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二都物語(にとものがたり)01 上巻

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-7 7:25:14 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


    第二章 駅逓馬車

 十一月もおそくのある金曜日の夜、この物語と交渉のある人物の中の最初の人の前に横わっていたのは、ドーヴァー街道であった。そのドーヴァー街道は、その人の前にと同じく、シューターズヒル★をがたがたと登ってゆくドーヴァー通いの駅逓馬車の先に横わっているのであった。その人は駅逓馬車の脇に沿うて泥濘の中を阪路を歩いて登っていたのであるが、他の乗客たちもやはりそうしていた。それは、何も彼等がこういう場合に少しでも歩行運動に趣味を持っていたからではなく、その丘も、馬具も、泥濘ぬかるみも、馬車も、みんなひどく厄介なものだったので、馬どもはそれまでにもう三度も立ち停ったし、おまけに一度などは、ブラックヒース★へ馬車を曳き戻そうという反抗的な意思をもって、街道を横切って馬車を牽き曲げたからなのである。しかし、手綱と鞭と馭者と車掌とが、一緒になって、放置しておけば、動物の中には理性を賦与されているものもいるという議論に非常に都合のよくなる目論もくろみを、禁止するところのあの軍律を、読み聞かせた★のだ。それで、馬どもも降参して、彼等の任務をまたやり出したのだった。
 彼等は、頭をうなだれ尾を震わせながら、折々は、四肢の附根つけねのところで潰れはしないかと思われるくらいに、足掻あがいたりつまずいたりして、どろどろの泥の中を進んで行った。馭者が、油断なく「どうどう! はい、どうどう!」と言いながら、彼等を立ち止らせて休ませるたびに、左側の先導馬は、いかにも並外れて勢のある馬らしく――頭や頭に附いているすべてのものを激しく振り動かし、こんな丘へこんな馬車を曳き上げるなんてことが出来るものかと言っているようだった。その馬がそういう音を立てるたびごとに、例の旅客は、神経質な旅客ならするように、びくっとして、心がどきどきするのであった。
 谷間という谷間には濛々もうもうたる霧がたちこめていた。そして、悪霊のように、安息を求めて得られずに、寄るべなく丘の上へさまよい上っていた。じっとりした、ひどく冷い霧、それが、荒れた海の波のように、目に見えて一つ一つと続いて拡がっているさざなみをなして、空中をのろのろと進んで来る。馬車ランプの燃えているのと、その附近の道路の数ヤードとを除いては、何もかもランプの光から遮っているくらいに、濃い霧だった。そして、喘ぎながら曳っぱっている馬の立てる湯気がそれとまじり、その霧がみんな馬の吐き出したものかと思われるほどであった。
 例の旅客のほかに、もう二人の旅客が、その駅逓馬車の脇に沿うて丘をのそりのそりと登っていた。三人とも、耳の上も頬骨のところまでも身をくるんでいて、膝の上までの大長靴を穿いていた。この三人の中の誰一人も、自分の見たことからは、他の二人のどちらかがどういうたぐいの人物であるか言えなかったろう。また、銘々は、自分の二人の道連みちづれの肉眼に対してと同様に、彼等の心眼に対しても、ほとんど同じくらいたくさんのものを纒って自分を隠していた。その頃の旅人は、ちょっと知り合っただけで打解けることをひどく嫌っていたのである。というのは、道中で逢う人間は誰であろうと、それが追剥か、追剥とぐるになっている者であるかもしれなかったからである。