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尚書稽疑(しょうしょけいぎ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-13 16:24:42 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 予は之に對して同じ疑問より出發して、異つた結論に到達することになつたのである。即ち孔子以後儒家の人々が主として戰國の諸國に用ゐられ、各其國の用を爲してゐる間に自然に曲學阿世の風を生じたものと看るのである。公羊學の成立は漢代に於ける曲學阿世の最明白なる證據と謂ふべきもので、單に公孫弘が武帝個人の意を迎へたのが曲學阿世であるのみならず、董仲舒が漢代に適合すべく春秋の學を解釋して、それに由つて百家を斥け學問の一統を圖つたのも半ば曲學の方針から出たことは疑ない。漢代に於て此の如く曲學阿世の風が行はれ、董仲舒の如き人物でさへも此の如き方針を取るに至つたのを見ては、其以前の儒家が一人も曲學を爲さなかつたとは信ぜられない。孔子の時代に於てさへ冉有や子路は各其の仕へた家の爲めに其操守を曲げたと言はれてゐる。かゝる點より考ふれば、例へば魏の文侯、武侯の時に子夏の門流が西河に於て大きくなつたとか、齊の宣王※(「さんずい+緡のつくり」、第4水準2-78-93)王の時に學者が多く稷下に集つたとか、或は其以後呂不韋の爲めに學者が秦に招かれ、それが秦の博士として殘つてゐたとか、――伏生や叔孫通も其中の一人である――兎も角孔子以後に儒家の學者が大きな集團を作つた國々では、其等の學者が各其の仕へた國の爲めに其の學を曲げたといふことは勿論想像せられないことはない。今日の尚書は固より伏生から出たのであるが、伏生は秦の博士であつて、而して今の尚書の末篇が秦誓で終つてゐる事などから考へ合すと、其間の消息が窺はれる。かゝる看方によりて考ふれば、甫刑が齊の勢力を代表し、文侯之命が晉の勢力を代表して夫々附け加へられたことも想像せられる。晉の勢力は後に三晉に分れた時魏に傳へられ、魏のことを普通に晉と呼んでゐたことは孟子にても知られる通りにて、魏は晉の相續者と自らも考へ他からも考へられてゐた、それで文侯之命が儒家の晉國に用ひられてゐた時の産物たることは想像がつく。それでは、甫刑が齊國の産物たることは如何といふに、それは小島君の最近に發表した贖刑の研究にも言はれてゐる所であるが、猶其他にも甫刑に含まれてゐる思想で齊國を代表したと考へられる證據がある。それはやはり魏源が書古微の甫刑發微で論じてゐる所である。曰はく

禹稷皐陶三后佐唐虞、禹讓稷契及皐陶、堯舜之道、惟禹皐陶見而知之、此萬世所共聖、殷本紀述湯誥曰、古禹皐陶久勞於外、四涜已備、萬民乃有居、后稷降播農殖百穀、三公咸有功於民、故后有立、書序曰、皐陶矢厥謨、禹成厥功、帝舜申之、作大禹皐陶謨益稷、是三后自古論定、雖湯之興、不敢以契入三后而退皐陶也、乃甫刑忽易以伯夷降典折民爲刑、推爲三后、而皐陶不與、漢楊震孫賜遂以皐陶不與三后、恥拜廷尉之官、不知此甫刑之大繆也、堯時姜氏爲四伯、掌四嶽之祀、述諸侯之職、於周則有申甫齊許、(見※(「山/松」、第3水準1-47-81)高詩毛傳)國語史伯言姜爲伯夷之後、許爲大岳之胤、是甫侯之置皐陶進伯夷、代列三后者、私尊乃祖、假王命以寵先靈、穆王耄荒、誠哉其耄荒也、夫成天地之大功者、其子孫未嘗不淳耀惇大、唐虞夏商周而外、楚爲重黎祝融之後、贏爲伯益之後、而伯益實庭堅之子、禹薦益於天、孰謂大理官不列三后乎、史記秦之先始於大業、大業生大費、與禹平水土、大費佐舜調馴鳥獸、是爲柏翳、舜賜姓贏氏、索隱謂大業即皐陶、大費者伯益、即皐陶之子、又列女傳陶子生十五歳而佐禹、曹大家注、陶子即皐陶子伯益也、至皐陶之後、兼封英六、楚人滅六、臧文仲謂皐陶庭堅不祀忽諸者、猶周公之後自魯外、尚有凡蒋※(「形」の「彡」に代えて「おおざと」、第3水準1-92-63)茅胙祭也、漢書古今人表只柏益一人、並無伯益柏翳分二人之説、甫侯自侈其家世、而天之所興、人力不與、伯夷姜氏之後、滅於陳田、卒不能與皐陶伯益爭衡、夫子以秦誓繼甫刑、知皐陶伯益之後、將繼稷契禹而代興也、惟王變而覇、道徳變而功利、此運會所趨、即祖宗亦不能聽其不自變、(書古微十一)
