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幕末維新懐古談(ばくまついしんかいこだん)11 大火以前の雷門附近

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-15 7:14:08 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: 幕末維新懐古談
出版社: 岩波文庫、岩波書店
初版発行日: 1995(平成7)年1月17日
入力に使用: 1995(平成7)年1月17日第1刷
校正に使用: 1995(平成7)年1月17日第1刷

底本の親本: 光雲懐古談
出版社: 万里閣書房
初版発行日: 1929(昭和4)年1月

 

私の十四歳の暮、すなわち慶応元年丑年の十二月十四日の夜の四ツ時(午後十時)浅草三軒町から出火して浅草一円を烏有うゆうに帰してしまいました。浅草始まっての大火で雷門かみなりもんもこの時に焼けてしまったのです。此所ここで話が前置きをして置いた浅草大火のくだりとなるのですが、その前になお少し火事以前の雷門を中心としたその周囲まわりの町並み、あるいは古舗しにせ、またはその頃の名物といったようなものを概略ざっと話して置きます。つまり、火事で焼けてしまっては何も残らないことになりますから――
 まず雷門を起点にして、現今の浅草橋(浅草御門ごもんといった)に向って南に取って行くと、最初が並木(並木裏町が材木町)それから駒形こまがた、諏訪町、黒船町くろふねちょう、それに接近して三好町みよしちょうという順序、これをさらに南へ越すと、蔵前くらまえの八幡町、森田町、片町かたまち須賀町すがちょう(その頃は天王寺ともいった)、茅町かやちょう、代地、左衛門河岸さえもんがし(左衛門河岸の右を石切いしきり河岸という。名人是真ぜしん翁の住居があった)、浅草御門という順序となる。観音堂から此所までは十八町の道程みちのりです。
 観音堂から堂へ向って右手の方は、馬道うまみち、それから田町たまち、田町を突き当ると日本堤にほんづつみ吉原土手よしわらどてとなる。雷門に向って右が吾妻橋あずまばし、橋と門との間が花川戸、花川戸を通り抜けるとやま宿しゅくで、それから山谷さんや、例の山谷堀のある所です。それを越えると浅草町で、それからは家がなくなってお仕置場しおきば小塚原こづかっぱら……千住せんじゅとなります。
 花川戸の山の宿から逆に後に戻って馬道へ出ようという間に猿若町さるわかちょうがある。此所に三芝居が揃っていた。
 観音堂に向って左は境内で、淡島あわしまのお宮、花やしき、それを抜けると浅草田圃たんぼで一面の青田であった。
 観音堂の後ろがまたずっと境内で、楊弓場ようきゅうばが並んでいる。その後が田圃です。ちょうど観音堂の真後ろに向って田圃をへだてて六郷ろくごうという大名の邸宅があった。そのも一つ先になると、浅草だめといって不浄の別荘地――これは伝馬町でんまちょうの牢屋で病気にかかったものを下げる不浄な世界――そのお隣りが不夜城の吉原です。ために寄った方が水道尻すいどうじり、日本堤から折れて這入はいると大門おおもん、大江戸のこれは北方に当る故北国ほっこくといった。
 それから雷門に向って左の方は広小路ひろこうじです。その広小路の区域が狭隘きょうあいになった辺から田原町たわらまちになる。それを出ると本願寺の東門ひがしもんがある。まず雷門を中心にした浅草の区域はざっとこういう風であった。
 私はまだ子供の事とて、師匠の家の走り使いなどに、この界隈かいわいを朝夕に往復し、町から町、店から店と頑是がんぜもなくて歩いたもの、今日のように電車などあるわけのものでなく、歩いて行って歩いて帰ることでありますから、その頃の景物がまことに明瞭はっきりと、よく、今も記憶に残っております。こうして話をしている中にも、まざまざと町並み、店々の光景が眼に見えるようにさえ思われて来ます。そこで、管々くだくだしくあるかは知らぬが、名代、名物といったようなものを眼の先にチラツクまま話して行きましょう。





底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:しだひろし
2006年2月14日作成
2006年6月21日修正
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