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李陵(りりょう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/10/17 11:39:23 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


       三

 乱軍の中に気を失った李陵(りりょう)が獣脂(じゅうし)を灯(とも)し獣糞(じゅうふん)を焚(た)いた単于(ぜんう)の帳房(ちょうぼう)の中で目を覚ましたとき、咄嗟(とっさ)に彼は心を決めた。自(みずか)ら首刎(は)ねて辱(はずか)しめを免れるか、それとも今一応は敵に従っておいてそのうちに機を見て脱走する――敗軍の責を償(つぐな)うに足る手柄を土産(みやげ)として――か、この二つのほかに途(みち)はないのだが、李陵は、後者を選ぶことに心を決めたのである。
 単于(ぜんう)は手ずから李陵の縄(なわ)を解いた。その後の待遇も鄭重(ていちょう)を極めた。且※(「革+是」、第3水準1-93-79)侯(そていこう)単于とて先代の※(「口+句」、第3水準1-14-90)犁湖(くりこ)単于の弟だが、骨骼(こっかく)の逞(たくま)しい巨眼(きょがん)赭髯(しゃぜん)の中年の偉丈夫(いじょうふ)である。数代の単于に従って漢(かん)と戦ってはきたが、まだ李陵ほどの手強(てごわ)い敵に遭(あ)ったことはないと正直に語り、陵の祖父李広(りこう)の名を引合いに出して陵の善戦を讃(ほ)めた。虎(とら)を格殺(かくさつ)したり岩に矢を立てたりした飛将軍(ひしょうぐん)李広の驍名(ぎょうめい)は今もなお胡地(こち)にまで語り伝えられている。陵が厚遇を受けるのは、彼が強き者の子孫でありまた彼自身も強かったからである。食を頒(わ)けるときも強壮者が美味をとり老弱者に余り物を与えるのが匈奴(きょうど)のふうであった。ここでは、強き者が辱(はずか)しめられることはけっしてない。降将李陵は一つの穹盧(きゅうろ)と数十人の侍者(じしゃ)とを与えられ賓客(ひんきゃく)の礼をもって遇(ぐう)せられた。
 李陵にとって奇異な生活が始まった。家は絨帳(じゅうちょう)穹盧(きゅうろ)、食物は羶肉(せんにく)、飲物は酪漿(らくしょう)と獣乳と乳醋酒(にゅうさくしゅ)。着物は狼(おおかみ)や羊や熊(くま)の皮を綴(つづ)り合わせた旃裘(せんきゅう)。牧畜と狩猟と寇掠(こうりゃく)と、このほかに彼らの生活はない。一望際涯(いちぼうさいがい)のない高原にも、しかし、河や湖や山々による境界があって、単于(ぜんう)直轄地(ちょっかつち)のほかは左賢王(さけんおう)右賢王左谷蠡王(さろくりおう)右谷蠡王以下の諸王侯の領地に分けられており、牧民の移住はおのおのその境界の中に限られているのである。城郭もなければ田畑もない国。村落はあっても、それが季節に従い水草を逐(お)って土地を変える。
 李陵には土地は与えられない。単于麾下(きか)の諸将とともにいつも単于に従っていた。隙(すき)があったら単于の首でも、と李陵は狙(ねら)っていたが、容易に機会が来ない。たとい、単于を討果たしたとしても、その首を持って脱出することは、非常な機会に恵まれないかぎり、まず不可能であった。胡地(こち)にあって単于と刺違えたのでは、匈奴(きょうど)は己(おのれ)の不名誉を有耶無耶(うやむや)のうちに葬ってしまうこと必定(ひつじょう)ゆえ、おそらく漢に聞こえることはあるまい。李陵は辛抱強(しんぼうづよ)く、その不可能とも思われる機会の到来を待った。
 単于(ぜんう)の幕下(ばっか)には、李陵(りりょう)のほかにも漢の降人(こうじん)が幾人かいた。その中の一人、衛律(えいりつ)という男は軍人ではなかったが、丁霊王(ていれいおう)の位を貰(もら)って最も重く単于に用いられている。その父は胡人(こじん)だが、故(ゆえ)あって衛律は漢の都で生まれ成長した。武帝に仕えていたのだが、先年協律都尉(きょうりつとい)李延年(りえんねん)の事に坐(ざ)するのを懼(おそ)れて、亡(に)げて匈奴(きょうど)に帰(き)したのである。血が血だけに胡風(こふう)になじむことも速く、相当の才物でもあり、常に且※(「革+是」、第3水準1-93-79)侯(そていこう)単于(ぜんう)の帷幄(いあく)に参じてすべての画策に与(あず)かっていた。李陵はこの衛律を始め、漢人(かんじん)の降(くだ)って匈奴の中にあるものと、ほとんど口をきかなかった。彼の頭の中にある計画について事をともにすべき人物がいないと思われたのである。そういえば、他の漢人同士の間でもまた、互いに妙に気まずいものを感じるらしく、相互に親しく交わることがないようであった。
 一度単于は李陵を呼んで軍略上の示教を乞(こ)うたことがある。それは東胡(とうこ)に対しての戦いだったので、陵は快く己(おの)が意見を述べた。次に単于が同じような相談を持ちかけたとき、それは漢軍に対する策戦についてであった。李陵はハッキリと嫌(いや)な表情をしたまま口を開こうとしなかった。単于も強(し)いて返答を求めようとしなかった。それからだいぶ久しくたったころ、代・上郡を寇掠(こうりゃく)する軍隊の一将として南行することを求められた。このときは、漢に対する戦いには出られない旨を言ってキッパリ断わった。爾後(じご)、単于は陵にふたたびこうした要求をしなくなった。待遇は依然として変わらない。他に利用する目的はなく、ただ士を遇するために士を遇しているのだとしか思われない。とにかくこの単于は男だと李陵は感じた。
 単于の長子・左賢王(さけんおう)が妙に李陵に好意を示しはじめた。好意というより尊敬といったほうが近い。二十歳を越したばかりの・粗野(そや)ではあるが勇気のある真面目(まじめ)な青年である。強き者への讃美(さんび)が、実に純粋で強烈なのだ。初め李陵のところへ来て騎射(きしゃ)を教えてくれという。騎射といっても騎のほうは陵に劣らぬほど巧(うま)い。ことに、裸馬(らば)を駆る技術に至っては遙(はる)かに陵を凌(しの)いでいるので、李陵はただ射(しゃ)だけを教えることにした。左賢王(さけんおう)は、熱心な弟子となった。陵の祖父李広(りこう)の射における入神(にゅうしん)の技などを語るとき、蕃族(ばんぞく)の青年は眸(ひとみ)をかがやかせて熱心に聞入るのである。よく二人して狩猟に出かけた。ほんの僅(わず)かの供廻(ともまわ)りを連れただけで二人は縦横に曠野(こうや)を疾駆(しっく)しては狐(きつね)や狼(おおかみ)や羚羊(かもしか)や※(「周+鳥」、第3水準1-94-62)(おおとり)や雉子(きじ)などを射た。あるときなど夕暮れ近くなって矢も尽きかけた二人が――二人の馬は供の者を遙(はる)かに駈抜(かけぬ)いていたので――一群の狼に囲まれたことがある。馬に鞭(むち)うち全速力で狼群の中を駈け抜けて逃れたが、そのとき、李陵の馬の尻(しり)に飛びかかった一匹を、後ろに駈けていた青年左賢王が彎刀(わんとう)をもって見事(みごと)に胴斬(どうぎ)りにした。あとで調べると二人の馬は狼どもに噛(か)み裂かれて血だらけになっていた。そういう一日ののち、夜、天幕(てんまく)の中で今日の獲物を羹(あつもの)の中にぶちこんでフウフウ吹きながら啜(すす)るとき、李陵は火影(ほかげ)に顔を火照(ほて)らせた若い蕃王(ばんおう)の息子に、ふと友情のようなものをさえ感じることがあった。

