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不尽の高根(ふじのたかね)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-5 9:00:58 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



    六 富士の古道

 この前に来たときは、裾野の路という路は、馬力のわだちのあとで、松葉つなぎにこんぐらがり、太く細く、土が掘れたり、盛り上ったりして、行人を迷わせたところに、裾野らしい特色があったが、今は本街道然たる、一筋路が、劃然かくぜんと引かれて、迷いようもなくなった。
 一合から一合五しゃくの休み茶屋、そこを出ると、雲の海は下になって、天子てんしヶ岳の一脈、その次に早川連巓の一線、最後に赤石山系の大屏風だいびょうぶが、立てつらなっている。富士の噴出する前から、そこに居並んで、もっとも若い富士が、おどろくべく大きく生長して、頭抜ずぬけてくるのを見つめていた山たちである。今後もそうやって見守っているであろう。富士山中で、大宮口の森林として、もっとも名高いモミ、ツガ、ナラ、モミジ、ブナなどの、夏なお寒い喬木きょうぼく帯を通過する。三合目の茗荷谷の小舎では、かけひの水が涼しかった、三合五勺では、名産万年雪を売っている。山の中で、雪を売るということが、一方のむろで、シトロンやミルクキャラメルを売っているのに対して、いかにも原始的で、室でやりそうな商いではないか。三合五勺を出外ではずれると、定規でも当てがってブチきったように、森林が脚下あしもとに落ち込んで、眼の前には黒砂の焼山が大斜行する。虎杖いたどりや去年の実を結んだままのハマナシ(コケモモ)が、砂の上にしがみついている。すんだ空は息吹がかかったように、サッと曇って、今までどこにいたろうと思われる霧がかかる。木山と石山の境は、やがて白明と暗霧の境界線であった。
 四合目となると、室も今までのように木造でなく、石を積み重ねた堡塁ほうるい式の石室となる。海抜二千四百五十米、寒暖計六十二度、ここで大宮口の旧道と、一つになるのだと強力ごうりきはいう。
 私は、前に大宮口はもっとも低いところから、日本で一番高いところに登る興味だと述べた。しかし、も一つある。それは大宮口こそ、富士のあらゆる登山道で、もっとも古くから開けた旧道むしろ古道であることだ。だが、それは今私たちの取った道ではない。大宮浅間神社の裏から粟倉、村山を経て、札打、天照教まで大裾野を通り、八幡堂近くから、深山景象の大森林帯を通過し、約二千メートルの一合目直下から灌木帯を過ぎて今の四合目まで出る道がそれだ、陰にして密なる喬木帯のモミやツガから、ぶら下る長いサルオガセ、濃い緑の蘚苔せんたい類と混生する大久保羊歯しだの茂り具合などは、まだ目に残っている。そればかりではない、足利時代の『鷹筑波集』からも、猿楽さるがく狂言からも、また貞徳ていとくの「独吟百韻」からも、富士もうでの群衆のざわめきは、手に取るように聞えるが、それらの参詣者は、皆この村山口を取ったものであるらしい。今川家御朱印(天文二十四年)にも、村山室中で魚を商なってはならぬとか、不浄の者の出入を止めろとか禁制があって、それには、この村山なる事を明示している。富士の表口というのは、大宮口であるが、つまるところ村山口であったのだ。私がこの道を取って登山したのは約十七、八年前であったが、その当時、既に衰微して、荒村行をするに恰好かっこうな題目であったが、まだしも白衣の道者も来れば、御師おしも数軒は残っていたが、今度来て聞くとかなしいかな、村山では御師の家も退転してしまい、古道は木こりや炭焼きが通うばかりで、道路も見分かぬまでに荒廃に任せているという。私が知ってからでも、その当時新道なるものが出来て、仏坂を経てカケス畑に出で、馬返しから四合半で古道に合したものだが、これも長くは続かず、私たちの今度取った路は最新のもので、二合目で前の新道なるものを併せ、四合目で村山からの古道を合せている。富士のようなむきだしの石山で、しかもふところの深くない山ですら、道路の変遷と盛衰はこのように烈しい。
 アルプスにも似た例がある。近代氷河学の祖なるルイ・アガシイ先生は、旧記を調査して、偶々たまたま第十六世紀の宗教戦時代に、スイスの Valais の村民が他宗派の圧迫をこうむり、子供たちを引き連れ、Aletsch 氷河の遠方まで、Viesch 谷に沿うて、アルプス山を横切ったとあるを見つけだし、今は到底ゆける路ではないと不審を起して、氷河を踏査せられたところ、Aletsch 大氷河が被覆ひふくしている底に、立派に保存せられた旧道路を発見せられた旨を記述せられている(Geological Sketches 第二輯、一八七六年刊)。氷河のない富士山は破壊力においてすら微温的であるから、時に雪なだれで森林を決壊し、ぎを作ることはあっても、現に今度の大宮口でも、三合目の茗荷岳を左に見て登るころ、森林のある丸山二座の間を中断して、「なだれ」の押しだした痕跡を、明白に認められることは出来ても、人間がこわす道路の変遷の甚だしいのにはおよばない。後の富士登山史を研究する者が、恐らく万葉以来、一般登山者の使用した最古道、村山口の所在地を、捜索に苦しむ時代が来ないとも限らないから、私は大宮口の人たちに、栄える新道はますます守り育てて盛んにすべきであるが、古道の村山を史蹟としても、天然記念物としても、純美なる森林風景としても、保存の方法を講ぜられんことを望む。
 我祖先が、始めて神秘な山へ印した足跡を、大切に保存しないということは、永久に続く登山者をも、やがて忘却してしまうことだ。それではあまりに冷たく、さびしくはないか。私はなお思う、古くして滅びゆくもの、皆美し。

