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マダム貞奴(マダムさだやっこ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/10/23 9:33:11 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

      一

 人一代の伝を委(くわ)しく残そうとすれば誰人(だれ)を伝しても一部の小冊は得られよう。ましてその閲歴は波瀾万丈(はらんばんじょう)、我国新女優の先駆者であり、泰西(たいせい)の劇団にもその名を輝かして来た、マダム貞奴(さだやっこ)を、細かに書いたらばどれほど大部(たいぶ)の人間生活の縮図が見られるであろう。あたしは暇にあかしてそうして見たかった。彼女の日常起居、生れてからの一切を聴(き)いて、それを忠実な自叙伝ふうな書き方にしてゆきたいと願った。
 けれどもそれはまた一方には至難な事でもあった。芸術の徒とはいえ、彼女は人気を一番大切にと心がけている女優であり、またあまり過去の一切をあからさまにしたくない現在であるかも知れない。彼女の過去は亡夫川上音二郎(かわかみおとじろう)と共に嘗(な)めた辛酸であった。決して恥ずかしいことでも、打明けるに躊躇(ちゅうちょ)するにもおよばぬものと思うが、女の身として、もうすでに帝都隠退興行までしてしまったあととて、何分世話になっている福沢氏への遠慮なども考慮したかも知れないが、その前にも二、三度逢(あ)ったおり言ってみたが、微笑と軽いうなずきだけで、さて何日(いつ)になっても日を定めて語ろうとした事のなかったのは、全くあの人にとっても遺憾なことであった。私は貞奴の女優隠退を表面だけ華やかなものにしないで、内容のあるものとして残しておく記念を求めたかった。そして自分勝手ではあるがわたしの一生の仕事の一つと思っている美人伝のためにも、またあの人のためにも集の一つを提供して、新女優の祖のために、特別に一冊を作りたいと思っていたが、その希望は実現されなかった。参考にしたいと思う種々の切抜き記事について、間違いはないかと聞直(ききなお)したのにも分明(はっきり)した返事は与えられなかったから、わたしは記憶を辿(たど)って書くよりほか仕方がなくなってしまった。それがため、女優第一人者を、誠意をもって誤謬(ごびゅう)なく書残しておこうとしたことが画餅(がべい)になってしまったのを、大変残りおしく思う。
 わたしの知人の一人はこういう事をいってくれた。
「花柳界には止名(とめな)というものがあって、名妓(めいぎ)の名をやたらに後のものに許さない。それだけの見識をそなえたものならば知らず、あまりよい名は――つまり名妓をだしたのを誇りにして、取っておきにする例がある。たとえば新橋でぽんた、芳町(よしちょう)で奴(やっこ)というように……」
 その芳町の名妓奴(やっこ)が貞奴であることは知らぬものもあるまい。
 奴の名は二代とも名妓がつづいた。そして二代とも芳町の「奴」で通る有名な女だった。先代の奴は、美人のほまれだけ高くて早く亡びてしまった。重い肺病であったが福地桜痴居士(ふくちおうちこじ)が死ぬまで愛して、その身も不治の病の根を受けたという事であった。後の奴が川上貞奴なのである。
 
 貞奴に逢ったのは芝居の楽屋でだった。市村座(いちむらざ)で菊五郎、吉右衛門(きちえもん)の青年俳優の一座を向うへ廻して、松居松葉(まついしょうよう)氏訳の「軍神」の一幕を出した、もう引退まえの女優生活晩年の活動時機であった。小さな花束を贈ったわたしは楽屋へ招かれていった。入口の間(ま)には桑(くわ)の鏡台をおいて、束髪(そくはつ)の芳子(よしこ)(その当時の養女、もと新橋芸者の寿福(じゅふく)――後に蒲田(かまた)の映画女優となった川田芳子)が女番頭(おんなばんとう)に帯をしめてもらって、帰り仕度をしているところであった。八畳の部屋が狭いほど、花束や花輪や、贈りものが飾ってあって、腰の低い、四条派ふうの金屏風(きんびょうぶ)を廻(めぐ)らした中に、鏡台、化粧品置台(おきだい)、丸火鉢(まるひばち)などを、後や左右にして、くるりとこっちへ向直(むきなお)った貞奴は、あの一流のつんと前髪を突上げた束髪で、キチンと着物を着て、金の光る丸帯を幅広く結んだ姿であった。顔は頬(ほお)がこけて顎(あご)のやや角ばっているのが目に立ったが、眼は美しかった。
