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最近日本の科学論(さいきんにほんのかがくろん)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-7 22:30:03 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 科学階級性の問題につらなる科学大衆化の問題、科学的啓蒙の問題、それからアカデミーとジャーナリズムとの問題は、世界観や、まして科学政策・科学精神・科学教育・の問題と、どこが違うのか。而もこうしたものが今日の科学論の世界を支配している時局的課題なのである(この際特に、科学を自然科学に限ってはならないことを注意せよ)。これが今日の自然科学の思想化的現象である。そして之が、自然科学関係の科学論の内容をなすべきものなのだ。処でこうした科学論が、今日世間一般の大衆の思想上の課題として圧力を有って来たと共に、自然科学専門家をも揺り動かし始めていることを知らねばならぬ、と云うのである。
 自然科学に関するこうした新しい姿の科学論が、唯物論乃至マルクス主義をめぐって問題を展開する他ないことは、今日の必然的条件である。今日科学論が、自然科学の思想化的傾向との連関の下に、思想的な時局性を以て登場・台頭して来た以上、この条件は必然であらざるを得ないのである。この点社会科学其の他の、初めから学問形態がやや社会的な塵にまみれ勝ちな場合と較べても、少しも変りはないのである。最近はゲシタルト理論を介して、心理学をめぐる科学論の発達は、重大な意義と豊富な未来を有つものだと思うが、ここでも亦、心理学の思想的通路への抜け出しを見とどけることが出来るだろう。
 社会科学・歴史科学・は云うまでもなく、自然科学のこうした思想化的傾向なるものは、原理的に云えば少しも異とするに足りない当然なことである、それは勿論だ。併し吾々の云いたい処は、特にアカデミックな社会環境を持つ処の自然科学、而もブルジョア・アカデミーの自然科学、そればかりではなくこのブルジョア・アカデミーの殆んど絶大な国権的威力と共にでなければ存続出来ない日本の自然科学、之がこの数年来、著しく思想化的傾向を帯びて来た、という点だ。その原因はどこにあるか。つまり科学論が、殆んど一切の現代諸科学に渡って、学術的な足場と社会的な思想的実在性とを得ることによって、現在の文化的時局の顕著なトピックとなり得たのは、何に原因するのか。
 一等手近かな原因として誰しも挙げ得るものの一群は、物理学・物化学・生理学・心理学・等に於ける新しい卓越した理論の簇出である。物理学に於ける相対性理論と新量子論とはその典型であり、心理学乃至生理学に於けるゲシタルト理論や生物論に於ける全態説論議などが之に次ぐものだろう。之が普通の意味での認識論の課題を提出することによって、前進的な第一線の自然科学者達を国際的に一斉に、科学論の検討へ向わせたのである。事実科学論的な検討を加えなければ、変革的な理論が伴いがちな混乱を整理することが出来ないからだ。日本の自然科学者も亦、この国際的な動向によって動かされたのである。
 相対性理論や量子力学のような理論物理学上の仕事は、純粋科学的な内容のもので、産業や生産技術とあまり関係がないように考えられるかも知れないが、勿論実際はその反対である。電子の研究を離れてはこうした理論の動機がなかったのだし、又物質構造の問題を離れてこの種の理論の時局的価値を理解することは出来ないが、そうした研究を実行することは高度の技術的水準を仮定したものであり、従って高度の産業の発達を仮定したものなのだ。従って原因を辿って行けば、窮極の意味に於ては近代産業技術の高度の発達に遠由しているわけである。思想と技術との脈々たる血縁は之でも判ると思うのだが、併し之は云わば科学の単に内部的な処に見出される原因でしかない。
 単に内部的なものは決してそれだけで真実なものではない(ヘーゲルは大胆にそう云っている)、外部的なものも亦内部的なものに劣らず、真実なものだ。外部的な原因として誰しもすぐ様気づく処は、自然科学の研究と研究者との持つ社会的世間的条件の変化である。第一に、最近の日本のように軍需技術が特に跛行的に発達することを必要としている条件の下では、一般の産業技術と之の基礎として随伴する自然科学とに対する社会人の関心(「理化学」の研究が大切だと云われる)は、自然科学の原理的研究のために取ってある空間には、盛り切れないものを生じるのである。十年来、云わば産業技術の好景気(?)のために、自然科学者乃至技術家を志望する若いジェネレーションのインテリゲンチャは、次第に増加しつつある。之は高等学校の文科志望者と理科志望者との数を逐年的に比較しても判ることだ。処が実際は、技術界に於ても、この新進の技術インテリゲンチャ乃至若い自然科学者達の大部分を受け容れ得るだけの余地はないのである。少なくとも狭義国防予算が実施される以前の状態はそうだった。そこで自然科学研究室を中心とする若い技術家・自然科学者の、一種の失業層が発生した。之が極端な場合には、実際の失業者となるのでもあるが、多くは公認職業身分を獲得するための準備層又は停滞層として、自然科学に於ける擬似アカデミシャン群をなすのである。この擬似アカデミシャンは、既成アカデミーのアカデミシャンとは異って、世界大戦後の社会思想の訓練を多少とも常識として経て来ているばかりではなく、社会的矛盾を自身の生活の将来について直接知ることが出来るのだから、従っておのずから、元来ブルジョア・アカデミーの専有物であった自然科学をも、社会の思想的水準にまで持ち出すという役目を果すようになるわけだ。