魏源は禹稷皐陶を三后とすることが定論であるのに甫刑が皐陶を退けて伯夷を入れたのは不都合であると言ひ、それは穆王の時に甫侯が勝手なことをしたのだと論じてゐる。然るにそれは看方の不完全な點があるので、實は禹稷皐陶を三后とするのも、禹稷伯夷を三后とするのも、つまり儒家の中で三后といふ者を立つる各の家學の相違である。即ち齊へ行つた儒家は齊の國の姜姓と關係ある伯夷を三后の一人とし、秦に行つた儒家は秦の先祖と認めらるゝ皐陶を三后に入れた差異であつて、是は孰れが正しく孰れが謬るとも言へない。唯禹稷伯夷を三后としたのは稷下の儒家の思想を表はし、禹稷皐陶を三后としたのは秦國へ入つた儒家の思想を表はしたまでゞある。尤も當時既に齊國は田氏で、姜姓の國は無くなつてゐるのに、稷下の儒家は何故姜姓の伯夷を入れる必要があつたかと云ふに、それは齊國は、田氏の代になつても其の崇拜する所は依然桓公管仲であつたからである。今日の管子は勿論田氏になつてから出來た書であるにも拘らず、桓公と管仲とを理想として書いたものに相違ない。孟子が公孫丑に對して子は誠に齊人なり管仲晏子を知るのみと言ひし時も、既に田齊の宣王の時代であつた。かゝる點より考ふれば甫刑は齊國に對する曲學の意味より尚書に入つたものであることが明かに推測し得られる。若し詩の例より考ふれば、周頌の次に魯頌が編次せられてゐる事は、即ち孔子の所謂東周を爲すの思想を代表せる如く見ゆるのであつて、尚書に於ても其意味から言へば費誓で終るのが當然である。費誓は周公の子の伯禽が徐淮の夷を征伐したことを書いたもので、當時楚の國の如き夷狄の盛になつたものに對して膺懲の意を寓したものであるから、之を以て尚書の終とすることは、恐らく孔門に於ける最初の思想を代表するものと看て可からう。而して其後儒家が魏に用ゐられ、齊に用ゐられ、秦に用ゐらるゝに及んで、段々之に附け加へが出來たのが即ち今日現存する尚書の形であらう。殊に甫刑の如きは異つた觀察點から看ても、小島君の言ふ如く齊國で作られたものと見られるので、予の結論に一致することになるのは、尚書の編成の研究に有力なる資料を増すものと謂つて可い。
 さて又古書の多くは其の附加竄入のあることを豫期して觀察すれば、其末尾に附加されることが多いと同時に、首端に於ても亦附加せらるべきことを想像し得られる。そこで次に予が提供したい疑問は尚書の卷首の方の部分で、即ち堯典より洪範に至る各篇である。是も劉逢祿の考へた如く詩と比較すれば、そこに一の觀察點を見出すことができる。詩は商頌を以て終つてゐる、是はやはり儒家の思想變遷の時期を現はしてゐるのである。大體に於て儒家の思想の發展は、其初は孔子が東周を爲さんといへる如く、周の統を承くるものとして魯を周の位置に置く考へが行はれた、これ詩に魯頌あり、尚書に費誓のある所以である。春秋なども最初は王を以て魯に與へる考へであつたが、其後公羊學の發達に從つて、王を以て孔子其人に與ふる考へとなり、所謂素王説が出來たものである。又孔子は殷の血統を引いてゐる人である、此點より考ふれば詩の編成に於て魯頌の次に商頌を附け加へた意味を理解することが出來る。斯くて尚書に於ても最初の儒家の考は、其編次の方法として、最後に費誓を置いたのに一歩を進めて最初に洪範を置き、殷の遺臣たる箕子が道統を傳へたといふ意義を寓したものと解釋し得る。又尚書に關して漢代から一種の疑問となつてゐる事は司馬遷の採つた史記の材料である。司馬遷は當時尚書に關した材料は今文に取つたことは明かで、近代の今文學者は史記の引用せる尚書により今文が古文に相違してゐる點を發見することになつてゐるが、然るに漢書儒林傳に據れば、司馬遷は孔安國から古文尚書を受けたので、史記に堯典、禹貢、洪範、微子、金縢諸篇を載せてゐるのには古文説が多いと言つてゐる。此に由つて觀れば司馬遷の當時に此等の諸篇は今文説で解釋することにしては、頗る薄弱であつたといふ事が知られるのである。而して此等の諸篇は皆大體に於て周書の大部分の如く或時の或事件を單純に記したものではなく、多くは長い間に亙つた事件の始末を編纂したものであり、而して其内容に立入ると、堯典、禹貢、洪範は一篇の中に幾多の異つた材料が混じてゐて、長い間に亙り變化した時代の思想を含んでゐるものなることがわかる。それで此等の各篇は兎も角書籍編纂の技巧が儒家の間に出來てからのものなることが想像せられる。又其中に插まれてゐる甘誓湯誓は一種の韻文であつて、これは春秋戰國の頃に暗誦で傳へられたものなることを知るに十分である。斯くて此等の諸篇は洪範以後の各篇、即ち五誥を中心とし周公の言辭を主として書いた各篇とは、全く別の體裁のものであることが明かである。
