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詩集の後に(ししゅうのあとに)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-14 6:28:40 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


『なぜ漢學をおやりですか。』
 と訊くと、滿谷氏は、
『自分の師匠の小山正太郎氏が、畫を描く技術は自分が教へるが、それだけでは優れた畫家にはなれない、畫家には思想が要る、それを養ふには是非本を讀めと云はれるので、兎も角もこちらへうかゞつてみることにしました。』
 といふやうなことを話されました。私達はその日から仲の好い友達となりました。で、それから五、六年後の詩集『ゆく春』に同氏の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)畫をおたのみすることになつたのです。
 卷頭の『牧笛』は、ずつと以前テオクリトスやヰルギルの牧歌を愛讀したことがありまして、あゝいつたやうな草の香と、野の悲みとを歌つてみたいと思つて試みた作品です。
『夕暮海邊に立ちて』、『夕の歌』、『暗夜樹蔭にたちて』、『郭公の賦』の四篇は同じやうな詩形ですが、この詩形は自分としては幾分の特徴を認めて居ります。
 ソネツトの形式を辿つた八六調十四行詩がこの集には幾篇かありますがそのうちで『あゝ杜國』九首は、當時の時事に憤つた詩でありますが、若い時によくある、物に激して拳骨をふり※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)す、まあ、あゝいつた格ですね。
『南畆の人』は、農夫の生活の平和と苦鬪と悲哀とを歌はうとした長篇の試みでしたが、この集には小引だけしか輯めてありません。確かその春の卷だけは、未成稿のまゝ筐底に殘つてゐたやうに思つて、今度そこらを探しましたが、どうしても見付かりませんでした。
『石彫獅子の賦』は、大阪横堀に近い、何とかいふ町の石彫工塲で落想を得た作品でした。滿谷氏の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)畫が、立派な出來だつたので、お蔭で詩がどれだけ引立つたか知れません。氏はこの※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)畫を描くために、五六日東京市中の石切塲をたづね※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つた末、やつと註文通りのものを見付けて、出來上つたのがこの作品だつたといふことです。
 この時代には、詩の朗吟といふことが、詩人の仲間に流行しまして、私も京都で一度、大阪で二度ほど公開の席で、朗吟を試みたことがありました。その時歌つた詩は、たしかこの集の『夕暮海邊に立ちて』、『夕の歌』、『破甕の賦』などであつたやうに記憶して居ります。自分の朗吟が滅茶苦茶だつたのに較べて、同じ席で試みられた與謝野寛氏の短歌朗吟が、聲といひ、節といひ、眞に氣の利いたものだつたことだけはいまだに覺えてゐます。
 たしか、翌三十五年の晩春の頃だつたと思ひます。私は『ゆく春』一卷を嵐峽の水神に捧げて、自分の少年の夢を葬むるべく、船を傭うて保津川の淵に浮べました。そして詩集を十文字にからんだ琴の絃に石の錘をつけて、水底深く沈めたことがありました。あとで誰かにその話をしましたところ、その人は皮肉な笑ひを浮べて、
『惜しいことをしたね、見返しに乞好評と書いて置けばよかつたのに。』
 と申しました。
