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右門捕物帖(うもんとりものちょう)30 闇男

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-7 9:49:48 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: 右門捕物帖(三)
出版社: 春陽文庫、春陽堂書店
初版発行日: 1982(昭和57)年9月15日
入力に使用: 1982(昭和57)年9月15日新装第1刷
校正に使用: 1996(平成8)年4月20日新装第3刷

 

右門捕物帖

闇男

佐々木味津三




     1

 ――その第三十番てがらです。
 事の起きたのは新緑半ばの五月初め。
 さみだれにかわずのおよぐ戸口かな、という句があるが、これがさみだれを通り越してつゆになったとなると、かわずが戸口に泳ぐどころのなまやさしいものではない。へそまでもかびのただようつゆの入り、というのもまんざらうそではないくらい、寝ても起きても、明けても暮れても、雨、雨、雨、雨……女房と畳を新しく替えたくなるというのもまた、このつゆのころです。
 しかし、取り替えようにもあいにくと妻はないし、伝六はあいかわらずうるさいし、したがってむっつり名人のきげんのいいはずはない。
四谷よつや駕籠町かごまち比丘尼店びくにだな平助ッ」
「…………」
「平助と申すに、なぜ返事をいたさぬか!」
「へえへえ。鳥目でござえますから、どうかもっと大きな声をしておくんなせえまし……」
 お番所同心控え席の三番、それが名人右門の吟味席です。その控え席でそこはかとなくほおづえつきながら、わびしく降りつづけている表の雨を見ながめていると、隣二番のお白州、これが右門とは切っても切れぬ縁の深いあばたの敬四郎の吟味席でした。その二番の席で、敬四郎が何を吟味しているのか、しきりといたけだかになってどなりつけているのが聞こえました。
「人を食ったやつじゃ。鳥目ゆえ耳がきこえぬとは何を申すかッ。上役人を茶にいたすと、その分ではさしおかんぞ」
「でも、当節は耳のきこえぬ鳥目がはやりますんで……」
「控えろッ。いちいちと嘲弄ちょうろうがましいこと申して、なんのことかッ。通り名は平助、あだ名は下駄平げたへい、歯入れ、鼻緒のすげ替えを稼業かぎょうにいたしおるとこの調べ書にあるが、ほんとうか」
「へえ、さようで。稼業のほうはたしかにげたの歯入れ屋でごぜえますが、あだ名のほうはあっしがつけたんじゃねえ、世間がかってにつけたんでごぜえますから、しかとのことは存じませぬ」
「控えろッ。ことごとに人を食ったことを申して、許しがたきやつじゃ。比丘尼店家主弥五六やごろくの訴えたところによると、そのほう当年八歳になるせがれ仁吉にきちと相はかり、仁吉めが先回りいたしては人目をかすめて玄関先へ忍び入り、はさみをもって鼻緒を切り断ちたるあとよりそのほうが参って、巧みに鼻緒を売りつけ、よからぬかせぎいたしおる由なるが、しかとそれに相違ないか」
「へえ、そのとおりでごぜえます。なんしろ、この長雨じゃ、いくら雨に縁のある歯入れ屋でも上がったりで、お客さまもまた気を腐らしてしみったれになったか、いっこうご用がねえもんだから、親子三人干ぼしになって死ぬよりゃろうへはいったほうがましと、せがれに緒を切らして回らしたんでござんす」
「なんだと! 雨が降ってお客がしみったれになるが聞いてあきれらあ。雨は雨、お客はお客。やりが降ろうと、小判が降ろうと、人殺しのあるときゃあるんだ。だんな! だんな! ご出馬だッ。穏やかじゃねえことになりやがったんですぜ」
 他人のこともいっしょにして口やかましくわめきながら、声から先に飛び込んできたのは、断わるまでもないおしゃべり屋のあの伝六です。
