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二百十日(にひゃくとおか)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/10/18 9:07:11 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

       一

 ぶらりと両手を垂(さ)げたまま、圭(けい)さんがどこからか帰って来る。
「どこへ行ったね」
「ちょっと、町を歩行(ある)いて来た」
「何か観(み)るものがあるかい」
「寺が一軒あった」
「それから」
「銀杏(いちょう)の樹(き)が一本、門前(もんぜん)にあった」
「それから」
「銀杏(いちょう)の樹から本堂まで、一丁半ばかり、石が敷き詰めてあった。非常に細長い寺だった」
「這入(はい)って見たかい」
「やめて来た」
「そのほかに何もないかね」
「別段何もない。いったい、寺と云うものは大概の村にはあるね、君」
「そうさ、人間の死ぬ所には必ずあるはずじゃないか」
「なるほどそうだね」と圭さん、首を捻(ひね)る。圭さんは時々妙な事に感心する。しばらくして、捻(ひ)ねった首を真直(まっすぐ)にして、圭さんがこう云った。
「それから鍛冶屋(かじや)の前で、馬の沓(くつ)を替(か)えるところを見て来たが実に巧(たく)みなものだね」
「どうも寺だけにしては、ちと、時間が長過ぎると思った。馬の沓がそんなに珍しいかい」
「珍らしくなくっても、見たのさ。君、あれに使う道具が幾通りあると思う」
「幾通りあるかな」
「あてて見たまえ」
「あてなくっても好(い)いから教えるさ」
「何でも七つばかりある」
「そんなにあるかい。何と何だい」
「何と何だって、たしかにあるんだよ。第一爪をはがす鑿(のみ)と、鑿を敲(たた)く槌(つち)と、それから爪を削(けず)る小刀と、爪を刳(えぐ)る妙(みょう)なものと、それから……」
「それから何があるかい」
「それから変なものが、まだいろいろあるんだよ。第一馬のおとなしいには驚ろいた。あんなに、削られても、刳られても平気でいるぜ」
「爪だもの。人間だって、平気で爪を剪(き)るじゃないか」
「人間はそうだが馬だぜ、君」
「馬だって、人間だって爪に変りはないやね。君はよっぽど呑気(のんき)だよ」
「呑気だから見ていたのさ。しかし薄暗い所で赤い鉄を打つと奇麗(きれい)だね。ぴちぴち火花が出る」
「出るさ、東京の真中でも出る」
「東京の真中でも出る事は出るが、感じが違うよ。こう云う山の中の鍛冶屋は第一、音から違う。そら、ここまで聞えるぜ」
 初秋(はつあき)の日脚(ひあし)は、うそ寒く、遠い国の方へ傾(かたむ)いて、淋(さび)しい山里の空気が、心細い夕暮れを促(うな)がすなかに、かあんかあんと鉄を打つ音がする。
「聞えるだろう」と圭さんが云う。
「うん」と碌(ろく)さんは答えたぎり黙然(もくねん)としている。隣りの部屋で何だか二人しきりに話をしている。
「そこで、その、相手が竹刀(しない)を落したんだあね。すると、その、ちょいと、小手(こて)を取ったんだあね」
「ふうん。とうとう小手を取られたのかい」
「とうとう小手を取られたんだあね。ちょいと小手を取ったんだが、そこがそら、竹刀(しない)を落したものだから、どうにも、こうにもしようがないやあね」
「ふうん。竹刀を落したのかい」
「竹刀は、そら、さっき、落してしまったあね」
「竹刀を落してしまって、小手を取られたら困るだろう」
「困らああね。竹刀も小手も取られたんだから」
