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模倣と独立(もほうとどくりつ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/10/18 9:30:34 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 そうすると、人間というものはそういう風に二通りを代表している――というと語弊ごへいがあるかも知れませんが――二通りになるでしょう。其処そこです其処です、それをいわないとく解らない。
 それでこのヒューマン・レースの代表者という方から考えて、人間という者はどんな特色、どんな性質を持っているか。第一私は人間全体を代表するその人間の特色として、第一に模倣ということを挙げたい。人は人の真似をするものである。私も人の真似をしてこれまで大きくなった。私の所の小さい子供なども非常に人の真似をする。一歳違いの男の兄弟があるが、兄貴が何かれろといえば弟も何か呉れろという。兄がらないといえば弟も要らないという。兄が小便しょうべんがしたいといえば弟も小便をしたいという。それは実にひどいものです。すべて兄のいう通りをする。丁度その後から一歩一歩ついて歩いているようである。恐るべく驚くべく彼は模倣者である。
 近頃読んだ本でありませんがマンテガッツァの『フィジオロジー・エンド・エキスプレション』という本の中にイミテーションということについて例を沢山挙げてありましたが、私は今一々いちいち人間という者は真似をするものであるということの沢山な例を記憶しておりませんが、茲処ここに二つ三つあります。例えば、一人の人が往来で洋傘を広げて見ようとすると、同行している隣りの女もきっと洋傘を広げるという。こういう風に一般にある程度まではそうです。往来で空を眺めていると二人立ち三人立つのは訳はなくやる。それで空に何かあるかというと、飛行船が飛んでいる訳でも何でもない。けれども飛行船が飛んでいるとか何とかいえば、大勢の群集が必ず空を仰いで見る。その時に何か空中に飛行船でも認めしむることが出来ないとも限らない。
 それほど人間という者は人の真似をするように出来ている情けないものであります。それでその、人の真似をするということは、子供の内から始まって、今言ったような些末さまつの事柄ばかりでない、道徳的にもあるいは芸術的にも、社会上においてもそうである。無論流行などは人の真似をする。われわれがく子供の内は東京の者はこんな薩摩飛白さつまがすりなどは決して着せません。田舎者でなければ着ないものでした。それを今の書生は大抵皆薩摩飛白を着る。安いからか知りませんが、皆着るようになった。それから一時白い羽織はおりひも毛糸けいとか何かの長いのをこう――結んで胸から背負ってくびに掛けておった。あれも一人るとああなるのであります。私たちの若い時は羽織のもんが一つしきゃないのを着て通人つうじんとか何とかいって喜んでいた。それが近頃は五つ紋をつけるようになった。それも大きなのが段々小さくなったようだが、近頃どの位になっているのか。私は羽織の紋が余り大きいから流行におくれぬように小さくした位それほど流行というものは人を圧迫して来る。圧迫するのじゃないが、流行にこっちからおもむくのです。イミテーターとして人の真似をするのが人間の殆ど本能です。人の真似がしたくなるのです。こういう洋服でも二十年前の洋服は余り着られない。このあいだ着ていた人を見たけれども可笑おかしいです。あまり見っともいものではない。殊に女なんぞは、二十年前の女の写真なんぞは非常に可笑しい。本来の意味では可笑しいとは自分で思っていないけれども、熟々つくづく見ると、やはり模倣ということに重きを置く結果、どうもその自分とことなった物、あるいは世間と異ったものは可笑しく見えるのであります。そういう風にそれを道徳上にも応用が出来ます。それから芸術上は無論の事ですね。そんな例は沢山挙げてもいけれども、時間がないから略して置きます。とにかく大変人は模倣を喜ぶものだということ、それは自分の意志からです、圧迫ではないのです。このんで遣る、好んで模倣をするのです。
 同時に世の中には、法律とか、法則とかいうものがあって、これは外圧的に人間というものを一束ひとたばにしようとする。貴方がたも一束にされて教育を受けている。十把一じっぱひとからげにして教育されている。そうしないと始末にえないから、やむをえず外圧的に皆さんを圧迫しているのである。これも一種の約束で、そうしないと教育上に困難であるからである。その約束、法則というものは政治上にも教育上にもソシャル・マナーの上にもある。飯を食べるのにサラサラグチャグチャは不可いけないという。そういうのはこれは法則でしょう。それから道徳の法則、これは当り前の話で、金を借りればどうしても返さねばならぬようになっている。それから芸術上の法則というのがある。これがまた在来の日本画だとか、御能おのうだとか、芝居の踊りだとかいうものには、非常に究屈きゅうくつな面倒なかたまった法則があって、動かすことが出来ないようになっております。それらの例を一々挙げると宜いのですが、それは一々挙げません。例をはぶくと詰らないものになりますが、早く済みますから、詰らなくして早く切り上げてしまおうと思う。
