが、其處へ以てマルコ・ポーロが殆ど見たこともない蒙古人の風をして歸つて來ましたから皆の者は喫驚びつくりして彼奴詐僞師に違ひないなど申す。前に十七歳で發つて今年四十餘歳で歸つて來ましたので、隨分窶れ果てて歸つて來ましたから他の人はどうも分らない。もと極めて親密なる朋友であつた人でもどうもマルコ・ポーロとは違ふ、あんな白髮はなかつたなどと云うて(笑聲起る)二十五年前と今日とを一緒にして居る。さういふことで殆どマルコ・ポーロは困つたのです。併しいろいろ事情を述べて、さうして家を親類から返して貰つたといふことです。以上申述べた是等の三人の紀行が蒙古人の風俗などを調べる所の一番好い材料になる。
 其他に未だいろいろありまするが、先づ大體はこの三人の紀行に依て御話をしようと思ふ。けれども前に申した通り實は此等の書物を讀んで、彼方此方同じことを纏めることは隨分な仕事であつて最初私は一日か二日で出來るだらうと思つてやつて見た所がどうしてなかなか一週間も掛らなければ出來ぬことを發見しました、左樣の次第故自然今日は極めて不完全なお話ししか出來ぬと思ふ。
 家屋(住所) 一番先きに家屋の話をしようと思ふ。家屋といふ言葉は宜くないかも知れぬ。或は寧ろ住所といつた方が宜いかも知れぬ。無論蒙古人の住んで居るのは帳幕の中である。それは必ずしも珍しいことでなくして、蒙古人より以前に匈奴とか突厥とか總て支那の北方に居つた所の夷狄は、みな帳幕の中に住んだので蒙古人のみが帳幕に住んだのではないから、さう不思議ではないけれども、併し帳幕はどんな形で、どんな風であるかと云ふことに就きては、匈奴や突厥ではどうもよくは分らない。蒙古人に至つて前の三人の記録に依て、最も明かに分るのであるから、先づ其事を申さうと思ふ。
 帳幕は木を以て圓形に組合はすのであります。樹の枝などを寄せ集めて造るのでありますが、それは圓く造りまして其縁へは皮でずつと壁の代りに卷くです。其皮は大抵いろいろのチョークとか其他のもので白く塗るです。或物は黒く塗るのがあるけれども、白いのが普通である。其屋根は矢張り樹の枝で圓錐形に造るのであります。其上を矢張り皮で被ふのであります。一番の中央の所は穴をあけてある。其處は煙出しと明取あかりとりになる。だからして形を描いて見ると斯ういふ風になる(この時圖を描く)。斯ういふ風に圓くして、此處だけが穴があいて居る。さうして此處は即ち前に申す通り明取りと煙出しになつて居る。蒙古人の火を焚くのは此處の中央で、煙は此處を上る。無論家の中で焚くのですが外部は皮で卷きてあるから平素は見えないけれども、今は了解に都合よきやうに見さしたのです(笑聲起る)。それからこの煙出し兼明取りの所はいろいろに色取るのです。此處は或は金を塗る人もあるし、それから黒くする人もあるし、青くする人もある。大抵同じ部族に屬する所のものは彼處の色で區別する。帳幕の色は違はない、此處の色が違ふ。彼處を赤く塗つた人はないけれども――ないこともないでせう、私見て來ないので能く分らないけれども(大笑)、青とか金とか言ふのはあるけれども、赤は餘りないさうです。それから此廣さです。此處から此處の廣さは是れは一樣には無論往かない。身分の高い人は大きい所に居りまして、身分の低い人は小さい處に居ますから一樣には言へないが、併し一番廣いので帳幕の直徑が三十呎です。三十呎四方ですから隨分大きいです。五六間ばかりです。先づ大抵此部屋の長さほどある是れが圓くなつて居りますから無論面積は此部屋よりも隨分廣いです。それからして入口は屹度南向きである。