 二人の話しはどこまで行っても竹刀と小手で持ち切っている。黙然(もくねん)として、対坐(たいざ)していた圭さんと碌さんは顔を見合わして、にやりと笑った。
 かあんかあんと鉄を打つ音が静かな村へ響き渡る。癇走(かんばし)った上に何だか心細い。
「まだ馬の沓(くつ)を打ってる。何だか寒いね、君」と圭さんは白い浴衣(ゆかた)の下で堅くなる。碌さんも同じく白地(しろじ)の単衣(ひとえ)の襟(えり)をかき合せて、だらしのない膝頭(ひざがしら)を行儀(ぎょうぎ)よく揃(そろ)える。やがて圭さんが云う。
「僕の小供の時住んでた町の真中に、一軒豆腐屋(とうふや)があってね」
「豆腐屋があって?」
「豆腐屋があって、その豆腐屋の角(かど)から一丁ばかり爪先上(つまさきあ)がりに上がると寒磬寺(かんけいじ)と云う御寺があってね」
「寒磬寺と云う御寺がある?」
「ある。今でもあるだろう。門前から見るとただ大竹藪(おおたけやぶ)ばかり見えて、本堂も庫裏(くり)もないようだ。その御寺で毎朝四時頃になると、誰だか鉦(かね)を敲(たた)く」
「誰だか鉦を敲くって、坊主が敲くんだろう」
「坊主だか何だか分らない。ただ竹の中でかんかんと幽(かす)かに敲くのさ。冬の朝なんぞ、霜(しも)が強く降って、布団(ふとん)のなかで世の中の寒さを一二寸の厚さに遮(さえ)ぎって聞いていると、竹藪のなかから、かんかん響いてくる。誰が敲くのだか分らない。僕は寺の前を通るたびに、長い石甃(いしだたみ)と、倒れかかった山門(さんもん)と、山門を埋(うず)め尽くすほどな大竹藪を見るのだが、一度も山門のなかを覗(のぞ)いた事がない。ただ竹藪のなかで敲く鉦の音だけを聞いては、夜具の裏(うち)で海老(えび)のようになるのさ」
「海老のようになるって?」
「うん。海老のようになって、口のうちで、かんかん、かんかんと云うのさ」
「妙だね」
「すると、門前の豆腐屋がきっと起きて、雨戸を明ける。ぎっぎっと豆を臼(うす)で挽(ひ)く音がする。ざあざあと豆腐の水を易(か)える音がする」
「君の家(うち)は全体どこにある訳(わけ)だね」
「僕のうちは、つまり、そんな音が聞える所にあるのさ」
「だから、どこにある訳だね」
「すぐ傍(そば)さ」
「豆腐屋の向(むこう)か、隣りかい」
「なに二階さ」
「どこの」
「豆腐屋の二階さ」
「へええ。そいつは……」と碌さん驚ろいた。
「僕は豆腐屋の子だよ」
「へええ。豆腐屋かい」と碌さんは再び驚ろいた。
「それから垣根の朝顔が、茶色に枯れて、引っ張るとがらがら鳴る時分、白い靄(もや)が一面に降りて、町の外(はず)れの瓦斯灯(ガスとう)に灯(ひ)がちらちらすると思うとまた鉦(かね)が鳴る。かんかん竹の奥で冴(さ)えて鳴る。それから門前の豆腐屋がこの鉦を合図に、腰障子(こししょうじ)をはめる」
「門前の豆腐屋と云うが、それが君のうちじゃないか」
「僕のうち、すなわち門前の豆腐屋が腰障子をはめる。かんかんと云う声を聞きながら僕は二階へ上がって布団(ふとん)を敷いて寝(ね)る。――僕のうちの吉原揚(よしはらあげ)は旨(うま)かった。近所で評判だった」
 隣り座敷の小手(こて)と竹刀(しない)は双方ともおとなしくなって、向うの椽側(えんがわ)では、六十余りの肥(ふと)った爺(じい)さんが、丸い背(せ)を柱にもたして、胡坐(あぐら)のまま、毛抜きで顋(あご)の髯(ひげ)を一本一本に抜いている。髯の根をうんと抑(おさ)えて、ぐいと抜くと、毛抜は下へ弾(は)ね返り、顋(あご)は上へ反(そ)り返る。まるで器械のように見える。
