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山県有朋の靴(やまがたありとものくつ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-7 10:33:20 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


         二

 橋をまた向うへかえって、川沿いに右へ曲ると、新兵衛は、土手をしもへどんどんと急いでいった。
 左側一帯は、大きな屋敷の間に、手頃な屋敷がぎっしりと並んで、江戸の境いから明治へまたぎ越えるまでは、へいからのぞいている木の枝ぶりまでにも、しずかな整頓があったが、それも今は、氾濫はんらんして来た腕力の思うままな蹂躙じゅうりんにまかせて、門はゆがみ、表札はぎとられ、剥いだあとのその白いところへ、買ったような、巻きあげたような、便利な方法で私有物にした人たちの名まえが、読みにくい字でべたべたと書かれて、このままいったらどうなることか、通りすがりにただ見ただけでも、カサカサと咽喉のどかわいてゆくような感じだった。
 そういう塀つづきのはずれに、うすいのいろをにじませた本所ほんじょ石原町の街があった。
 あたり一帯を、官員屋敷に取り囲まれてしまった中にはさまって、せめてもこの孤塁こるいだけは守り通そうというように、うるんだ灯のいろの残っている街だった。
 その向う角の、川に向いた一軒の、
 お江戸お名残り、めずらし屋
 と、少し横にすねたような行灯あんどんのみえる小料理屋の門の前に止まると、新兵衛は、あごをしゃくるようにして目交めまぜをし乍ら、さっさと中へ這入はいっていった。
 せま前庭まえにわに敷いた石に、しっとりと打ち水がしてあって、れた石のいろが、かえってわびしかった。
「まあ、ようこそ……」
 たびたび来ているとみえて、顔なじみらしい女中がふたり、あたふたと顔を並べ乍ら下へもおかずに新兵衛をしょうじあげた。
 しかし、新兵衛は、ほかに誰か目あてがあるらしく、あちらこちらと部屋をのぞきのぞき、川に向いた三間みまつづきの二階へ、どんどんとあがっていった。
 その部屋のてすりにもたれて、ひらひらと髪の花簪はなかんざしを風に鳴らし乍ら、ぼんやりと川をみていた小柄こがらな女が、おどろいたようにふりかえった。
「あら……」
「おお、いたのう」
 探していたのはそれだったのである。まだ十七八らしく、すべすべした肌のいろが、川魚のような光沢つやを放って、胸から腰のあたりのふくらみも、髪の花簪のように初々ういういしい小娘だった。
「いかんぞ。そんなところで浮気をしておっては。――まあここへ坐れ」
 たびたびどころか、毎日来ているとみえて、新兵衛は、無遠慮に女の手をとり乍ら、そばへ引よせた。
「きんのう来たとき、襟足えりあしれと言うたのに、まだ剃らんの」
「でも、忙しいんですもの……」
「忙しい忙しいと言うたところで、こんな家へ八字髭じひげの旦那方は来まいがな。みんなおれたちみたいな風来坊ばかりじゃろうがな」
「ええ、それはそうですけれど……」
「毎日ふみを書いたり、たまにはいろ男にもうたりせねばならんゆえ、それが忙しいか」
「まあ、憎らしい……」
 べにをうめたようなくぼをつくって、甘えるように笑うと、女は、そっと目で言った。
「このおつれさん? ……」
「うん、酒じゃ」
「あなたさまも?」
「呑もうぜ。料理もいつものようにな。きのうのようにまた烏賊いかのさしみなんぞを持って来たら、きょうは癇癪かんしゃくを起すぞ、あまくて、べたべたと歯について、あんなもの、長州人の喰うもんじゃ。おやじによく言ってやれ」
 立ちあがろうとしたのを、あわてて新兵衛は、目交めまぜで止め乍ら、まだなにか言いたそうに、もじもじとしていたが、平七の顔いろをうかがい窺い、女を隣りの部屋へつれて行くと、小声でひそひそとなにかささやいた。
 ぱっと首すじまで赤く染め乍ら、女は、顔をかくすようにして、下へおりていった。
 しかし平七は、なにが目に這入ろうとも、まるで感じのない男のように、ぐったりと両手の中へ頤をのせたまま、物も言わなかった。
 やがて、その頤のまえへ酒が運ばれた。
「さあ来たぞ。うんとやれ」
「…………」
「どうしたんじゃ。飲まんのかよ。――機嫌のわるい顔をしておるな。いでやろうか」
 なみなみと新兵衛が注いださかずきを、だまって引き寄せると、だまって平七は口へ持っていった。
