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もの思う葦(ものおもうあし)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/9/24 17:49:06 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

     はしがき

 もの思う葦(あし)という題名にて、日本浪曼派(ろうまんは)の機関雑誌におよそ一箇年ほどつづけて書かせてもらおうと思いたったのには、次のような理由がある。
「生きて居ようと思ったから。」私は生業(なりわい)につとめなければいけないではないか。簡単な理由なんだ。
 私は、この四五年のあいだ既に、ただの小説を七篇も発表している。ただとは、無銭の謂(い)いである。けれどもこの七篇はそれぞれ、私の生涯の小説の見本の役目をなした。発表の当時こそ命かけての意気込みもあったのであるが、結果からしてみると、私はただ、ジャアナリズムに七篇の見本を提出したに過ぎないということになったようである。私の小説に買い手がついた。売った。売ってから考えたのである。もう、そろそろ、ただの小説を書くことはやめよう。慾がついた。
「人は生涯、同一水準の作品しか書けない。」コクトオの言葉と記憶している。きょうの私もまた、この言葉を楯(たて)に執(と)る。もう一作拝見、もう一作拝見、てうかしがましい市場の呼び声に私は答える。「同じことだ。――舞台を与えよ。――私はお気に入るだろう。――こいしくばたずね来てみよ。私は袋の中から七篇の見本をとりだして、もいちどお目にかけるまでのことだ。私はその七篇にぶち撒(ま)かれた私の血や汗のことは言わない。見れば判るにきまっている。すでにすでに私には選ばれる資格があるのだ。」買い手がなかったらどうしようかしら。
 私には慾がついて、よろずにけち臭くなって、ただで小説を発表するのが惜しくなって来たのだけれども、もし買いに来るひとがなかったなら、そのうちに、私の名前がだんだんみんなに忘れられていって、たしかに死んだ筈だがと薄暗いおでんやなどで噂(うわさ)をされる。それでは私の生業もなにもあったものでない。いろいろ考えてからもの思う葦という題で毎月、あるいは隔月くらいに五六枚ずつ様々のことを書き綴ってゆこうというところに落ちついたのだ。みなさんに忘れられないように私の勉強ぶりをときたま、ちらっと覗(のぞ)かせてやろうという卑猥(ひわい)な魂胆のようである。

     虚栄の市

 デカルトの「激情論」は名高いわりに面白くない本であるが、「崇敬とはわれに益するところあらむと願望する情の謂(い)いである。」としてあったものだ。デカルトあながちぼんくらじゃないと思ったのだが、「羞恥(しゅうち)とはわれに益するところあらむと願望する情の謂いである。」もしくは、「軽蔑とはわれに益するところあらむと云々(うんぬん)。」といった工合いに手当りしだいの感情を、われに益する云々てう句に填(は)め込んでいってみても、さほど不体裁な言葉にならぬ。いっそ、「どんな感情でも、自分が可愛いからこそ起る。」と言ってしまっても、どこやら耳あたらしい一理窟として通る。献身とか謙譲とか義侠とかの美徳なるものが、自分のためという慾念を、まるできんたまかなにかのようにひたがくしにかくさせてしまったので、いま出鱈目(でたらめ)に、「自分のため」と言われても、ああ慧眼(けいがん)と恐れいったりすることがないともかぎらぬような事態にたちいたるので、デカルト、べつだん卓見を述べたわけではないのである。人は弱さ、しゃれた言いかたをすれば、肩の木の葉の跡とおぼしき箇所に、射込んだふうの矢を真実と呼んでほめそやす。けれども、そんな判り切った弱さに射込むよりは、それを知っていながら、わざとその箇所をはずして射ってやって、相手に、知っているなと感づかせ、しかも自分はあくまでも、知らずにしくじったと呟(つぶや)いて、ほんとうに知らなかったような気になったりするのもまた面白くないか。虚栄の市の誇りもここにあるのだ。この市に集(つど)うもの、すべて、むさぼりくらうこと豚のごとく、さかんなること狒狒(ひひ)のごとく、凡(およ)そわれに益するところあらむと願望するの情、この市に住むものたちより強きはない。しかるにまた、献身、謙譲、義侠のふうをてらい、鳳凰(ほうおう)、極楽鳥の秀抜、華麗を装わむとするの情、この市に住むものたちより激しきはないのである。そう言う私だとて病人づらをして、世評などは、と涼しげにいやいやをして見せながらも、内心如夜叉(にょやしゃ)、敵を論破するためには私立探偵を十円くらいでたのんで来て、その論敵の氏と育ちと学問と素行と病気と失敗とを赤裸々に洗わせ、それを参考にしてそろそろとおのれの論陣をかためて行く。因果。
「私は、はかなくもばかげたこの虚栄の市を愛する。私は生涯、この虚栄の市に住み、死ぬるまでさまざまの甲斐(かい)なき努力しつづけて行こうと思う。」
 虚栄の子のそのような想念をうつらうつらまとめてみているうちに、私は素晴らしい仲間を見つけた。アントン・ファン・ダイク。彼が二十三歳の折に描いた自画像である。アサヒグラフ所載のものであって、児島喜久雄というひとの解説がついている。「背景は例の暗褐色。豊かな金髪をちぢらせてふさふさと額(ひたい)に垂らしている。伏目につつましく控えている碧(あお)い神経質な鋭い目も、官能的な桜桃色の唇も相当なものである。肌理(きめ)の細かい女のような皮膚の下から綺麗(きれい)な血の色が、薔薇色(ばらいろ)に透いて見える。黒褐色の服に雪白の襟(えり)と袖口(そでぐち)。濃い藍(あい)色の絹のマントをシックに羽織っている。この画は伊太利亜(イタリア)で描いたもので、肩からかけて居る金鎖はマントワ侯の贈り物だという。」またいう、「彼の作品は常に作後の喝采(かっさい)を目標として、病弱の五体に鞭(むち)うつ彼の虚栄心の結晶であった。」そうであろう。堂々と自分のつらを、こんなにあやしいほど美しく書き装うてしかもおそらくは、ひとりの貴婦人へ頗(すこぶ)る高価に売りつけたにちがいない二十三歳の小僧の、臆面もなきふてぶてしさを思うと、――いたたまらぬほど憎くなる。

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