その追剥とぐるになっているということなら、何しろ、宿駅★という宿駅、居酒屋という居酒屋には、亭主から一番下っぱの怪しげな厩舎係までにわたって、「首領キャプテン」の手当を貰っている者が誰かしらいるという時代では、それはいかにもありそうなことなのだ。そんなことをドーヴァー通いの駅逓馬車の車掌が腹の中で思ったのは、一千七百七十五年の十一月のその金曜日の夜、シューターズヒルをがたがた登りながらのことで、その時、彼は馬車の後部にある自分だけの特別の台に立って、足をどんどんと踏み、自分の前にある武器箱に目と片手とを離さずにいた。その武器箱の中には、彎刀わんとうを一番下にして、その上に七八挺の装薬した馬上拳銃が置いてあり、それの上に一挺の装薬した喇叭銃が載せてあったのだ。
 このドーヴァー通いの駅逓馬車は、車掌が乗客をうたぐり、乗客たちは相互に疑り車掌を疑り、みんなが他の者を一人残らず疑り、馭者は馬よりほかのものは何も信用しないという、それのいつも通りの和気靄々わきあいあいたる有様であった。その馬については、それらがこの旅行には適していないということを、馭者は潔白な良心をもって両聖約書にかけて宣誓することでも出来た。
「どうどう!」と馭者が言った。「はい、どう! もう一度ぐっと曳っぱりゃ、てっぺんだぞ、いまいましい奴め。手前てめえたちをそこまで漕ぎつけさせるにゃあおれあずいぶん骨を折ったからな! ――ジョー!」
「おうい!」と車掌が答えた。
何時なんじだろうね、ジョー?」
「十一時たっぷり十分過ぎてるよ。」
「驚いたな!」といらいらした馭者は叫んだ。「それでいてまだシューターズのてっぺんへ著けねえんだぜ! ちえっ! やい! そら行け!」
 例の勢のある馬は、断乎としていうことをきかないでいたところへ鞭でぴしりとやられたので、今度は断然とき登り出した。すると他の三頭の馬もそれに倣った。もう一度ドーヴァー通いの駅逓馬車はがたごとと動き出し、乗客たちの大長靴もその脇に沿うてぴしゃりぴしゃりと進んで行った。馬車が止る時には彼等は止り、それとぴったりくっついていた。もし、その三人の中の誰でも一人が、他の者に、霧と闇との中へ少し先に歩いて行こうではないかと言い出すような、大胆なことをしようものなら、彼は自分を追剥としてたちどころに射殺されるようにするようなものであったろう。
 最後の疾駆で馬車は丘の頂上に達した。馬はまたいきをつぐために立ち止り、車掌は下りて来て、下り坂の用心に車輪に歯止はどめをかけ、乗客を入れるために馬車のドアけた。
「しっ! ジョー!」と馭者は、馭者台から見下しながら、警告するような声で叫んだ。
「何だい、トム?」
 彼等は二人とも耳をすました。
「馬が一匹緩駈ゆるがけでやって来るぜ、ジョー。」
いや、馬が一匹疾駈はやがけでだよ、トム。」と車掌は答えて、ドアを掴んでいる手を放し、自分の席へひらりと跳び乗った。「お客さん方! よろしいですか、皆さん!」
 大急ぎでこう頼むと、彼は喇叭銃に撃鉄をかけ、撃つ身構えをした。
 この物語に既に記載されている例の旅客は、馬車の踏台に乗って、入りかけていた。他の二人の旅客は、彼のすぐ後にいて、続いて入ろうとしていた。彼は、半身を馬車の中に、半身を馬車の外にしたまま、踏台に立ち止った。他の二人は道路の彼の下に立ち止った。彼等三人は馭者から車掌へ、車掌から馭者へと眼をやり、そして耳をすました。馭者は振り返って見、車掌も振り返って見、例の勢のある馬でさえ、逆らいもせずに、耳をそばたて振り返って見た。