 是に由つて想像し得らるゝ事は、此等の諸篇がやはり儒家思想發展の各時代を段々に現はしてゐるものでないかといふことである。孔子の政治に關する理想は周公の制度の復活にあつたらしく、吾東周を爲さんかと言ひ、吾は周に從はんと言ふやうなことが、少くとも孔子に最も近かつた門派の人々が最初に考へ得らるべき思想である。それで堯舜を祖述することは恐らく其以後に出來た思想であつて、是は九流の中の他家と競爭上、儒家が漸次古き時代に標準を置くやうになつた結果でないかと思はれる。即ち初め孔子及び其の門下は周の全盛を理想とし、それより周の統を承けた魯を王とする思想を生じ、次で孔子を素王と推尊する所より殷を尊ぶ思想を生じたものであると思ふ。然るに一方に於て墨家の如きは、その學派が殷の末孫たる宋に起つたに拘らず、理想の人物としては、禹を推尊するやうになつて來たので、堯舜の傳説は孔子以前より全く無かつたといふに非ざるも、堯舜を祖述するといふ思想は、墨家に對して競爭する上から生じたものと思ふ。其後六國の時には更に黄帝、神農を説く學派を生じたので、甫刑の中には既に疑はしけれども、堯舜以前の※(「端のつくり+頁」、第3水準1-93-93)※(「王+頁」、第3水準1-93-87)とか黄帝とかの疑を有する者を含んで居り、六藝中比較的晩く發達したと思はるゝ易の繋辭傳にては伏羲まで溯つてゐる。此に由つて觀れば尚書にて周書の前に殷に關する諸篇を置くことは、孔子並に其の門下を去る遠からざる時代に爲されたのであらうが、堯舜や禹に關するものは更に其の以後に附け加へられたものと考へ得られぬことはない。其他六國の末から漢初に至る間には又一種の思想があつて、魏源も指摘せる如く、史記の殷本紀の湯誥に三后は其后皆立つこと有りと言へる如き思想が餘程一般に行はれたものゝやうである。史記の如きは明かに其の思想を以て書かれたもので、陳杞世家の末には人民に功徳の有つた人の末孫が或は帝王となり或は大諸侯となつたのであつて、それには世家言あり本紀言ありと斷つてゐる。それで尚書に在りても史記が本紀若しくは世家に於て表はしたことを其の典謨に於て表はしたゞけの差であつて、兩者は同じ思想の産物たることを明白に認め得られる。されば皐陶謨の如きは其の思想によつて明かに解釋し得るのであつて、皐陶の如く刑罰を掌つた者が重んぜらるゝのは――甫刑で伯夷の如く刑罰を掌つた者を重んずるも同樣であるが――法家名家の起つて以後の晩周の思想たることが知られるのである。要するに皐陶は晩周思想と、特に皐陶が秦の先祖であるといふ傳説から、堯舜と並べられて尚書の主なる部分に入れられたのであつて、文辭から言つても、典謨中皐陶謨は最も新らしき要素を含んだものであると思ふ。
 以上述ぶる所を總括すれば、尚書は最初周公に關する記録が其中心であつたものと想像される。尤も今日の五誥は儒家が持ち傳へてゐる間に各の時代の語を以て古語を取り替へた跡があるのであつて、それは例へば史記が訓詁の詞を以て本文を替へたことが、古文今文の議論を外にしても確かに考へらるゝと同樣である。此等の篇が現存の毛公鼎や其他の金文に比すれば文從字順で讀み易い傾のあるのは即ちそれが爲めであると思ふ。而して儒家思想の發展に伴ひ、次第に本文に變化を來したのであつて、其の初め魯を王とする説、孔子を素王とする説であつたものが、他の諸子との競爭上、道統を古きことにする必要より典謨の諸篇が附け加へられ、儒家が六國に用ゐられ、曲學を爲す必要より、甫刑以下の各篇が順次に附加せらるゝに至つたものであらう。此變遷は既に伏生が尚書を世に出す前に於て行はれつゝあつた所で、その間には儒家の傳へた尚書と墨家の傳へた尚書との間に相違ある如く、儒家の間に在りても各分派によりて夫々異つた本文を傳へてゐたのであるが、それは漢以後伏生の尚書によつて統一された爲めに、他の者は皆形を失つてしまつたのである。これだけの變化のあつたことは、尚書を研究する際、先づ考へて置く必要があらうと思ふ。

