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運命(うんめい)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-4 9:19:37 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 初め燕王えんおうの師のづるや、道衍どうえんいわく、師はいて必ずたん、たゞ両日をついやすのみと。東昌とうしょうよりかえるに及びて、王多く精鋭を失い、張玉ちょうぎょくうしなうをもって、意やや休まんことを欲す。道衍曰く、両日は昌なり、東昌の事おわる、これより全勝ならんのみと。益々ますます士を募りいきおいす。建文三年二月、燕王自ら文をせんし、流涕りゅうていして陣亡の将士張玉等を祭り、服するところのほうを脱してこれき、以て亡者ぼうしゃするの意をあらわし、曰く、れ一いえどもや、以て余が心をれと。将士の父兄子弟これを見て、皆感泣して、王のために死せんと欲す。
 燕王ついまた師をひきいてづ。諸将士をさとして曰く、たたかいの道、死をおそるゝ者は必ず死し、せいつる者は必ず生く、なんじ努力せよと。三月、盛庸せいよう來河きょうがう。燕将譚淵たんえん董中峰とうちゅうほう、南将荘得そうとくと戦って死し、南軍また荘得そうとく楚知そち張皀旗ちょうそうき等を失う。日暮れ、おのおの兵をおさめて営に入る。燕王十余騎を以て庸の営にせまって野宿やしゅくす。天く、四面皆敵なり。王従容しょうようとして去る。庸の諸将あいかえりみておどろ※(「目+台」、第3水準1-88-79)るも、天子の詔、朕をして叔父しゅくふを殺すの名を負わしむるなかれの語あるを以て、矢をはなつをあえてせず。このまた戦う。たつよりひつじに至って、両軍たがいに勝ち互に負く。たちまちにして東北風おおいに起り、砂礫されきおもてを撃つ。南軍は風にさからい、北軍は風に乗ず。燕軍吶喊とっかん鉦鼓しょうこの声地をふるい、庸の軍当るあたわずしておおいに敗れ走る。燕王戦んで営にかえるに、塵土じんど満面、諸将もる能わず、語声を聞いて王なるをさとりしという。王の黄埃こうあい天にみなぎるの中にって馳駆奔突ちくほんとつして※(「口+它」、第3水準1-14-88)しった号令せしの状、察すきなり。
 呉傑ごけつ平安へいあんは、盛庸せいようの軍をたすけんとして、真定しんていより兵を率いてでしが、及ばざること八十里にして庸の敗れしことを聞きて還りぬ。燕王、真定の攻め難きを以て、燕軍は回出してかてを取り、営中そなえ無しと言わしめ、傑等をいざなう。傑等之を信じて、遂に※(「濾」の「思」に代えて「乎」、第4水準2-79-10)沱河こだかに出づ。王かわを渡りながれに沿いて行くこと二十里、傑の軍と藁城ごうじょうに遇う。実にうるう三月己亥きがいなり。翌日おおいに戦う。燕将薛禄せつろく[#「薛禄」は底本では「薜禄」]、奮闘はなはつとむ。王驍騎ぎょうきを率いて、傑の軍に突入し、大呼猛撃す。南軍を飛ばす雨のごとく、王の建つるところの旗、集矢しゅうし蝟毛いもうの如く、燕軍多く傷つく。しかも王なお屈せず、衝撃いよいよ急なり。たまたままた※(「風にょう+(犬/(犬+犬))、第4水準2-92-41)ぼうひょう起り、おくひるがえす。燕軍之に乗じ、傑等おおいついゆ。燕兵追いて真定城下に至り、驍将ぎょうしょう※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)※(「晉+戈」、第4水準2-12-85)とうしん※(「周+鳥」、第3水準1-94-62)ちんちゅう等をとりこにし、斬首ざんしゅ六万余級、ことごとく軍資器械を得たり。