 それから、法則というものは社会的にも道徳的にもまた法律的にもあるが、最もはげしいのは軍隊である。芸術にでもすべてそういうような一種の法則というものがあって、それを守らなければならぬように周囲が吾人ごじんに責めるのであります。一方ではイミテーション、自分から進んで人の真似をしたがる。一方ではそういう法則があって、外の人から自分を圧迫して人に従わせる。この二つの原因があって、人間というものの特殊の性というものは失われて、平等なものになる傾きがある。その意味で私なら私が、人間全体を代表することが出来る資格をち得るのであります。
 私は人間を代表すると同時に私自身をも代表している。その私自身を代表しているという所から出立しゅったつして考えて見ると、イミテーションという代りにインデペンデントという事が重きをさなければならぬ。人がするから自分もするのではない。人がそうすれば――他人ひとは朝飯にかゆを食う俺はパンを食う。他人は蕎麦そばを食う俺は※(「者/火」、第3水準1-87-52)ぞうにを食う、われわれは自分勝手にろう御前おまえは三ばい食う俺は五杯食う、というようなそういう事はイミテーションではない。他人が四杯食えば俺は六杯食う。それはイミテーションでないか知らぬが、事によると故意こいに反対することもある。これは不可いけない。世の中には奇人きじんというものがありまして、どうも人並の事をしちゃあ面白くないから、何でも人とは反対をしなければ気が済まない。中には広告するためにやる奴もある。普通のことでは面白くないから、何か特別な事をして見たいというので、髪の毛を伸ばして見たり、冬夏帽なつぼうかぶって見たり――それは此処ここの生徒などにもよくある。が、あれは無頓着むとんじゃくから来るのでしょう。人が冬帽をかぶっているという事に気が付けば自分も被りたくなるでしょう。故意に俺は夏帽を被るといった日にはよほど奇人きじんとなる。私のここにインデペンデントというのは、この故意を取りける。次には奇人を取り除ける。気が付かないのも勘定かんじょうの中に這入らない。それじゃあどういうのがインデペンデントであるか。人間は自然天然に独立の傾向をっている。人間は一方でイミテーション、一方で独立自尊、というような傾向を有っている。その内で区別して見れば、横着おうちゃくな奴と、横着でない奴と、横着でないけれども分らないから横着をやって、まあ朝八時に起きる所を自然天然の傾向で十時頃まで寐ている。それはインデペンデントには違いないが、はなはだどうも結構でない事かも知れません。それは我儘、横着であるが自然でもある、インデペンデントともなるけれども、これも取りのぞけということになる。最後に残るのは――貴方がたの中でく誘惑ということを言いましょう。人と歩調ほちょうを合わして行きたいという誘惑を感じても、如何いかんせんどうも私にはその誘惑に従う訳に行かぬ。丁度ちょうど跛を兵式体操へいしきたいそうに引き出したようなもので、如何せんどうも歩調がそろわぬ。それは、諸君と行動を共にしたいけれども、どうもそう行かないので仕方がない。こういうのをインデペンデントというのです。勿論それは体質上のそういう一種のデマンドじゃない、精神的の――ポジチブな内心のデマンドである。あるいはこれが道徳上に発現して来る場合もありましょう。あるいは芸術上に発現して来る場合もありましょう。精神的になって来ると――そうですね、古臭ふるくさい例を引くようでありますが、坊さんというものは肉食妻帯にくじきさいたいをしない主義であります。それを真宗しんしゅうの方では、ずっと昔から肉を食った、女房を持っている。これはまあ思想上の大革命でしょう。親鸞上人しんらんしょうにんに初めから非常な思想があり、非常な力があり、非常な強い根柢こんていのある思想を持たなければ、あれほどの大改革は出来ない。言葉を換えて言えば親鸞は非常なインデペンデントの人といわなければならぬ。あれだけのことをするには初めからチャンとした、シッカリした根柢がある。そうして自分の執るべき道はそうでなければならぬ、ほかの坊主と歩調を共にしたいけれども、如何いかんせん独り身の僕は唯女房を持ちたい肉食をしたいという、そんな意味ではない。その時分に、今でもそうだけれども、思い切って妻帯し肉食をするということを公言するのみならず、断行して御覧なさい。どの位迫害を受けるか分らない。もっとも迫害などを恐れるようではそんな事は出来ないでしょう。そんな小さい事を心配するようでは、こんな事は仕切しきれないでしょう。其所そこにその人の自信なり、確乎かくこたる精神なりがある。その人を支配する権威があって初めてああいうことが出来るのである。だから親鸞上人は、一方じゃ人間全体の代表者かも知らんが、一方ではいちじるしき自己の代表者である。
 今は古い例を挙げたが、今度はもっと新しい例を挙げれば、イブセンという人がある。イブセンの道徳主義は御承知の通り、昔の道徳というものはどうも駄目だという。何が駄目かといえば、あれは男に都合のいように出来たものである。女というものは眼中がんちゅうに置かないで、強い男が自分の権利を振り廻すために自分の便利を計るために、一種の制裁なり法則というものを拵えて、弱い女を無視してそれを鉄窓てっそうの中に押し込めたのが今日までの道徳というものであるといっている。それでイブセンの道徳というものは二色ふたいろにしなければならぬのである。男の道徳、女の道徳というようにしなければならぬ。女の方から見ますれば、それが逆にまあならなければならないというのです。その思想、主義から出発して書いたものがイブセンの作の中にある。