 天漢三年の秋に匈奴(きょうど)がまたもや雁門(がんもん)を犯した。これに酬(むく)いるとて、翌四年、漢は弐師(じし)将軍李広利(りこうり)に騎六万歩七万の大軍を授(さず)けて朔方(さくほう)を出でしめ、歩卒一万を率いた強弩都尉(きょうどとい)路博徳(ろはくとく)にこれを援(たす)けしめた。ひいて因※(いんう)[#「木+于」、39-13]将軍公孫敖(こうそんごう)は騎一万歩三万をもって雁門を、游撃(ゆうげき)将軍韓説(かんせつ)は歩三万をもって五原(ごげん)を、それぞれ進発する。近来にない大北伐(ほくばつ)である。単于(ぜんう)はこの報に接するや、ただちに婦女、老幼、畜群、資財の類をことごとく余吾水(しょごすい)(ケルレン河)北方の地に移し、自(みずか)ら十万の精騎を率いて李広利(りこうり)・路博徳(ろはくとく)の軍を水南(すいなん)の大草原に邀(むか)え撃った。連戦十余日。漢軍はついに退くのやむなきに至った。李陵(りりょう)に師事する若き左賢王(さけんおう)は、別に一隊を率いて東方に向かい因※(いんう)[#「木+于」、39-18]将軍を迎えてさんざんにこれを破った。漢軍の左翼たる韓説(かんせつ)の軍もまた得るところなくして兵を引いた。北征は完全な失敗である。李陵は例によって漢との戦いには陣頭に現われず、水北に退いていたが、左賢王の戦績をひそかに気遣(きづか)っている己(おのれ)を発見して愕然(がくぜん)とした。もちろん、全体としては漢軍の成功と匈奴(きょうど)の敗戦とを望んでいたには違いないが、どうやら左賢王だけは何か負けさせたくないと感じていたらしい。李陵はこれに気がついて激しく己を責めた。
 その左賢王に打破られた公孫敖(こうそんごう)が都に帰り、士卒を多く失って功がなかったとの廉(かど)で牢(ろう)に繋(つな)がれたとき、妙な弁解をした。敵の捕虜(ほりょ)が、匈奴軍の強いのは、漢から降(くだ)った李(り)将軍が常々兵を練り軍略を授けてもって漢軍に備えさせているからだと言ったというのである。だからといって自軍が敗(ま)けたことの弁解にはならないから、もちろん、因※(いんう)[#「木+于」、40-8]将軍の罪は許されなかったが、これを聞いた武帝が、李陵に対し激怒したことは言うまでもない。一度許されて家に戻っていた陵の一族はふたたび獄(ごく)に収められ、今度は、陵の老母から妻・子・弟に至るまでことごとく殺された。軽薄なる世人の常とて、当時隴西(ろうせい)(李陵の家は隴西の出である)の士大夫(したいふ)ら皆李家を出したことを恥としたと記されている。
 この知らせが李陵の耳に入ったのは半年ほど後のこと、辺境から拉致(らち)された一漢卒(かんそつ)の口からである。それを聞いたとき、李陵は立上がってその男の胸倉(むなぐら)をつかみ、荒々しくゆすぶりながら、事の真偽を今一度たしかめた。たしかにまちがいのないことを知ると、彼は歯をくい縛(しば)り、思わず力を両手にこめた。男は身をもがいて、苦悶(くもん)の呻(うめ)きを洩(も)らした。陵(りょう)の手が無意識のうちにその男の咽喉(いんこう)を扼(やく)していたのである。陵が手を離すと、男はバッタリ地に倒れた。その姿に目もやらず、陵は帳房(ちょうぼう)の外へ飛出した。
 めちゃくちゃに彼は野を歩いた。激しい憤りが頭の中で渦(うず)を巻いた。老母や幼児のことを考えると心は灼(や)けるようであったが、涙は一滴も出ない。あまりに強い怒りは涙を涸渇(こかつ)させてしまうのであろう。
 今度の場合には限らぬ。今まで我が一家はそもそも漢から、どのような扱いを受けてきたか? 彼は祖父の李広(りこう)の最期(さいご)を思った。(陵の父、当戸(とうこ)は、彼が生まれる数か月前に死んだ。陵はいわゆる、遺腹の児である。だから、少年時代までの彼を教育し鍛えあげたのは、有名なこの祖父であった。)名将李広は数次の北征に大功を樹(た)てながら、君側の姦佞(かんねい)に妨げられて何一つ恩賞にあずからなかった。部下の諸将がつぎつぎに爵位(しゃくい)封侯(ほうこう)を得て行くのに、廉潔(れんけつ)な将軍だけは封侯はおろか、終始変わらぬ清貧(せいひん)に甘んじなければならなかった。最後に彼は大将軍衛青(えいせい)と衝突した。さすがに衛青にはこの老将をいたわる気持はあったのだが、その幕下(ばっか)の一軍吏(ぐんり)が虎(とら)の威(い)を借りて李広を辱(はずか)しめた。憤激した老名将はすぐその場で――陣営の中で自(みずか)ら首刎(は)ねたのである。祖父の死を聞いて声をあげてないた少年の日の自分を、陵はいまだにハッキリと憶(おぼ)えている。……
 陵の叔父(李広の次男)李敢(りかん)の最後はどうか。彼は父将軍の惨(みじ)めな死について衛青を怨(うら)み、自ら大将軍の邸に赴(おもむ)いてこれを辱(はずか)しめた。大将軍の甥(おい)にあたる嫖騎(ひょうき)将軍霍去病(かくきょへい)がそれを憤って、甘泉宮(かんせんきゅう)の猟のときに李敢を射殺した。武帝はそれを知りながら、嫖騎将軍をかばわんがために、李敢は鹿(しか)の角に触れて死んだと発表させたのだ。……。
 司馬遷(しばせん)の場合と違って、李陵のほうは簡単であった。憤怒(ふんぬ)がすべてであった。(無理でも、もう少し早くかねての計画――単于(ぜんう)の首でも持って胡地(こち)を脱するという――を実行すればよかったという悔いを除いては、)ただそれをいかにして現わすかが問題であるにすぎない。彼は先刻の男の言葉「胡地(こち)にあって李将軍が兵を教え漢に備えていると聞いて陛下が激怒され云々(うんぬん)」を思出した。ようやく思い当たったのである。もちろん彼自身にはそんな覚えはないが、同じ漢の降将に李緒(りしょ)という者がある。元、塞外都尉(さいがいとい)として奚侯城(けいこうじょう)を守っていた男だが、これが匈奴(きょうど)に降(くだ)ってから常に胡軍(こぐん)に軍略を授け兵を練っている。現に半年前の軍にも、単于に従って、(問題の公孫敖(こうそんごう)の軍とではないが)漢軍と戦っている。これだと李陵(りりょう)は思った。同じ李(り)将軍で、李緒(りしょ)とまちがえられたに違いないのである。
 その晩、彼は単身、李緒の帳幕(ちょうばく)へと赴(おもむ)いた。一言も言わぬ、一言も言わせぬ。ただの一刺しで李緒は斃(たお)れた。
 翌朝李陵は単于の前に出て事情を打明けた。心配は要(い)らぬと単于は言う。だが母の大閼(たいえん)氏が少々うるさいから――というのは、相当の老齢でありながら、単于の母は李緒と醜関係があったらしい。単于はそれを承知していたのである。匈奴(きょうど)の風習によれば、父が死ぬと、長子たる者が、亡父の妻妾(さいしょう)のすべてをそのまま引きついで己(おの)が妻妾とするのだが、さすがに生母だけはこの中にはいらない。生みの母に対する尊敬だけは極端に男尊女卑の彼らでも有(も)っているのである――今しばらく北方へ隠れていてもらいたい、ほとぼりがさめたころに迎えを遣(や)るから、とつけ加えた。その言葉に従って、李陵は一時従者どもをつれ、西北の兜銜山(とうかんざん)(額林達班嶺(がくりんたっぱんれい))の麓(ふもと)に身を避けた。
 まもなく問題の大閼(たいえん)氏が病死し、単于(ぜんう)の庭(てい)に呼戻されたとき、李陵(りりょう)は人間が変わったように見えた。というのは、今まで漢に対する軍略にだけは絶対に与(あずか)らなかった彼が、自(みずか)ら進んでその相談に乗ろうと言出したからである。単于はこの変化を見て大いに喜んだ。彼は陵を右校王(うこうおう)に任じ、己(おの)が娘の一人をめあわせた。娘を妻にという話は以前にもあったのだが、今まで断わりつづけてきた。それを今度は躊躇(ちゅうちょ)なく妻としたのである。ちょうど酒泉(しゅせん)張掖(ちょうえき)の辺を寇掠(こうりゃく)すべく南に出て行く一軍があり、陵は自ら請うてその軍に従った。しかし、西南へと取った進路がたまたま浚稽山(しゅんけいざん)の麓(ふもと)を過(よぎ)ったとき、さすがに陵の心は曇った。かつてこの地で己(おのれ)に従って死戦した部下どものことを考え、彼らの骨が埋められ彼らの血の染(し)み込んだその砂の上を歩きながら、今の己が身の上を思うと、彼はもはや南行して漢兵と闘う勇気を失った。病と称して彼は独り北方へ馬を返した。