『二十五絃』は明治三十八年五月、春陽堂から出版されました。私は『ゆく春』出版後、かれこれ二年ほど大阪に居ましたが、雜誌『小天地』の廢刊と同時に京都に移り、岡崎に住んでゐましたのを、日露戰爭がはじまると同時に引拂つて郷里の方に歸りました。ですから『二十五絃』には、大阪、京都、郷里の三地方に關聯した作物が輯められてゐます。※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)畫は岡田三郎助氏の油畫が三色版で七枚はいつてゐました。卷頭の『公孫樹下に立ちて』は三十四年十月、少年の頃世話になつた人をたづねて、作州津山に旅をしましたが、その折近郊に大銀杏の樹が風に吹かれて突つ立つてゐるのを見て出來たのがこの作でした。
『二月の一夜』、『五月の一夜』、『翡翠の賦』、『霜月の一日』、『霜月の一夕』、『神無月の一夜』、『神無月の一日』などは、『ゆく春』のうちの『夕の歌』と同じ詩形の試みで、『雷神の歌』は三十六年一月、私が大阪南本町の文淵堂の二階に病臥してゐますと、急に雪催ひの空が曇つて、激しい雷鳴がありました。それに詩情が動いて、京都加茂神社の傳説と結び合せて出來上つたのがこれで、與謝野氏が編輯してゐた『明星』の四月號に載つたやうに記憶してゐます。
『金剛山の歌』は大阪谷町のさる法華寺に住んでゐる頃、毎朝早く起きて郊外を散歩しましたが、華やかな朝日をうけて、葛城山の山巓が金色に輝いてゐるのをよく見受けましたところから、こんな作が出來ました。
『天馳使の歌』は、『葛城の神』とともに、私が試みました叙事詩の中でも一番長い作物です。伊弉諾、伊弉册の黄泉つ比良坂の傳説と、橋立傳説と、比治山の羽衣傳説とを結び合せて、永遠の女性の慈悲を歌つたのがこの一篇の作意ですが、その當時英國に遊學してゐた島村抱月氏が、彼地でこの作を讀んで『たゞ一つ、今も記憶に殘つて讀下の際少からず感興を殺がれ候句は、切めてもの償ひとこそいふべけれ云々のところに候、貴兄にして何故にかゝるコンヴエンシヨナリズムに陷り給ひしにや』といつて寄越されたことがありました。
『しら玉姫』は、明治三十八年六月に滿谷國四郎氏の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)畫裝幀で、金尾文淵堂から出版した詩文集で、中に詩は七篇ほどありましたが、この集には三篇だけを輯めて、他の四篇は棄てゝしまひました。何れも民謠體のものです。
『白羊宮』は、明治三十九年五月、滿谷國四郎、鹿子木孟郎二氏の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)畫を入れて、金尾文淵堂から出版しました。『白羊宮』といふのは、日が春の白羊宮に位する時、天地開闢したといふ言ひ傳へによつてなづけました。
『あゝ大和にしあらましかば』は、その當時上田敏氏が云はれましたやうに、ブラウニングの“Oh, to be in England”ではじまる例の絶唱を想ひ浮べながら生れた作品です。大和、とりわけ奈良の西の京や、法隆寺、龍田のあたりは、むかしも今も、私には已み難い憧憬があります。
『魂の常井』はその當時、早稻田文學を主宰してゐた島村抱月氏から、東儀鉄笛氏に作曲して貰ふからといふ頼みがあつたので書いた作ですが、作曲物にこんなのを書いたのは私の量見違ひでした。思へば東儀氏もよくかうした詩に作曲したものですね。
『零餘子』は、子供の時から私の好きな草の實で、故郷の私の家の垣根には、これがたんと植わつてゐて、秋になると、風もないのに、よく實がほろ/\とこぼれかゝりました。そんなことがこの詩を孕んだのです。
『鶲の歌』は、その獨りぼつちの淋しさにおいて、私の最も好きな鳥を歌つたものですが、あの淋しい鳥の姿と魂とを歌ふには、詩が少し饒舌に過ぎた嫌ひがあるやうです。
『望郷の歌』は、誰も知つてゐる通り、ゲエテのウヰルヘルム・マイステルにあるミニヨンの歌を想ひ浮べながら、京都の四季のうつり變りを歌つてみました。上田敏氏はこの詩の『第三節、第四節の沈靜なるは、新しき日本に生ひ出でし古き花なれ。』と云はれましたが、自分にも第三節第四節が、極く自然に出來たやうに記憶してゐます。