 とはいえ当年の面影はなく、つい少時前(すこしまえ)舞台で見た艶麗優雅さは、衣装や鬘(かつら)とともに取片附けられてしまって、やや権高(けんだか)い令夫人ぶりであった。この女にはこういう一面があるのだなと、わたしはちょっと気持ちがハグらかされた。
 わたしはそのほかに貞奴の外出姿を幾度も見かけた。多くは黒紋附きの羽織をきているが、彼女はやっぱり異国的(エキゾチック)のおつくりの方が遥(はる)かに美しかった。ある時国府津(こうず)行の一等車に乗ったおりは純白なショールを深々と豊かにかけていたのが顔を引立(ひきたて)て見せた。内幸町(うちさいわいちょう)で見かけた時は腕車(くるま)の膝(ひざ)かけの上まで、長い緑色のを垂(た)らしてかけていたが、それも大層落附いていた。
 二度目に新富座(しんとみざ)へ招かれていった時に、俳優としてあけっぱなしの彼女に、はじめて逢ったのであった。そのおりは、新派の喜多村(きたむら)と一座をしていた。喜多村は泉鏡花氏作「滝(たき)の白糸(しらいと)」の、白糸という水芸(みずげい)の太夫(たゆう)になっていた。貞奴はその妹分の優しい、初々(ういうい)しい大丸髷(おおまるまげ)の若いお嫁さんの役で、可憐(かれん)な、本当に素(す)の貞奴の、廿代(はたちだい)を思わせる面差(おもざ)しをしていた。そのおりの中幕(なかまく)に、喜多村が新しい演出ぶりを試みた、たしか『白樺(しらかば)』掲載の、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)氏の一幕ものであったかと思う。殿様が恋慕(れんぼ)していた腰元(こしもと)が不義をして、対手(あいて)の若侍と並んで刑に処せられようとする三角恋愛に、悪びれずにお手打ちになろうとする女と、助かりたさと恐怖に、目の眩(くら)んでいる若侍と、一種独特な人世観を持った殿様とが登場する狂言で、殿様が喜多村緑郎(ろくろう)、若侍が花柳章太郎(はなやぎしょうたろう)、貞奴が腰元であった。腰元は振袖(ふりそで)の白無垢(しろむく)の裾(すそ)をひいて、水浅黄(みずあさぎ)ちりめんの扱帯(しごき)を前にたらして、縄にかかって、島田の鬘(かつら)を重そうに首を垂れていた。しかしその腰元の歩みぶりや、すべての挙止が、あまりにきかぬ気の貞奴まるだしであったのが物足りなかった。何故オフィリヤやデスデモナやトスカや、悄々(しおしお)と敵将の前へ身を投(なげ)出すヴァンナの、あの幽雅なものごしと可憐さを、自分の生れた国の女性に現せないのだろう、異国の女性に扮するときはあれほど自信のある演出するのにと思った。その幕がおわってから楽屋へ訪れたのであった。
 卓にお膳立(ぜんだて)が出来ていて、空席になっているところがわたしのために設けられた場所であった。貞奴は鏡台をうしろにして中央にいた。すぐそのとなりに福沢さんがいた。御馳走(ごちそう)の充分なのに干魚(ひもの)がなければ食べられないといって次の間で焼かせたりした。わたしは(ああこれだな、時折舞台が御殿のような場で楽屋の方から干魚(ひもの)の匂(にお)いがして来て、現実暴露というほどでもないが興味をさまさせるのは――)などと思っていた。福沢さんがお茶づけが食べたいというと、女茶碗(おんなぢゃわん)のかわいいのへ盛って、象牙(ぞうげ)の箸(はし)をそえてもたせた。新富座の楽屋うらは河岸(かし)の方へかけて意気な住居(すまい)が多いので物売りの声がよくきこえた。すると貞奴は、
「早くあの豌豆(えんどう)を買って頂(ちょう)だい、塩煎(いり)よ。」
と注文した。福沢さんがあんなものをといったが、あたしは大好きなのだからと買わせて食べながら「これは柔らかいからおいしくない」といって笑った。