「あれは何日(いくか)掛ったら抜けるだろう」と碌さんが圭さんに質問をかける。
「一生懸命にやったら半日くらいで済むだろう」
「そうは行くまい」と碌さんが反対する。
「そうかな。じゃ一日(いちんち)かな」
「一日や二日(ふつか)で奇麗(きれい)に抜けるなら訳(わけ)はない」
「そうさ、ことによると一週間もかかるかね。見たまえ、あの丁寧に顋を撫(な)で廻しながら抜いてるのを」
「あれじゃ。古いのを抜いちまわないうちに、新しいのが生(は)えるかも知れないね」
「とにかく痛い事だろう」と圭さんは話頭(わとう)を転じた。
「痛いに違いないね。忠告してやろうか」
「なんて」
「よせってさ」
「余計な事だ。それより幾日(いくか)掛ったら、みんな抜けるか聞いて見ようじゃないか」
「うん、よかろう。君が聞くんだよ」
「僕はいやだ、君が聞くのさ」
「聞いても好(い)いがつまらないじゃないか」
「だから、まあ、よそうよ」と圭さんは自己の申(もう)し出(だ)しを惜気(おしげ)もなし撤回した。
 一度途切(とぎ)れた村鍛冶(むらかじ)の音は、今日山里に立つ秋を、幾重(いくえ)の稲妻(いなずま)に砕(くだ)くつもりか、かあんかあんと澄み切った空の底に響き渡る。
「あの音を聞くと、どうしても豆腐屋の音が思い出される」と圭さんが腕組をしながら云う。
「全体豆腐屋の子がどうして、そんなになったもんだね」
「豆腐屋の子がどんなになったのさ」
「だって豆腐屋らしくないじゃないか」
「豆腐屋だって、肴屋(さかなや)だって――なろうと思えば、何にでもなれるさ」
「そうさな、つまり頭だからね」
「頭ばかりじゃない。世の中には頭のいい豆腐屋が何人いるか分らない。それでも生涯(しょうがい)豆腐屋さ。気の毒なものだ」
「それじゃ何だい」と碌さんが小供らしく質問する。
「何だって君、やっぱりなろうと思うのさ」
「なろうと思ったって、世の中がしてくれないのがだいぶあるだろう」
「だから気の毒だと云うのさ。不公平な世の中に生れれば仕方がないから、世の中がしてくれなくても何でも、自分でなろうと思うのさ」
「思って、なれなければ?」
「なれなくっても何でも思うんだ。思ってるうちに、世の中が、してくれるようになるんだ」と圭さんは横着(おうちゃく)を云う。
「そう注文通りに行(い)けば結構だ。ハハハハ」
「だって僕は今日までそうして来たんだもの」
「だから君は豆腐屋らしくないと云うのだよ」
「これから先、また豆腐屋らしくなってしまうかも知れないかな。厄介(やっかい)だな。ハハハハ」
「なったら、どうするつもりだい」
「なれば世の中がわるいのさ。不公平な世の中を公平にしてやろうと云うのに、世の中が云う事をきかなければ、向(むこう)の方が悪いのだろう」
「しかし世の中も何だね、君、豆腐屋がえらくなるようなら、自然えらい者が豆腐屋になる訳だね」
「えらい者た、どんな者だい」
「えらい者って云うのは、何さ。例(たと)えば華族(かぞく)とか金持とか云うものさ」と碌さんはすぐ様えらい者を説明してしまう。
「うん華族や金持か、ありゃ今でも豆腐屋じゃないか、君」
「その豆腐屋連(れん)が馬車へ乗ったり、別荘を建てたりして、自分だけの世の中のような顔をしているから駄目だよ」
「だから、そんなのは、本当の豆腐屋にしてしまうのさ」
「こっちがする気でも向がならないやね」
「ならないのをさせるから、世の中が公平になるんだよ」
「公平に出来れば結構だ。大いにやりたまえ」
「やりたまえじゃいけない。君もやらなくっちゃあ。――ただ、馬車へ乗ったり、別荘を建てたりするだけならいいが、むやみに人を圧逼(あっぱく)するぜ、ああ云う豆腐屋は。自分が豆腐屋の癖に」と圭さんはそろそろ慷慨(こうがい)し始める。