 以上の如き方法を以て他の經籍をも順次に研究し、從つて其間に自然に儒家思想の發展史を見出す事が出來たならば、茲に始めて先秦古籍の研究が完全に出來上るであらうと思ふ。而して此等の事業は予が吾黨の諸君に向つて厚く望む所である。
(大正十年三月發行「支那學」第壹卷第七號)
  自注
(一)孟子縢文公上に決汝漢排淮泗而注之江とあり、今の尚書禹貢では江水と淮水とは各々獨立して海に入るので、相通ずることがない。閻若※(「王+據のつくり」、第3水準1-88-32)は四書釋地續に於て、朱子の説に從つて孟子が一時の誤記に出でたものとしたが、錢大※(「日+斤」、第3水準1-85-14)は孟子ほどの人が禹貢を讀み能はなかつた筈がないといつて、呉淞江、錢唐江、浦陽江の三江さへ江の委であるから、五百里位の距離の淮口も江の下流とするに何の疑があらうといつて、從來學者が淮泗が江に入らぬ證據として擧げた禹貢の沿于江海、達于淮泗の二句を、反つて淮泗が江に注ぐの證とした、焦循の孟子正義は趙注の決、排兩字の注を據として、下流の注入でなく、上流の交會であると、巧妙に解釋したが、要するに皆禹貢が孟子より古く、孟子が之を見ぬ筈がないといふ前提から發したもので、本來は孟子の説が禹貢と違つて居ると見るのが穩當で、孟子は禹貢を知らなかつたと考へて差支ない譯である。墨子の兼愛中篇にも禹の治水を敍して、南爲江漢淮汝東流之注五湖之處以利荊楚于越南夷之民とあれば、禹の治水に關する傳説に、自ら此一派があつて、禹貢とは異つた尚書があつたのであらう。
(二)宋の王柏は論語の堯曰篇首の二十四字を堯典の脱簡なりとして、舜讓于徳弗嗣の下に補つた、又同篇の曰予小子履以下四十六字は、墨子兼愛篇に引ける湯説と殆ど一致し、(論語の孔注には墨子に湯誓を引けるといつて居る)雖有周親以下四句は、兼愛篇の武王が泰山隧に事ふる祝詞と粗ぼ同じである。又墨子に引ける尚書には呂刑、大誓、仲※(「兀+虫」、第4水準2-87-29)之誥等、今の尚書と同名の者の外に、今の尚書と異名同實の禹誓(甘誓)武觀(五子之歌)等があり、同名異實の湯誓などがあり、今の尚書に全くなき術令、相年、禽艾、湯之官刑、禹之總徳等もある。
(三)朱子語類卷第八十二に左傳是後來人做。爲見陳氏有齊。所以言八世之後。莫之與京。見三家分晉。所以言公侯子孫必復其始。
(四)一二の例を擧げて見ると、
左傳宣公六年、晉の趙盾が靈公を弑せる事の傳は、公羊傳、國語晉語、呂氏春秋過理篇などに出て居り、同十三年の楚の莊王が宋を圍んだ事の傳は、公羊傳、韓詩外傳、國語晉語、呂氏春秋行論篇などに出でゝ居り、成公四年の梁山崩の傳は、公羊、穀梁二傳國語晉語などに出でゝ居り、或は説話に變化があり、或は思想にも異つた點がある。
(五)蘇東坡の洪範に關する説は、東坡書傳に出でゝ居る。東坡は洪範の外に、康誥洛誥に就ても異見がある。余※(「壽/れっか」、第3水準1-87-65)が洪範を改正せんとした事は宋の※(「龍/共」、第3水準1-94-87)明之の中呉紀聞卷二に見えて居る。
(六)王柏の説は其の著なる書疑に出で、堯典、皐陶謨、益稷、洪範、多方、立政諸篇に於て、皆其の錯脱に注意し、己が意見を以て更定して居る。金履祥は其門下に出て、尚書表注の著があつて、やはり尚書各篇に更定を試みて居る。





底本:「内藤湖南全集 第七卷」筑摩書房
   1970(昭和45)年2月25日発行
   1976(昭和51)年10月10日第2刷
底本の親本:「研幾小録」弘文堂
   1928(昭和3)年4月発行
初出:「支那學 第壹卷第七號」
   1921(大正10)年3月発行
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年2月5日公開
2006年1月18日修正
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    「(「臣」を180°回転させたもの+臣)/一/介」    15-1

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