 そうした様子がから駄々(だだ)っ子で、あの西洋にまで貞奴の名を轟(とどろ)かして来た人とは思われないまで他(た)あいがなかった。飯事(ままごと)のように暮している新夫婦か、まだ夢のような恋をたのしんでいる情人同士のようであった。貞奴の声は柔かくあまく響いていた。
「昨日(きのう)はね、痩(やせ)っぽちって怒鳴られたのですよ。この間はね、福桃(ふくもも)さん、あんなに痩せたよ――ですって……」
 彼女は煙草(タバコ)をくゆらしながらおかしそうに笑った。そう言われないでも気がついていたが、彼女の体はほんとに痛々しいほど痩(や)つれていた。肩の骨もあらわならば、手足なぞはほんとに細かった。その割に顔は痩せが目にたたない、ふくみ綿をするとすっかり昔の面影になる。
(ああ、あの眼が千両なのだ)
 あの眼が光彩をはなつうちは楚々(そそ)たる佳人になって永久に彼女は若いと眺められた。福沢粋士にせよこの人にもせよ、見えすいた、そんな遊戯気分を繰返すのは、醒(さ)めた心には随分さびしいであろうが、それを嬉(うれ)しそうにしている貞奴をわたしは貞淑なものだと思った。彼女は荒い柄のお召(めし)のドテラに浴衣(ゆかた)を重ね、博多(はかた)の男帯をくるくると巻きつけ、髪は楽屋銀杏(いちょう)にひっつめていた。そうしたおりの顔は夫人姿の時よりもずっと趣があって懐しみがあった。喜多村が旅行(たびゆ)きの役(やく)のことで、白糸の後の幕の扮装のままでくると、手軽に飲みこみよく話をはこんでいた。
「とても僕たちにはあれだけは分らない。意味の通じないことを二言三言いって、そのままで別れて幾日か立つと舞台で逢うのだ。それがちゃんと具合よくいってるのだから分らない。」
 福沢さんが、他(ほか)の人とそんなことを話合っているのを聴き残して、わたしはまた以前(もと)の見物席の方へかえって来た。暫(しばら)くするとドカドカと二、三人の人が、入りのすくない土間(どま)の、私のすぐ後へ来た様子だったが、その折は貞奴の出場(でば)になっていた。
「ねえ、僕が川上の世話を焼きすぎるといって心配したり、かれこれいうものがあるけれど、男は女に惚(ほ)れているに限ると思うのです。」
 そういう特種(とくしゅ)の社会哲学を、誰(たれ)が誰に語っているのかと思えば、聴手(ききて)には後(うしろ)に耳のないわたしへで、語りかけるのは福沢氏だった。わたしは微笑(わらい)を含(か)みながら真面目(まじめ)になって、そのくせ後へはむきもせずに耳をすましていた。
「これが男に惚れこんでごらんなさい。なかなか大変なことになる。印形(いんぎょう)も要(い)る。名誉もかけなければならない。万が一のときは、俺(おれ)は見そこなったのだなんていう事は逃口上(にげこうじょう)にしかならない。一たん惚れたら全部でなければならないから――其処(そこ)へゆくと女の望みは知れています。ダイヤモンド、着物、おつきあい、その上で家を買うぐらいなものだから。」
 わたしはなるほどと思った。事業家の恋愛は妙な原則があるものだと感じた。しかし私はまるであべこべなことを感じたのであった。男同士が人物を見込んでの関係は――単に商才や手腕に惚れ込んだのは、どん底にぶつかったところが――自今(いま)の世相から見て、生命(いのち)をかけたいわゆる男の、武士道的な誓約のある事を、寡聞(かぶん)にして知らないから――物質と社会上の位置とを失えば、あるいは低めれば済(す)むのである。男女の愛情はそうはゆかない。譬(たと)い表面は何事もなかったおりは、あるいはダイヤモンド、おつきあい、着物、家ぐらいですむかも知れないが、それは悲しい真に貧乏(プーア)な恋愛で、そんな水準(レベル)におかれた恋愛で満足している男女がありとすれば、実にお気の毒なものといわなければならない。わたしは言う、感情、感覚、全精神を打込んだ男女恋愛のどん底は魂の交感であり、命の掴(つか)みあいである。死と生が其処(そこ)にあるばかりで何物をもまじえることの出来ない絶対のものであらねばならぬ。
(けれどこの人は、愛するものにとはいわなかった。惚れたという普通軽く言いはなされる言葉をつかった。そこに用意があるのかも知れない。)
 と思うとまた貞奴の、先刻の褪(さ)めきっていて陶酔しているようなとりなしが目に浮んだ。
 では白熱時代の貞奴は?