王の旗を北平ほくへいに送り、世子せいしさとして曰く、これを蔵し、後世をして忘るなからしめよと。旗世子のもとに至る。時に降将こうしょう顧成こせいりて之を見る。成は操舟そうしゅうを業とする者より出づ。魁岸かいがん勇偉、膂力りょりょく絶倫、満身の花文かぶん、人を驚かして自ら異にす。太祖に従って、出入離れず。かつて太祖にしたがって出でし時、巨舟きょしゅうすなこうして動かず。成すなわち便舟を負いて行きしことあり。鎮江ちんこうたたかいに、とらえられてばくせらるゝや、勇躍して縛を断ち、とうを持てる者を殺して脱帰し、ただちに衆を導いて城をおとしゝことあり。勇力察すし。のち戦功をって累進して将となり、しょくを征し、雲南うんなんを征し、諸蛮しょばんを平らげ、雄名世にく。建文元年耿炳文こうへいぶんに従いて燕と戦う。炳文敗れて、成とらえらる。燕王自らその縛を解いて曰く、皇考の霊、なんじもって我に授くるなりと。って兵を挙ぐるの故を語る。成感激して心をし、ついに世子をたすけて北平を守る。しかれども多く謀画ぼうかくを致すのみにして、ついに兵に将として戦うをがえんぜす、兵器をたまうもまた受けず。けだし中年以後、書を読んで得るあるにる。又一種の人なり。のち、太子高熾こうし羣小ぐんしょうためくるしめらるるや、告げて曰く、殿下はただまさに誠をつくして孝敬こうけいに、孳々ししとして民をめぐみたもうべきのみ、万事は天に在り、小人は意をくに足らずと。識見亦高しというべし。成はかくの如き人なり。旗を見るや、愴然そうぜんとして之をそうとし、涙下りて曰く、臣わかきより軍に従いて今老いたり、戦陣をたること多きも、いまかつかくの如きを見ざるなりと。水滸伝すいこでん中の人の如き成をしてこの言をさしむ、燕王も亦悪戦したりというべし。而して燕王の豪傑の心を所以ゆえんのもの、実に王のの勇往邁進まいしん艱危かんきを冒してあえて避けざるの雄風ゆうふうにあらずんばあらざる也。
 四月、燕兵大名だいみょうす。王、斉泰せいたい黄子澄こうしちょうとのしりぞけらるゝを聞き、書をたてまつりて、呉傑ごけつ盛庸せいよう平安へいあんの衆を召還せられんことをい、しからずんば兵をあたわざるを言う。帝大理少卿たいりしょうけい※(「山/品」、第3水準1-47-85)せつがん[#「薛※(「山/品」、第3水準1-47-85)」は底本では「薜※(「山/品」、第3水準1-47-85)」]りて、燕王及び諸将士の罪をゆるして、本国に帰らしむることをみことのりし、燕軍を散ぜしめて、而して大軍をもっそのあとかしめんとす。※(「山/品」、第3水準1-47-85)がん到りてかえって燕王の機略威武の服するところとなり、帰って燕王の語ちょくにして意まことなるを奏し、皇上権奸けんかんちゅうし、天下の兵を散じたまわば、臣単騎たんき闕下けっかに至らんと、云える燕王の語を奏す。帝方孝孺ほうこうじゅに語りたまわく、誠に※(「山/品」、第3水準1-47-85)の言の如くならば、斉黄せいこう我を誤るなりと。孝孺にくみて曰く、※(「山/品」、第3水準1-47-85)の言、燕のため游説ゆうぜいするなりと。五月、呉傑、平安、兵を発して北平の糧道を断つ。燕王、指揮しき武勝ぶしょうりて、朝廷兵をむるを許したまいて、而して糧を絶ち北を攻めしめたもうは、前詔ぜんしょう背馳はいちすと奏す。帝書を得て兵をむるの意あり。方孝孺に語りたまわく、燕王は孝康こうこう皇帝同産どうさんの弟なり、ちん叔父しゅくふなり、われ他日宗廟そうびょう神霊にまみえざらんやと。孝孺曰く、兵一たび散すれば、急にあつむ可からず。彼長駆してけつを犯さば、何を以てこれふせがん、陛下惑いたもうなかれと。しょう錦衣獄きんいごくに下す。燕王きいおおいに怒る。孝孺の言、まことしかり、而して建文帝のじょう、亦あつしというべし。畢竟ひっきょう南北相戦う、調停の事、またす能わざるのいきおいり、今におい兵戈へいかさんを除かんとするも、五しきの石、聖手にあらざるよりは、之をること難きなり。