 翌、太始(たいし)元年、且※(「革+是」、第3水準1-93-79)侯(そていこう)単于(ぜんう)が死んで、陵と親しかった左賢王(さけんおう)が後を嗣(つ)いだ。狐鹿姑(ころくこ)単于というのがこれである。
 匈奴(きょうど)の右校王(うこうおう)たる李陵(りりょう)の心はいまだにハッキリしない。母妻子を族滅(ぞくめつ)された怨(うら)みは骨髄(こつずい)に徹しているものの、自(みずか)ら兵を率いて漢と戦うことができないのは、先ごろの経験で明らかである。ふたたび漢の地を踏むまいとは誓ったが、この匈奴の俗に化して終生安んじていられるかどうかは、新単于への友情をもってしても、まださすがに自信がない。考えることの嫌(きら)いな彼は、イライラしてくると、いつも独り駿馬(しゅんめ)を駆って曠野(こうや)に飛び出す。秋天一碧(しゅうてんいっぺき)の下、※(「口+戛」、第3水準1-15-17)々(かつかつ)と蹄(ひづめ)の音を響かせて草原となく丘陵となく狂気のように馬を駆けさせる。何十里かぶっとばした後、馬も人もようやく疲れてくると、高原の中の小川を求めてその滸(ほとり)に下り、馬に飲(みず)かう。それから己(おのれ)は草の上に仰向(あおむ)けにねころんで快い疲労感にウットリと見上げる碧落(へきらく)の潔(きよ)さ、高さ、広さ。ああ我もと天地間の一粒子(いちりゅうし)のみ、なんぞまた漢と胡(こ)とあらんやとふとそんな気のすることもある。一しきり休むとまた馬に跨(また)がり、がむしゃらに駈(か)け出す。終日乗り疲れ黄雲(こううん)が落暉(らっき)に※(「日+熏」、第3水準1-85-42)(くん)ずるころになってようやく彼は幕営(ばくえい)に戻る。疲労だけが彼のただ一つの救いなのである。
 司馬遷(しばせん)が陵(りょう)のために弁じて罪をえたことを伝える者があった。李陵は別にありがたいとも気の毒だとも思わなかった。司馬遷とは互いに顔は知っているし挨拶(あいさつ)をしたことはあっても、特に交を結んだというほどの間柄ではなかった。むしろ、厭(いや)に議論ばかりしてうるさいやつだくらいにしか感じていなかったのである。それに現在の李陵は、他人の不幸を実感するには、あまりに自分一個の苦しみと闘(たたか)うのに懸命であった。よけいな世話とまでは感じなかったにしても、特に済まないと感じることがなかったのは事実である。