 夜の静かな上に、馬車のがらがらごとごという音がんだための静けさが加わって、あたりは全くひっそりしてしまった。馬の喘ぐのが伝わって馬車がぶるぶる震動し、ちょうど馬車が胸騒ぎしてでもいるようだった。旅客たちの心臓はおそらく聞き取れそうなくらいに高く鼓動していたろう。とにかく、そのひっそりしている合間は、人々が息を殺し、固唾かたずを呑み、何事が起るかと思って動悸を速めている様子を、聞えるほどにあらわしたのであった。
 疾駈はやがけで来る馬の蹄の音が猛烈に丘を上って来た。
「おうい!」と車掌は呶鳴れるだけの大きな声で呼びかけた。「こらあ! 止れ! 撃つぞ!」
 馬の歩みはぴたりと止められた。そして、頻りに泥をはねかす音と足掻あがく音がすると共に、霧の中から一人の男の声が聞えて来た。「それあドーヴァー通いの馬車かい?」
「何だろうといらぬお世話だい!」と車掌が言い返した。「おめえこそ何者だ?」
「それあドーヴァー通いの馬車なのかい?」
「どうしてそんなことを知りてえんだ?」
「もしそうなら、わっしはお客さんに用があるんだよ。」
「何というお客さんだい?」
「ジャーヴィス・ロリーさんだ。」
 例の記載ずみの旅客はただちにそれが自分の名前であるということを告げ知らせた。車掌と、馭者と、他の二人の旅客とは、胡散うさんそうに彼をじろじろ見た。
「そこにじっとしていろよ。」と車掌が霧の中の声に呼びかけた。「もしおれが間違まちげえをやらかすとなると、そいつあおめえの生涯中取返しがつかねえんだからな。ロリーって名前のお方、じかに返事してやって下せえ。」
「どうしたのだね?」と、その時、例の旅客は穏かに震えた口振りで尋ねた。「わたしに用があるというのは誰だね? ジェリーかい?」
(「あれがジェリーってえんなら、そのジェリーてえ奴の声が、おれにゃ気にくわねえよ。」と車掌がひとりでぶつぶつ言った。「あいつはおれの気に入らねえほどのしゃがれ声をしていやがるよ、あのジェリーはな。」)
「そうですよ、ロリーさん。」
「どうしたのだい?」
「あっちの向うからあなたの後を追っかけて急ぎの書面を持って来ましたんで。T社で。」
「わたしはあの使いの者を知っていますよ、車掌。」とロリー氏は言って、道路へ下りたが、――彼が下りるのを背後から他の二人の旅客は丁寧にというよりは素速く手助けし、その二人はすぐに馬車の中へもぐり込んで、ドアめ、窓も引き上げてしまった。「あの男なら近くへよこしても大丈夫だ。何も間違いはないから。」
「なけりゃいいが、わしにゃあそいつがほんとに信じられねえ。」と車掌が無愛想なひとごとのように言った。「おういおい!」
「よしよし! おうい!」とジェリーは前よりももっとしゃがれ声で言った。
「並足で来るんだぞ。いいか? それからもしお前がその鞍にピストル袋をつけてるんなら、手をそいつの近くへやるのをおれに見せねえようにしろよ。何しろおれは間違まちげえをするなあ悪魔みてえにはええんだからな。そしておれが間違まちげえをやらかす時にゃ、きっと鉛弾丸だまでやるんだからな。さあ、もうやって来い。」
 一頭の馬と乗手との姿が、渦巻いている霧の中からのろのろと出て来て、例の旅客の立っている、駅逓馬車の脇のところまでやって来た。その乗手は身を屈め、それから、車掌をちらりと仰ぎ見ながら、一枚の小さく折りたたんだ紙片を旅客に手渡しした。乗手の馬は息を切らしていて、馬も乗手も両方とも、馬の蹄から男の帽子まで、泥まみれになっていた。
「車掌!」と旅客は、平静な事務的な信頼の語調で、言った。
 用心深い車掌は、右手を自分の持ち上げている喇叭銃の台尻に、左手をその銃身にかけ、眼を騎者に注ぎながら、ぶっきらぼうに答えた。「へえ。」
「何も懸念することはない。わたしはテルソン銀行のものだ。ロンドンのテルソン銀行はお前さんも知っているに違いない。わたしは用向でパリーへ行くところなのだ。酒代さかてに一クラウン★あげるよ。これを読んでいいね?」