    七 石楠花

 いつごろからのいいならわしか、富士の五合目を「天地の境」と称している。五合目では、実際人の気も変る、誰もわらじの緒を引き締める。私は吉田口の五合目に一泊したが、夜中絶えず、人声と鈴音がする。起きて見ると、眼の前の阪下から、ぬっと提燈ちょうちんが出る、すいと金剛杖が突き出る。それが引っ切りなしだから、町内の小火ぼやで提燈が露路ろじに行列するようだ。大抵の登山者は、ここで一息いれる、水を飲む、床几しょうぎにごろりと横になるのもある。五合目は山中の立場たてばである。
 私は、御中道をするために、荷担にかつぎ一人連れて、小御岳神社の方面へと横入りをした。「みちが違うぞよ」「そっちへゆくでねえぞ」遠くから呼ばった人の親切は、心のうちで受けた。水蒸気があまりにこまやかであったため、待ち設けなかった御来光が、東の空にさした。しかし旭日章旗のような光線の放射でなく、大きな火の玉というよりも、全身爛焼らんしょうの火山その物のように、赤々と浮び上った。天上の雲が、いくらか火を含んで、青貝をすったようなつやが出る。それが猫眼石のように、あわただしく変る。大裾野の草木が、めらめらと青く燃える。捨てられた鏡のような山中湖は、反射が強くて、ブリッキ色に固く光った。道志山脈、関東山脈の山々の衣紋えもんは、りゅうとして折目を正した。思いがけなく、落葉松からまつの森林から鐘が鳴った、小刻みな太鼓が木魂こだまのように、山から谷へと朝の空気を震撼しんかんした。神主の祝詞のりとが「聞こし召せと、かしこみ、かしこみ」と途切れ途切れに聞える時には、素朴な板葺いたぶきのかけ茶屋の前を通って、はや小御岳神社へともうでるころであった。神社の庭には天狗がおもちゃにするというまさかり、かま、太刀などが、散乱している。室の人が、杖に「大願成就」という焼印を押してくれた上に、小御岳の朱印を押した紙に、水引を添えてくれた。これはしかし吉田口の五合目から、富士に向って、左に路を取り、宝永山の火口壁から、その火口底へ下り、大宮方面の大森林に入って、大沢の嶮を越え、小御岳へ出るのが順で、始めて「大願成就」になるのだが、私は故あって、逆に山に向って右廻りをした。そのため一歩踏み出したばかりで、御褒美ごほうびの水引きを先へ頂戴してしまった。これは逆廻りといって、道者はむのだそうで、案内者をもって自任する荷担ぎの男は、私から右の水引と朱印を取りあげて、遂に返してもらえなかった。
 何故なぜ逆廻りをしたかといえば、御中道は、前にも廻っているんだが、小御岳から御庭を通じて、大宮道へ出遇うまでの、森林の石楠花しゃくなげを見たかったのだ。それには毎日午後から雷雨と聞いているから、晴れた朝によく見て置きたいと思ったからだ。幸いにして、石楠花を見る目的は、十分に遂げられた。同時に不幸にして、雷雨の予覚は当り過ぎるほど当った。
 神社を出て、富士の胴中どうなかに、腹帯を巻いたような御中道へとかかる、この前後、落葉松が多く、幹を骸骨のように白くさらし、雪代水ゆきしろみずや風力のために、山下の方へと枝を振り分けて、うつむきにっている、落葉松の蔭には、石楠花がちらほら見えて、深山の花の有する異香をくんじているが、路が御庭へ一里、大沢へ約二里と、森の中へ深いりすると、落葉松の間から、コメツガや、白ビソの蔭から、ひょろ長い丈の石楠花が、星のようにちらつく。それも、横に曲りくねった、普通平地で見るような石楠花でなく、白花石楠花である。高さは一丈以上に達したのも珍しくない。つばきの葉を見るような、厚い革質のくすんだ光沢つやがあって、先端の丸い、細長い楕円形の葉を群がらしている。その裏返しになったところは、白蝋はくろうを塗ったようで、赤児の頬の柔か味がある。美しいのはその花弁だ。白花という名をかむらせるくらいだから白くはあるが、花冠の脊には、岩魚いわなの皮膚のような、薄紅うすべにの曇りがし、花柱を取り巻いた五裂した花冠が、十個の雄蕊ゆうずいを抱き合うようにして漏斗じょうごの鉢のように開いている。しかもその花は、一つのこずえの尖端に、十数個から二十ぐらい、鈴生すずなりにむらがって、波頭のせり上るように、噴水のたぎるように、おどっているところは、一個大湊合だいそうごうの自然の花束とも見られよう、その花盛りの中に、どうかすると、北向きに固く結んだつぼみが見える。つぼみと、それを包むとうとは、赤と白とを市松格子形いちまつこうしがた互層ごそうにして、御供物おくもつの菓子のように盛り上っている。花として美しく開くものは、つぼみとしてまず麗わしく装わねばならなかった。私は平原の草野において、山百合の花を愛し、深山の灌木において、もっとも白花石楠花を愛する。