 別に機嫌がわるいわけではなかった。酒にさえも、平七の感情は、今もうこわばってしまって、なんの反応もみせなかった。いや、反応がないというよりも、むしろそれは、表情を忘れて了ったという方が適切だった。急激に自分たちの世界をこわされて了って、よその国のよその軒先のきさきに、雨宿りしているようなこの六七年の生活が、それほども平七の心から、肉体から、弾力を奪いとって了ったのである。
「仕様のない奴じゃな。折角よろこばそうと思ってつれて来てやったのに、もっとうれしそうに呑んだらどうじゃ」
「…………」
「まずいのかよ。酒が!」
「うまいさ」
「うまければもっとうまそうに呑んだらどうじゃ」
 気になったとみえて、新兵衛がたしなめるように横から言った。
 しかし、そう言い乍ら新兵衛も、特別うまそうに呑んでいるわけではなかった。なにか心待ちにしていることがあるらしく、何度も何度もそわそわとして、梯子段はしごだんの方をふりかえった。
 それを裏書するように、花簪はなかんざしの小女が、最後の料理を持って来て並べて了うと、ちらりと新兵衛に目交ぜを投げておいて、かくれるように向うはじの暗い部屋の中へ這入っていった。
 そわそわと待っていたのは、その合図だったとみえて、もおかずに新兵衛が、あとを追い乍ら這入っていった。――同時になにかもだえるような息遣いがきこえたかと思うと、小女の花簪が、リンリンとかすかに鳴った。
 しかし平七は、それすらもまるでよその国の出来ごとのように、ふわりとした顔をして、頬杖ほおづえをついたまま、あいた片手で銚子ちょうしを引寄せると、物憂ものうげに盃を運んだ。
「まあ。お可哀そうに。ひとりぽっちなのね」
 不意にそのとき、ガラガラした声が、下からあがって来るとふとった女中が、ぺったりとそばへ来て坐って、とりなすように言った。
「罪なことをするのね。こんなおとなしい人をひとりぽっちにしておいて、まずかったでしょう、お酒が」
「昔からおれはひとりぽっちだ」
 突然、平七が怒ったように言った。――しかし本当に怒ったわけではなかった。
「ふ、ふ、ふ、ふ、ふ……」
 しばらく間をおいてから、思い出したように笑うと、ぽつりと女に言った。
「前の川は今でも深いかね」
「深いですとも、江戸が東京に変ったって、大川は浅くなりゃしないですよ」
「そういうものかな。じや江戸が東京になっても、人が死ねるところでは、やっぱり人が死ねるということになるんだな」
「まあ。気味のわるいことを仰有おっしゃるのね。なんだってそんなおかしなことをおききなさいますの?」
「むかしからこの前の川で何人ぐらい死んだか。変らないものはいつまでっても変らないから、妙なもんだと思っていたところさ。――貴君はいくつだね」
「おい……」
 話の腰を折るように、その時新兵衛が、向うの暗い部屋から顔だけ出すと、頤をしゃくって言った。
「もうかえるんだよ」
「……? あ、そうか。花は散ったか」
 ふらりと立ちあがって、平七は、こともなげな顔をし乍ら、のそのそとおりていった。
 水にも土手にも、しっとりとやみがおりて、かすかな夜露よつゆが足をなでた。
 どこにいるのか、暗いその川の中で、ギイギイとが鳴った。
 りたらしく新兵衛が、上機嫌な声で、暗い土手の闇の中からせき立てた。
「貴公どっちへかえるんじゃ」
「うん……」
「うんじゃないよ。なにをそんなところでぼんやりしておるんじゃ」
「うん……。なるほどこのあたりは、むかし通り深そうじゃな。だぶりだぶりと水が鳴っているよ」
「つまらんことを感心する奴じゃ。ぼんやりしておったら置いてゆくぞ」
 不意にうしろで、リンリンと、かんざしが鳴った。
 恥しそうにふすまの奥へかくれ乍ら、顔も見せなかったのに、いつのまにかこっそりと新兵衛を送って来ていたとみえて、ためらい、ためらい、あの小娘が花簪の音を近づけると、土手ぎわにしょんぼりと立っている平七の黒い影を、じっと見すかし乍ら、なにか言いたそうに、しばらくもじもじとしていたが、
「わるかったのね。あなたばかりひとりぽっちにしておいて、それがおさみしかったから、そんなに悲しそうにしておいでなのでしょう。――こんどはきっと……。こうしてさしあげたらいいでしょう」
 ささやくように言い乍ら近寄って、突然、軟らかく平七の手を握りしめたかと思うと、リンリンと簪を鳴らし乍ら、逃げるように門の中へ駈けこんでいった。
 二階へあがって、見送ってでもいるらしく、顔のみえない窓から、同じ簪の音がかすかにリンリンときこえた。

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