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散文詩・詩的散文(さんぶんし・してきさんぶん)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-23 9:17:49 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



幼兒の眞實を嘲笑するものは必ず衒學の徒なり、
萬葉集の詠嘆は單純なれども千載の後その光を失ふことなし。幼年期の哲理は後に必ず嘲笑さるる秋あるも幼年期の眞實は永劫にその光を失ふことなし。

最も貧弱なる『光』も尚最も巨大なる『物體』にまされり、萬葉の戀歌一首はソクラテスの教理よりも劫久なる生命を有す。

『光』は感傷に發す、眞實の核を磨くことにより。

足は天地に垂降するの足、
手は地上に泳ぎて天上の泉をくむの手、
諸君、肉身に供養せよ、
諸君、おん手をして泥土にけがさしむる勿れ、詩人をして賤民の豚と交接せしむる勿れ、生活に淫する勿れ、手をして恆に高く頭上に輝やかしめ、肉身をして氷山の頂上に舞ひあがらしめよ、
ああ、香料もて夕餐の卓を薫郁せしめよ。

感傷奇蹟、絶倒せんとして視えざる氷をやぶり、疾行する狼を殺す、畜生の如きも金屬なれば閃電を怖るる事もつとも烈し、詩人よ汝の手を磨け。

感傷の權威を認めざるものは始めより詩を作らざるに如かず。

――人魚詩社宣言――


 聖餐餘録
食して後酒盃をとりて曰けるは此の酒盃は爾曹
の爲に流す我が血にして建つる所の新約なり、
―路加傳二二、二〇、

鐘鳴る。
我れの道路に菊を植ゑ、我れの道路に霜をおき、我れの道路に琥珀をしけ。
道路はめんめんたる一列供養のみち、夕日にけぶる愁ひの坂路、またその坂を昇り降らむとする聖徒勤行の路でもある。

鐘鳴る。
鐘鳴る。
エレナよ。今こそ哀しき夕餐の卓に就け。聖十字の銀にくちづけ、僧徒の列座を超え、雲雀料理の皿を超え、汝の香料をそのいますところより注げ。
ああ、いまし我の輝やく金屬の手に注げ、手は疾患し、醋蝕し、するどくいたみ針の如くになりて、觸るるところ、この酒盃をやぶり汝のくちびるをやぶるところの手だ。

ああ、いま聖者は疾患し、菊は疾患し、すべてを超えて我れの手は烈しく疾患する。
見よ、かがやく指を以て指さすの天、指を以て指さすの墳墓にもある。その甚痛のするどきこと菊のごときものはなく、菊よりしていたみを發すること疾患聖者の手のごときものはない。

愛する兄弟よ。
いまこそわが左に來れ。
汝が卓上に供ふるもの、愛餐酒盃の間、その魚の最も大なるものは正しく汝の所有である。
爾は女の足をひきかつぎることによりて、その素足に供養し流涕することによりて、爾の魚の大をなす所以である。
まことに夜陰に及び、汝が邪淫の臥床ふしどにさへ下馬札を建てるところの聖徒である。
凡そ我れの諸弟子諸信徒のうち、汝より聖なるものはなく、汝より邪慾のものはない。乞ふ、われはわれの肉を汝にあたへ、汝を給仕せんがために暫らく汝の右に坐することを許せ。
ああ、この兄弟よ、ぷうしきんの徒よ、爾は愛するユダである。我をあざむきらむとし、我を接吻せんとする一念にさへ、汝は連坐頌榮の光輪を一人負ふところの聖徒である、『愛』である。

愛する兄弟よ。
而して汝は氷海に靈魚を獲んとするところの人物である。
肉親の骨肉を負ひて道路に蹌行し、肉を以て氷を割らんとするの孝子傳奇蹟人物である。
みよ、汝が匍行するところに汝が蒼白の血痕はあり。
師走に及び、汝は恆に磨ける裸體である。汝が念念祈祷するときに、菓子の如きものの味覺を失ひ、自働電話機の如きさへ甚だしく憔悴に及ぶことあり。
汝は電線を渡りてその愛人の陰部に沒入に及ばんとし、反撥され、而して狂奔する。況んや爾がその肉親のために得るところの鯉魚は、必ずともに靈界天人の感應せる、或はその神祕を啓示するところにならざるべからず。
愛する兄弟よ、まことに師走におよび、爾は裸體にして氷上に匍匐し、手に金無垢の魚を抱きて慟哭するところの列傳孝子體である。