 わたしは急がずに書いてゆこう。四、五年前に京都から来て内幸町の貞奴の家へ草鞋(わらじ)をぬいだ、祇園(ぎおん)のある老妓はこう言ったことがある。
「芝居から帰ると二階へあがって、寝る前に白葡萄酒(ぶどうしゅ)をあがるのえ、わたしもお相伴(しょうばん)するわ。それから寝るまで話をします。けれど、川上さんのお位牌(いはい)には私が毎日拝んでおいてあげます。お貞さん香華(こうげ)もあげやせん。あの人は強い人で、しまいには川上さんとも仲がようのうて、あっちの室(へや)とこっちの室とに別れて、財産も別だったような――」
 この老妓の談話は賤(いや)しかった。香華を手向(たむ)けないゆえ不貞だというようにもきこえたが、あれほど立派に川上の意志をついでいれば、それをこそ川上は悦んでよいのである。仲がよくなくなったといわれた亡夫の意志を、何処(どこ)までも続(つ)いで名声を持してゆこうとするのには、どれ位人知れぬ苦労があったか知れはしない。あの勝気な松井須磨子が、人気のある盛りの身で、一人になれば、猶更(なおさら)自由でありそうなものに思われてさえ、先生抱月(ほうげつ)氏に別れては、楯(たて)なしでは突進も出来なかったではないか。それをもう衰運であり、他に彼女を引立てて、一座の明星(プリマドンナ)と輝かせ得るほどの対手(あいて)かたをもっていなかった彼女が、貞奴の名を忘れないものにさせるのにどんな気苦労をしたか――老妓は金銭問題のことを言ったが、多年、川上のためには、彼女は全身を投(なげ)出して来た人である。僅少(わずか)の貯蓄(たくわえ)で夫妻が冷たくなろうとは思われる理由がない。老妓の推測は自分だけの心にしかわからなかったのであろう。老妓の目に夫妻の金銭問題と見えたのは、事業と一家の経済との区別をたてたのを悪くとったのではあるまいか? 彼女も女である。ことに気は剛でも身体(からだ)は繊弱(かよわ)い。心の労(つか)れに撓(う)むこともあったであろう。そういうおり夫の果しもない事業慾に――それもありふれた事をきらう大懸(おおがか)りの仕事に、何もかも投じてしまう癖(くせ)のあるのを知って、せめて後顧(こうこ)の憂(うれ)いのないようにと考えたのではなかろうか。それはあの勝気な女性にも、長い間の辛労を、艱難(かんなん)困苦を思出すと、もう欠乏には堪えられそうもないと思うような、彼女の年が用意をさせたのでもあろうか――
 川上が亡(なく)なるすこし前の事であった。貞奴夫婦を箱根で見かけた時は、貞奴は浴衣がけで宮の下から塔の沢まで来た。その折など決して彼女が、自分の財袋(たくわえ)だけ重くしている人とは見られなかった。彼女は夫のためにはいかにも真率(しんそつ)で、赤裸々でつくしていたと、わたしは思っている。我儘(わがまま)で自我のつよい芸術家同士は、ときに反感の眼をむいて睨(にら)みあったことがあったかも知れない、あるいは川上の晩年には互いの心に反(そ)りが出て、そういう日が多かったかも知れない。けれどもわたしは貞奴を貞婦だと思う。
 気性もの、意地で突っ張ってゆく、何処までも弱い涙を見せまいとする女――そういう人に貞奴も生れついているようだ。そうした生れだちのものは損なのは知れている。女性は気弱く見える方が強靭(きょうじん)だ。しっかりと自分だけを保護して、そして比較的安全に他人の影にかくれて根強く棲息(せいそく)する。強気のものは我に頼んで、力の折れやすいのを量(はか)らずに一気に事を為(な)し遂げようとする。ことに義侠心と同情心の強いものがより多く一本気で向う見ずである。
