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高浜虚子著『鶏頭』序(たかはまきょしちょ『けいとう』じょ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/10/18 9:00:19 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 虚子の風流懺法(ふうりゅうせんぽう)には子坊主(こぼうず)が出てくる。所が此小坊主がどうしたとか、こうしたとか云うよりも祇園(ぎおん)の茶屋で歌をうたったり、酒を飲んだり、仲居(なかい)が緋(ひ)の前垂(まえだれ)を掛けて居たり、舞子が京都風に帯を結んで居たりするのが眼につく。言葉を換えると、虚子は小坊主の運命がどう変ったとか、どうなって行くとか云う問題よりも妓楼一夕(ぎろういっせき)の光景に深い興味を有(も)って、其光景を思い浮べて恋々たるのである。此光景を虚子と共に味わう気がなくっては、始から風流懺法は物にならん。斑鳩物語(いかるがものがたり)も其の通である。所は奈良で、物寂(ものさ)びた春の宿に梭(ひ)の音が聞えると云う光景が眼前に浮んで飽(あ)く迄(まで)これに耽(ふけ)り得る丈(だけ)の趣味を持って居ないと面白くない。お道さんとか云う女がどうしましたねとお道さんの運命ばかり気にして居ては極(きわ)めて詰らない。楽屋も其通り。なかに出てくる吉野さんよりも能の楽屋の景色や照葉狂言(てりはきょうげん)の楽屋の景色其物に興味がないと極めて物足らない小説になるかも知れぬ。勝敗は多少意味が違うが兎(と)に角(かく)腕白な子供と爺(じい)さんの対話其物に低徊拍掌(ていかいはくしょう)の感を起さなくては意味さえ分らなくなる。子供と爺さんが夫(それ)から先どうなったにも、こうなったにも丸(まる)で頭も尻尾(しっぽ)もありゃしない。八文字に至っては其極端である。
 こう云う立場からして読んで見ると虚子の小説は面白い所がある。我々が気の付かない所や言い得ない様な所に低徊趣味を発揮して居る。此集には見えないが京の隧道(ずいどう)を舟で抜ける所抔(など)は未(いま)だに余が頭に残って居る。其代り人間の運命と云う事を主にして見ると、あまり成功して居らん。只(ただ)大内旅宿丈(だけ)はうまく出来て居る。然しここには低徊趣味が全然欠乏している。(なぜ大内旅宿が成功して居るかを説明したいが、長くなるからやめる。大内旅宿抔(など)は無余裕派の人で一言も批評をした事がない様であるが、あれは一見平凡な運命をかいたようで、そのうちに大いなる曲折と出来る限りの複雑の度を含んで居る。それであれ程の頁で済んで居るから低徊趣味のないのも無理はない。)
 余は小説を区別して余裕派と非余裕派としてイブセンを後者の例に引いた。で前云った通り此種の小説の特色としては人生の死活問題を拉(らっ)し来(きた)って、切実なる運命の極致を写すのを特色とする。読者は此点を挙(あ)げて此種の作物を謳歌(おうか)し、余も亦(また)此点に於て此種の作物に敬服する。所で此種の作物に対する賞讃の辞を聞くと第一義とか、意味が深いとか、痛切とか、深刻とか云って居る。余は此賞讃の辞に対して是非を争う料簡(りょうけん)はない。ないがこれが小説の極致であるかと問われると、そうさなと首を傾(かたむ)けざるを得ない。成程(なるほど)是等(これら)の作物は第一義の道念に触れて居るかも知れぬ。然し其第一義というのは生死界中に在(あ)っての第一義である。どうしても生死を脱離し得ぬ煩脳底(ぼんのうてい)の第一義である。人生観が是より以上に上れぬとすると是が絶対的に第一義かも知れぬが、もし生死の関門を打破して二者を眼中に措(お)かぬ人生観が成立し得るとすると今の所謂(いわゆる)第一義は却(かえ)って第二義に堕在するかも知れぬ。俳味禅味の論がここで生ずる。
 余は禅というものを知らない。昔(むか)し鎌倉の宗演和尚に参して父母未生以前(ふもみしょういぜん)本来の面目はなんだと聞かれてがんと参ったぎりまだ本来の面目に御目(おめ)に懸(かか)った事のない門外漢である。だからここに禅味抔(など)という問題を出すのは自分が禅を心得て居るから云うのではない。智識(ちしき)のかいたものに悟とはこんなものであるとあるから果(はた)してそんなものなら、こう云う人生観が出来るだろう。こう云う人生観が出来るならば小説もこんな態度にかけるだろうと論ずるまでである。