「君はそんな目に逢(あ)った事があるのかい」
 圭さんは腕組をしたままふふんと云った。村鍛冶の音は不相変(あいかわらず)かあんかあんと鳴る。
「まだ、かんかん遣(や)ってる。――おい僕の腕は太いだろう」と圭さんは突然腕まくりをして、黒い奴(やつ)を碌さんの前に圧(お)しつけた。
「君の腕は昔から太いよ。そうして、いやに黒いね。豆を磨(ひ)いた事があるのかい」
「豆も磨いた、水も汲(く)んだ。――おい、君粗忽(そこつ)で人の足を踏んだらどっちが謝(あや)まるものだろう」
「踏んだ方が謝まるのが通則のようだな」
「突然、人の頭を張りつけたら?」
「そりゃ気違(きちがい)だろう」
「気狂(きちがい)なら謝まらないでもいいものかな」
「そうさな。謝まらさす事が出来れば、謝まらさす方がいいだろう」
「それを気違の方で謝まれって云うのは驚ろくじゃないか」
「そんな気違があるのかい」
「今の豆腐屋連(れん)はみんな、そう云う気違ばかりだよ。人を圧迫した上に、人に頭を下げさせようとするんだぜ。本来なら向(むこう)が恐れ入るのが人間だろうじゃないか、君」
「無論それが人間さ。しかし気違の豆腐屋なら、うっちゃって置くよりほかに仕方があるまい」
 圭さんは再びふふんと云った。しばらくして、
「そんな気違を増長させるくらいなら、世の中に生れて来ない方がいい」と独(ひと)り言(ごと)のようにつけた。
 村鍛冶の音は、会話が切れるたびに静かな里の端(はじ)から端までかあんかあんと響く。
「しきりにかんかんやるな。どうも、あの音は寒磬寺(かんけいじ)の鉦(かね)に似ている」
「妙に気に掛るんだね。その寒磬寺の鉦の音と、気違の豆腐屋とでも何か関係があるのかい。――全体君が豆腐屋の伜(せがれ)から、今日(こんにち)までに変化した因縁(いんねん)はどう云う筋道なんだい。少し話して聞かせないか」
「聞かせてもいいが、何だか寒いじゃないか。ちょいと夕飯(ゆうめし)前に温泉(ゆ)に這入(はい)ろう。君いやか」
「うん這入ろう」
 圭さんと碌さんは手拭(てぬぐい)をぶら下げて、庭へ降りる。棕梠緒(しゅろお)の貸下駄(かしげた)には都らしく宿の焼印(やきいん)が押してある。

        二

「この湯は何に利(き)くんだろう」と豆腐屋の圭(けい)さんが湯槽(ゆぶね)のなかで、ざぶざぶやりながら聞く。
「何に利くかなあ。分析表を見ると、何にでも利くようだ。――君そんなに、臍(へそ)ばかりざぶざぶ洗ったって、出臍(でべそ)は癒(なお)らないぜ」
「純透明だね」と出臍の先生は、両手に温泉(ゆ)を掬(く)んで、口へ入れて見る。やがて、
「味も何もない」と云いながら、流しへ吐き出した。
「飲んでもいいんだよ」と碌(ろく)さんはがぶがぶ飲む。
 圭さんは臍(へそ)を洗うのをやめて、湯槽の縁(ふち)へ肘(ひじ)をかけて漫然(まんぜん)と、硝子越(ガラスご)しに外を眺めている。碌さんは首だけ湯に漬(つ)かって、相手の臍から上を見上げた。
「どうも、いい体格(からだ)だ。全く野生(やせい)のままだね」
「豆腐屋出身だからなあ。体格が悪(わ)るいと華族や金持ちと喧嘩(けんか)は出来ない。こっちは一人向(むこう)は大勢だから」
「さも喧嘩の相手があるような口振(くちぶり)だね。当(とう)の敵(てき)は誰だい」
「誰でも構わないさ」
「ハハハ呑気(のんき)なもんだ。喧嘩にも強そうだが、足の強いのには驚(おどろ)いたよ。君といっしょでなければ、きのうここまでくる勇気はなかったよ。実は途中で御免蒙(ごめんこうむ)ろうかと思った」