 わたしは自分の気質からおして、何でもかでもそうだと貞奴をこの鋳型(いがた)に嵌(は)めようとするのではないが、彼女も正直な負けずぎらいであったろうと思っている。そしてそういう気質のものが胸算用をしいしい川上を助けたとはどうしても思われない。彼女は強い、それこそ、身を炎にしてしまいそうな自分自身の信仰を傾け尽して、そこに幾分かの好奇心を交えて、夫川上の事業を助けたのであろう。そこにはまた、彼女の生れた血が、伝統的義侠と物好(ものずき)な江戸人の特色を多く含んでいた事や、気負い肌(はだ)の養母に育てられた事や、芝居と小説の架空人物に自らをよそえた、偽りの生活を享楽している中に住んで、不安もなく、むしろ面白おかしく日を送っていた若き日のことであるゆえ、彼女は自分というものの力が、夫にとって、そのまた新らしい事業にとって、どれほど有力なものであるかと知ったときに、全く献身的な、多少冷静に考えるものには、無鉄砲な遊戯と見えるほどな冒険も敢(あえ)てしたのであろう。そうした人が金銭のことから他人がましくなろうはずはない。もしなったとすれば、それは夫妻の内部から破綻(はたん)が、表面にまで及ぼしてきて、物質関係まで他人がましくなったのだと思わなければならない。その折はすでに愛情は冷却して、そのくせ女の方は、あまり高価な、かけがえのない犠牲を払って来た若き日の、あの尊(とう)とかりし我熱情の、徒(いたず)らに消耗された事を思い嘆くあまりの、焦燥から来た我執とみなければなるまい。
 けれど、もし仮にそうであったとすれば貞奴の思違いであった。彼女は夫を助けたのであろう。夫のために犠牲として、夫の事業の傀儡(かいらい)となったのであろう。けれどそれは最初のことで、運命は転換した。演劇に新派を建立し、飜訳劇に彼地の風俗人情、思想をいちはやく紹介した川上の事業はとにかく成功した。かげでこそオッペケペなぞと旗上げ当時を回想して揶揄(やゆ)するものもあったが、演劇界に新たな一線を劃(かく)すだけのことを川上はやり通した。そして、それと同時に、川上の成功に比して劣らぬ地歩を貞奴もしめたのである。艱難(かんなん)に堪え得た彼女の体が生みだした成功と名誉である。けれど、けれど、けれど、其処に川上という具眼者がなくて彼女の今日があったであろうか。
 いえ、それは誰れよりもよく、当の貞奴が知っている。彼女は一も川上、二も川上と、夫を立てていた。負けぬ気の彼女も川上には心服していた。それはどのような英雄、豪傑にも裏はある。美点も弱点も、妻と夫ほど知り尽すものがあろうか。瓦(かわら)を珠(たま)とおもう愚者でないかぎり、他人には傑(えら)い夫も、妻は物足らぬ底(そこ)を知るものだ。貞奴と川上との間だけがそれらの外とはいえない。それですら貞奴は夫を傑いと思っていた。一面には罵(ののし)りながら、一面には敬していたに相違ない。
 罵るとは? 心中に軽蔑(けいべつ)していたことである。彼女にはともすれば拭(ぬぐ)われがたい汚辱を感じることがあるであろう。夫が無暴(むぼう)な渡航を思立って、見も知らぬ外国へ渡り窮乏したおりのことである。また一座十九人に、食物も与えられなかったおりのことである。雪のモスクワで――さまよいあかした亜米利加(アメリカ)で――彼女が身を投捨て人々の急を救ったといわれている。それは彼女にも苦痛な思出であったであろう。それかあらぬか噂(うわさ)には、折々川上が貞奴に辱(はずか)しめられていたこともあるといわれた。
