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道楽と職業(どうらくとしょくぎょう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/10/18 9:05:25 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 それで前申した己のためにするとか人のためにするとかいう見地からして職業を観察すると、職業というものは要するに人のためにするものだという事に、どうしても根本義を置かなければなりません。人のためにする結果が己のためになるのだから、元はどうしても他人本位である。すでに他人本位であるからには種類の選択分量の多少すべて他を目安(めやす)にして働かなければならない。要するに取捨興廃の権威共に自己の手中にはない事になる。したがって自分が最上と思う製作を世間に勧(すす)めて世間はいっこう顧(かえり)みなかったり自分は心持が好くないので休みたくても世間は平日のごとく要求を恣(ほしいまま)にしたりすべて己を曲げて人に従わなくては商売にはならない。この自己を曲げるという事は成功には大切であるが心理的にははなはだ厭(いや)なものである。就中(なかんずく)最も厭なものはどんな好な道でもある程度以上に強(し)いられてその性質がしだいに嫌悪(けんお)に変化する時にある。ところが職業とか専門とかいうものは前(ぜん)申す通り自分の需用以上その方面に働いてそうしてその自分に不要な部分を挙(あ)げて他の使用に供するのが目的であるから、自己を本位にして云えば当初から不必要でもあり、厭でもある事を強(し)いてやるという意味である。よく人が商売となると何でも厭になるものだと云いますがその厭になる理由は全くこれがためなのです。いやしくも道楽である間は自分に勝手な仕事を自分の適宜な分量でやるのだから面白いに違ないが、その道楽が職業と変化する刹那(せつな)に今まで自己にあった権威が突然他人の手に移るから快楽がたちまち苦痛になるのはやむをえない。打ち明けた御話が己のためにすればこそ好なので人のためにしなければならない義務を括(くく)りつけられればどうしたって面白くは行かないにきまっています。元来己を捨てるということは、道徳から云えばやむをえず不徳も犯そうし、知識から云えば己の程度を下げて無知な事も云おうし、人情から云えば己の義理を低くして阿漕(あこぎ)な仕打もしようし、趣味から云えば己の芸術眼を下げて下劣な好尚に投じようし、十中八九の場合悪い方に傾きやすいから困るのである。例えば新聞を拵(こしら)えてみても、あまり下品な事は書かない方がよいと思いながら、すでに商売であれば販売の形勢から考え営業の成立するくらいには俗衆の御機嫌(ごきげん)を取らなければ立ち行かない。要するに職業と名のつく以上は趣味でも徳義でも知識でもすべて一般社会が本尊になって自分はこの本尊の鼻息を伺って生活するのが自然の理である。
 ただここにどうしても他人本位では成立たない職業があります。それは科学者哲学者もしくは芸術家のようなもので、これらはまあ特別の一階級とでも見做(みな)すよりほかに仕方がないのです。哲学者とか科学者というものは直接世間の実生活に関係の遠い方面をのみ研究しているのだから、世の中に気に入ろうとしたって気に入れる訳でもなし、世の中でもこれらの人の態度いかんでその研究を買ったり買わなかったりする事も極めて少ないには違ないけれども、ああいう種類の人が物好きに実験室へ入って朝から晩まで仕事をしたり、または書斎に閉じ籠(こも)って深い考に沈んだりして万事を等閑に附している有様を見ると、世の中にあれほど己のためにしているものはないだろうと思わずにはいられないくらいです。それから芸術家もそうです。こうもしたらもっと評判が好くなるだろう、ああもしたらまだ活計向(くらしむき)の助けになるだろうと傍(はた)の者から見ればいろいろ忠告のしたいところもあるが、本人はけっしてそんな作略(さりゃく)はない、ただ自分の好な時に好なものを描いたり作ったりするだけである。もっとも当人がすでに人間であって相応に物質的嗜欲(しよく)のあるのは無論だから多少世間と折合って歩調を改める事がないでもないが、まあ大体から云うと自我中心で、極(ご)く卑近の意味の道徳から云えばこれほどわがままのものはない、これほど道楽なものはないくらいです。すでに御話をした通りおよそ職業として成立するためには何か人のためにする、すなわち世の嗜好(しこう)に投ずると一般の御機嫌(ごきげん)を取るところがなければならないのだが、本来から云うと道楽本位の科学者とか哲学者とかまた芸術家とかいうものはその立場からしてすでに職業の性質を失っていると云わなければならない。実際今の世で彼らは名前には職業として存在するが実質の上ではほとんど職業として認められないほど割に合わない報酬を受けているのでこの辺の消息はよく分るでしょう。現に科学者哲学者などは直接世間と取引しては食って行けないからたいていは政府の保護の下に大学教授とか何とかいう役になってやっと露命をつないでいる。芸術家でも時に容(い)れられず世から顧(かえり)みられないで自然本位を押し通す人はずいぶん惨澹(さんたん)たる境遇に沈淪(ちんりん)しているものが多いのです。御承知の大雅堂(たいがどう)でも今でこそ大した画工であるがその当時毫(ごう)も世間向の画をかかなかったために生涯(しょうがい)真葛(まくず)が原(はら)の陋居(ろうきょ)に潜(ひそ)んでまるで乞食と同じ一生を送りました。仏蘭西(フランス)のミレーも生きている間は常に物質的の窮乏に苦しめられていました。またこれは個人の例ではないが日本の昔に盛んであった禅僧の修行などと云うものも極端な自然本位の道楽生活であります。彼らは見性(けんしょう)のため究真のためすべてを抛(なげう)って坐禅の工夫(くふう)をします。黙然と坐している事が何で人のためになりましょう。善い意味にも悪い意味にも世間とは没交渉である点から見て彼ら禅僧は立派な道楽ものであります。したがって彼らはその苦行難行に対して世間から何らの物質的報酬を得ていません。麻の法衣を着て麦の飯を食ってあくまで道を求めていました。要するに原理は簡単で、物質的に人のためにする分量が多ければ多いほど物質的に己のためになり、精神的に己のためにすればするほど物質的には己の不為になるのであります。