「速くして下さいますんならね、旦那。」
 彼は自分のいる側の馬車ランプの明りの中にそれをけて、そして読んだ、――最初は口の中で、次には声を立てて。「『ドーヴァーにてお嬢さんマムゼールを待て。』と。長くはないだろう、ねえ、車掌。ジェリー、こう言ってくれ。わたしの返事は、甦る、というのだった、とね。」
 ジェリーは鞍の上でぎょっとした。「そいつあまたとてつもなく奇妙な御返事ですねえ。」と彼は精一杯のしゃがれ声で言った。
「その伝言ことづてを持って帰りなさい。そうすれば、わたしがこれを受け取ったことが、手紙を書いたと同じくらいに、先方にわかるだろうからね。出来るだけ道を急いで行きなさい。じゃ、さようなら。」
 そう言いながら、旅客は馬車のドアけて入った。が、今度は相客たちは少しも彼の手助けをしなかった。彼等は自分の懐中時計や財布を長靴の中へ手速く隠し込んでしまって、その時はすっかり眠っている風をしていたのだ。それは、特にはっきりした目的があってのことではなく、ただ、何等かの他の種類の行動の原因を作るような危険を避けるためなのであった。
 馬車は再びがらがらと動き出し、下り坂へ来かかると、前よりももっと濃い環を巻いた霧が周りに迫って来た。車掌はまもなく喇叭銃を武器箱の中へ戻し、それから、その中にある他の武器をしらべ、自分の帯革につけている補充用の拳銃ピストルを検べると、自分の座席の下にある小さな箱を検べてみた。その中には二三の鍛冶道具と、火把たいまつが一対と、引火奴箱ほくちばこが一つ入っていた。それだけすっかり備えておいたのは、折々起ったことであるが、馬車ランプが嵐に吹き消された時には、車内に入ってめきり、火打石と火打がねとで打ち出した火花を藁からほどよく離しておけば、かなり安全にかつ容易に(うまくゆけば)五分間で明りをつけることが出来たからである。
「トム!」と馬車の屋根越しに低い声で。
「おうい、ジョー。」
「あの伝言ことづてを聞いたかい?」
「聞いたよ、ジョー。」
「おめえあれをどう思ったい、トム?」
「まるでわかんねえよ、ジョー。」
「じゃあ、そいつもおんなじこったなあ。」と車掌は考え込むように言った。「おれだってまるっきりわかんねえんだからな。」
 霧と闇との中にただ独り残されたジェリーは、その間に馬から下りて、疲れ果てた馬を楽にさせてやるばかりではなく、自分の顔にかかっている泥を拭ったり、半ガロン★ほどの水を含むことの出来そうな自分の帽子のつばから水気を振い落したりした。駅逓馬車の車輪の音がもう聞えなくなってしまい、夜がまたすっかり静まり返るまで、彼はひどく泥のはねかっている腕に手綱をかけたまま立っていたが、それからぐるりと身を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)して丘を歩いて下り出した。
「あんなにテムプル関門バー★から駈け通しで来たんだからなあ、お婆さん、おめえ平地ひらちへつれてくまではおれはおめえの前脚を信用出来ねえよ。」とこのしゃがれ声の使者は、自分の牝馬をちらりと眺めながら、言った。「『よみがえる』だとよ。こいつあとてつもなく奇妙な伝言ことづてだなあ。そんなことがたくさんあった日にゃあ、おめえのためにやよくあるめえぜ、ジェリー! なあ、おい、ジェリー! もし甦るなんてことが流行はやって来ようものなら、おめえはとてつもなく面白くもねえことになるだろうぜ、ジェリー!★」
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    第三章 夜の影