「実際少し気の毒だったね。あれでも僕はよほど加減して、歩行(ある)いたつもりだ」
「本当かい? はたして本当ならえらいものだ。――何だか怪しいな。すぐ付け上がるからいやだ」
「ハハハ付け上がるものか。付け上がるのは華族と金持ばかりだ」
「また華族と金持ちか。眼の敵(かたき)だね」
「金はなくっても、こっちは天下の豆腐屋だ」
「そうだ、いやしくも天下の豆腐屋だ。野生の腕力家だ」
「君、あの窓の外に咲いている黄色い花は何だろう」
 碌さんは湯の中で首を捩(ね)じ向ける。
「かぼちゃさ」
「馬鹿あ云ってる。かぼちゃは地の上を這(は)ってるものだ。あれは竹へからまって、風呂場の屋根へあがっているぜ」
「屋根へ上がっちゃ、かぼちゃになれないかな」
「だっておかしいじゃないか、今頃花が咲くのは」
「構うものかね、おかしいたって、屋根にかぼちゃの花が咲くさ」
「そりゃ唄(うた)かい」
「そうさな、前半は唄のつもりでもなかったんだが、後半に至って、つい唄になってしまったようだ」
「屋根にかぼちゃが生(な)るようだから、豆腐屋が馬車なんかへ乗るんだ。不都合千万だよ」
「また慷慨(こうがい)か、こんな山の中へ来て慷慨したって始まらないさ。それより早く阿蘇(あそ)へ登って噴火口から、赤い岩が飛び出すところでも見るさ。――しかし飛び込んじゃ困るぜ。――何だか少し心配だな」
「噴火口は実際猛烈なものだろうな。何でも、沢庵石(たくあんいし)のような岩が真赤になって、空の中へ吹き出すそうだぜ。それが三四町四方一面に吹き出すのだから壮(さか)んに違ない。――あしたは早く起きなくっちゃ、いけないよ」
「うん、起きる事は起きるが山へかかってから、あんなに早く歩行(ある)いちゃ、御免だ」と碌さんはすぐ予防線を張った。
「ともかくも六時に起きて……」
「六時に起きる?」
「六時に起きて、七時半に湯から出て、八時に飯を食って、八時半に便所から出て、そうして宿を出て、十一時に阿蘇神社(あそじんじゃ)へ参詣(さんけい)して、十二時から登るのだ」
「へえ、誰が」
「僕と君がさ」
「何だか君一人(ひと)りで登るようだぜ」
「なに構わない」
「ありがたい仕合せだ。まるで御供(おとも)のようだね」
「うふん。時に昼は何を食うかな。やっぱり饂飩(うどん)にして置くか」と圭さんが、あすの昼飯(ひるめし)の相談をする。
「饂飩はよすよ。ここいらの饂飩はまるで杉箸(すぎばし)を食うようで腹が突張(つっぱ)ってたまらない」
「では蕎麦(そば)か」
「蕎麦も御免だ。僕は麺類(めんるい)じゃ、とても凌(しの)げない男だから」
「じゃ何を食うつもりだい」
「何でも御馳走(ごちそう)が食いたい」
「阿蘇(あそ)の山の中に御馳走があるはずがないよ。だからこの際、ともかくも饂飩で間に合せて置いて……」
「この際は少し変だぜ。この際た、どんな際なんだい」
「剛健な趣味を養成するための旅行だから……」
「そんな旅行なのかい。ちっとも知らなかったぜ。剛健はいいが饂飩は平(ひら)に不賛成だ。こう見えても僕は身分が好(い)いんだからね」
「だから柔弱(にゅうじゃく)でいけない。僕なぞは学資に窮した時、一日に白米二合で間に合せた事がある」
「痩(や)せたろう」と碌さんが気の毒な事を聞く。
「そんなに痩せもしなかったがただ虱(しらみ)が湧(わ)いたには困った。――君、虱が湧いた事があるかい」
「僕はないよ。身分が違わあ」
「まあ経験して見たまえ。そりゃ容易に猟(か)り尽せるもんじゃないぜ」
「煮え湯で洗濯(せんたく)したらよかろう」