 初め一概に野卑(やひ)滑稽(こっけい)としか映(うつ)らなかった胡地(こち)の風俗が、しかし、その地の実際の風土・気候等を背景として考えてみるとけっして野卑でも不合理でもないことが、しだいに李陵にのみこめてきた。厚い皮革製の胡服(こふく)でなければ朔北(さくほく)の冬は凌(しの)げないし、肉食でなければ胡地の寒冷に堪(た)えるだけの精力を貯(たくわ)えることができない。固定した家屋を築かないのも彼らの生活形態から来た必然で、頭から低級と貶(けな)し去るのは当たらない。漢人のふうをあくまで保(たも)とうとするなら、胡地の自然の中での生活は一日といえども続けられないのである。
 かつて先代の且※(「革+是」、第3水準1-93-79)侯(そていこう)単于(ぜんう)の言った言葉を李陵(りりょう)は憶(おぼ)えている。漢の人間が二言めには、己(おの)が国を礼儀の国といい、匈奴(きょうど)の行ないをもって禽獣(きんじゅう)に近いと看做(みな)すことを難じて、単于は言った。漢人のいう礼儀とは何ぞ? 醜いことを表面だけ美しく飾り立てる虚飾の謂(いい)ではないか。利を好み人を嫉(ねた)むこと、漢人と胡人(こじん)といずれかはなはだしき? 色に耽(ふけ)り財を貪(むさぼ)ること、またいずれかはなはだしき? 表(うわ)べを剥(は)ぎ去れば畢竟(ひっきょう)なんらの違いはないはず。ただ漢人はこれをごまかし飾ることを知り、我々はそれを知らぬだけだ、と。漢初以来の骨肉(こつにく)相(あい)喰(は)む内乱や功臣連の排斥(はいせき)擠陥(せいかん)の跡を例に引いてこう言われたとき、李陵はほとんど返す言葉に窮した。実際、武人(ぶじん)たる彼は今までにも、煩瑣(はんさ)な礼のための礼に対して疑問を感じたことが一再ならずあったからである。たしかに、胡俗(こぞく)の粗野(そや)な正直さのほうが、美名の影に隠れた漢人の陰険さより遙(はる)かに好ましい場合がしばしばあると思った。諸夏(しょか)の俗を正しきもの、胡俗(こぞく)を卑しきものと頭から決めてかかるのは、あまりにも漢人的な偏見ではないかと、しだいに李陵にはそんな気がしてくる。たとえば今まで人間には名のほかに字(あざな)がなければならぬものと、ゆえもなく信じ切っていたが、考えてみれば字が絶対に必要だという理由はどこにもないのであった。
 彼の妻はすこぶる大人(おとな)しい女だった。いまだに主人の前に出るとおずおずしてろくに口も利(き)けない。しかし、彼らの間にできた男の児は、少しも父親を恐れないで、ヨチヨチと李陵の膝(ひざ)に匍上(はいあ)がって来る。その児の顔に見入りながら、数年前長安(ちょうあん)に残してきた――そして結局母や祖母とともに殺されてしまった――子供の俤(おもかげ)をふと思いうかべて李陵は我しらず憮然(ぶぜん)とするのであった。