 あらゆる人間が他のあらゆる人間にとって深奥な秘密であり神秘であるように出来ているということは、考えてみると驚くべき事実である。私が夜間にある大きな都会に入る時、その暗く寄り集っている家々の一つ一つがそれぞれの秘密を包んでいるということや、その一つ一つの家の中の一つ一つの室がまたそれぞれの秘密を包んでいるということや、そこにいる幾十万の胸の中に鼓動している一つ一つの心臓が、それの思い描いている事柄によっては、それに最も近しい心臓にとっても一の秘密である! ということは、考えるとおごそかな事柄である。死というものでさえ、その恐しさの幾分かは、このことに基くのである。もはや私は自分の愛したこのなつかしい書物の紙葉をめくることが出来ない。そして、いつかはそれをみんな読もうと思っていた望みも空しくなってしまう。もはや私は深さの測り知られぬこの水の底を覗き込むことが出来ない。瞬時の光がちらりと射し込んだ時に、私はその水の中に沈んでいる宝やその他の物を瞥見したことがあったのだが。その書物は、私がたった一頁だけ読んでしまうと、永久に永久にぴたりと閉じられる宿命さだめになっていたのだ。その水は、光がその水面に閃いていて、私が岸に何も知らずに立っている時に、永遠の氷にとざされる宿命さだめになっていたのだ。私の友人が死ぬ。私の隣人が死ぬ。私の恋人、私の心の愛人が死ぬ。それは、その個人のうちに常に宿っていた秘密の仮借なき凝固であり永久化であるのだ。そういう秘密を私もまた自分の裡に宿して自分の生涯の終りまで持って行くことであろう。私の今通っているこの都会のどの墓地にでも、この都会の忙しく働いている住民たちが、その心の一番奥底では、私にとって窺い知りがたいものであり、あるいは私が彼等にとってそうであるよりも以上に、窺い知りがたい死者というものが、果しているであろうか?
 この、生得の、他人に譲ることの出来ない資産ということでは、例の馬上の使者も、国王や、宰相や、ロンドン随一の富裕な商人などと全く同じだけのものを持っているのであった。また、がたがたと音を立てて行く一台の古ぼけた駅逓馬車の狭苦しい中に閉じこめられている、あの三人の旅客にしても、やはりそうなのだ。彼等は、一人一人が自分自身の六頭牽の馬車に乗って、あるいは自分自身の六十頭牽の馬車に乗って、自分と隣の者との間に一つの郡ほどの間隔を置いてでもいるように、完全に、お互が神秘なのであった。
 例の使者はゆっくりした早足で馬に乗って引返し、かなり幾度も路傍の居酒屋に止って酒を飲んだが、しかし、なるべく口を噤み、帽子を眼深まぶかにかぶっているようにしていた。彼はそういう帽子のかぶり方に極めてよく釣合った眼をしていた。黒味がかかった眼で、色でも形でも深みが少しもなく、もし余り遠く離れていると何かの事で片眼だけが見つけ出されはしないかと恐れてでもいるかのように――ひどくくっつき過ぎているのだ。その眼は、三角の痰壺のような古ぼけた縁反帽ふちそりぼうの下、頤とのどとを巻いてほとんど膝あたりまで垂れ下っている大きな襟巻の上に、陰険な表情をしていた。止って一杯飲む時には、彼は、右手で酒をぐうっとやる間だけ、その襟巻を左手で取り除け、それがすむや否や、すぐに再び巻きつけてしまうのだった。
「いいや、ジェリー、いやいや!」と使者は、馬に乗っている間も一つの事ばかり考え返しながら、言った。「そいつあおめえのためにゃよくあるめえぜ、ジェリー。ジェリー、おめえは実直な商売人なんだからな、そいつあお前の商売にゃ向くめえよ! よみが――! うん、旦那は一杯飲んで酔っ払ってたにちげえねえや!」