 このつき燕王指揮しき李遠りえんをして軽騎六千を率いて徐沛じょはいいたり、南軍の資糧をかしむ。李遠、丘福きゅうふく薛禄せつろく[#「薛禄」は底本では「薜緑」]と策応して、く功をおさめ、糧船数万そう、糧数百万をく。軍資器械、とも※(「火+畏」、第3水準1-87-57)かいじんとなり、河水ことごとく熱きに至る。京師これを聞きて大に震駭しんがいす。
 七月、平安へいあん兵を率いて真定より北平に到り、平村へいそんに営す。平村は城をる五十里のみ。燕王の世子せいしあやうきを告ぐ。王劉江りゅうこうを召して策を問う。江すなわち兵を率いて※(「濾」の「思」に代えて「乎」、第4水準2-79-10)こだを渡り、旗幟きしを張り、火炬かきょを挙げ、おおいに軍容をさかんにして安と戦う。安の軍敗れ、安かえって真定に走る。
 方孝孺の門人林嘉猷りんかゆうはかりごとをもって燕王父子をしてあい疑わしめんとす。けい行われずしてむ。
 盛庸等、大同だいどうの守将房昭ぼうしょうげきし、兵を引いて紫荊関しけいかんに入り、保定ほていの諸県を略し、兵を易州えきしゅう西水寨せいすいさいとどめ、けんりて持久の計をし、北平をうかがわしめんとす。燕王これを聞きて、保定失われんには北平あやうしとて、ついに令を下して師をかえす。八月より九月に至り、燕兵西水寨を攻め、十月真定の援兵を破り、あわせて寨を破る。房昭走りてのがる。
 十一月、※(「馬+付」、第4水準2-92-84)馬都尉ふばとい梅殷ばいいんをして淮安わいあん鎮守ちんしゅせしむ。殷は太祖のじょ寧国ねいこく公主こうしゅしょうす。太祖の崩ぜんとするや、其のかたえに侍して顧命を受けたる者は、実に帝と殷となり。太祖顧みて殷に語りたまわく、なんじ老成忠信、幼主を託すべしと。誓書および遺詔を出して授けたまい、あえて天にたがう者あらば、朕がためこれて、と言いおわりてかくれたまえるなり。燕のいきおいようやく大なるに及びて、諸将観望するもの多し。すなわ淮南わいなんの民を募り、軍士をがっして四十万と号し、殷に命じて之をべて、淮上わいじょうとどまり、燕師をやくせしむ。燕王これを聞き、殷に書をおくり、こう金陵きんりょうに進むるを以て辞とす。殷答えて曰く、進香は皇考こうこう禁あり、したがう者は孝たり、したがわざる者は不孝たり、とて使者の耳鼻じびき、峻厳しゅんげんの語をもてしりぞく。燕王怒ることはなはだし。
 燕王兵を起してより既に三年、たたかい勝つといえども、得るところは永平えいへい大寧たいねい保定ほていにして、南軍出没してまず、得るもまたつるに至ること多く、死傷すくなからず。燕王こゝにおいて、太息たいそくして曰く、頻年ひんねん兵を用い、何の時かけん、まさに江に臨みて一決し、また返顧せざらんと。時に京師けいしの内臣等、帝のげんなるをうらみて、燕王をいただくに意ある者あり。燕に告ぐるに金陵の空虚を以てし、かんに乗じて疾進すべしと勧む。燕王遂に意を決して十二月に至りて北平を出づ。
 四年正月、燕の先鋒せんぽう李遠、徳州とくしゅう裨将ひしょう葛進かっしん※(「濾」の「思」に代えて「乎」、第4水準2-79-10)沱河こだかに破り、朱能しゅのうもまた平安の将賈栄かえい衡水こうすいに破りてこれとりこにす。燕王乃ち館陶かんとうより渡りて、東阿とうあを攻め、※(「さんずい+文」、第3水準1-86-53)ぶんじょうを攻め、沛県はいけんを攻めて之を略し、遂に徐州じょしゅうに進み、城兵をおどしてあえて出でざらしめて南行し、三月宿州しゅくしゅうに至り、平安が馬歩兵ばほへい四万を率いて追躡ついせつせるを※(「さんずい+肥」、第3水準1-86-85)ひがに破り、平安の麾下きかの番将火耳灰ホルフイを得たり。