諸弟子。
諸信經の中、感傷品を超えて解脱あることなし。萬有の上に我れをあがめ、我れの上に爾曹のさんちまんたるを頌榮せよ。
今宵、あふぎて見るものは天井の蜂巣蝋燭、伏して見るものは女人淫行の指、皿、魚肉、雲雀、酒盃、而して我が疾患蝕金の掌と、輝やく氷雪の飾卓晶峯とあり。
みよ、更に光るそが絶頂にも花鳥をつけ。
ああ、各※(二の字点、1-2-22)の肩を超え、しめやかに薫郁するところの香料と沒藥と、音樂と夢みる香爐とあり。

諸使徒。
われと共にあるの日は恆に連坐して酒盃をあげ、交歡淫樂して一念さんちまんたりずむを頌榮せよ。
蓋し、明日炎天に於て斷食苦行するものはその新發意、道心のみ、もとより十字架にかかる所以のものは我れの涅槃に至ればなり。亞眠。
―人魚詩社信條―


光の説

光は人間にある
光は太陽にある
光は金屬にある
光は魚鳥にある
光は螢にある
光は幽靈の手にもある。

幽靈の手は鋼鐵製はがねである、鋭どくたたけばかんかと音がする。

幽靈の手は我の手だ、我の手を描くものは、幽靈の手を描くものだ。然も幽靈を見るものは尠ない。

幽靈とは幻影である、あやまちなき光の反照である。
幽靈は實在である、妄想ではない。

夢を見ないものは夢の眞實を信じない。
幽靈を見ないものは幽靈の眞實を理解しない。

光は『形』でなくて『命』である。概念でなくてリズムである。光は音波でもある、熱でもある、ええてるでもある。所詮、光は理解でなくて感知である。

光とは詩である

詩の本體はセンチメンタリズムである。

光は色の急速に旋※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)した炎燃リズムである。色には七色ある。理智、信條、道理、意志、觀念、等その他。

光の中に色がある。

光から色を分析するためには、分光機が必要である。
然もさういふ試驗は理學者にのみ必要である。(貧弱な國家には完全な分光機を持つた學者すらも居ない。)我我は光を光として感知すれば好い、何故ならば、光は既に光そのものであつて色ではない。

色は悉く概念である。

盲目は光を感知しない、――或は感知しても自ら氣がつかない――。
盲目は形ある物象以外のものを否定する。

白秋氏の詩に哲學がないと言つた人がある。無いのではない、見えないのだ。

色が色として單に配列されたものは、哲學である、科學である、思想である、小説である。
色が融熱して※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)轉を始めたときに、色と色とが混濁して或る一色となる。けれども夫れは色であるが故に尚概念である。すなはち感傷の油を差して一層の加速度を與へた場合に始めて色は消滅する。すなはち『光』が生れる、すなはち『詩』が生れる。

熱は眞實である、光は感傷である。

色が色として見えるやうなものは光でない、物體である。斷じて詩ではない。

     * * * *

螢のは戀である。
女のは淫慾である。
あらゆる生物のパツシヨンはである。けれどもあらゆるが必ずしもパツシヨンではない。

聖人の輪光は肉體をはなれて見える。

パツシヨンばかりが詩ではない。
センチメンタルばかりが詩である。
光輪も聖人の怒と哀傷とによつて輝く。

足が地上を離れんとして電光に撃たれる。自分の肢體が金粉のやうに飛散する。

月光の海に盲魚が居る。

眞實は燐だ、感傷は露だ。

光は天の一方にある、空の青明を照映するために我の額は磨かれる、一心不亂に磨きあげられる。

鵞鳥は純金の卵を生む。自分の安住する世界はいつも美しい、夢のやうに不可思議で、夢のやうに美しい。


 手の幻影

白晝或は夜間に於て幻現するところの手は必ず一個である。である。
而してそは何ぴとにも語ることを禁ぜられるところのあるものの手である。
手は突如として空間に現出する。時として壁或は樹木の幹にためいきの如き姿を幻影する。
手は歴歴として發光する。
手はしんしんとして疾患する。
手は酸蝕されたる石英の如くにして傷みもつとも烈しくなる。
手は白き金屬のごときものを以て製造され透明性を有す。
われの手より來るところの恐怖は、しばしばその手の背後に於て幽靈をさへ感知する。
微笑したるところの幻影であり、沈默せる遠きけちえんの顏面であることを明らかに知覺するとき我は卒倒せんとする。
我はつねに『先祖』を怖る。