 あの伝言ことづては彼の心をひどく悩ませたので、彼は何度も帽子を脱いで頭をがりがり掻くよりほかに仕方がないくらいであった。ぱらぱらと禿げている脳天を除いては、こわい黒い髪の毛がその頭一面にぎざぎざと突っ立っていて、ほとんど彼の団子鼻のあたりまでも生え下っていた。その頭は鍛冶屋の作った物のようであった。髪の生えた頭というよりは、堅固に忍返しのびがえし★を打ちつけてある塀の頂に似ていた。だから、蛙跳び★の一番の名人でも、跳び越すのにこれほど危険な男は世の中にもいないと言って、彼を跳び越すことはことわったかもしれなかった。
 彼がテムプル関門バーの傍のテルソン銀行の戸口のところにある番小屋の中の夜番人に渡し、その夜番人がまたそれを中にいる上役たちに渡すことになっているはずの、あの伝言ことづてを持って、馬を早足で歩ませながら引返している間、夜の影は、彼にとっては、その伝言ことづてから生じたような形をしているように見え、その牝馬にとっては、その馬だけにしかわからないいろいろの不安の種から生じたような形をしているように見えたのであった。そういう不安の種はたくさんあったらしく、馬は路上のあらゆる物影におびえていた。
 その間に、例の駅逓馬車は、お互に窺い知りがたい三人の相客を車内に乗せたまま、がたがた、ごろごろ、がらがら、ごとごとと、そのもどかしい道を進んで行った。この三人にも、同じように、夜の影は、彼等のうとうとしている眼と取留めのない思いとが心に浮ばせた通りの姿をして現れた。
 テルソン銀行がその駅逓馬車の中で取附けに逢っていた。あの銀行員の乗客が――馬車が特別ひどく揺れる度に、隣の乗客にぶつかって、その人を隅っこに押しつけることのないために、車内の者が皆しているように、吊革に片腕を通したまま――眼を半ば閉じながら自分の座席でこくりこくりやっていると、小さな馬車の窓や、そこから仄暗ほのぐらく射し込んで来る馬車ランプや、向い合っている乗客の嵩ばった図体などが、銀行に変って、一大支払をやっているのだった。馬具のがちゃがちゃいう音は、貨幣のじゃらじゃらいう音になった。そして、五分間のうちに、テルソン銀行でさえ、その国外及び国内のあらゆる関係方面をみんなひっくるめて、かつてその三倍の時間に支払ったことのあるよりも以上に多額の、為替手形が支払われた。それから今度は、テルソン銀行の地下の貴重品室が、その乗客の知っているような高価な品物や秘密物を納めたまま(そしてそれらの物について彼の知っていることは少くはなかったのだ)、彼の前に開かれた。そして、彼は大きな幾つもの鍵と微かに弱々しく燃えている蝋燭とを持ってその中へ入って行った。すると、その品々は、彼が最後に見た時とちょうど同じに安全で、堅固で、無事で、平静であることがわかった。
 しかし、銀行がほとんど絶えず彼と共にあったけれども、また馬車も(阿片剤を飲んだための苦痛があるように、混乱したのにではあるが)絶えず彼と共にあったけれども、その夜じゅう流れてまなかったもう一つの印象の流れがあった。彼はある人を墓穴から掘り出しに行く途中なのであった。
 ところで、彼の前に現れる多数の顔の中のどれが、その埋葬されている人のほんとうの顔なのか、夜の影は示してくれなかった。だが、それらはどれもこれも年齢四十五歳の男の顔であって、主として異っているのは、そのあらわしている感情と、その瘠せ衰えた様子の物凄さとの点であった。自負、軽蔑、反抗、強情、服従、悲歎などの表情が次々に現れ、いろいろのこけた頬、蒼ざめた顔色、痩せ細った手や指などが次々と現れたのだ。しかしその顔はだいたいは同一の顔で、頭はどれもまだそういう年でもないのに真白だった。幾度も幾度も、このうとうとしている旅客はその亡霊に尋ねるのであった。――
「どれくらいの間埋められていたんです?」
 その答はいつも同じであった。「ほとんど十八年。」
