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大秦景教流行中国碑に就いて(たいしんけいきょうりゅうこうちゅうごくひについて)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-4 9:03:20 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

 

所謂西安府の景教碑は、頗る有益のものであるが、同時にその眞僞に就きては議論一定せざる故、且つ又十七世紀の後半以來、一個の歐人もこの碑を親覩せざる故、我が協會は、目下支那在留中のアメリカ宣教師諸君が、適當と信ずる方法によつて、この古碑を調べ、その現状を詳にし、新にその拓本をとり、之を學界に寄與せんことを熱望する。

この決議書は在支那の米國各宣教師の手許に發送されたが、その實行は可なり困難であつた。康煕帝の末期から、雍正帝の初年にかけて、天主教を禁制して以來、宣教師は支那内地に踏み入ることが出來なかつたからである。然るに千八百六十年の北京條約によつて、天主教も耶蘇教も、布教を許可せられ、歐米人の内地旅行が、やや自由になつてから、千八百六十六年に、英國のウイリアムソン(Williamson)とリース(Lees)の二人が西安に出掛けて、始めて金勝寺内の景教碑を探望した。當時の實況は彼等の『北支那旅行』中に載せてある。兔も角も十數年前のアメリカ東洋協會の決議の主意は、この二英國人によつて、始めて實行された譯である。
 明末に景教碑が發掘されると、金勝寺の一隅に移され、碑亭の中に安置されたが、碑亭は何時となく廢※(「土+己」、第3水準1-15-36)した。咸豐九年(西暦一八五九)に韓泰崋カンタイクワといふ者が、訪碑の機會に、重ねて碑亭を建ててこの碑を保護した。その七年後に、ウイリアムソン等の來觀した時には、その碑亭が依然儼存して居つたといふ(37)。所がこの時代から、陝西・甘肅にかけて、十年に亙るマホメット教徒の大騷亂が起つて、西安の金勝寺もこの時燒き拂はれたから、碑亭も恐らく同樣の運命に罹つたものと想はれる。兔に角千八百七十二年に、有名なドイツの地理學者リヒトホーフェン(Richthofen)が、金勝寺の景教碑を來觀した時には、已に碑亭の跡形もなくなつて居つた(38)。要するに千八百七十年前後から、景教碑は瓦礫縱横の間に、風雨の剥蝕に放任するといふ有樣で、尠からず心ある歐米人を憂慮せしめた。殊に英國では、この問題が尤も憂慮せられて、バルフォア(Balfour)やラクーペリ(Lacouperie)の如き學者は、前後してロンドンの『タイムス』紙上に、英國の外務省が支那政府に交渉して、この碑を英國博物館に引き取るべしといふ希望を披瀝した(39)。中にもスティヴンソン(Stevenson)といふ支那在住の宣教師は、實地に就きて景教碑を探訪した後ち、千八百八十六年九月の『タイムス』紙上に、大略左の如き手嚴しい書を寄せて居る(40)。

世界に遍ねく其名を知れた景教碑を、今日の儘に、自然の破壞と人爲の毀損とに對して、何等保護する所なく、荒蕪の間に暴露せしめて置くことは、實に十九世紀の大恥辱といはねばならぬ。吾人はわが當局者が、然るべき手腕家を派遣して、北京の支那官憲に説き、この貴重なる古碑を英國博物館に轉交して、安全なる保護を講ずることに同意せしむる樣盡力せんことを、衷心より希望する。若しこの計畫が實行し難いならば、在北京の外交團諸君の盡力により、支那官憲に勸めて、責ては一の碑亭を建てて、この碑の保護を圖る樣にさせたい。今日に當りて何等か適當な方法を講ぜなければ、この貴重なる景教碑も、早晩廢※(「土+己」、第3水準1-15-36)するに至るであらう。