 禅坊主の書いた法語とか語録とか云うものを見ると魚が木に登ったり牛が水底をあるいたり怪(け)しからん事許(ばか)りであるうちに、一貫して斯(こ)う云う事がある。着衣喫飯の主人公たる我は何物ぞと考え考えて煎(せん)じ詰(つ)めてくると、仕舞(しまい)には、自分と世界との障壁(しょうへき)がなくなって天地が一枚で出来た様な虚霊皎潔(きょれいこうけつ)な心持になる。それでも構わず元来吾輩は何だと考えて行くと、もう絶体絶命にっちもさっちも行かなくなる、其所(そこ)を無理にぐいぐい考えると突然と爆発して自分が判然と分る。分るとこうなる。自分は元来生れたのでもなかった。又死ぬものでもなかった。増しもせぬ、減(へ)りもせぬ何(な)んだか訳の分らないものだ。
 しばらく彼等の云う事を事実として見ると、所謂(いわゆる)生死の現象は夢の様なものである。生きて居たとて夢である。死んだとて夢である。生死とも夢である以上は生死界中に起る問題は如何(いか)に重要な問題でも如何に痛切な問題でも夢の様な問題で、夢の様な問題以上には登らぬ訳である。従って生死界中にあって最も意味の深い、最も第一義なる問題は悉(ことごと)く其光輝(こうき)を失ってくる。殺されても怖くなくなる。金を貰っても難有(ありがた)くなくなる。辱(はずか)しめられても恥とは思わなくなる。と云うものは凡(すべ)て是等(これら)の現象界の奥に自己の本体はあって、此流俗と浮沈するのは徹底に浮沈するのではない。しばらく冗談半分(じょうだんはんぶん)に浮沈して居るのである。いくら猛烈に怒っても、いくらひいひい泣いても、怒りが行き留りではない、涙が突き当りではない。奥にちゃんと立(た)ち退(の)き場(ば)がある。いざとなれば此立退場(たてのきば)へいつでも帰られる。しかも此立退場は不増である。不減である。いくら天下様の御威光でも手のつけ様のない安全な立退場である。此立退場を有(も)って居る人の喜怒哀楽と、有たない人の喜怒哀楽とは人から見たら一様かも知れないが之(これ)を起す人之を受ける人から云うと莫大(ばくだい)な相違がある。従って流俗で云う第一義の問題も此見地に住する人から云うと第二義以下に堕(お)ちて仕舞(しま)う。従がって我等から云ってセッパ詰った問題も此人等から云うと余裕のある問題になる。
 所謂(いわゆる)禅味と云うものを解釈した人があるかないか知らないが、禅坊主の趣味だから禅味と云うのだろう。そうして禅坊主の悟りと云うものが彼等の云う通りのものであったなら余の解釈に間違はなかろうと思う。して見ると禅味と云う事は暗(あん)に余裕のある文学と云う意味に一致する。そうしてその余裕は生死以上に第一義を置くから出てくる。
 余は虚子の小説を評して余裕があると云った。虚子の小説に余裕があるのは果(はた)して前条の如く禅家の悟を開いた為かどうだか分らない。只(ただ)世間ではよく俳味禅味と並べて云う様である。虚子は俳句に於て長い間苦心した男である。従がって所謂(いわゆる)俳味なるものが流露して小説の上にあらわれたのが一見禅味から来た余裕と一致して、こんな余裕を生じたのかも知れない。虚子の小説を評するに方(あた)っては是丈(これだけ)の事を述べる必要があると思う。
 尤(もっと)も虚子もよく移る人である。現に集中でも秋風なんと云うのは大分風が違って居る。それでも比較的痛切な題目に対する虚子の叙述的態度は依然として余裕がある様である。虚子は畢竟(ひっきょう)余裕のある人かも知れない。
  明治四十年十一月





底本:「筑摩全集類聚版 夏目漱石全集 10」筑摩書房 
   1972(昭和47)年1月10日第1刷発行
※底本はこの作品で「門<日」と「門<月」を使い分けており、「間《かん》を遣《や》る」と「間人《かんじん》」には、「門<月」をあてている。「門<月」は「閑」の意味で使用されている。
入力:Nana ohbe
校正:米田進
2002年4月27日作成
2003年5月11日修正
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