 危險なる新光線

疾患せる植物及び動物の脊髓より發光するところの螢光又はラジウム性放射線が、如何に我我の健康に有害なるかを想へ、斯くの如き光線は人身をして糜爛せしめ、侵蝕せしめずんば止まず。新らしき人類をして悲慘なる破滅より救助せしめんがため、科學者は新らたに發見を要す。


 懺悔者の姿

懺悔するものの姿は冬に於て最も鮮明である。
暗黒の世界に於ても、彼の姿のみはくつきりと浮彫のごとく宇宙に光つて見える。
見よ、合掌せる懺悔者の背後には美麗なる極光がある。
地平を超えて永遠の闇夜が眠つて居る。
恐るべき氷山の流失がある。
見よ、祈る、懺悔の姿。
むざんや口角より血をしたたらし、合掌し、瞑目し、むざんや天上に縊れたるものの、光る松が枝に靈魂はかけられ、霜夜の空に、凍れる、凍れる。
みよ、祈る罪人の姿をば。
想へ、流失する時劫と、闇黒と、物言はざる刹那との宙宇にありて、只一人吊されたる單位の恐怖をば、光の心靈の屍體をば。
ああ、懺悔の涙、我にありて血のごとし、肢體をしぼる血のごとし。


 鼠と病人の巣
       密房通信

しだいに春がなやましくなり、病人の息づかひが苦しくなり、さうしてこの密房の天井はいちめんに鼠の巣となつてしまつた。

鼠、巣をかけ。鼠、巣をかけ。
うすぐらい天井の裏には、あの灰色の家鼠がいつぱいになつて巣をかけてしまつた。
巣がかかる、巣がかかる、ああ、天井板をはがして見れば、どこもかしこも鼠の巣にてべたいちめんである。

みよ、ひねもす、この重たい密房の扉から、私の青白い病氣の肉體が、影のやうに出入し、幽靈のやうに消滅する。

祈りをあげ、祈りをあげ、さくらはな咲けども終日いのりて出でず。
ときに私の心靈のうへを、血まみれになつた生物の尻尾が、かすめて行く。それだけをみとめる。しんに奇蹟とは一刹那の光である。

いよいよ微かになり、いよいよ細くなり、いよいよ鋭くなり、いよいよ哀しみふかくなりゆくものを、いまこそ私はしんじつ接吻する。指にふれ得ずして、指さきの纖毛に觸れうるものの感覺に、私の心靈は光をとぎ、私のせんちめんたるは錐のごとくなる。
ああ、しかし、いまは一本のかみの毛にさへ、全身の重量をささへうることの出來るまでに、あはれな病人の身體は憔悴してしまつた。

私はいまそれを知らない。
何故にこの部屋の天井が、いちめんにねずみの巣となつたかを知らない。
ただ、私は私の左の手の食指から、絹糸のやうなものが、いつもたれさがつて居るのをいつしんふらんにみつめて居る。
いちにち、瓦斯すとほぶの火は青ざめて燃えあがり、密房の壁には、しだいしだいに怖ろしいものの形容を加へてくる。
今こそ、私は祈らねばならぬ。
齒をくひしめ、くちびるを紫にしていのらねばならぬ。

ああ、ねずみ巣をかけ。密房の家根裏はまつくらになつてしまつた。
私の病氣はますます青くなり。おとろへ。
海のあなたを夢みるやうに、うらうら櫻の花が咲きそめ。
―四月三日―