「煮え湯? 煮え湯ならいいかも知れない。しかし洗濯するにしてもただでは出来ないからな」
「なあるほど、銭(ぜに)が一文(もん)もないんだね」
「一文もないのさ」
「君どうした」
「仕方がないから、襯衣(シャツ)を敷居の上へ乗せて、手頃な丸い石を拾って来て、こつこつ叩(たた)いた。そうしたら虱(しらみ)が死なないうちに、襯衣が破れてしまった」
「おやおや」
「しかもそれを宿のかみさんが見つけて、僕に退去を命じた」
「さぞ困ったろうね」
「なあに困らんさ、そんな事で困っちゃ、今日まで生きていられるものか。これから追い追い華族や金持ちを豆腐屋にするんだからな。滅多(めった)に困っちゃ仕方がない」
「すると僕なんぞも、今に、とおふい、油揚(あぶらげ)、がんもどきと怒鳴(どな)って、あるかなくっちゃならないかね」
「華族でもない癖に」
「まだ華族にはならないが、金はだいぶあるよ」
「あってもそのくらいじゃ駄目だ」
「このくらいじゃ豆腐(とうふ)いと云う資格はないのかな。大(おおい)に僕の財産を見縊(みくび)ったね」
「時に君、背中(せなか)を流してくれないか」
「僕のも流すのかい」
「流してもいいさ。隣りの部屋の男も流しくらをやってたぜ、君」
「隣りの男の背中は似たり寄ったりだから公平だが、君の背中と、僕の背中とはだいぶ面積が違うから損だ」
「そんな面倒な事を云うなら一人で洗うばかりだ」と圭さんは、両足を湯壺(ゆつぼ)の中にうんと踏ん張って、ぎゅうと手拭(てぬぐい)をしごいたと思ったら、両端(りょうはじ)を握ったまま、ぴしゃりと、音を立てて斜(はす)に膏切(あぶらぎ)った背中へあてがった。やがて二の腕へ力瘤(ちからこぶ)が急に出来上がると、水を含んだ手拭は、岡のように肉づいた背中をぎちぎち磨(こす)り始める。
 手拭の運動につれて、圭さんの太い眉(まゆ)がくしゃりと寄って来る。鼻の穴が三角形に膨脹(ぼうちょう)して、小鼻が勃(ぼっ)として左右に展開する。口は腹を切る時のように堅く喰締(くいしば)ったまま、両耳の方まで割(さ)けてくる。
「まるで仁王(におう)のようだね。仁王の行水(ぎょうずい)だ。そんな猛烈な顔がよくできるね。こりゃ不思議だ。そう眼をぐりぐりさせなくっても、背中は洗えそうなものだがね」
 圭さんは何にも云わずに一生懸命にぐいぐい擦(こす)る。擦っては時々、手拭を温泉(ゆ)に漬(つ)けて、充分水を含ませる。含ませるたんびに、碌さんの顔へ、汗(あせ)と膏(あぶら)と垢(あか)と温泉(ゆ)の交(まじ)ったものが十五六滴ずつ飛んで来る。
「こいつは降参だ。ちょっと失敬して、流しの方へ出るよ」と碌さんは湯槽(ゆぶね)を飛び出した。飛び出しはしたものの、感心の極(きょく)、流しへ突っ立ったまま、茫然(ぼうぜん)として、仁王の行水を眺めている。
「あの隣りの客は元来何者だろう」と圭さんが槽(ふね)のなかから質問する。
「隣りの客どころじゃない。その顔は不思議だよ」
「もう済んだ。ああ好い心持だ」と圭さん、手拭の一端(いったん)を放すや否や、ざぶんと温泉(ゆ)の中へ、石のように大きな背中を落す。満槽(まんそう)の湯は一度に面喰(めんくら)って、槽の底から大恐惶(だいきょうこう)を持ち上げる。ざあっざあっと音がして、流しへ溢(あふ)れだす。
「ああいい心持ちだ」と圭さんは波のなかで云った。
「なるほどそう遠慮なしに振舞(ふるま)ったら、好い心持に相違ない。君は豪傑だよ」
「あの隣りの客は竹刀(しない)と小手(こて)の事ばかり云ってるじゃないか。全体何者だい」と圭さんは呑気(のんき)なものだ。
「君が華族と金持ちの事を気にするようなものだろう」