このたたかい火耳灰ホルフイ※(「矛+肖」、第4水準2-82-20)ほこって燕王にせまる、あいるたゞ十歩ばかり、童信どうしん射って、その馬につ。馬倒れて王のがれ、火耳灰ホルフイらる。王即便すなわち火耳灰ホルフイゆるし、当夜に入って宿衛しゅくえいせしむ。諸将これをあやぶみてものいえども、王かず。いで蕭県しょうけんを略し、淮河わいかの守兵を破る。四月平安小河しょうかに営し、燕兵河北かほくる。総兵そうへい何福かふく奮撃して、燕将陳文ちんぶんり、平安勇戦して燕将王真おうしんを囲む。しん身に十余そうこうむり、自ら馬上にくびはぬ。あんいよいよせまりて、燕王に北坂ほくはんう。安のほこほとんど王に及ぶ。燕の番騎指揮ばんきしき王騏おうき、馬を躍らせて突入し、王わずかに脱するを得たり。燕将張武ちょうぶ悪戦して敵をしりぞくといえども、燕軍遂にたず。ここに於て南軍は橋南きょうなんとどまり、北軍は橋北に駐まり、あいするもの数日、南軍かて尽きて、を採って食う。燕王曰く、南軍えたり、更に一二日にしてかてやゝ集まらば破り易からずと。すなわち兵千余をとどめて橋を守らしめ、ひそかに軍を移し、夜半に兵を渡らしめてめぐって敵のうしろに出づ。時に徐輝祖じょきその軍至る。甲戌こうじゅつおおい斉眉山せいびざんに戦う。うまよりとりに至りて、勝負しょうはいあいあたり、燕の驍将ぎょうしょう李斌りひん死す。燕また遂にあたわず。南軍再捷さいしょうしてふるい、燕は陳文ちんぶん王真おうしん韓貴かんき、李斌等を失い、諸将皆おそる。燕王に説いて曰く、軍深く入りたり、暑雨連綿として、淮土わいど湿蒸に、疾疫しつえきようやく冒さんとす。小河の東は、平野にして牛羊多く、二ばくまさに熟せんとす。河を渡り地をえらみ、士馬を休息せしめ、げきて動くべきなりと。燕王曰く、兵の事はしんありて退たい無し。勝形成りて而してまた北に渡らば、将士解体せざらんや、公等の見る所は、拘攣こうれんするのみと。すなわち令を下して曰く、北せんとする者は左せよ、北せざらんとする者は右せよと。諸将多く左にはしる。王おおいに怒って曰く、公等みずから之をせと。このときや燕の軍のいきおい、実に岌々乎きゅうきゅうことしてまさに崩れんとするのれり。孤軍長駆して深く敵地に入り、腹背左右、皆我が友たらざる也、北平は遼遠りょうえんにして、しかも本拠の四囲また皆敵たる也。燕の軍戦っててばすなわち可、克たずんば自ら支うる無き也。しこうして当面の敵たる何福かふくは兵多くして力戦し、徐輝祖じょきそは堅実にしてひま無く、平安へいあん驍勇ぎょうゆうにして奇をいだす。我軍わがぐんは再戦して再挫さいざし、猛将多く亡びて、衆心疑懼ぎくす。戦わんと欲すれば力足らず、帰らんとすれば前功ことごとすたりて、不振の形勢あらたあらわれんとす。将卒を強いて戦わしめんとすれば人心の乖離かいり、不測の変を生ずる無きをせず。諸将争って左するを見て王の怒るもまたむべなりというべし。しかれどもこのときいきおい、ただ退かざるあるのみ、燕王の衆意をれずして、敢然として奮戦せんと欲するもの、機をる明確、事を断ずる勇決、実にれ豪傑の気象、鉄石の心膓しんちょうあらわせるものならずして何ぞや。時に朱能しゅのうあり、能は張玉ちょうぎょくと共にはじめより王の左右の手たり。諸将のうちに於て年最もわかしといえども、善戦有功、もとより人の敬服するところとなれるもの、身のたけ八尺、年三十五、雄毅開豁ゆうきかいかつ、孝友敦厚とんこうの人たり。慨然として席を立ち、剣をあんじて右におもむきて曰く、諸君うらくはつとめよ、昔漢高かんこうは十たび戦って九たび敗れぬれどついに天下を有したり、今事を挙げてよりしきりかちを得たるに、小挫しょうざしてすなわち帰らば、さらく北面して人につかえんや。諸君雄豪誠実、あに退心あるべけんや、と云いければ、諸将あいあえものいうものあらず、全軍の心機しんき一転して、生死共に王に従わんとぞ決しける。朱能のち龍州りゅうしゅうに死して、東平王とうへいおう追封ついほうせらるゝに至りしもの、あに偶然ならんや。