 言はなければならない事

 私は子供のときからよくかういふ事を考へるくせがある。自分が若しある何等かの重大なる神罰を蒙るとか、又は氣味の惡い魔術にかかるとかして……お伽話にあるやうに……私の肉體が人間以外の動物に變形した場合の生活はどうであるかと。
 たとへば私が人氣のない寂しい森を散歩して居る中に、突然 Fairy といふやうなものが現れて私といふ人間を一疋の犬に變形してしまふ。
 私は尻尾をひきずりながら主人の家、ではない私自身の家に歸つてくる、私はいきなり懷かしい母の姿を見つけてこの恐ろしい事件の顛末を訴へようと試みる。併し、母は一疋の見知らぬ犬としか私を認めてくれない。私がいろいろな仕方で、尻尾をふつたり、吠えたり、嘗めたりするにもかかはらず母には少しも犬の意志が通じない。そのうへ私が悲鳴をあげて泣き叫ぶにもかかはらず、種種な迫害を加へた上、私を庭の外へ追ひ出してしまふ。
 世の中にこんな取り返しのつかない悲慘な出來事があらうか。犬の意志が人間に通じないと言ふことは驚くべき神の惡戲である。
 而して、もちろん、詩人としての私は魔術にかかつた犬である。

 動物が動物同士で會話するといふことは、驚くべきことである。
 犬や、猫や、蛤や、鵞鳥の類が、人間に解らないある種の奇怪な言語、又は動作をもつて、全く人間の知らない未可見の事實を語りあつて居るといふことは、眞に驚くべきことである。
 彼等は人間のもつて居ない特種の官能器官をもつて居る。そして人間の見ることの出來ない物象を見て居る。人間の聽くことの出來ない音をきいて居る。未來に生ずべき天變地異を感知して居る。そして彼等はつねにかういふ隱れたる世界の祕密について語りあつて居る。二疋以上の動物が長いあひだ向ひ合つて居るのを見るときに、私は奇怪な恐怖からまつ青になつてふるへあがる。
 どんな人間でも、彼等の言ふ言語の意味を考へる場合に戰慄せずには居られない筈である。

 私はまた、種種な動物に對して或る特種な感覺と恐怖と好奇心とを持つて居る。それで『動物心理學』や『生物哲學』のやうな書物をいつしんに研究して見た。併しそれらの書物にはなんにも書いてなかつた。私はまつ白な紙と、人間の智識の淺薄なことにつくづく退屈してしまつた。

 私は時として私の肉體の一部がしぜんに憔悴してくることを感ずる。そのとき手に觸れた物象は、みるみる針のやうに細くなり、絹糸のやうになり、しまひには肉眼で見ることもできないやうな纖毛になつてしまふ。そしてその纖毛の先から更に無數のうぶ毛が光り出し、煙のやうにかすんで見える。
 じつとそれをみつめて居るときに、私は胸のどん底から込みあげてくるところの、なんとも言ひやうのない恐ろしい哀傷をかんずる。
 私は兩手にいつぱいの力をこめて、その光る纖毛の一本をこんかぎりにつかまうとする。眼にもみえざる白い生毛に私の全神經をからみつける。そんなかすかな哀れなものに、私の總體の重力で心ゆくばかりすがりつきたいのである。

 私の神經はむぐらもちのやうにだんだん深く地面の下へもぐりこむ。不幸にして私の肢體の一部が地面の上に殘つて居るとき、不注意な園丁がきて、それを力まかせに張りとばすのである。無神經な男の眼には木の根つ株かなんかのやうに見えたのである。しかし私の張りさけるやうな苦痛の絶叫をたれ一人として聞いてくれたものは此の地上にない。

 私はいつでも孤獨である。言語に絶えた恐ろしい悲哀を私一人でじつと噛みしめて居なければならない。生きながら墓場に埋められた人の絶望の聲を地上のだれがきくことが出來るか。
 私が根かぎり精かぎり叫ぶ聲を、多くの人は空耳にしかきいてくれない。
 私の頭の上を蹈みつけて此の國の賢明な人たちが斯う言つて居る。
『詩人の寢言だ』

 此の國でいちばん眞實のある人間は詩人である。少なくとも彼等は自分の藝術を賣物にして飯を食はうなどとは夢にも思つて居ない。(實際に於てもそれは不可能だ)。
 考へても見ろ、どんな種類の人間が、肉を削るやうな苦しい思をして一文にもならない勞作をして居るか。言ふだけのことを言ひ切らねば、私は干物になつても死にきれない。