「あなたは掘り出されるという望みはすっかり棄てておられたのですね?」
「ずっと以前に。」
「あなたは御自分がよみがえっていることを御存じなのですね?」
「みんながわたしにそう言ってくれる。」
「あなたは生きたいとお思いでしょうね?」
「わしにはわからない。」
「あのひとをあなたのところへお連れして来ましょうか? あなたの方からあのひとに逢いにいらっしゃいますか?」
 この質問に対する答は、いろいろさまざまで、正反対のもあった。時には、とぎれとぎれに「待ってくれ! 余り早く彼女あれに逢ってはわたしは死にそうだから。」という返事をすることもあった。時には、さめざめと涙の雨にくれ、それから「わたしを彼女あれのところへ連れて行ってくれ。」という返事をすることもあった。また時としては、じっと見つめて当惑したような顔をして、それから「わしはそんな女を知らん。わしには何のことかわからん。」という返事をすることもあった。
 そういう想像上の会話の後に、この旅客は、その憐れな人間を掘り出してやるために、空想のうちで――ある時は鋤で、ある時は大きな鍵で、ある時は自分の両手で――掘って、掘って、掘るのであった。顔にも髪にも土をくっつけたまま、ようやく出て来ると、その男はたちまち倒れて塵になってしまう。すると旅客ははっとして我に返り、窓を下して、霧と雨とを頬に実際に感じるのであった。
 それでも、彼が眼を見開いて、霧と雨や、ランプから射す光の動いてゆく斑紋や、ぐいぐいと遠退とおのいてゆく路傍の生垣などを眺めている時でさえ、馬車の外の夜の影は、いつの間にか馬車の内の夜の影のあのつらなりと一緒になるのだった。テムプル関門バーの傍のほんとうの銀行も、前日のほんとうの事務も、ほんとうの貴重品室も、彼の後を追っかけて来たほんとうの急書も、彼が持たして返したほんとうの伝言も、みんなそこにある。そういうものの真中から、例の幽霊のような顔が現れて来る。すると彼はまたそれに話しかける。
「どれくらいの間埋められていたんです?」
「ほとんど十八年。」
「あなたは生きたいとお思いでしょうね?」
「わしにはわからない。」
 掘って――掘って――掘っている――と、とうとう二人の乗客の中の一人がたまりかねたような身動きをするので、彼ははっと気がついて窓を引き上げ、片腕をしっかりと吊革に通して、眠っている二人の姿を黙想する。そのうちにいつの間にか彼の心は二人のことから離れて、彼等は再び銀行と墓穴との中へ滑り込んでしまう。
「どれくらいの間埋められていたんです?」
「ほとんど十八年。」
「掘り出されるという望みはすっかり棄てておられたのですね?」
「ずっと以前に。」
 この言葉がつい今しがた口で言われたようにまだ耳に残っている――今までにかつて口で言われた言葉が彼の耳に残ったようにはっきりと残っている――時に、その疲れた旅客は、明るい光に気がついてはっとし、夜の影がもう消え失せていることを知った。
 彼は窓を下すと、顔を外に突き出して、さし昇る太陽を眺めた。そこには、山脊のようになって長く連っている耕地があって、からすき★が一つ、前夜馬をくびきから離した時に残されたままにしておいてあった。耕地の向うには、静かな雑木林があって、燃えるようにあかい木の葉や、金色のように黄ろい木の葉が、梢にまだたくさん残っていた。地面は冷くてしっとり湿しめっていたけれども、空は晴れわたっていて、太陽は燦然と、穏かに、美わしく昇っていた。
「十八年とは!」と旅客はその太陽を眺めながら言った。「お慈悲深いお天道てんとうさま! 十八年間も生埋いきうめにされているなんて!」
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