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にごりえ(にごりえ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-25 9:24:25 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


       七

 思ひ出したとて今更に何うなる物ぞ、忘れて仕舞へ諦めて仕舞へと思案は極めながら、去年の盆には揃ひの浴衣をこしらへて二人一處に藏前へ參詣したる事なんど思ふともなく胸へうかびて、盆に入りては仕事に出る張もなく、お前さん夫れではならぬぞへと諫め立てる女房の詞も耳うるさく、エヽ何も言ふな默つて居ろとて横になるを、默つて居ては此日が過されませぬ、身體がわるくば藥も呑むがよし、御醫者にかゝるも仕方がなけれど、お前の病ひは夫れではなしに氣さへ持直せば何處に惡い處があろう、少しは正氣になつて勉強をして下されといふ、いつでも同じ事は耳にたこが出來て氣の藥にはならぬ、酒でも買て來てくれ氣まぎれに呑んで見やうと言ふ、お前さん其お酒が買へるほどなら嫌やとお言ひなさるを無理に仕事に出て下されとは頼みませぬ、私が内職とて朝から夜にかけて十五錢が關の山、親子三人口おも湯も滿足には呑まれぬ中で酒を買へとは能く能くお前無茶助むちやすけになりなさんした、お盆だといふに昨日らも小僧には白玉一つこしらへても喰べさせず、お精靈さまのお店かざりも拵へくれねば御燈明一つで御先祖樣へお詫びを申て居るも誰れが仕業だとお思ひなさる、お前が阿房あはうを盡してお力づらめに釣られたから起つた事、いふては惡るけれどお前は親不孝子不孝、少しはの子の行末をも思ふて眞人間になつて下され、御酒を呑で氣を晴らすは一時、眞から改心して下さらねば心元なく思はれますとて女房打なげくに、返事はなくて吐息折々に太く身動きもせず仰向ふしたる心根のつらさ、其身になつてもお力が事の忘れられぬか、十年つれそふて子供まで儲けし我れに心かぎりの辛苦くらうをさせて、子には襤褸ぼろを下げさせ家とては二疊一間の此樣な犬小屋、世間一體から馬鹿にされて別物にされて、よしや春秋の彼岸が來ればとて、隣近處に牡丹もち團子と配り歩く中を源七が家へは遣らぬが能い、返禮が氣の毒なとて、心切しんせつかは知らねど十軒長屋の一軒は除け物、男は外出そとでがちなればいさゝか心に懸るまじけれど女心には遣る瀬のなきほど切なく悲しく、おのづと肩身せばまりて朝夕の挨拶も人の目色を見るやうなる情なき思ひもするを、其れをば思はで我が情婦こひの上ばかりを思ひつゞけ、無情つれなき人の心の底が夫れほどまでに戀しいか、晝も夢に見て獨言にいふ情なさ、女房の事も子の事も忘れはてゝお力一人に命をも遣る心か、あさましい口惜しい愁らい人と思ふに中々言葉は出ずして恨みの露を眼の中にふくみぬ。
 物いはねば狹き家の内も何となくうら淋しく、くれゆく空のたどたどしきに裏屋はまして薄暗く、燈火あかりをつけて蚊遣りふすべて、お初は心細く戸の外をながむれば、いそ/\と歸り來る太吉郎の姿、何やらん大袋を兩手に抱へて母さん母さんこれを貰つて來たと莞爾につことして驅け込むに、見れば新開の日の出やがかすていら、おや此樣な好いお菓子を誰れに貰つて來た、よくお禮を言つたかと問へば、あゝ能くお辭儀をして貰つて來た、これは菊の井の鬼姉さんが呉れたのと言ふ、母は顏色かへて圖太い奴めが是れほどの淵に投げ込んで未だいぢめ方が足りぬと思ふか、現在の子を使ひに父さんの心を動かしによこし居る、何といふて遣したと言へば、表通りの賑やかな處に遊んで居たらば何處のか伯父さんと一處に來て、菓子を買つてやるから一處にお出といつて、おいらは入らぬと言つたけれど抱いて行つて買つて呉れた、喰べては惡いかへと流石に母の心をはかりかね、顏をのぞいて猶豫するに、あゝ年がゆかぬとて何たら譯の分らぬ子ぞ、あの姉さんは鬼ではないか、父さんを怠惰者なまけものにした鬼ではないか、お前の衣類べゞのなくなつたも、お前の家のなくなつたも皆あの鬼めがした仕事、くらひついても飽き足らぬ惡魔にお菓子を貰つた喰べても能いかと聞くだけが情ない、汚いむさい此樣な菓子、家へ置くのも腹がたつ、捨て仕舞な、捨てお仕舞、お前は惜しくて捨てられないか、馬鹿野郎めと罵りながら袋をつかんで裏の空地へ投出せば、紙は破れて轉び出る菓子の、竹のあら垣打こえて溝の中にも落込むめり、源七はむくりと起きてお初と一聲大きくいふに何か御用かよ、尻目にかけて振むかふともせぬ横顏を睨んで、能い加減に人を馬鹿にしろ、默つて居れば能い事にして惡口雜言は何の事だ、知人しつたひとなら菓子位子供にくれるに不思議もなく、貰ふたとて何が惡い、馬鹿野郎呼はりは太吉をかこつけにれへの當こすり、子に向つて父親の讒訴ざんそをいふ女房氣質かたぎを誰れが教へた、お力が鬼なら手前は魔王、商賣人のだましは知れて居れど、妻たる身の不貞腐れをいふて濟むと思ふか、土方をせうが車を引かうが亭主は亭主の權がある、氣に入らぬ奴を家には置かぬ、何處へなりとも出てゆけ、出てゆけ、面白くもない女郎めらうめと叱りつけられて、夫れはお前無理だ、邪推が過る、何しにお前に當つけよう、この子が餘り分らぬと、お力の仕方が憎くらしさに思ひあまつて言つた事を、とツこに取つて出てゆけとまではむごう御座んす、家の爲をおもへばこそ氣に入らぬ事を言ひもする、家を出るほどなら此樣な貧乏世帶の苦勞をば忍んでは居ませぬと泣くに貧乏世帶に飽きがきたなら勝手に何處なり行つて貰はう、手前が居ぬからとて乞食にもなるまじく太吉が手足の延ばされぬ事はなし、明けても暮れてもれが店おろしかお力への妬み、つくづく聞き飽きてもう厭やに成つた、貴樣が出ずばどちら道同じ事をしくもない九尺二間、我れが小僧を連れて出やう、さうならば十分に我鳴り立る都合もよからう、さあ貴樣が行くか、我れが出ようかと烈しく言はれて、お前はそんなら眞實ほんとうに私を離縁する心かへ、知れた事よといつもの源七にはあらざりき。
 お初は口惜しく悲しく情なく、口も利かれぬほど込上るなみだを呑込んで、これは私が惡う御座んした、堪忍をして下され、お力が親切で志して呉れたものを捨て仕舞つたは重々惡う御座いました、成程お力を鬼といふたから私は魔王で御座んせう、モウいひませぬ、モウいひませぬ、決してお力の事につきて此後とやかく言ひませず、陰の噂しますまい故離縁だけは堪忍して下され、改めて言ふまでは無けれど私には親もなし兄弟もなし、差配の伯父さんを仲人なり里なりに立てゝ來た者なれば、離縁されての行き處とてはありませぬ、何うぞ堪忍して置いて下され、私は憎くかろうと此子に免じて置いて下され、謝りますとて手を突いて泣けども、イヤ何うしても置かれぬとて其後は物言はず壁に向ひてお初が言葉は耳に入らぬ體、これほど邪慳の人ではなかりしをと女房あきれて、女に魂を奪はるれば是れほどまでも淺ましくなる物か、女房が歎きは更なり、遂ひには可愛き子をも餓へ死させるかも知れぬ人、今詫びたからとて甲斐はなしと覺悟して、太吉、太吉と傍へ呼んで、お前は父さんの傍と母さんと何處どちらが好い、言ふて見ろと言はれて、我らはお父さんは嫌い、何にも買つて呉れない物と眞正直をいふに、そんなら母さんの行く處へ何處へも一處に行く氣かへ、あゝ行くともとて何とも思はぬ樣子に、お前さんお聞きか、太吉は私につくといひまする男の子なればお前も欲しからうけれど此子はお前の手には置かれぬ、何處までも私が貰つて連れて行きます、よう御座んすか貰ひまするといふに、勝手にしろ、子も何も入らぬ、連れて行きたくば何處へでも連れて行け、家も道具も何も入らぬ、何うなりともしろとて寐轉びしまゝ振向んともせぬに、何の家も道具も無い癖に勝手にしろもないもの、これから身一つになつて仕たいまゝの道樂なり何なりお盡しなされ、最ういくら此子を欲しいと言つても返す事では御座んせぬぞ、返しはしませぬぞと念を押して、押入れ探ぐつて何やらの小風呂敷取出し、これは此子の寐間着の袷、はらがけと三尺だけ貰つて行まする、御酒の上といふでもなければ、醒めての思案もありますまいけれど、よく考へて見て下され、たとへ何のやうな貧苦の中でも二人そろつて育てる子は長者の暮しといひまする、別れれば片親、何につけても不憫なは此子とお思ひなさらぬか、あゝはらわたが腐た人は子の可愛さも分りはすまい、もうお別れ申ますと風呂敷さげて表へ出れば早くゆけ/\とて呼かへしては呉れざりし。