「僕のは深い原因があるのだが、あの客のは何だか訳(わけ)が分らない」
「なに自分じゃあ、あれで分ってるんだよ。――そこでその小手を取られたんだあね――」と碌さんが隣りの真似(まね)をする。
「ハハハハそこでそら竹刀(しない)を落したんだあねか。ハハハハ。どうも気楽なものだ」と圭さんも真似して見る。
「なにあれでも、実は慷慨家(こうがいか)かも知れない。そらよく草双紙(くさぞうし)にあるじゃないか。何とかの何々、実は海賊の張本毛剃九右衛門(けぞりくえもん)て」
「海賊らしくもないぜ。さっき温泉(ゆ)に這入(はい)りに来る時、覗(のぞ)いて見たら、二人共木枕(きまくら)をして、ぐうぐう寝ていたよ」
「木枕をして寝られるくらいの頭だから、そら、そこで、その、小手を取られるんだあね」と碌さんは、まだ真似をする。
「竹刀も取られるんだあねか。ハハハハ。何でも赤い表紙の本を胸の上へ載(の)せたまんま寝ていたよ」
「その赤い本が、何でもその、竹刀を落したり、小手を取られるんだあね」と碌さんは、どこまでも真似をする。
「何だろう、あの本は」
「伊賀(いが)の水月(すいげつ)さ」と碌さんは、躊躇(ちゅうちょ)なく答えた。
「伊賀の水月? 伊賀の水月た何だい」
「伊賀の水月を知らないのかい」
「知らない。知らなければ恥かな」と圭さんはちょっと首を捻(ひね)った。
「恥じゃないが話せないよ」
「話せない? なぜ」
「なぜって、君、荒木又右衛門を知らないか」
「うん、又右衛門か」
「知ってるのかい」と碌さんまた湯の中へ這入(はい)る。圭さんはまた槽(ふね)のなかへ突立(つった)った。
「もう仁王の行水は御免だよ」
「もう大丈夫、背中はあらわない。あまり這入ってると逆上(のぼせ)るから、時々こう立つのさ」
「ただ立つばかりなら、安心だ。――それで、その、荒木又右衛門を知ってるかい」
「又右衛門? そうさ、どこかで聞いたようだね。豊臣秀吉の家来じゃないか」と圭さん、飛んでもない事を云う。
「ハハハハこいつはあきれた。華族や金持ちを豆腐屋にするだなんて、えらい事を云うが、どうも何(なんに)も知らないね」
「じゃ待った。少し考えるから。又右衛門だね。又右衛門、荒木又右衛門だね。待ちたまえよ、荒木の又右衛門と。うん分った」
「何だい」
「相撲取(すもうとり)だ」
「ハハハハ荒木、ハハハハ荒木、又ハハハハ又右衛門が、相撲取り。いよいよ、あきれてしまった。実に無識だね。ハハハハ」と碌さんは大恐悦(だいきょうえつ)である。
「そんなにおかしいか」
「おかしいって、誰に聞かしたって笑うぜ」
「そんなに有名な男か」
「そうさ、荒木又右衛門じゃないか」
「だから僕もどこかで聞いたように思うのさ」
「そら、落ち行く先きは九州相良(さがら)って云うじゃないか」
「云うかも知れんが、その句は聞いた事がないようだ」
「困った男だな」
「ちっとも困りゃしない。荒木又右衛門ぐらい知らなくったって、毫(ごう)も僕の人格には関係はしまい。それよりも五里の山路(やまみち)が苦になって、やたらに不平を並べるような人が困った男なんだ」
「腕力や脚力を持ち出されちゃ駄目だね。とうてい叶(かな)いっこない。そこへ行くと、どうしても豆腐屋出身の天下だ。僕も豆腐屋へ年期奉公に住み込んで置けばよかった」
「君は第一平生から惰弱(だじゃく)でいけない。ちっとも意志がない」
「これでよっぽど有るつもりなんだがな。ただ饂飩(うどん)に逢(あ)った時ばかりは全く意志が薄弱だと、自分ながら思うね」
「ハハハハつまらん事を云っていらあ」
「しかし豆腐屋にしちゃ、君のからだは奇麗過ぎるね」