 陵が匈奴(きょうど)に降(くだ)るよりも早く、ちょうどその一年前から、漢の中郎将(ちゅうろうしょう)蘇武(そぶ)が胡地(こち)に引留められていた。
 元来蘇武は平和の使節として捕虜(ほりょ)交換のために遣(つか)わされたのである。ところが、その副使某がたまたま匈奴の内紛(ないふん)に関係したために、使節団全員が囚(とら)えられることになってしまった。単于(ぜんう)は彼らを殺そうとはしないで、死をもって脅(おびや)かしてこれを降(くだ)らしめた。ただ蘇武一人は降服を肯(がえ)んじないばかりか、辱(はずか)しめを避けようと自(みずか)ら剣を取って己(おの)が胸を貫いた。昏倒(こんとう)した蘇武に対する胡※(「醫」の「酉」に代えて「巫」、第4水準2-78-8)(こい)の手当てというのがすこぶる変わっていた。地を掘って坎(あな)をつくり※(「火+慍のつくり」、第3水準1-87-59)火(うんか)を入れて、その上に傷者を寝かせその背中を蹈(ふ)んで血を出させたと漢書(かんじょ)には誌(しる)されている。この荒療治のおかげで、不幸にも蘇武は半日昏絶(こんぜつ)したのちにまた息を吹返した。且※(「革+是」、第3水準1-93-79)侯(そていこう)単于はすっかり彼に惚(ほ)れ込んだ。数旬ののちようやく蘇武の身体が恢復(かいふく)すると、例の近臣衛律(えいりつ)をやってまた熱心に降をすすめさせた。衛律は蘇武が鉄火の罵詈(ばり)に遭(あ)い、すっかり恥をかいて手を引いた。その後蘇武が窖(あなぐら)の中に幽閉(ゆうへい)されたとき旃毛(せんもう)を雪に和して喰(くら)いもって飢えを凌(しの)いだ話や、ついに北海(ほっかい)(バイカル湖)のほとり人なき所に徙(うつ)されて牡羊(おひつじ)が乳を出さば帰るを許さんと言われた話は、持節(じせつ)十九年の彼の名とともに、あまりにも有名だから、ここには述べない。とにかく、李陵(りりょう)が悶々(もんもん)の余生を胡地(こち)に埋めようとようやく決心せざるを得なくなったころ、蘇武は、すでに久しく北海のほとりで独り羊を牧していたのである。
 李陵(りりょう)にとって蘇武(そぶ)は二十年来の友であった。かつて時を同じゅうして侍中(じちゅう)を勤めていたこともある。片意地でさばけないところはあるにせよ、確かにまれに見る硬骨の士であることは疑いないと陵は思っていた。天漢元年に蘇武が北へ立ってからまもなく、武の老母が病死したときも、陵は陽陵(ようりょう)までその葬を送った。蘇武の妻が良人(おっと)のふたたび帰る見込みなしと知って、去って他家に嫁(か)した噂(うわさ)を聞いたのは、陵の北征出発直前のことであった。そのとき、陵は友のためにその妻の浮薄をいたく憤った。
 しかし、はからずも自分が匈奴(きょうど)に降(くだ)るようになってからのちは、もはや蘇武に会いたいとは思わなかった。武が遙(はる)か北方に遷(うつ)されていて顔を合わせずに済むことをむしろ助かったと感じていた。ことに、己(おのれ)の家族が戮(りく)せられてふたたび漢に戻る気持を失ってからは、いっそうこの「漢節を持した牧羊者」との面接を避けたかった。
 狐鹿姑(ころくこ)単于(ぜんう)が父の後(あと)を嗣(つ)いでから数年後、一時蘇武が生死不明との噂(うわさ)が伝わった。父単于がついに降服させることのできなかったこの不屈の漢使の存在を思出した狐鹿姑単于は、蘇武の安否を確かめるとともに、もし健在ならば今一度降服を勧告するよう、李陵に頼んだ。陵が武の友人であることを聞いていたのである。やむを得ず陵は北へ向かった。
 姑且水(こじょすい)を北に溯(さかのぼ)り※(「到」の「りっとう」に代えて「おおざと」、第3水準1-92-67)居水(しっきょすい)との合流点からさらに西北に森林地帯を突切る。まだ所々に雪の残っている川岸を進むこと数日、ようやく北海(ほっかい)の碧(あお)い水が森と野との向こうに見え出したころ、この地方の住民なる丁霊族(ていれいぞく)の案内人は李陵の一行を一軒の哀れな丸太小舎(ごや)へと導いた。小舎の住人が珍しい人声に驚かされて、弓矢を手に表へ出て来た、頭から毛皮を被(かぶ)った鬚(ひげ)ぼうぼうの熊(くま)のような山男の顔の中に、李陵がかつての移中厩監(いちゅうきゅうかん)蘇子卿(そしけい)の俤(おもかげ)を見出してからも、先方がこの胡服(こふく)の大官を前(さき)の騎都尉(きとい)李少卿(りしょうけい)と認めるまでにはなおしばらくの時間が必要であった。蘇武(そぶ)のほうでは陵が匈奴(きょうど)に事(つか)えていることも全然聞いていなかったのである。
 感動が、陵の内に在(あ)って今まで武との会見を避けさせていたものを一瞬圧倒し去った。二人とも初めほとんどものが言えなかった。
 陵の供廻(ともまわ)りどもの穹廬(きゅうろ)がいくつか、あたりに組立てられ、無人の境が急に賑(にぎ)やかになった。用意してきた酒食がさっそく小舎(こや)に運び入れられ、夜は珍しい歓笑の声が森の鳥獣を驚かせた。滞在は数日に亙(わた)った。
 己(おの)が胡服を纏(まと)うに至った事情を話すことは、さすがに辛(つら)かった。しかし、李陵は少しも弁解の調子を交えずに事実だけを語った。蘇武がさりげなく語るその数年間の生活はまったく惨憺(さんたん)たるものであったらしい。何年か以前に匈奴の於※王(おけんおう)[#「革+干」、49-11]が猟をするとてたまたまここを過ぎ蘇武に同情して、三年間つづけて衣服食糧等を給してくれたが、その於※[#「革+干」、49-12]王の死後は、凍(い)てついた大地から野鼠(のねずみ)を掘出して、飢えを凌(しの)がなければならない始末だと言う。彼の生死不明の噂(うわさ)は彼の養っていた畜群が剽盗(ひょうとう)どものために一匹残らずさらわれてしまったことの訛伝(かでん)らしい。陵は蘇武の母の死んだことだけは告げたが、妻が子を棄(す)てて他家へ行ったことはさすがに言えなかった。
 この男は何を目あてに生きているのかと李陵は怪しんだ。いまだに漢に帰れる日を待ち望んでいるのだろうか。蘇武の口うらから察すれば、いまさらそんな期待は少しももっていないようである。それではなんのためにこうした惨憺(さんたん)たる日々をたえ忍んでいるのか? 単于(ぜんう)に降服を申出れば重く用いられることは請合(うけあ)いだが、それをする蘇武(そぶ)でないことは初めから分り切っている。陵の怪しむのは、なぜ早く自(みずか)ら生命を絶たないのかという意味であった。李陵(りりょう)自身が希望のない生活を自らの手で断ち切りえないのは、いつのまにかこの地に根を下(おろ)して了(しま)った数々の恩愛や義理のためであり、またいまさら死んでも格別漢のために義を立てることにもならないからである。蘇武の場合は違う。彼にはこの地での係累(けいるい)もない。漢朝に対する忠信という点から考えるなら、いつまでも節旄(せつぼう)を持して曠野(こうや)に飢えるのと、ただちに節旄を焼いてのち自ら首刎(は)ねるのとの間に、別に差異はなさそうに思われる。はじめ捕えられたとき、いきなり自分の胸を刺した蘇武に、今となって急に死を恐れる心が萌(きざ)したとは考えられない。李陵は、若いころの蘇武の片意地を――滑稽(こっけい)なくらい強情な痩我慢(やせがまん)を思出した。単于(ぜんう)は栄華を餌(え)に極度の困窮(こんきゅう)の中から蘇武を釣(つ)ろうと試みる。餌につられるのはもとより、苦難に堪(た)ええずして自ら殺すこともまた、単于に(あるいはそれによって象徴される運命に)負けることになる。蘇武はそう考えているのではなかろうか。運命と意地の張合いをしているような蘇武の姿が、しかし、李陵には滑稽や笑止(しょうし)には見えなかった。想像を絶した困苦・欠乏・酷寒・孤独を、(しかもこれから死に至るまでの長い間を)平然と笑殺していかせるものが、意地だとすれば、この意地こそは誠(まこと)に凄(すさま)じくも壮大なものと言わねばならぬ。昔の多少は大人(おとな)げなく見えた蘇武の痩我慢(やせがまん)が、かかる大我慢にまで成長しているのを見て李陵は驚嘆した。しかもこの男は自分の行ないが漢にまで知られることを予期していない。自分がふたたび漢に迎えられることはもとより、自分がかかる無人の地で困苦と戦いつつあることを漢はおろか匈奴(きょうど)の単于にさえ伝えてくれる人間の出て来ることをも期待していなかった。誰にもみとられずに独り死んでいくに違いないその最後の日に、自(みずか)ら顧みて最後まで運命を笑殺しえたことに満足して死んでいこうというのだ。誰一人己(おの)が事蹟(じせき)を知ってくれなくともさしつかえないというのである。李陵(りりょう)は、かつて先代単于(ぜんう)の首を狙(ねら)いながら、その目的を果たすとも、自分がそれをもって匈土(きょうど)の地を脱走しえなければ、せっかくの行為が空(むな)しく、漢にまで聞こえないであろうことを恐れて、ついに決行の機を見出しえなかった。人に知られざることを憂えぬ蘇武(そぶ)を前にして、彼はひそかに冷汗の出る思いであった。