『二十五絃』から『白羊宮』にかけて、私の古語癖が、その頃の讀者や評家をかなり苦しめたやうに承はつてゐます。私もなるべくなら平易な、耳近い言葉で詩を作りたいと思つてゐましたが、何分日本語は、語彙が貧しく、言葉の音調が淺いものですから、私は適當な語を求めて、知らずしらず新しい造語も試みないことはありませんでした。しかし新造語を試みる前に、まづ同じ内容を含蓄する古語の復活すべきものはなからうかと詮議してみました。私は自分でもあまりに古語の復活沙汰に執着し過ぎたことを知らない譯でもなかつたのですが、やるからには徹底的にやり通すのが、私の性分だものですから………。
『十字街頭』は、『白羊宮』の出版後から明治四十一、二年へかけての作品で、その當時いろんな雜誌に公にはしましたが、單行本に取纏めたのは今度がはじめてゞす。
『街頭』は、京都四條寺町で見た小景です。
『をけら詣』は、極月大晦日の夜、京都八坂神社に、元朝の齋火を貰ひに參詣するものが、道の摺違ひに互ひに見ず知らずの男女に、口を極めて惡態を吐き合ふ事實を辨へた上でないと、何を歌つたのか一寸見當がつき兼ねませう。
『葛城の神』は、島村抱月氏が早稻田文學を主宰し出した明治三十九年七月頃の同誌に載せたものです。役の小角が葛城山へ石橋を架けようとして、海内山神の合力を求めた時、たつた一人、葛城の女神が容貌のみにくいのを他にみられるのを恥ぢて、晝間出合はなかつたので、結縛したといふ傳説に因いて、作意を構へたものです。これを作る時には、無論アイスヒユロスの『プロメシユウス結縛』を想ひ浮べずには居られませんでした。この一篇は、後篇『解脱葛城の神』を俟つて、初めて完成するものなのですが、『解脱葛城の神』は未だ腹案としてのみ殘つて居ります。
『子守唄』は、明治四十一年頃の作です。クリスチナ・ロゼチの『しんぐ・さんぐ』を讀んで、こんなのを作つてみたらと思つて試みたものです。その當時はまだ昨今大流行の童謠といふ言葉はなかつたやうです。一つ一つの唄に、中澤弘光氏の極彩色の木版畫を入れて出版する筈で、版が略ぼ出來上つた頃、出版元が失敗したため、その儘となつてしまひました。その後名越國三郎氏の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)畫で、友人深江彦一氏の編輯してゐた『郊外生活』といふ雜誌に載せましたのを、短いお伽話と一緒に取纏めて、大正六年十二月冨山房から出版しました。
 顧れば、私は詩の國へ旅立ちのそも/\から一人ぼつちで、道連れといつては誰一人ありませんでした。道中も全く一人ぼつちでした。詩歌の國の仕事は、自分ひとりでなくてはいけないと思つたからです。
 私はこの間、自分で自分の魂をのみ見つめて暮しました。それがためには、仕事と名聞と生活とに便宜の多い帝都の生活から離れて、京都や、大阪や、また郷里やで、今日まで暮して來ました。お蔭で寂しくはあるが、自分自身の生活をたどることが出來たやうです。
 この詩集を出版するに當り、川田順、三木羅風、芥川龍之介の三氏は幾度か私を刺激して下すつた。名越國三郎氏は書物の裝幀※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)畫に骨を折つて下すつた。小平初子氏は一部原稿の寫しと口述速記とに力を藉して下さつた。
 以上の諸氏に對して心よりお禮を申述べ、併せてこれまでの詩集出版元が、この合集刊行について、快く同意せられたのに對し感謝いたします。





底本:「明治文學全集 58 土井晩翠 薄田泣菫 蒲原有明 集」筑摩書房
   1967(昭和42)年4月15日発行
底本の親本:「泣菫詩集」大阪毎日新聞社
   1925(大正14)年2月発行
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2006年7月18日作成
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  • 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。

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