「おつに気どって雨なんぞ見ていたとても、りこうにゃならねえんだ。今、麻布の自身番から急訴があったんだがね。あそこの北条坂ほうじょうざかで、孫太郎虫の売り子の娘っ子が、首を絞められて殺されているというんですよ。早耳一番やりのおきてがあるからにゃ、この事件は早く聞きつけたあっしとだんなのものなんだからね。急いでおしたくしなせえよ」
 口やかましく注進しているのを、早くも隣の吟味席で聞きつけながら、ぴかりと陰険そうに目を光らしたのはあばたの敬四郎でした。同時に立ち上がると、お白州中の歯入れ屋などはもう置き去りにしておいて、にこりと意地わるそうにほくそえみながら、こそこそ奥へ消えていったかとみえたが、あば敬はなすことすることことごとくがあばた流です。直接、奉行ぶぎょうに出馬のお許しを願ったとみえて、ゆうぜんと構えている名人右門をしり目にかけながら、手下の小者を引き具して、これ見よがしにもう駆けだしました。
「そら、ご覧なせえまし。だからいわねえこっちゃねえんだ。まごまごしているから、こういうことになるんですよ! あば敬の意地のわるいこたア天下一品なんだ。あいつが飛び出したとなりゃ、ことごとにじゃまをするに決まってるんだからね。のそのそしてりゃ、せっかく早耳に聞き込んだ事件を横取りされるんじゃねえですかよ!」
 たちまち伝六が目かどをたてて鳴りだしたとき、高々と呼びたてた声がひびき渡りました。
「右門殿、お声がかかりましてござります! 火急に詮議せんぎせいとのお奉行さまお申し付けにござります!」
「えっへへ」
 鳴ったかと思うとこの男、たちまちまたたいそうもない上きげんです。
「うれしいね。扱いが違うんだ、お扱いがね。こそこそと内訴訟してやっとのことお許しが出るげじげじと、お奉行さまおめがねで出馬せいとお声のかかるだんなとは、段が違うんだ。――駕籠かごのしたくはもうちゃんとできているんですよ、とっとと御輿みこしをあげなせえな」
「…………」
 ようやくに腰を浮かしたが、ひとことも声はない。何を考え込んで何を思いふけっているのか、じつに驚くほどにもむっつりと押し黙って、まったくの無言の行なのです。――雨ゆえに、きょうばかりは二丁きばった御用駕籠を連ねながら、おしの名人と、おしゃべりの名人とは、一路話のその麻布北条坂目ざして急ぎました。
 だが、不思議でした。
 あば敬主従と右門主従とは、お番所を出るのに一町と隔たってはいなかったのに、しかも双方ともにその目ざしたところは、孫太郎虫売り娘殺害の現場と思われたのが、途中でひょいとふり返ってみると、右門の駕籠も伝六の駕籠も、いつのまにどこへ消えていったか、かいもく姿がないのです。
 ひとてがらしてやろうと先手を打って飛び出しただけに、敬四郎、心中はなはだ気味わるく思ったにちがいない。手下の直九郎、弥太松やたまつふたりを、がみがみどなりつけました。
「ぼんやりしているから、ずらかられちまったんだ。どっちへ曲がったか捜してみろ」
「捜しようがねえんですよ。どこまで姿があって、どこから消えたものか、それがわからねえんだからね」
「文句をいうな! 手下がいのねえやつらだ。所をよく聞かなかったが、人殺しゃどこだといった」
「おどろいたな。あっしどもは、だんなが飛び出したんで、そりゃこそてがら争いとばかり、あとをついてきただけなんですよ」
「いちいちとそれだ。もっと万事に抜からぬよう気をつけろい。たしか北条坂とかいったが、その北条坂はどの辺だ」
「ここがそうなんですよ」
「そんならそうと早くいえッ。殺されたのは小娘だといったはずだ。捜してみろッ」
 麻布もこの辺になると町家もまばらだが、人通りも少ない寂しい通りばかりです。ましてや、明け暮れ降りつづく入梅なのでした。行き来の者はまったくとだえて、見えるものはどろ道と坂ばかり……。
「おかしいな。かりそめにも人がひとり殺されたというからには、物見だかりがしているはずだ。もういっぺん坂を上から下へ捜し直してみろッ」