 最初の感動が過ぎ、二日三日とたつうちに、李陵の中にやはり一種のこだわりができてくるのをどうすることもできなかった。何を語るにつけても、己(おのれ)の過去と蘇武のそれとの対比がいちいちひっかかってくる。蘇武は義人(ぎじん)、自分は売国奴(ばいこくど)と、それほどハッキリ考えはしないけれども、森と野と水との沈黙によって多年の間鍛え上げられた蘇武の厳(きび)しさの前には己の行為に対する唯一の弁明であった今までのわが苦悩のごときは一溜(ひとたま)りもなく圧倒されるのを感じないわけにいかない。それに、気のせいか、日(ひ)にちが立つにつれ、蘇武の己に対する態度の中に、何か富者が貧者に対するときのような――己の優越を知ったうえで相手に寛大であろうとする者の態度を感じはじめた。どことハッキリはいえないが、どうかした拍子(ひょうし)にひょいとそういうものの感じられることがある。繿縷(ぼろ)をまとうた蘇武の目の中に、ときとして浮かぶかすかな憐愍(れんびん)の色を、豪奢(ごうしゃ)な貂裘(ちょうきゅう)をまとうた右校王(うこうおう)李陵(りりょう)はなによりも恐れた。
 十日ばかり滞在したのち、李陵は旧友に別れて、悄然(しょうぜん)と南へ去った。食糧衣服の類は充分に森の丸木小舎(ごや)に残してきた。
 李陵は単于(ぜんう)からの依嘱(いしょく)たる降服勧告についてはとうとう口を切らなかった。蘇武(そぶ)の答えは問うまでもなく明らかであるものを、何もいまさらそんな勧告によって蘇武をも自分をも辱(はずかし)めるには当たらないと思ったからである。
 南に帰ってからも、蘇武の存在は一日も彼の頭から去らなかった。離れて考えるとき、蘇武の姿はかえっていっそうきびしく彼の前に聳(そび)えているように思われる。
 李陵自身、匈奴(きょうど)への降服という己(おのれ)の行為をよしとしているわけではないが、自分の故国につくした跡と、それに対して故国の己に酬(むく)いたところとを考えるなら、いかに無情な批判者といえども、なお、その「やむを得なかった」ことを認めるだろうとは信じていた。ところが、ここに一人の男があって、いかに「やむを得ない」と思われる事情を前にしても、断じて、自らにそれは「やむを得ぬのだ」という考えかたを許そうとしないのである。
 飢餓も寒苦も孤独の苦しみも、祖国の冷淡も、己の苦節がついに何人(なんぴと)にも知られないだろうというほとんど確定的な事実も、この男にとって、平生の節義を改めなければならぬほどのやむを得ぬ事情ではないのだ。
 蘇武の存在は彼にとって、崇高な訓誡(くんかい)でもあり、いらだたしい悪夢でもあった。ときどき彼は人を遣(つか)わして蘇武の安否を問わせ、食品、牛羊、絨氈(じゅうせん)を贈った。蘇武をみたい気持と避けたい気持とが彼の中で常に闘っていた。

 数年後、今一度李陵は北海(ほっかい)のほとりの丸木小舎(ごや)を訪(たず)ねた。そのとき途中で雲中(うんちゅう)の北方を戍(まも)る衛兵(えいへい)らに会い、彼らの口から、近ごろ漢の辺境では太守(たいしゅ)以下吏民(りみん)が皆白服をつけていることを聞いた。人民がことごとく服を白くしているとあれば天子の喪(も)に相違ない。李陵は武帝(ぶてい)の崩(ほう)じたのを知った。北海の滸(ほとり)に到(いた)ってこのことを告げたとき、蘇武(そぶ)は南に向かって号哭(ごうこく)した。慟哭(どうこく)数日、ついに血を嘔(は)くに至った。その有様を見ながら、李陵はしだいに暗く沈んだ気持になっていった。彼はもちろん蘇武の慟哭の真摯(しんし)さを疑うものではない。その純粋な烈(はげ)しい悲嘆には心を動かされずにはいられない。だが、自分には今一滴の涙も泛(うか)んでこないのである。蘇武は、李陵のように一族を戮(りく)せられることこそなかったが、それでも彼の兄は天子の行列にさいしてちょっとした交通事故を起こしたために、また、彼の弟はある犯罪者を捕ええなかったことのために、ともに責を負うて自殺させられている。どう考えても漢の朝(ちょう)から厚遇されていたとは称しがたいのである。それを知ってのうえで、今目の前に蘇武の純粋な痛哭(つうこく)を見ているうちに、以前にはただ蘇武の強烈な意地とのみ見えたものの底に、実は、譬(たと)えようもなく清洌(せいれつ)な純粋な漢の国土への愛情(それは義とか節とかいう外から押しつけられたものではなく、抑(おさ)えようとして抑えられぬ、こんこんと常に湧出(わきで)る最も親身な自然な愛情)が湛(たた)えられていることを、李陵ははじめて発見した。
 李陵は己(おのれ)と友とを隔てる根本的なものにぶつかっていやでも己(おのれ)自身に対する暗い懐疑に追いやられざるをえないのである。