 以上申し上げた科学者哲学者もしくは芸術家の類(たぐい)が職業として優(ゆう)に存在し得るかは疑問として、これは自己本位でなければとうてい成功しないことだけは明かなようであります。なぜなればこれらが人のためにすると己というものは無くなってしまうからであります。ことに芸術家で己の無い芸術家は蝉(せみ)の脱殻(ぬけがら)同然で、ほとんど役に立たない。自分に気の乗った作ができなくてただ人に迎えられたい一心でやる仕事には自己という精神が籠(こも)るはずがない。すべてが借り物になって魂の宿る余地がなくなるばかりです。私は芸術家というほどのものでもないが、まあ文学上の述作をやっているから、やはりこの種類に属する人間と云って差支(さしつかえ)ないでしょう。しかも何か書いて生活費を取って食っているのです。手短かに云えば文学を職業としているのです。けれども私が文学を職業とするのは、人のためにするすなわち己を捨てて世間の御機嫌(ごきげん)を取り得た結果として職業としていると見るよりは、己のためにする結果すなわち自然なる芸術的心術の発現の結果が偶然人のためになって、人の気に入っただけの報酬が物質的に自分に反響して来たのだと見るのが本当だろうと思います。もしこれが天(てん)から人のためばかりの職業であって、根本的に己を枉(ま)げて始て存在し得る場合には、私は断然文学を止めなければならないかも知れぬ。幸いにして私自身を本位にした趣味なり批判なりが、偶然にも諸君の気に合って、その気に合った人だけに読まれ、気に合った人だけから少なくとも物質的の報酬、(あるいは感謝でも宜しい)を得つつ今日まで押して来たのである。いくら考えても偶然の結果である。この偶然が壊れた日にはどっち本位にするかというと、私は私を本位にしなければ作物が自分から見て物にならない。私ばかりじゃない誰しも芸術家である以上はそう考えるでしょう。したがってこういう場合には、世間が芸術家を自分に引付けるよりも自分が芸術家に食付いて行くよりほかに仕様がないのであります。食付いて行かなければそれまでという話である。芸術家とか学者とかいうものは、この点においてわがままのものであるが、そのわがままなために彼らの道において成功する。他の言葉で云うと、彼らにとっては道楽すなわち本職なのである。彼らは自分の好きな時、自分の好きなものでなければ、書きもしなければ拵(こしら)えもしない。至って横着(おうちゃく)な道楽者であるがすでに性質上道楽本位の職業をしているのだからやむをえないのです。そういう人をして己を捨てなければ立ち行かぬように強(し)いたりまたは否応(いやおう)なしに天然を枉(ま)げさせたりするのは、まずその人を殺すと同じ結果に陥(おちい)るのです。私は新聞に関係がありますが、幸(さいわい)にして社主からしてモッと売れ口のよいような小説を書けとか、あるいはモッとたくさん書かなくちゃいかんとか、そういう外圧的の注意を受けたことは今日までとんとありませぬ。社の方では私に私本位の下に述作する事を大体の上で許してくれつつある。その代り月給も昇(あ)げてくれないが、いくら月給を昇げてくれてもこういう取扱を変じて万事営業本位だけで作物の性質や分量を指定されてはそれこそ大いに困るのであります。私ばかりではないすべての芸術家科学者哲学者はみなそうだろうと思う。彼らは一も二もなく道楽本位に生活する人間だからである。大変わがままのようであるけれども、事実そうなのである。したがって恒産(こうさん)のない以上科学者でも哲学者でも政府の保護か個人の保護がなければまあ昔の禅僧ぐらいの生活を標準として暮さなければならないはずである。直接世間を相手にする芸術家に至ってはもしその述作なり製作がどこか社会の一部に反響を起して、その反響が物質的報酬となって現われて来ない以上は餓死(がし)するよりほかに仕方がない。己を枉げるという事と彼らの仕事とは全然妥協を許さない性質のものだからである。
 私は職業の性質やら特色についてはじめに一言を費やし、開化の趨勢上(すうせいじょう)その社会に及ぼす影響を述べ、最後に職業と道楽の関係を説き、その末段に道楽的職業というような一種の変体のある事を御吹聴(ごふいちょう)に及んで私などの職業がどの点まで職業でどの点までが道楽であるかを諸君に大体理会(りかい)せしめたつもりであります。これでこの講演を終ります。

――明治四十四年八月明石において述――





底本:「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年7月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月~1972(昭和47)年1月
※底本で、表題に続いて配置されていた講演の日時と場所に関する情報は、ファイル末に地付きで置きました。
入力:柴田卓治
校正:大野晋
2000年1月6日公開
2004年2月27日公開
青空文庫作成ファイル:
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  • 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。

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