 三人でいま一度その北条坂を調べてみたが、人影もない。むくろもない。
「右門め、先回りをしてさらっていったな!」
 癇筋かんすじをたてながらひょいと敬四郎が足もとをみると、坂の曲がりかどの、青葉が暗くおい茂った下に、小さなこも包みがあるのです。はねのけてみると、――三人同時にぎょっとなりました。こもの下には捜しまわったその小娘の死骸しがいが、見るも凄惨せいさんな形相をして、あおむけになりながら横たわっていたからです。
「これはこれは……」
 そのとき、足音を聞きつけたものか、おい茂った道ばたの青葉の陰から、自身番の小役人たちがあたふたと駆けだして、ろうばいしながらしきりと取りなしました。
「あいすみませぬ。ついそのうっかりいたしまして……ご出役ご苦労さまにござります」
「何がご苦労さまじゃッ。怠慢にもほどがあるわッ。これだけの人殺しがあるのに、ご検視の済むまで見張りをせずにおるということがあるかッ」
「つい、その……なんでござります。あんまり寂しいので、つい、その……」
「言いわけなど聞きとうないわいッ。死骸にはだれもまだ手をつけまいな!」
「いいえ」
「いいえとはどっちじゃ! だれか来たかッ。右門めでもがもう参ったかッ」
「いいえ、あなたさまがお初め、だれも指一本触れた者はござりませぬ」
「それならばそうと、はっきり申せい。手数のかかるやつらじゃ。あやめられたのはいつごろか!」
「それがわかりませぬゆえ、ご出役願ったのでござります」
「ことばを返すなッ。これなる死骸の見つかったのはいつごろじゃ!」
「朝の五ツ下がりころでござります。北条坂に小娘が殺されておるとの注進でござりましたゆえ、すぐにここへ出張って、お番所へ人を飛ばせたのでござります。なにしろ、このとおり寂しいところではござりまするし、それにこの雨でござりまするし――」
「うるさいッ。きかぬことまでかれこれ申すなッ」
 あば敬のけんまく権柄、当たるべからざる勢いです。どなり、しかり、当たり散らしながら死骸を見調べると、小娘は年のころ十三、四、手甲てっこう脚絆きゃはん、仕着せはんてんにお定まりの身ごしらえをして、手口は一目瞭然りょうぜん、絞殺にまちがいなく、かぶっている菅笠すげがさのひもがいまだになおきりきりと堅く首を巻いたままでした。かぶり直そうとしたところをねらって、ひと絞めにやったものか、それとも押えつけておいて、かさのひもをとっさの絞め道具にしたものか、むごたらしくも鼻孔から血の流れ出ているところを見ると、恐ろしい腕力に訴えて強引に絞めつけたことは明らかでした。いや、そればかりではない。その小娘の右手にはいぶかしいひと品がある。着物のそでです。しかも、女物の、同じような仕着せはんてんの片そでなのです。絞められるとき必死に抵抗してそでをつかんだのが、そのまま引きちぎれたとみえて、今なお引いても取れないほどにしっかりと握りしめているのでした。
「ホシは仲間だ。絞めたやつのそでにちがいないぞ。おれだってがんのつくことがあるんだ。まごまごとしていねえで、もっとよく調べろ」
 まったく敬四郎とても目のきくときがあるにちがいない。よくよく調べると、絞め道具に使った菅笠のそのひもに、小娘の身もととおぼしき文字が見えました。
「日本橋馬喰町ばくろうちょう新右衛門しんえもん身内、おなつ」
 読み取るや同時に、敬四郎の得意げな声があがりました。
「そうれみろッ。馬喰町の新右衛門といや、富山とやまの反魂丹、岩見銀山のねずみ取り、定斎屋じょうさいや、孫太郎虫、みんなあいつがひと手で売り子の元締めをやってるんだ。野郎を洗えばぞうさなくネタはあがるぞ。おきのどくだが、今度だけはこっちのものだぜ。死骸にもう用はねえ。引き取り人があるかもしれねえから、どこか近所の寺へでも始末しろ」