 蘇武(そぶ)の所から南へ帰って来ると、ちょうど、漢からの使者が到着したところであった。武帝(ぶてい)の死と昭帝(しょうてい)の即位とを報じてかたがた当分の友好関係を――常に一年とは続いたことのない友好関係だったが――結ぶための平和の使節である。その使いとしてやって来たのが、はからずも李陵(りりょう)の故人(とも)・隴西(ろうせい)の任立政(じんりっせい)ら三人であった。
 その年の二月武帝が崩じて、僅(わず)か八歳の太子弗陵(ふつりょう)が位を嗣(つ)ぐや、遺詔(いじょう)によって侍中奉車都尉(じちゅうほうしゃとい)霍光(かくこう)が大司馬(だいしば)大将軍として政(まつりごと)を輔(たす)けることになった。霍光はもと、李陵と親しかったし、左将軍となった上官桀(じょうかんけつ)もまた陵の故人であった。この二人の間に陵を呼返そうとの相談ができ上がったのである。今度の使いにわざわざ陵の昔の友人が選ばれたのはそのためであった。
 単于(ぜんう)の前で使者の表向きの用が済むと、盛んな酒宴が張られる。いつもは衛律(えいりつ)がそうした場合の接待役を引受けるのだが、今度は李陵の友人が来た場合とて彼も引張り出されて宴につらなった。任立政は陵を見たが、匈奴(きょうど)の大官連の並んでいる前で、漢に帰れとは言えない。席を隔てて李陵を見ては目配せをし、しばしば己(おのれ)の刀環(とうかん)を撫(な)でて暗にその意を伝えようとした。陵はそれを見た。先方の伝えんとするところもほぼ察した。しかし、いかなるしぐさをもって応(こた)えるべきかを知らない。
 公式の宴が終わった後で、李陵・衛律らばかりが残って牛酒と博戯(ばくぎ)とをもって漢使をもてなした。そのとき任立政が陵に向かって言う。漢ではいまや大赦令(たいしゃれい)が降り万民は太平の仁政(じんせい)を楽しんでいる。新帝はいまだ幼少のこととて君が故旧たる霍子孟(かくしもう)・上官少叔(じょうかんしょうしゅく)が主上を輔(たす)けて天下の事を用いることとなったと。立政は、衛律(えいりつ)をもって完全に胡人(こじん)になり切ったものと見做(みな)して――事実それに違いなかったが――その前では明らさまに陵に説くのを憚(はばか)った。ただ霍光(かくこう)と上官桀(じょうかんけつ)との名を挙(あ)げて陵の心を惹(ひ)こうとしたのである。陵は黙(もく)して答えない。しばらく立政(りっせい)を熟視してから、己(おの)が髪を撫(な)でた。その髪も椎結(ついけい)とてすでに中国のふうではない。ややあって衛律が服を更(か)えるために座を退いた。初めて隔てのない調子で立政が陵の字(あざな)を呼んだ。少卿(しょうけい)よ、多年の苦しみはいかばかりだったか。霍子孟(かくしもう)と上官少叔(じょうかんしょうしゅく)からよろしくとのことであったと。その二人の安否を問返す陵のよそよそしい言葉におっかぶせるようにして立政がふたたび言った。少卿よ、帰ってくれ。富貴(ふうき)などは言うに足りぬではないか。どうか何もいわずに帰ってくれ。蘇武(そぶ)の所から戻ったばかりのこととて李陵も友の切なる言葉に心が動かぬではない。しかし、考えてみるまでもなく、それはもはやどうにもならぬことであった。「帰るのは易(やす)い。だが、また辱(はずか)しめを見るだけのことではないか? 如何(いかん)?」言葉半ばにして衛律が座に還(かえ)ってきた。二人は口を噤(つぐ)んだ。
 会が散じて別れ去るとき、任立政はさりげなく陵のそばに寄ると、低声で、ついに帰るに意なきやを今一度尋ねた。陵は頭を横にふった。丈夫(じょうふ)ふたたび辱めらるるあたわずと答えた。その言葉がひどく元気のなかったのは、衛律に聞こえることを惧(おそ)れたためではない。

 後五年、昭帝の始元(しげん)六年の夏、このまま人に知られず北方に窮死(きゅうし)すると思われた蘇武(そぶ)が偶然にも漢に帰れることになった。漢の天子が上林苑(じょうりんえん)中で得た雁(かり)の足に蘇武の帛書(はくしょ)がついていた云々(うんぬん)というあの有名な話は、もちろん、蘇武(そぶ)の死を主張する単于(ぜんう)を説破するためのでたらめである。十九年前蘇武に従って胡地(こち)に来た常恵(じょうけい)という者が漢使に遭(あ)って蘇武の生存を知らせ、この嘘(うそ)をもって武(ぶ)を救出(すくいだ)すように教えたのであった。さっそく北海(ほっかい)の上に使いが飛び、蘇武は単于の庭(てい)につれ出された。李陵(りりょう)の心はさすがに動揺した。ふたたび漢に戻れようと戻れまいと蘇武の偉大さに変わりはなく、したがって陵の心の笞(しもと)たるに変わりはないに違いないが、しかし、天はやっぱり見ていたのだという考えが李陵をいたく打った。見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼は粛然(しゅくぜん)として懼(おそ)れた。今でも、己(おのれ)の過去をけっして非なりとは思わないけれども、なおここに蘇武という男があって、無理ではなかったはずの己の過去をも恥ずかしく思わせることを堂々とやってのけ、しかも、その跡が今や天下に顕彰(けんしょう)されることになったという事実は、なんとしても李陵にはこたえた。胸をかきむしられるような女々(めめ)しい己の気持が羨望(せんぼう)ではないかと、李陵は極度に惧(おそ)れた。
 別れに臨んで李陵は友のために宴を張った。いいたいことは山ほどあった。しかし結局それは、胡(こ)に降(くだ)ったときの己(おのれ)の志が那辺(なへん)にあったかということ。その志を行なう前に故国の一族が戮(りく)せられて、もはや帰るに由なくなった事情とに尽きる。それを言えば愚痴(ぐち)になってしまう。彼は一言もそれについてはいわなかった。ただ、宴酣(たけなわ)にして堪えかねて立上がり、舞いかつ歌うた。