そして其處には皮で幕を垂れてある。それ故帳幕中に入るときはこの皮の幕を押のけて行くのです。其入口の方向は前申す通り必ず南向きである。それは何故かと云ふと是れは蒙古人に限つた譯ではない。北狄は皆さうである。匈奴人でも突厥人でも囘※(「糸+乞」、第3水準1-89-89)人でもさうである。若し南向きでなければ、屹度東向き、西と北の方には決して入口を設けない。何故と云へば蒙古地方で吹く雨風は大抵西の方向か北の方向に定つて居りますから、夫故に南と東へ開け置けば結構です。一體東か南の方であると云ふと日の照りやうも宜しくて温かいですからね。帳幕の中で各人の居場所といふものは定つて居ります(また圖を描く)。中央がさきに述べた通り火を焚く場所、其前が此處が入口、さうすると家の主人の居る所は屹度此處です。此處が主人の臥たり、腰掛けて居つたり坐つたり、總て居る所は此處です。即ち一番北の方で南へ向ひて居る。それから此方の方は一家の女供の居る所、此方は一家の男子の居る所、即ち右側西の方に男が居るし、左側東の方に女が居る。それで是れは人の起臥する帳幕の話でありますが、蒙古人だつて身分に應じていろいろの寶をもつて居る者もありますから、さういふものを臧むるには倉庫がある。其の倉庫と云つても日本の倉庫とは違つて、矢張り帳幕で出來て居る。さきの帳幕と同じ形であるが、もう少し小さくつて丈夫で、それは必ず駱駝に曳かす車の上に載せるやうに出來てある。其倉庫へは寢道具、蒲團とか掻卷とか其外のいろいろの道具寶物を入れてある。其倉庫の數は身分に應じて餘程違ふ。立派な人は百も二百も持つて居る。少い人は一つも持つて居らぬ(笑聲起る)。さうして夫れを斯ういふ風に置く。二十なり三十なり數はどうでも宜いですが、それを必ず住所の帳幕の左右兩邊へ斯ういふ風に置く(この時圖を描く)。車が二十ほどあると此方へ十此方へ十列べて置く。丁度垣の代りになる。是れは決して車から降さぬ。駱駝に曳かした車の上に載せてある。二百もあれば二重にすることもあるし、長くすることもある。又隣りに住所があれば之も同樣に住所の左右へ倉庫を置く故墻が二重になる譯です。倉庫が一つもなければ隣の方の垣を借用する譯です(笑聲起る)。寶や道具を臧めた倉庫を斯ういふことをして置いたら盜人が入りさうなものですが、蒙古人には盜人がない。蒙古人はまるで盜人といふことはしませぬ。後に申す通り蒙古人は絶えず他國へ侵入して物を掠奪する、戰爭をすると必ず敵の財産を掠奪するけれども、蒙古人と蒙古人の間では盜人をし合ない。蒙古人は鍵とか錠といふものを知らない。是れは皮倉庫だから鍵をおろして置かうといふ、そんな考へは起こらぬ。開け放して置いても盜人がない。だから斯うして置いても差支ないのであります。それから蒙古人は時々水草を逐うて家移りをします。其移轉するときはどうするかと云ふと、折角建てた物を壞すことはしない。其儘に大きな車の上に載せる、車の幅はなかなか大きいです。三間以上もある。車の輪から輪まで(此時圖を描いて説明す)、此處から此處まで、大きいやつは二十呎、其上へ建物を其儘載せるです。是れは隨分大きいですけれども、前申す通りに樹の枝位を組合せて其上へ皮を張つてあるのだから、日本の大きな家を移すより遙に輕いです。大勢寄りさへすれば此上へ載せるには何でもない。けれども先程申した通り、此大きいのになると三十呎ありますから、無論幾分かは輪の外へ出る。載せた所を見ると斯ういふ風になる。小さければ無論此車にきちんと載るのです。