 多分この氣運に刺戟されて、支那在住の英國人を中心として上海に組織された、皇立アジア協會支部(China Branch of Royal Asiatic Society)でも景教碑保護を決議し、且つその具體的運動に着手し、千八百九十年の二月に、その支部長のヒュース(Hughes)から、北京の外國公使團の主席のドイツ公使ブランド(Brandt)宛に、外交團の盡力によつて、景教碑の保護を支那政府に勸告せんことを申出でた。この申出では快諾され、ブランドは總理衙門にも、また慶親王以下の軍機處の王大臣にも、アジア協會支部の希望を傳達した(41)。その結果中央官憲から西安の地方官憲に命令して、完全な碑亭一宇を建設せしむることになつた。碑亭の建設費として銀百兩支出されたといふが、例の支那官場特有の中飽の爲、千八百九十一年に出來上つた碑亭は、至極粗末な建物で、一年程の間に風に吹き倒されて、景教碑はもとの雨曝の状態となつた。ベルリンのフォルケ(Forke)教授が、その翌年の五、六月の交に、西安に出掛けた時には、碑亭は已に跡形もなかつたというて居る(42)。かくて景教碑はその後十五、六年にして、私が景教碑を往觀した頃まで、依然同一の状態に在つた。
 私は明治四十年の秋に、宇野文學士――今の東京帝國大學教授文學博士宇野哲人君――と同伴で、洛關の遊歴を試みることになり、歳の九月三日に北京を出發し、長驛短亭の間に半個月を過ごし、月の十九日に西安に入り、越えて七日、九月の二十六日に、金勝寺に出掛けて景教碑を實檢した。
 金勝寺は西安の西郭外約三支那里の處にある。寺は同治年間のマホメット教徒の亂に、兵燹に罹つて、今は實に荒廢を極めて居る。併し境内は流石に廣く、南北二町半、東西一町半の間、頽墻斷續といふ有樣で、幾分往昔の面影を偲ばしめる。今の佛殿は兵燹後の再建で、見る影もないが、その後庭には、もと本殿の在つた所と見え、廢磚殘甓累々たる間に、明の萬暦十二年(西暦一五八四)に建てた、精巧な一架の石坊が遺つて、祇園眞境と題してある。その前面に明の成化・嘉靖頃の碑石三四方、何れも寺の由來を誌したものがある。石坊の後すなはち北方約半町ばかりに、隴畝の間に五方の石碑が並立して居るが、東より第二番目がいはゆる景教碑である。その他は大抵乾隆以後の建立で、やはり寺の由來を誌したものが多い。景教碑には碑亭がない。自然人爲の迫害に對して、全然無坊禦である。この碑を世界無二の至寶と尊重しゐる歐米人が、かかる現状を見れば、碑の將來に就いて心を傷め、果ては之をその本國に移して保護を加へたいと騷ぐのも、強ち無理でないと思はれた。
 私は景教碑探望の翌々日に、咸陽・乾州・醴泉方面に、約一週間程旅行して、十月四日の午後、西安に歸着する時、西郭で十數の苦力が、一大龜趺を城内に運び行くのに出遇つた。歸途を急いだ故、別に問ひ質しもせず、その儘寓居に歸着した。所がその當夜西安在住の日本教習の話に、近頃一洋人が、金勝寺内の景教碑を三千兩に買收して、之をロンドンの博物館に賣り込む計畫に着手したのを、巡撫が聞き知つて大いに驚き、俄に景教碑を碑林に移し、その拓本をとるすら、官憲の許可を要するなど、警戒頗る嚴重を加へたと聞いて、途中で目撃した龜趺は、その古さといひ、その大きさといひ、必ず金勝寺の景教碑のそれならんと思ひ當るまま、越えて十月六日の朝、碑林に出掛けて調査すると、果して事實で、景教碑は碑林中に据ゑ付け最中であつた。私は兔に角千年來の所在地であつた、西安と景教碑との因縁のまだ銷盡せないのと、また景教碑が碑林に移されて、支那官憲の保護を受くることになつた結着に滿足して歸寓した。
 私は十月九日に西安を出發して歸途に就いたが、十月十二日の午後、敷水鎭附近で、道の彼方に特別製の大車を目撃した。※(「走+旱」、第4水準2-89-23)車的ばしやのぎよしやに問ひ質すと、何でも洋人の僞造した石碑を、西安から鄭州まで運搬する所で、その運搬を引き受けたのが、彼の朋友であるといふ。私の腦裏に直に、西安の景教碑と關係ある樣な疑惑が浮び上つた。果して然りとせば、此の如き石碑をいつの間に模造したか、又その模造の石碑は、如何なる程度まで原碑に似寄つて居るかと、種々好奇心が起つたけれども、生憎連日の降雨で、淤泥膝をも沒し、その上運搬の石碑は蓆包堅固で、實物を驗べることは到底困難の樣に見受けたから、遺憾ながら割愛して前程を急ぎ、鄭州で宇野君と南北に袂をわかち、私は十月の二十八日に北京に歸着した。
 その翌明治四十一年の一月に、在上海の宇野君から書状が來て、その中に『漢口日報』(Hankou Daily News)に據ると、西安の景教碑買收に盡力した洋人といふは、Danish Journalist と稱するホルム(Fritz von Holm)其人であると書き添へてあつた。私達が西安旅行の途次、九月十四日に、※郷ブンキヤウ[#「門<旻」、404-3]縣の公館の大王廟に投宿した所が、廟主の曹永森といふ道士が、二片の名刺を見せた。一は日本陸軍歩兵少佐日野強とあつた。即ち『伊犁イリ紀行』の著者である。一つは大丹國文士何樂模とあつた。この何樂模が、疑もなくホルム氏である。大丹國文士とは、Danish Journalist の譯、何樂模は即ち Holm の譯である。