 自然科学の将来ある充用の主人は、無産者であろうが、今日の日本などの無産者はこの自然科学を充用する当人ではなく、従って彼等は又自然科学の思想的な享受者でさえもないのだ。自然科学に関する社会的企画は彼等の知る処でないばかりでなく、自然科学(一般に科学だが)は彼等にとって、単に「ムツかしいもの」にしか過ぎないのが、遺憾ながら今日の現状である。だから自然科学の今云った擬似アカデミシャンは、そのやや的確な諸制限にも拘らず、極めて有用な社会的任務を課せられている。自然科学の思想化傾向や科学論的検討への参加は、知ると知らぬとに拘りなく、その任務が課せられた結果である。
 だがもう一つの刺戟的な原因は、人も知るように、今日の日本型ファシズムの進行に伴うファッショ的文化情勢であったのである。「知育偏重」排撃を中心とする国体明徴主義其の他の科学教育・科学政策・が強化されるに及んで、自然科学者らしい自然科学者の大半は(少数の非科学的な科学者の例外はやむを得ないとして)、云わば本能的に、科学的精神というようなものの提唱に向わざるを得なくなった。尤もその科学的精神と呼ばれるべきものが何であるかに就いては、まだ一致した見解がないばかりでなく、充分な分析と検討とをも欠いている。そしてそこに多くの伏在した弱点もあるのだが、とにかくその意図に於て、又客観的には大勢として、反ファッショ化的な意識が、多くの自然科学者の心臓の内から絞り出されざるを得なくなって来たのだ(社会科学者の内での科学的に進歩的な分子も勿論そうだ)。しかし注目すべきは、専門外の一般識者の中からさえ、そして従来何等の思想的傾向も情熱も示さなかったような種類の人士の間からさえ、或る程度の科学論的な見地が展開されるという現象があることだ(渡辺千冬氏の如き)。思想的中間性に止まることを目標としていた自由主義者が、所謂「自由主義」の名の下に、思想的な傾向を持たざるを得なくなった現下の日本の、一つの姿がここにも見られる。
 かくして今日の自然科学は、内部的外部的な一切の原因の連関的な結果として、必然的に思想化的動向を辿り、科学論的視野を高くしつつあるのである。之が独り自然科学だけの事情でないことは重ねて述べる必要はない。この際の思想的な嗜好は、云わば「自由主義」的である。と云うのは一方に於てリベラーレンの受動性と限界性とを有つと共に、他方に於てデモクラットとしての積極性を有つわけで、それが現代日本の科学論の正面の性格をなしているだろう。だがこうした現下の日本の所謂「自由主義」の背後に、実際にどういう民衆的意図が蔵されているかは、一般的に検討されねばならぬことだが、少なくとも科学論に於けるこの自由主義的特色は、一部分は唯物論への意向を含んだものであり、一部分は唯物論に対する主観的な反対を意図したものであり、他の一部分は、率直に唯物論に立脚するものであって、之等のものに対立する対極としての文化ファッショ的科学論議(国体明徴的歴史科学論や民族主義的社会科学論から、主観論的自然科学論――之は橋田邦彦博士から田辺元博士の所説の一部までも含む――に至るまで)と、一部分交錯し他の部分に於て分極していることにある、と云うことが出来るだろう。――そういう意味に於て、唯物論を、意識的無意識的に、問題の枢軸としているということを、吾々は見落してはならないのである。之が今日の科学論に、あれ程の社会的リアリティーと時局的重大性とを与えている処のものだ。
 さて、今日の科学論は、かつての世界大戦直後に日本で一時行なわれたあの「科学論」のような、ああいう性質に止まるものではないし、又ああいう系統の単なる発展と見ることも出来ない。今日の科学論は、世界観や範疇や方法を中心とする普通の意味での認識論だけに制限されているのではない。それは科学政策・科学教育・科学精神・と云ったような他の一連の新しい現実問題をも同時に課せられている。而もこの二群の問題の間に、科学論としての統一が与えられているかというと、多くの場合そうではない。二群のものは一見別な問題のようにさえ見做されているのだ。二つを関係づけるにしても、ごく部分的なひっかかりから、わずかに関係をつけることに終始している場合が大方である。
 実際ここには欠落した問題の環があるのである。と云うのは、終局の統一的な視点は別としても、前に云ったように、さし当り例えば、アカデミーの機能とジャーナリズムとの連関さえが科学論的な意味に於てはまだ解答されていないのだ。それから科学的啓蒙や科学大衆性の問題、つまり科学の階級性に発する諸問題は、何か忘れられているようなのだ。だがこの環を抜きにして、恐らく科学論の充分な押し出しは不可能である。つまり科学の階級性というような問題を、もう一遍真面目に取り出して見るのでなければ、科学政策や科学教育の批判も要点に沿うては不可能だし、科学的精神の生きた分析も出来ないのである。

(一九三七・五)





底本:「戸坂潤全集 第一巻」勁草書房
   1966(昭和41)年5月25日第1刷発行
   1967(昭和42)年5月15日第3刷発行
入力:矢野正人
校正:松永正敏
2003年9月11日作成
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