 小役人たちに命じておくと、死骸の手から証拠の片そでを切り取って、鼻高々とひと飛びに乗りつけたところは、ひもに見える馬喰町の呼び商い元締め、越中屋新右衛門の店先です。
「おやじはおるかッ。八丁堀の敬四郎じゃ。いたら出い!」
 横柄おうへいに呼びたてながら、ずかずかとはいっていったその鼻先へ、ぬっとその新右衛門が顔を向けると、少し変でした。やにわににやりと笑って、大きな横帳をさし出しながら、何もかも心得ているもののようにいったものです。
「お尋ねはこれでござりましょう。いまかいまかと、お越しになるのをお待ちしていたところでござります」
「なに! その横帳はなんだ」
「身内の売り子の人別帳でござります。麻布であやめられたとか申しましたなつの身もとをお詮議せんぎにお越しであろうと存じますゆえ、お目にかけたのでござります」
「気味のわるいことを申すやつじゃな、どうしてそれがあいわかるか!」
「えへへ。あっしがそれとにらみをつけたんじゃござんせぬ。つい先ほど右門のだんなさまがのっそりとおみえになりまして、この人別帳をおしらべなすった末に、あとからいまひとりこれに用のある同役が参るはずじゃ、親切に応対してあげい、とのことでござりましたゆえ、いまかいまかとお待ち申していたのでござります」
 せつなに、敬四郎のあばたがゆがんで、ふるえて、目に険しい色がみなぎり渡りました。
 来ていたのである! まんまと先手を打ったつもりでいたのに、どうしてそれと眼をつけたか、あざやかにも名人右門が、すでにもう先手を打って、ちゃんとここへ身もとを洗いに来ていたのである。
「見せいッ」
 奪い取るようにして手にしながら調べてみると、なつ、ちか、くに、はつ、うめ、なぞ十二、三人の名まえを連ねた孫太郎虫の売り子たちは、神田かんだ旅籠町はたごちょうの安宿八文字屋に泊まり込んでいることがわかりました。
「たわけめがッ。お茶なぞ出すに及ばんわい。気に入らんやつじゃ。気をつけろッ」
 わけもなくただふきげんにどなりつけて、ひた走りに神田へ駕籠を急がせました。

     2

「これはようこそ。雨中を遠くまでお出かけなさいまして、ご苦労でござりましたな」
 敬四郎の駆けつけた気勢をききつけて、さわやかに微笑しつつ、その八文字屋の奥から出てきたのは、だれでもないむっつりの右門です。あとから伝六がのこのことしゃきり出ると、これが浴びせたのに不思議はない。
「えっへへ。敬だんな、お早いおつきでごぜえましたな。麻布はたぬきの名どころだ。子だぬきにちゃらっぽこやられたんじゃござんすまいね」
「なにッ。早かろうとおそかろうと、いらぬお世話じゃ。どけッ、どけッ」
「きまりがわるいからって、そうがみがみいうもんじゃねえですよ。知恵箱のたくさんあるだんなと、知恵働きの鷹揚おうようなだんなとは、こういうときになって、おのずとやることに段がつくんだ。ここへ先回りしていたのが不思議でやしょう。いいや、不思議なはずなんだ。このあっしでせえ、首をひねったんだからね。ところが、聞いてみると、まったく右門のだんなの天眼通にゃ驚き入るじゃござんせんかい。孫太郎虫の元締めは越中屋新右衛門のはずだ、こっちを洗えば麻布くんだりまで先陣争いに行かなくとも、お先の身もとがわかるじゃねえかよ、とね、あっさりいってネタ洗いに来たのがこれさ。御意はどうでござんすかえ?」
嘲弄ちょうろうがましいことを申すなッ。こちらにはちゃんと証拠の品が手にはいっているのだ。能書きはあとにしろ」
 にらみつけて奥へ通ろうとしたのを、
「お待ちなされよ。その証拠の品とやらは――」
 にこやかに名人が呼びとめると、ずばりといったことです。
「小娘は年のころ十三、四、名まえはおなつ、口にくわえておったか手に握りしめておったかは存ぜぬが、その証拠の品とやらは片そででござらぬか」
「…………」