 さるにしても私の西安旅行は、景教碑の買收若しくば模造の爲、西安に出掛けたホルム氏と終始したので、往路では偶然その人の名片に接し、西安滯在中はその人との因縁深い景教碑の碑林移轉といふ、この碑にとつては明末出土以來の大事件の實際を目撃し、歸途ではその人の模造碑の運搬されつつあるのに邂逅し、今日は又そのホルム氏から寄贈された景教碑の模型の披露に、紹介の講演をいたすとは、實に不思議の因縁と申さねばならぬ。
 さてホルム氏の景教碑の買收及び模造に關する記事は、その後ち『上海タイムス』(Shanghai Times)その他にも掲載されて、廣く内外の注意を惹くに至つたが、これと同時に、在留外人の間に、碑林に移轉された、景教碑の眞僞に就いて、疑惑を挾む者が出來た。ホルム氏が態※(二の字点、1-2-22)歐洲三界から出掛けて、幾多の金錢と勞力とを費しながら、單なる模造碑(Replica)のみに滿足して歸る筈がない。黄白に目のない支那官吏を買收するのは容易の業である。碑林に移されたのが Replica で、ホルム氏の持ち出したのが原碑に相違ないと主張する者が尠くない。
 かかる風説の高まるに從ひ、支那官憲も大分心配し出した。漢口の税關にその差押へを命じたとか、調査の爲に官吏を派遣したとか、蜚語紛々といふ有樣を呈した。支那の學者達も不安を感じたと見え、學部の陳毅君などは、態※(二の字点、1-2-22)私の寓居に駕を枉げて、私の意見を徴された。幾多の在留日本人からも、同樣の質問を受けた。されど私は之に對して、何等の決答を與へ難い。實をいふと、西安旅行の當時、私は後日かかる重大な問題が發生すべしとは豫期せなかつた。碑林に移轉された景教碑は實見したけれど、かかる疑問に答へ得る程注意して檢査せなかつた。ホルム氏の持ち出した石碑には出遇つたけれど、その實物は親覩せなかつた。口では碑林の原物たるべきを唱へつつ、心ではその反對説を排するだけの、積極的確信を缺いて居つた。
 私は明治四十二年の春に歸朝して、京都帝國大學に奉職することとなり、同年の秋に同僚の上田教授と同伴で、丸善の支店に出掛けた所が、新着のホルム氏の『ネストル教碑』といふ一小册があつた(43)。片々たる小著ではあるが、ホルム氏自身の關係した景教碑事件の顛末を書いてあるから、私にとつて中々棄て難い。殊にこの書によつて、ホルム氏の持ち出したのは模造碑である事實を確め得て、二年來の景教碑に關する疑團も始めて氷解した。
 このホルム氏はデンマーク人で、千八百八十一年にコペンハーゲン(Copenhagen)で生れた。父は外交官であつた關係もあらうが、彼は早く海外生活を營み、義和團の亂の直後に、支那や日本で新聞記者となつた。日本では横濱の Japan Daily Advertiser に勤務して居つたといふ。千九百五年に歐洲に歸つて、暫くロンドンで記者生活を續けたが、千九百七年(明治四〇)の一月に、支那に出掛けて景教碑を買收するか、若くばその原碑を模造する計畫を建てた。かくて彼は米國を經て支那に渡り、その年の五月二日に天津を發し、同月三十日に西安に到着した。六月の十日に彼は始めて金勝寺を訪ひ、景教碑を親閲し、原碑の買收に盡力したが、到底成功覺束なしと見て、更にその模造に取り掛つた。彼は石匠を招いて、原碑と同大同質同量の模造碑の製作を請負はせた。石匠は西安の北九十支那里の富平縣から、同質の石材を切り出して西安に運び、金勝寺の境内で、七月から九月にかけて、模造碑の製作に從事した。仕上つた模造碑と原碑とは、一見しては區別つかぬ程の出來榮えであると、ホルム氏は自慢して居る。
 ホルム氏は十月三日にこの模造碑を西安から搬出する豫定で、その前日の十月二日に、準備の爲め金勝寺に出掛けると、境内が何時になく騷々しい。何事かと聞き質すと、この日意外にも、景教碑は官命で碑林に移轉されることになり、碑石はすでに持ち出されて居つたといふ。景教碑の移轉は、十月の二日から四日まで、前後三日間に跨つたと見える。私が渭北踏査の歸途に、龜趺の運搬されるのを目撃したのは、この最終日の出來事である。兔に角私とホルム氏とは、外國人にして、金勝寺に安置された景教碑の實見者として、最後のものであり、又碑林に移轉された景教碑の實見者として、最初の人であらねばならぬ。同年の夏、私より一二月前に、フランスのシャヴァンヌ(Chavannes)教授や、ロシアのアレキシェーフ(Alexieff)教授が、西安を探訪した筈だが、不幸にして景教碑の移轉といふ大事件に遭遇し得なかつた譯である(44)。

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