入口は矢張り斯ういふ風に前に向いて、載せるです。それから之を牛が曳くです。牛は何頭で曳いても動きさへすれば宜いですけれども、餘計なのになると二十二頭で曳くこともある。三頭でも曳くし五頭で曳くこともある。ずつと大きいものになると二十二頭で曳くです。それを前列に十一頭、其後へも十一頭持て來て、それを馭する者が此處へ乘るです。蒙古の牛でも馬でも極めて柔順で、日本のやうに惡荒れをしませぬから、此處で鞭なりを一つ持つて方向さへ示せば、極めて温和しく行くです。是れで家移りをする。是れは男ですが、時によると女でも樂にやる。蒙古の女などは強うございますから、馬に曳かした車の二十輛や三十輛は一人して連れて行くです。途中で馬の荒れることもないのですから、先づ住所の話は夫れ位にして、其次は、
 衣服及び頭飾の話 蒙古人が着ます衣服は、夏は絹或は木綿の物を使ひます。それは大抵支那からして輸入されるのであります。木綿はペルシアからして輸送される。けれども冬は毛皮を着ます。寒い地ですから、其毛皮はロシアから或はその附近のブルガリヤなどから來るのであります。毛皮の衣服を着ました其上へ、蒙古人は大抵二枚の外套を着ます。それは二枚とも毛付きの外套です。一枚の下の方へ着る外套は裏毛になつて居る。それから表へ着る外套は外毛そとげになつて居る。若し蒙古人の外套を着る人を切つて見たら身體の方に向つて毛があるし、外へ向つて毛がある。斯ういふのを二枚着るです。それでは何獸の毛皮を外套にするかと云ふと、狼、それから狐です。それが普通です。狐か狼の皮を外套にする。けれども貧乏人は大抵犬の皮を外套にするのであります。申す迄もなく是等の外套は所謂防寒衣でありまして家に居る時分には帳幕の中に住んで居る故にそんな物は脱いで仕舞ふ。それから蒙古人の男子はひげはありませぬ。全くないことはないけれども甚だ少い。隨つてひげを伸ばすことはありませぬ。若し伸ばしても鼻の下のひげだけ。けれども伸さぬ方が多い。伸ばす人は少い。鼻の下のひげは漢字で髭と書きます。鬚といふのは天神樣のやうなので、榎本さんのやうな耳の下へ伸ばすひげは髯と書きます。髯も鬚も蒙古人は生さぬ、生すのはここの髭だけです。まあ大抵日本の先生方も蒙古人と同じに鼻の下に髭を伸ばして居る(笑聲起る)。それから頭ですが、頭は是れは面白い。是れは未だ能く人が知らぬやうですが、蒙古人は辮髮です。その辮髮も一種特別なであります。この辮髮する人種といふものは現今の清朝人も其一つで、又蒙古人よりずつと前には、支那内地へ國を建てた、南北朝時代の北朝の拓跋魏タクバツギなどは索虜と呼ばれた位だから勿論辮髮をやりましたが、どんな風にしたか委細には知れないのであります。蒙古人も辮髮をしましたが、其の辮髮の仕樣は人が餘り注意せぬですけれども、一寸面白い、蒙古人は頭髮を大半剃り落します。唯前額の上だけ前髮を殘します。この前髮は眉毛の邊まで垂れる、それから此邊りを悉く皆剃つて仕舞ひますが(この時圖を描く)、耳の上に當る此處だけを少し殘して置きます。ここの髮は成るべく伸ばして之を辮みて長く耳の側に垂れる。だからどういふ風に描いたら宜いですか、まあ……私繪が薩張り下手だが斯ういふ風にして(笑聲起る)、斯うです。辮髮を兩方の耳の側へ二本垂れる。前髮を殘して居るだけは可愛らしい。何んですな、日本の蒙古襲來など云ふ圖がありますが、それを能く注意して見ると、二本の辮髮を垂れてあるのがあります。

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