 燕軍のいきおい非にして、王のよろいを解かざるもの数日なりといえども、将士の心は一にして兵気は善変せるに反し、南軍は再捷さいしょうすと雖も、兵気は悪変せり。天意とや云わん、時運とや云わん。燕軍の再敗せること京師に聞えければ、廷臣のうちに、燕今はまさに北にかえるべし、京師空虚なり、良将無かるべからず、と曰う者ありて、朝議徐輝祖じょきそ召還めしかえしたもう。輝祖きそむを得ずしてけいに帰りければ、何福かふくの軍のいきおいげて、単糸たんし※(「糸+刃」、第4水準2-84-10)しないすくなく、孤掌こしょうの鳴り難き状を現わしぬ。加うるに南軍は北軍の騎兵の馳突ちとつに備うる為に塹濠ざんごうを掘り、塁壁を作りて営とすを常としければ、軍兵休息のいとますくなく、往々むなしく人力をつくすのうらみありて、士卒困罷こんひ退屈の情あり。燕王の軍は塹塁ざんるいつくらず、たゞ隊伍たいごを分布し、陣を列して門とす。故に将士は営に至れば、すなわち休息するを得、いとまあれば王射猟しゃりょうして地勢を周覧し、きんれば将士にわかち、塁を抜くごとにことごとるところの財物をたまう。南軍と北軍と、軍情おのずから異なることかくの如し。一は人えきくをくるしみ、一は人ようすをたのしむ。彼此ひしの差、勝敗に影響せずんばあらず。
 かくて対塁たいるい日をかさぬるうち、南軍に糧餉りょうしょうおおいに至るの報あり。燕王よろこんでいわく、敵必ず兵を分ちて之をまもらん、其の兵分れて勢弱きに乗じなば、如何いかく支えんや、と朱栄しゅえい劉江りゅうこうりて、軽騎を率いて、餉道しょうどうらしめ、又游騎ゆうきをして樵採しょうさいを妨げみださしむ。何福かふくすなわち営を霊壁れいへきに移す。南軍の糧五方、平安へいあん馬歩ばほ六万をひきいて之をまもり、糧を負うものをしてうちらしむ。燕王壮士万人を分ちて敵の援兵をさえぎらしめ、子高煦こうこうをして兵を林間に伏せ、敵戦いて疲れなばでゝ撃つべしと命じ、ずから師を率いてむかえ戦い、騎兵を両翼とす。平安軍を引いて突至し、燕兵千余を殺しゝも、王歩軍ほぐんさしまねいて縦撃しょうげきし、その陣を横貫し、断って二となしゝかば、南軍ついに乱れたり。何福等これを見て安と合撃し、燕兵数千を殺してこれしりぞけしが、高煦は南軍のつかれたるを見、林間より突出し、新鋭の勢をもて打撃を加え、王は兵をかえしておおい撃ちたり。ここおいて南軍おおいに敗れ、殺傷万余人、馬三千余匹をうしない、糧餉りょうしょうことごとく燕の師にらる。福等は余衆を率いて営に入り、塁門をふさぎて堅守しけるが、福この令を下して、明旦めいたん砲声三たびするを聞かば、かこみを突いて出で、糧に淮河わいかに就くべし、と示したり。しかるにこれまた天かめいか、その翌日燕軍霊壁れいへきの営を攻むるに当って、燕兵偶然三たび砲を放ったり。南軍誤ってこれわが砲となし、争って急に門におもむきしが、元より我が号砲ならざれば、門はふさがりたり。前者は出づることを得ず、後者は急に出でんとす。営中紛擾ふんじょうし、人馬滾転こんてんす。燕兵急に之を撃って、遂に営を破り、衝撃と包囲と共に敏捷びんしょうを極む。南軍こゝに至って大敗収むからず。宗垣そうえん陳性善ちんせいぜん彭与明ほうよめいは死し、何福はのがれ走り、陳暉ちんき平安へいあん馬溥ばふ徐真じょしん孫晟そんせい王貴おうき等、皆とらえらる。平安のとりことなるや、燕の軍中歓呼して地を動かす。曰く、吾等われらこれより安きをんと。