 殊に白花石楠花は、日本の名ある火山に甚だ多く(もちろん火山以外にも、少ないとはいわぬ)、近いところでは、天城山、八ヶ岳にも繁茂しているし、加賀の白山にも多いところから、白山石楠花とも呼ばれているくらいであるが、高山植物の採集家として聞えた故城数馬氏は、日光の湯ノ湖を取り囲む自然生の石楠花の、いかに多く茂っていたかを、私に物語られ、今では蕩尽とうじんされて、僅に残株ざんしゅを存するばかり、昔のおもかげは見る由もないとなげかれたが、小御岳から、大沢をはさんで、大宮口に近い森林まで、純美なる白石楠花の茂っていることは、私をよろこばせる。安政六年版の玉蘭斎貞秀画、富士登山三枚続きの錦絵には、「小御岳、花ばたけ、しゃくなぎ多し」とあるから、昔から多かったものと見える。お花畑の名が、富士にあるのも珍らしい。
 黒砂の道は、去年ながらの落葉をめこんで、足障あしざわりが柔かく、陰森なる喬木林から隠顕する富士は赤ッちゃけた焼土で、釈迦しゃか割石わりいしと富士山中の第二高点、見ようによっては、剣ヶ峰より高く見える白山ヶ岳の危岩が仰がれ、そのくぼみには、シャモニイの氷河の古典的なるが如くに、富士の万年雪を、古典的にしたところの残雪が、べっとりと塗りこめられて光っている。これも貞秀の錦絵に「牛が窪、四時雪あり」とあるから、昔ながらの雪と見えるが、今ではかえって、ここの万年雪を、人が言わないようだ。それと共に、もし富士山に北米レイニーア火山のような氷河が放射していたならば、今の白石楠花の茂りは押し流されて見るべくもないから、私は現在の万年雪で満足し、花と雪を併せ有することを悦びとしたい。
 それからまた、私はこのたびの登山が、七月から八月へかけてであったことを悦んでいる。十月では野にこの青味がない、五月では山にこの花がない。今は青い草と花があって、完全に山と裾野の美を示している。沈黙してたたずんでいると、うぐいす鳴き、ホトトギス鳴き、カケスが鳴き、眼覚めた鳥が、一せいに声を合せて鳴き立てる。虫の声がその間に交る。ここ「天地の境」五、六合目の等高線、森林を境として、山を輪切りにしたところの御中道を彷徨ほうこうする私は、路の出入に随って、天に上り、地を下る、その間を、鳥と、虫と、石楠花が、永久安棲あんせいの楽土としている。
 ここに石楠花にとろけている生物が二個ある、一個は私である、一個は石楠花の花の中に没頭して、毛もくじゃらの黄色い毛だらけの尻を、さかしまに持ちあげ、蜜を吸い取っているアブである。私はアブに気がついたほど、まだ余裕があったが、アブの方では、人間などに傍目わきめも触れず、無念無想に花の蜜の甘美に酔っている。だが遂にアブばかりでなかった、石楠花の甘ずっぱい香気は私を包み、アブを包み、森に漂って、樹々の心髄までしみ透るかのように、私までがアブの眷属けんぞくになったかのように。
 この石楠花に対して、武田久吉博士は、シロシャクナゲなる名を用いておられる、博士によれば、シロシャクナゲは、本州中部の高山から、北海道にまで分布し、多数の標本を集めて見ると、葉裏全く無毛のものと、淡褐色の微毛の密生するものとある、無毛のものは、花の色が、白から淡黄に至り、殆ど淡紅うんを帯びることがないが、有毛のものは、紅暈を帯びる、近来無毛のものを、ウスキシャクナゲと称し、有毛の方を、シロシャクナゲと呼んで、これを一変種と認めるが、総称する場合には、ハクサンシャクナゲと呼ぶのが、適当と考えられると(『高山植物写真図聚』解説参照)。

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