       八

 魂祭たままつり過ぎて幾日、まだ盆提燈のかげ薄淋しき頃、新開の町を出し棺二つあり、一つはかごにて一つはさし擔ぎにて、駕は菊の井の隱居處よりしのびやかに出ぬ、大路に見る人のひそめくを聞けば、彼の子もとんだ運のわるい詰らぬ奴に見込れて可愛さうな事をしたといへば、イヤあれは得心づくだと言ひまする、あの日の夕暮、お寺の山で二人立ばなしをして居たといふ確かな證人もござります、女も逆上のぼせて居た男の事なれば義理にせまつて遣つたので御坐ろといふもあり、何のあの阿魔が義理はりを知らうぞ湯屋の歸りに男に逢ふたれば、流石に振はなして逃る事もならず、一處に歩いて話しはしても居たらうなれど、切られたは後袈裟うしろげさ頬先ほゝさきのかすり疵、頸筋の突疵など色々あれども、たしかに逃げる處を遣られたに相違ない、引かへて男は美事な切腹、蒲團やの時代から左のみの男と思はなんだがあれこそは死花しにばな、ゑらさうに見えたといふ、何にしろ菊の井は大損であらう、彼の子には結構な旦那がついた筈、取にがしては殘念であらうと人の愁ひを串談に思ふものもあり、諸説みだれて取止めたる事なけれど、恨は長し人魂ひとだまか何かしらず筋を引く光り物のお寺の山といふ小高き處より、折ふし飛べるを見し者ありと傳へぬ。

(明治二十八年九月「文藝倶樂部」)





底本:「日本現代文學全集 10 樋口一葉集」講談社
   1962(昭和37)年11月19日第1刷発行
   1969(昭和44)年10月1日第5刷発行
※底本中で「裕衣」と「浴衣」、「茶碗」と「茶椀」の混在が見られますが、底本通りとしました。
入力:青空文庫
校正:米田進、小林繁雄
1997年10月15日公開
2004年3月18日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
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