最も著しい例は、『ノラ』というようなものであります。それがイブセンという人は人間の代表者であると共に彼自身の代表者であるという特殊の点を発揮している。イミテーションではない。今までの道徳はそうだから、たといその道徳は不都合であるとは考えていても、別に仕様しようがないからまあそれに従って置こう、というような余裕のある、そんな自己ではない。もっと特別な猛烈な自己である。それがためイブセンは大変迫害を受けたという訳であります。無論事実不遇ふぐうな人でありました。それのみならずあの人は特殊な人で、人間全体を代表しているというより彼自身を代表している方がよほど多い。そこで国を出て諸方を流浪して、たまに国へ帰っても評判がくないから、国へは滅多めったに帰らなかった。或時国へ帰って来た。国へ帰っても家がないから宿屋に泊っている。その時ブランデスという人がイブセンが来たから歓迎会を開こうというと、イブセンはそんな歓迎会などは御免蒙ると言っている。しかし折角せっかくの催しで人数も十二人だけだからといって、ようやくイブセンをき伏せた。面倒を省くためにイブセンの泊っている宿屋で、帝国ホテル見たようなところで開くということになり、それでいよいよ当日になって丁度宜い時刻になったから、ブランデスはイブセンの室に行ってドアーをコツコツと叩いて、衣服の用意は出来たかと外から聞いたら、イブセンいわく衣服などは持っておらぬ、自分は決して服装などは改めた事はない。シャツを着ている。シャツといっても露西亜辺ロシアへんでは家の中ではこんな冬の日には温度が七十度位にしてある。本でも読む時は上衣をとっている。外に出る時はこういうものを着るでしょう。それでシャツを着ているのは宜いが、皆んなは燕尾服えんびふくを着て来ているのだからというと、イブセンは自分の行李こうりの中には燕尾服などは這入っていない、もし燕尾服を着なければならぬようなら御免蒙るという。御客を呼んで、その御客がそろっているのに、御免を蒙られては大変だから――そんなことを言わないでどうか出てもらいたい、それじゃ出るという事になったが、ブランデスが実は十二人だった所が、段々と人数がえて二十四人になったというと、そんな嘘をくならもう出ないという。実に手古摺てこずらされたということをブランデス自身が書いている。そんな事で色々面倒なことがあった末、ようよう連れて行ってチャンと坐らせた。ところが大将たいしょう大いにふくれていて一口も口を利かない、黙っている。まだ面白い話があるけれどもまあこれ位で切り上げてしまいましょう。とにかく人間を代表してもけだものを代表しても、イブセンはイブセンを代表していると言った方が宜い。イブセンはイブセンなりと言った方が当っている。そういう特殊な人であります。この話は幼稚でありますが、今のイブセンの道徳の見解からいっても、イブセンはイミテーションという側の反対に立った人といわなければならない訳であります。
 それで、人間にはこの二通りの人がある。というと、片方と片方は紅白見たように別れているように見えますが、一人の人がこの両面をっているということが一番適切である。人間には二種の何とかがあるということをくいうものですが、それは大変間違いだ。そうすると片方は片方だけの性格しかそなえていないようになる。議論する人はそういう風になるから、あとがどうも事実から出発していない議論に陥ってしまう。とにかく二通りの人間があるということを言うが、これはこの両面を持っているというのが、これが本統ほんとうの事でしょう。いくらオリヂナルの人でもイミテーションの分子を何処かに持っている。イミテーションの側に立って考えると、これはどういう人がイミテーターかというと、要するにイミテーターというものは人の真似をする。それだから自分に標準はない。あるいはあっても標準を立て通すだけの強い猛烈な勇気を欠いているか、どっちかなのである。しかしながらインデペンデントの側の方は、自分に一種の目安めやすがある。アイデアル・センセーション、それが個人的になっておって、とにかくそれを言い現わし、それを実行しなければいても立ってもどうしてもいられない。風変ふうがわりではあるが、人からいくら非難されても、御前おまえは風変りだと言われても、どうしてもこうしなければいられない。藪睨やぶにらみは藪睨みで、どうしても横ばかり見ている。これはインデペンデントの方の分子を余計っている人である。だからこういう人というものはまこと厄介やっかいなもので、世の中の人と歩調を共にすることは出来ない。おい君湯に行こう、僕は水をかぶる、君散歩に行かないか、俺は行かない座禅ざぜんをする、君飯を食わんか、僕はパンを食う、そういうようなインデペンデントな人になっては手が付けられない。到底一緒に住む事は困難である。しかし人に困難を与えるから気の毒な感じがないかというと、そうではない。唯そんな事は考えていられないのでしょう。それが本統のインデペンデントの人といわなければならぬ。厄介ではあるけれども、イミテートする人あるいは自己の標準を欠いていてさわりのない方が間違いがなくて安心だというような人に比べれば、自己の標準があるだけでもこっちの方がゆるすべく貴ぶべし――といったらどんな奴が出て来るか分らぬが、事実貴ぶべき人もありましょう。とにかくインデペンデントの人にはまあ恕すべきものがあると思うです。

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