「こんなに黒くってもかい」
「黒い白いは別として、豆腐屋は大概箚青(ほりもの)があるじゃないか」
「なぜ」
「なぜか知らないが、箚青があるもんだよ。君、なぜほらなかった」
「馬鹿あ云ってらあ。僕のような高尚な男が、そんな愚(ぐ)な真似をするものか。華族や金持がほれば似合うかも知れないが、僕にはそんなものは向かない。荒木又右衛門だって、ほっちゃいまい」
「荒木又右衛門か。そいつは困ったな。まだそこまでは調べが届いていないからね」
「そりゃどうでもいいが、ともかくもあしたは六時に起きるんだよ」
「そうして、ともかくも饂飩を食うんだろう。僕の意志の薄弱なのにも困るかも知れないが、君の意志の強固なのにも辟易(へきえき)するよ。うちを出てから、僕の云う事は一つも通らないんだからな。全く唯々諾々(いいだくだく)として命令に服しているんだ。豆腐屋主義はきびしいもんだね」
「なにこのくらい強硬にしないと増長していけない」
「僕がかい」
「なあに世の中の奴らがさ。金持ちとか、華族とか、なんとかかとか、生意気に威張る奴らがさ」
「しかしそりゃ見当違だぜ。そんなものの身代りに僕が豆腐屋主義に屈従するなたまらない。どうも驚ろいた。以来君と旅行するのは御免だ」
「なあに構わんさ」
「君は構わなくってもこっちは大いに構うんだよ。その上旅費は奇麗に折半(せっぱん)されるんだから、愚(ぐ)の極(きょく)だ」
「しかし僕の御蔭で天地の壮観たる阿蘇(あそ)の噴火口を見る事ができるだろう」
「可愛想(かわいそう)に。一人(ひとり)だって阿蘇ぐらい登れるよ」
「しかし華族や金持なんて存外意気地(いくじ)がないもんで……」
「また身代りか、どうだい身代りはやめにして、本当の華族や金持ちの方へ持って行ったら」
「いずれ、その内持ってくつもりだがね。――意気地がなくって、理窟(りくつ)がわからなくって、個人としちゃあ三文の価値もないもんだ」
「だから、どしどし豆腐屋にしてしまうさ」
「その内、してやろうと思ってるのさ」
「思ってるだけじゃ剣呑(けんのん)なものだ」
「なあに年(ねん)が年中(ねんじゅう)思っていりゃ、どうにかなるもんだ」
「随分気が長いね。もっとも僕の知ったものにね。虎列拉(コレラ)になるなると思っていたら、とうとう虎列拉になったものがあるがね。君のもそう、うまく行くと好いけれども」
「時にあの髯(ひげ)を抜いてた爺さんが手拭(てぬぐい)をさげてやって来たぜ」
「ちょうど好いから君一つ聞いて見たまえ」
「僕はもう湯気(ゆけ)に上がりそうだから、出るよ」
「まあ、いいさ、出ないでも。君がいやなら僕が聞いて見るから、もう少し這入(はい)っていたまえ」
「おや、あとから竹刀(しない)と小手(こて)がいっしょに来たぜ」
「どれ。なるほど、揃(そろ)って来た。あとから、まだ来るぜ。やあ婆さんが来た。婆さんも、この湯槽(ゆぶね)へ這入るのかな」
「僕はともかくも出るよ」
「婆さんが這入るなら、僕もともかくも出よう」
 風呂場を出ると、ひやりと吹く秋風が、袖口からすうと這入って、素肌(すはだ)を臍(へそ)のあたりまで吹き抜けた。出臍(でべそ)の圭さんは、はっくしょうと大きな苦沙弥(くしゃみ)を無遠慮にやる。上がり口に白芙蓉(はくふよう)が五六輪、夕暮の秋を淋しく咲いている。見上げる向(むこう)では阿蘇(あそ)の山がごううごううと遠くながら鳴っている。
「あすこへ登るんだね」と碌さんが云う。
「鳴ってるぜ。愉快だな」と圭さんが云う。

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