「いや、お驚きめさるはごもっとも、きのうからきょうへかけて、麻布一円へ呼び商いに出た者は、おなつ、おくに、両人と申すことじゃ。片そでをもぎとられた仕着せはんてんはここにござる。これじゃ。しまがらは合いませぬかな」
 にこやかに笑って、帳場のわきから取り出したのは、だんだらじまの右筒そでをちぎられた仕着せはんてんでした。
「いかがでござる。合いませぬかな」
「…………」
「いや、お隠しなさるには及びませぬ。貴殿もこれが第一の手がかりとにらんだればこそ、おしらべにお越しでござりましょう。ご入用ならば、手まえには用のない品、とっくりとそでを合わせて、おたしかめなされい」
 合わないというはずはない。しまがらも、引きちぎられた破れ口もぴったりと合うのです。
「亭主! 亭主! このはんてんを着ておった女はどこへうせた!」
 敬四郎、鬼の首でも取ったような意気込みで、目かどをたてながら駆け込もうとしたのを、
「あわてたとても、もうまにあいませぬ。このはんてんの主は、いっしょに出かけたおくに、とうにもう帆をかけてどこかへ飛びましたよ。それより、話がござる。ごいっしょにおいでなされよ」
 静かに制しながら先へたって奥のへやへはいると、そこに血のけもないもののごとくうち震えながらうずくまっていた八文字屋の亭主を前に座を占めて、いかにも功名名利に恬淡てんたん、右門の右門らしいおくゆかしさを見せながら、穏やかに持ちかけました。
「これなる仕着せの主がおくにとすれば、片そでがふびんなおなつの口なり手なりに残っておった以上、まず十中八、九までおくにが下手人とにらまねばなりませぬ。しかしながら、事は念を入れて洗うがだいじ、てまえ、貴殿よりひと足先にこちらに参るは参りましたが、功名てがら争う心は毛頭ござりませぬ。それゆえ、おくにめ、とうに逐電とは聞いても、足下がこちらへお出向きなさるまではと、なにひとつ洗いたてずにお待ち申しておりました。お番所勤めの役向きは諸事公明正大が肝心、くにの荷物もまだ手をつけずにござります。亭主が知っておることまでも何一つ聞き取ってはおりませぬ。ともども立ち会って吟味いたしとうござるが、ご異存ござりますまいな」
 異存はあったにしても、こう持ちかけられては痛しかゆしです。返事のしようもないとみえて、不承不承に敬四郎、座についたのを見ながめると、名人の声はじつにあざやかでした。
「ご異存ござりませねば、てまえ代わって取り調べまする。亭主、神妙に申し立てろよ。上には慈悲があるぜ。くには何歳ぐらいの女じゃ」
「二、二十……」
「二十いくつじゃ」
「三のはずでござります」
「なつと連れだって麻布へ呼び商いに出かけたのはいつじゃ。けさ早くか」
「いいえ、きのう昼すぎからいっしょに出かけまして、ふたりともゆうべひと晩帰りませんなんだゆえ、どうしたことやら、みなしてうち案じておりましたところ、おくにどんだけがけさがた早くこの片そでをちぎられた仕着せ着のままで帰ってくると――」
「うろたえておったか」
「へえ、なにやらひどくあわてた様子で帰りまして、このとおり商売道具も何もかも投げ出したまま、急いで外出のしたくを始めましたゆえ、不審に思うておりましたら、尋ねもせぬに向こうからいうたのでござります。おなつがまい子になったゆえ、これからお願をかけに行くのじゃ、あとをよろしくと申しまして――」
「願かけにはどこへ行くというたか」
「浅草の観音さまへ、とたしかに申しましてござります」
「出かけたときの姿は?」
「日ごろからなかなかのおしゃれ者で、残った金はみな衣装髪のものなぞへ張りかけるほうでござりましたゆえ、けさほどもはでな黄八丈きはちじょうに、黒繻子くろじゅすの昼夜帯、銀足の玉かんざしを伊達だてにさして、何を急いでおるのか、あたふたと駕籠を気張って出かけましたようでござります」
「その駕籠はどこで雇うたか」
「黒門町手前の伊予源いよげんと申しまする駕籠宿からでござります」
「顔だちは? べっぴんか」