争ってあんを殺さんことを請う。安が数々しばしば燕兵を破り、驍将ぎょうしょうる数人なりしをもってなり。燕王其の材勇を惜みて許さず。安に問いて曰く、※(「さんずい+肥」、第3水準1-86-85)ひかたたかい、公の馬つまずかずんば、何以いかに我を遇せしぞと。安の曰く、殿下を刺すこと、くちきとりひしぐが如くならんのみと。王太息して曰く、高皇帝、く壮士を養いたまえりと。勇卒を選みて、安を北平に送り、世子をしてく之をせしむ。安のち永楽七年に至りて自殺す。安等をうしないてより、南軍おおいに衰う。黄子澄こうしちょう霊壁れいへきの敗を聞き、胸をして大慟たいどうして曰く、大事去る、吾輩わがはい万死、国を誤るの罪をつぐなうに足らずと。
 五月、燕兵泗州ししゅうに至る。守将周景初しゅうけいしょくだる。燕の師進んでわいに至る。盛庸せいよう防ぐあたわず、戦艦皆燕のるところとなり、※(「目+干」、第3水準1-88-76)※(「目+台」、第3水準1-88-79)くいおとしいれらる。燕王諸将の策を排して、ただち揚州ようしゅうおもむく。揚州の守将王礼おうれいと弟そうと、監察御史かんさつぎょし王彬おうひんを縛して門を開いてくだる。高郵こうゆう通泰つうたい儀真ぎしんの諸城、また皆降り、北軍の艦船江上に往来し、旗鼓きこ天をおおうに至る。朝廷大臣、自ら全うするの計をして、また立って争わんとする者無し。方孝孺ほうこうじゅ、地をきて燕に与え、敵の師をゆるうして、東南の募兵の至るをたんとす。すなわ慶城けいじょう郡主ぐんしゅりて和を議せしむ。郡主は燕王の従姉じゅうしなり。燕王かずして曰く、皇考の分ちたまえるわがかつ保つあたわざらんとせり、何ぞ更に地をくを望まん、たゞ奸臣かんしんを得るの後、孝陵こうりょうえっせんと。六月、燕師浦子口ほしこうに至る。盛庸等之を破る。帝都督ととく僉事せんじ※(「王+宣」、第3水準1-88-14)ちんせんを遣りて舟師しゅうしを率いて庸をたすけしむるに、※(「王+宣」、第3水準1-88-14)かえって燕にくだり、舟をそなえて迎う。燕王乃ち江神こうじんを祭り、師を誓わしめて江を渡る。舳艫じくろあいふくみて、金鼓きんこおおいふるう。盛庸等海舟かいしゅうに兵を列せるも、皆おおいに驚きおどろく。燕王諸将をさしまねき、鼓譟こそうして先登せんとうす。庸の師ついえ、海舟皆其の得るところとなる。鎮江ちんこうの守将童俊どうしゅんす能わざるを覚りて燕に降る。帝、江上の海舟も敵の用をし、鎮江等諸城皆降るを聞きて、憂鬱ゆううつしてはかりごとを方孝孺に問う。孝孺民をりて城に入れ、諸王をして門を守らしむ。李景隆りけいりゅう燕王にまみえて割地の事を説くも、王応ぜず。いきおいいよ/\せまる。群臣あるいは帝に勧むるにせつこうするを以てするあり、あるい湖湘こしょうに幸するにかずとするあり。方孝孺堅くけいを守りて勤王きんのうの師のきたたすくるを待ち、事し急ならば、車駕しゃがしょくみゆきして、後挙を為さんことを請う。時に斉泰せいたい広徳こうとくはしり、黄子澄は蘇州そしゅうに奔り、徴兵をうながす。けだし二人皆実務の才にあらず、兵を得る無し。子澄は海に航して兵を外洋にさんとしてはたさず。燕将劉保りゅうほ華聚かしゅうつい朝陽門ちょうようもんに至り、そなえ無きをうかがいて還りて報ず。燕王おおいに喜び、兵を整えて進む。金川門きんせんもんに至る。谷王こくおうけい[#「木+惠」、UCS-6A5E、337-8]李景隆りけいりゅうと、金川門を守る。燕兵至るに及んで、ついに門を開いて降る。魏国公ぎこくこう徐輝祖じょきそ屈せず、師を率いて迎え戦う。あたわず。朝廷文武皆ともに降って燕王を迎う。

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