径万里兮度沙幕(ばんりをゆきすぎさばくをわたる)
為君将兮奮匈奴(きみのためしょうとなってきょうどにふるう)
路窮絶兮矢刃摧(みちきゅうぜつししじんくだけ)
士衆滅兮名已※(「こざと+貴」、第3水準1-93-63)(ししゅうほろびなすでにおつ)
老母已死(ろうぼすでにしす)雖欲報恩将安帰(おんにむくいんとほっするもまたいずくにかかえらん)

 歌っているうちに、声が顫(ふる)え涙が頬(ほお)を伝わった。女々(めめ)しいぞと自(みずか)ら叱(しか)りながら、どうしようもなかった。
 蘇武(そぶ)は十九年ぶりで祖国に帰って行った。

 司馬遷(しばせん)はその後も孜々(しし)として書き続けた。
 この世に生きることをやめた彼は書中の人物としてのみ活(い)きていた。現実の生活ではふたたび開かれることのなくなった彼の口が、魯仲連(ろちゅうれん)の舌端(ぜったん)を借りてはじめて烈々(れつれつ)と火を噴くのである。あるいは伍子胥(ごししょ)となって己(おの)が眼を抉(えぐ)らしめ、あるいは藺相如(りんしょうじょ)となって秦王(しんおう)を叱(しっ)し、あるいは太子丹(たいしたん)となって泣いて荊軻(けいか)を送った。楚(そ)の屈原(くつげん)の憂憤(うっぷん)を叙して、そのまさに汨羅(べきら)に身を投ぜんとして作るところの懐沙之賦(かいさのふ)を長々と引用したとき、司馬遷にはその賦がどうしても己(おのれ)自身の作品のごとき気がしてしかたがなかった。
 稿を起こしてから十四年、腐刑(ふけい)の禍(わざわい)に遭(あ)ってから八年。都では巫蠱(ふこ)の獄が起こり戻太子(れいたいし)の悲劇が行なわれていたころ、父子相伝(ふしそうでん)のこの著述がだいたい最初の構想どおりの通史(つうし)がひととおりでき上がった。これに増補改刪(かいさん)推敲(すいこう)を加えているうちにまた数年がたった。史記(しき)百三十巻、五十二万六千五百字が完成したのは、すでに武帝(ぶてい)の崩御(ほうぎょ)に近いころであった。
 列伝(れつでん)第七十太史公(たいしこう)自序の最後の筆を擱(お)いたとき、司馬遷は几(き)に凭(よ)ったまま惘然(ぼうぜん)とした。深い溜息(ためいき)が腹の底から出た。目は庭前の槐樹(えんじゅ)の茂みに向かってしばらくはいたが、実は何ものをも見ていなかった。うつろな耳で、それでも彼は庭のどこからか聞こえてくる一匹の蝉(せみ)の声に耳をすましているようにみえた。歓(よろこ)びがあるはずなのに気の抜けた漠然(ばくぜん)とした寂しさ、不安のほうが先に来た。
 完成した著作を官に納め、父の墓前にその報告をするまではそれでもまだ気が張っていたが、それらが終わると急に酷(ひど)い虚脱の状態が来た。憑依(ひょうい)の去った巫者(ふしゃ)のように、身も心もぐったりとくずおれ、まだ六十を出たばかりの彼が急に十年も年をとったように耄(ふ)けた。武帝の崩御(ほうぎょ)も昭帝の即位もかつてのさきの太史令(たいしれい)司馬遷(しばせん)の脱殻(ぬけがら)にとってはもはやなんの意味ももたないように見えた。
 前に述べた任立政(じんりっせい)らが胡地(こち)に李陵(りりょう)を訪(たず)ねて、ふたたび都に戻って来たころは、司馬遷はすでにこの世に亡(な)かった。

 蘇武(そぶ)と別れた後の李陵については、何一つ正確な記録は残されていない。元平(げんぺい)元年に胡地(こち)で死んだということのほかは。
 すでに早く、彼と親しかった狐鹿姑(ころくこ)単于(ぜんう)は死に、その子壺衍※(「革+是」、第3水準1-93-79)(こえんてい)単于の代となっていたが、その即位にからんで左賢王(さけんおう)、右谷蠡王(うろくりおう)の内紛があり、閼氏(えんし)や衛律(えいりつ)らと対抗して李陵も心ならずも、その紛争にまきこまれたろうことは想像に難(かた)くない。
 漢書(かんじょ)の匈奴伝(きょうどでん)には、その後、李陵の胡地で儲(もう)けた子が烏籍都尉(うせきとい)を立てて単于とし、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)に対抗してついに失敗した旨が記されている。宣帝(せんてい)の五鳳(ごほう)二年のことだから、李陵が死んでからちょうど十八年めにあたる。李陵の子とあるだけで、名前は記されていない。





底本:「李陵・山月記・弟子・名人伝」角川文庫、角川書店
   1968(昭和43)年9月10日改版初版発行
   1998(平成10)年5月30日改版52版発行
入力:佐野良二
校正:松永正敏
2001年3月14日公開
2005年11月1日修正
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    「木+于」    10-7、39-13、39-18、40-8
    「革+干」    49-11、49-12

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