「さよう、べっぴんというにはちと縁が遠うござりましょうかな」
「持ち物は?」
「何一つ持たずに、手ぶらでござりました」
「路銀は、いや、金はどのくらい所持しておったかわからぬか」
「きのうがちょうど宿払いの勘定日でござりましたゆえ、きんちゃくの中までもよく存じておりまするが、てまえがたの入費を支払ったあと、まるまるまだ三両ばかり残っておりましてござります」
「男なぞの出入りした様子はないか」
「少しも!」
「しかとさようか」
「なれなれしげに男と話をしていたところさえ見たことがござりませぬ。まして、ここへ男なぞ呼び入れたことは、ついぞ一度もござりませぬ」
「よし。では、くにの荷物、残らずこれへ取り出せい」
 さし出したのは手梱てこおりが一つ、ふろしき包みが一個、孫太郎虫呼び商いの薬箱が一つ。
 まず梱から手初めに調べました。着替えが二枚、帯が二筋、それっきりでした。しかも、共にたいした品ではない。亭主の申し立てによると、衣装髪のものに金をかける伊達女といったが、残った品から判断すると、どうやら出かけたときの服装が第一の晴れ着らしいのです――。これは考えようによってこの場合、いろいろのいみを持つ重要なネタでした。晴れ着に装って、このとおりふだん着はじめ手まわりの品々をそっくり残していったところから判断すると、用を足してまたここへ帰ってくるつもりらしくも思われるのです。反対にまた、これらの品々を未練なく捨てておいて、たいせつな晴れ着だけ着用しながら、二度とここへ舞いもどらぬ決心のもとに高飛びしたかとも判定されるのです。
 名人の眼光は、しだいに烱々けいけいと輝きを増しました。こういう頭脳の推断を必要とするネタ調べになると、むっつり流がんのさえは天下独歩、まね手もない、比類もない。
 さらに要領を得ないもののごとく、いともぼうぜんとして手をこまねいている敬四郎を、じろり、じろりと、微笑とともに見ながめながら、次のふろしき包みの精査に取りかかりました。
 しかし、出てきたものは、いずれも着古したよごれ物、ぼろ切ればかりなのです。きたない手ぬぐいが三本、破れた手甲、脚絆きゃはん、それから尾籠びろうこのうえない女のはだ着……。
「こいつあおどろいたね。この入梅どきだ、よくきのこがはえなかったもんですよ」
「黙ってろ」
「へ……?」
「敬四郎どのと立ち会いのたいせつな吟味だ。おまえなんぞの出る幕ではないよ」
 でしゃばり伝六、横からでしゃばりかけたのを一言のもとにたしなめながら、さらに名人は丹念に見調べました。はねのけてははねのけて調べていくと、ぱらり、下へ散ったものがある。水天宮さまのが一枚、蛸薬師たこやくしのが一枚、浅草観音のが一枚、お祖師さまのが一枚。どれももったいなや、お守り札なのです。――これもまた考えようによってははなはだ重要なネタの一つでした。諸々ほうぼうの護符があるところを見ると、よほどの信心家であるようにも推断されるのです。しかし、その尊いお札がこのようなむさくるしいよごれものの中へ、むぞうさに投げ込んであるところから察すると、必ずしもそうではない、ややもすれば人のひとりふたり、殺しかねまじい女とも考えられるのでした。
 名人の目はいよいよ光を増すと同時に、最後の遺留品たる商売道具の小箱に手がかかりました。
 あけてみると、孫太郎虫の黒焼きが三十五、六ほどあるのです。それっきりで、ほかには何もない。――いや、ないと思われたのに、さかさにしながら振ってみると、ぽろッ、落ちたひと品が目を射ぬきました。
 くるくると丸めた小さなかんぜんよりです。丸めてあるところから判断すれば、あけてみて、そのままこの小箱の中へ投げ込んでおいたことが明らかでした。
「そろそろにおうてきましたな」
 開いてみると、不思議なものが書いてあるのです。



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