 敬さなければならない第一は、いうまでもなく彼女が女優として舞台生活をする第一歩を与え導かれたことである。彼女の夫が彼女を舞台にたたせたのは、他(ほか)の必要から来た――あるいは人気取り策であったかも知れなかった。けれど、その当否はともかくとして、我国の、新女優の先駆者としては、此後(こんご)どれほどの名女優が出ようとも、川上貞奴に先覚者の栄冠はさずけなければなるまい。技芸はどうでも、顔のよしあしは如何(どう)でも、ただそれだけでも残り止(とど)まる名であるのに、何という運のよいことか、貞奴は美貌(びぼう)であり、舞台も忽(おろそ)かでない。彼女は第二の出雲(いずも)のお国であって、お国より世界的の女優となった。
 人はあるいは時勢がそうさせたのだというかも知れない。なるほど彼女は幸運な時に出たのである。とはいえ世人の要求よりはずっと早く彼女は生れ、そして思いがけぬ地歩を占めている。松井須磨子の名は先輩の彼女より名高く人気があるように思われたが、とても貞奴の盛時の素晴しかったのには及ばない。悲しくも年を取るという事が何よりも争われない人気の消長であるのと、よい指導者を持ったと、持たないとの懸隔(かけへだて)が、あの粗野な、とても優雅な感情の持主にはなれない、女酋長(おんなしゅうちょう)のような須磨子を劇界の女王、明星(プリマドンナ)とした。貞奴に学問はなくとも、もすこし時代の潮流を見るの明(めい)があったならば、何処までも彼女は中央劇壇の主星(スター)であったであろう。創作力のない彼女は、川上歿後(ぼつご)も彼れによって纏(まと)めてもらった俳優の資格を保守するに過ぎなかったが、時流はグングンと急激に変っていった。彼女は端の方へ押流され片寄せられてしまって、早くも引退を名にした興行で地方を廻らなければならないようにされてしまった。時代の要求は女優を必要とし、多くの急造女優は消えたり出たりしている。帝劇が十年の月日のうちに候補者を絶えず補充しながらも、律子、嘉久子、浪子の第一期生のうちの幾人かを収穫したにすぎず、あとはまだ未知数になっている。その他の劇団では何もかもたった一人の須磨子を死なせてしまっては、もうあとは語るにも足りぬ有様となってしまった。
 そんなであるに、もう貞奴は忘れられたものになっている。彼女はもうお婆さんであるから人気をひかないというような、当事者の思いあまりからばかり、彼女が圏外に跳退(はねの)けられたのではなく、若いおり聡明(そうめい)であった彼女の頭が、すこし頑迷(がんめい)になったためではあるまいか、若いうちは皮相な芸でも突きこんでゆこうとする勇気があった。後にはただ繰返しにすぎないものとなって、すこしの進境もなく、理解のともなわぬ、ただお芝居をするだけになった芸道の堕落のためだと思う。そうした真価の暴露されたのは、川上を失ったためであるといって好いであろう。
 川上とて、いまも生きて舞台に立っていたならば、新派創造時代の雑駁(ざっぱく)な面影をとどめていて、むしろ恥多き晩年であったかもしれない。しかし彼れが動かずに、いつまでも自分に固定していようとは思われない。一層彼れは黒幕になって画策したことであろう。彼れはきっと女優全盛期に向っている機運をはずさず、貞奴をもっと高める工夫をこらしたに違いない。
 それとても、彼女が願うように――いま福沢さんが後援しているように――表面だけ賑(にぎや)かしの興行政策をとったかも知れない、貞奴自身の望みとあれば……
 貞奴に惜しむのは功なり名遂げてという念をおこさずに、何処までも芸術と討死(うちじに)の覚悟のなかった事である。努力が足りなかったと思う。わたしのいう努力とは、勢力運動のことではない。教養の事である。新時代に適するように頭を作る必要であった。そしたらいま彼女はどんな位置にいられたろう。芸術に年齢(とし)のあるはずはない。

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