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ピエロ伝道者(ピエロでんどうしゃ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-6 6:17:54 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: 坂口安吾選集 第一巻小説1
出版社: 講談社
初版発行日: 1982(昭和57)年7月12日
入力に使用: 1982(昭和57)年7月12日第1刷
校正に使用: 1982(昭和57)年7月12日第1刷

底本の親本: 「青い馬」創刊号
出版社: 岩波書店
初版発行日: 1931(昭和6)年5月1日

 

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。
 屋根の上で、竹竿を振り廻す男がいる。みんなゲラゲラ笑ってそれを眺めている。子供達まで、あいつは気違いだね、などと言う。僕も思う。これは笑わない奴の方が、よっぽどどうかしている、と。そして我々は、痛快に彼と竹竿を、笑殺しようではないか!
 しかし君の心は言いはしないか? 竹竿を振り廻しても所詮はとどかないのだから、だから僕は振り廻す愚をしないのだ、と。もしそうとすれば、それはあきらめているだけの話だ。君は決して星が欲しくないわけではない。しかし僕は、そういう反省を君に要求しようと思わない。又、「大人」になって、人に笑われずに人を笑うことが、君をそんなに偉くするだろうか? なぞとききはしない。その質問は君を不愉快にし、又もし君が、考え深い感傷家なら、自分の身の上を思いやって悲しみを深めるに違いないから。
 僕は礼儀を守ろう! 僕等の聖典に曰く、およそイエス・ノオをたずぬべからず、そは本能の犯す最大の悪徳なればなり、と。又曰く、およそイエス・ノオをたずぬべからず。犬は吠ゆ、これ悲しむべし、人は吠えず、吠ゆべきか、吠えざるべきかに迷い、迷いて吠えず、故に甚しく人なり、と。
 竹竿を振り廻す男よ、君はただ常に笑われてい給え。決して見物に向って、「君達の心にきいてみろ!」と叫んではならない。「笑い」のねうちを安く見積り給うな。笑い声は、音響としては騒々しいものであるけれど、人生の流れの上では、ただ静粛な跫音である時がある。竹竿を振り廻す男よ、君の噴飯すべき行動の中に、泪や感慨の裏打ちを暗示してはならない。そして、それをしないために、君の芸術は、一段と高尚な、そして静かなものになる。

 日本のナンセンス文学は、行詰っていると人々はいう。途方もない話だ。日本のナンセンス文学は、まだナンセンスにさえならない。井伏氏や中村氏の先駆者としての立派な足跡は認めなければならない。そして彼等はよき天分をもつ芸術家である。しかし正しい見方からすれば、あれはナンセンスではない。ことに中村氏は、笑いの裏側に、常に心臓を感じさせようとする。そして或時は奇術師のように、笑いと涙の混沌をこねだそうとする。ナンセンスは「意味センス無しノン」と考えらるべきであるのに、今、日本のモダン語「ナンセンス」は「悲しき笑い」として通用しようとしている。此の如き解釈を持つモダン人種のために、「悲しき笑い」は美くしき奇術であるかも知れない。そして中村氏のナンセンスは彼等を悲しますかも知れない。しかし、人を悲しますために笑いを担ぎ出すのは、むしろ芸術を下品にする。笑いは涙の裏打ちによって静かなものにはならない。むしろその笑いは、騒がしいものになる。チャップリンは、二巻物の時代だけでも立派な芸術家であったのだ。
 いつであったかセルバンテスのドン・キホーテは最も悲しい文学であると、アメリカの誰かが賞讃していたのを記憶している。アメリカらしい悪趣味な讃辞であると言わなければならない。成程、空想癖のある人間ならば、ドン・キホーテの乱痴気騒ぎを他人ごとでは読みすごせない。我々は、物静かな跫音に深く心を吸われる。それでいい。なぜ「笑い」が「笑い」のまま芸術として通用できぬのであろうか? 笑いはそんなにも騒々しいものであろうか? 涙はそんなにも物静かなものであろうか?

 すべて「一途」がほとばしるとき、人間は「歌う」ものである。その人その人の容器に順って、悲しさを歌い、苦しさを歌い、悦びを歌い、笑いを歌い、無意味を歌う。それが一番芸術に必要なのだ。これ程素直な、これ程素朴な、これ程無邪気なものはない。この時芸術は最も高尚なものになる。素直さは奇術の反対である。そして、この素直さから、その人柄にしたがって、涙の裏打をした笑いがほとばしるなら、それはそれで一番正しい。そして中村氏は、かなり本質的に、「悲しき笑い」の持ち主ではある。しかし中村氏は、往々にして無理な奇術を弄している。それはいけない。

 日本では、本質的なファースとして、古来存在していたものは、客席だけのようである。勝れた心構えの人によって用いられたなら、落語も立派な芸術になる筈である。昔は知らない。少くとも今の寄席は、遺憾ながら話にもならない。僕の知る限りで、「莫迦々々しさ」を「歌」った人は、数年前に死んだ林屋正蔵。今の人では、古今亭今輔。それだけ。

 日本のナンセンス文学は、涙を飛躍しなければならない。「莫迦々々しさ」を歌い初めてもいい時期だ。勇敢に屋根へ這い登れ! 竹竿を振り廻し給え。観衆の涙に媚び給うな。彼等から、それは芸術でない、ファースであると嘲笑されることを欣快とし給え。しかしひねくれた道化者になり給うな。寄席芸人の卑屈さを学び給うな。わずかな衒学をふりかざして、「笑う君達を省みよ」と言い給うな。見給え。竹竿を振り廻す莫迦が、「汝等を見よ!」と叫んだとすれば、おかしいではないか。それは君自身をあさましくするだけである。すべからく「大人」になろうとする心を忘れ給え。
 忘れな草の花を御存じ? あれは心を持たない。しかし或日、恋になやむ一人の麗人を慰めたことを御存じ?
 蛙飛び込む水の音を御存じ?





底本:「坂口安吾選集 第一巻小説1」講談社
   1982(昭和57)年7月12日第1刷発行
底本の親本:「青い馬 創刊号」岩波書店
   1931(昭和6)年5月1日
初出:「青い馬 創刊号」岩波書店
   1931(昭和6)年5月1日
入力:高田農業高校生産技術科流通経済コース
校正:小林繁雄
2006年7月4日作成
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