 自分の言ふ言葉の意味が、他人に解らないといふことはどんなに悲しいことであるか。自分の思想が他人に理解されないといふことは死刑以上の苦しみではないか。
 私はまいにち苦行僧のやうな辛苦を嘗めつくして居るにもかかはらず、私のもつて居るリズムの百分の一も表現することが出來ない。
 けれども萬一、私が『表現の祕訣』を握つたあかつきには、私は私の藝術を捨てることを躊躇しない。なんとなればそれ以上の藝術は、どんな人にとつても必要以上のぜいたくである。

 私の詩の生命は、創作後一時間乃至一晝夜である。少なくともその時間だけは立派に光つて見える。併しあとになつて私はいつも騙された人の憤怒と慚愧と失望とを感ぜずには居られない。私は翌月の雜誌に印刷された自分の詩篇に對し、羞恥でまつかの顏をしながら取消しを申込むものである。

 私は私の肉體と五官以外に何一つ得物をもたずに生れて來た。そのうへ私は書物といふものを馬鹿にして居る。そして何よりもきらひなことは『考へる』といふことである。(詩を作る人にとつていちばん惡い病氣は考へるといふことである。中年の人はよく考へる考へるといふことを覺えた時その人は詩を忘れてしまつたのである)。
 そこで私の方針は、耳や、口や、鼻や、眼や、皮膚全體の上から眞理を感得することになつて居る。言はば私は生れたままの素つ裸で地上に立つた人間である。官能以外に少しでも私の信頼したものはなく、感情以外に少しでも私を教育したものはなかつた。人間のつくつた學校はどこでも私を犬のやうに追ひ出した。

 五官を極度に洗練することによつて人はさまざまの奇蹟を見ることができるやうに成る。たとへば空氣色だの、音の色彩だの、密閉した箱の中にある物品だの。
 神祕と眞理と奇蹟とは三位一體である。

 眞理とは五感の上に建てられたる第六感の意義である。いやしくも五感以外の方法、たとへば考察や冥想や空想によつて神祕を感觸したと稱するものがあれば、それは詐欺師であるか狂人であるかの一つである。若しどつちでもないとすれば、救ふべからざる迷信に墮したものである。ウイリアム・ブレークの徒である。

 詩とは五官及び感情の上に立つ空間の科學である。

 五感およびその上に建てられたる第六感以外に人間の安心して信頼すべきものは一つもない。
 天に達するの正しい路は感傷の一路である。

 私は私の驚くべき神經の Tremolo から色色な奇蹟を見る。その奇蹟が私を悲しませる。私の詩はすべて私の實感から發した『肉體の現状』に關する報告である。私が言はなければならないことと言つたのは此の事である。


 握つた手の感覺

 四月十九日の朝、私は書齋の卓に額をうづめながらすすりなきをして居た。まるでお母さんのふところに抱かれた子供が、甘つたれてすすりなきをするときのやうな、なんともいへない SWEET の感傷が、私の總身をしびれるやうにふるはせたのである。しまひに私はおいおい聲まで出して泣きはじめた。『自分の罪が許された』さういふ感覺が限りもなく私を幸福にしたのである。
 母の乳房のやうにあつたかいあるもの(それを言葉で言ひ現はすことはできない)が、私の全身を抱きかかへて、そつくりどこかの樂園へ導いてゆくやうな氣がした。私は思ひきり甘つたれて泣いてゐた。私の醜い病癖や、不愉快な神經質的の惱鬱や、厭人思想や、虚僞や、下劣な高慢や、謙遜を裝うた卑屈や、賤劣極まる利己的思想や、混亂紛雜した理智の爭鬪や、畸形な、しかも醜惡を極めた性慾の祕密や、及びそれらのものの生む内面的罪惡や、凡そ私を苦しめ、私を苛責し、私を陰鬱にするところの一切のものが懺悔された。(かういふ醜惡な病癖や、異端的の思想が長い長い間、私を苦しめた事は眞に言語に絶して居る。自己を極端に憎むことから私は一切のものを憎んだ、私は何物に對しても愛をかんずることが出來なかつた、『愛』なんてものに就いては考へて見ることすらもできなかつた)。
『お前の罪が許された』この言葉が電光の如く私の心にひらめいたのは、ほんの思ひがけない一瞬時の出來事であつた。『罪が許された』といふことの悦びが、どんなに深酷なものであるかといふことは、到底、私のぶつきら棒の筆では書き現はすことは出來さうもない。ただ私はやたら無性に涙を流したばかりだ。

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