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鱗雲(うろこぐも)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-26 8:50:03 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


「こわくはないだらう!」
「あゝ。」と私は点頭いた。
「さうだ、もつと体を前にのめらせて! 帆になつては駄目よ。……馬場まで行くのよ。」
「大丈夫かい? 日が暮れやしないのか。」と私は、声色だけは威厳を含めて呟いた。
「普段はもつと遅く出掛けるのよ。夕御飯の仕度が出来た頃に、一寸と妾は紛らせて。」
 冬子が知らない頃に凧上げの場所だつた盆地が、その頃は競馬場に変つてゐた。馬場に来ると大概私は、自分から降りて見物者になるのが例だつた。
 冬子を乗せた彼女は、裸馬のやうに自らスタートを切つた。冬子は、小さな白い顔をぴつたりと馬の首側に吸ひつけて、振動に一微の抵抗も示さず、肢体をその背に沈めてゐるので、夕靄が低く垂れこめてゐる時刻の為もあつたらうが、眼前をよぎられても私は乗手の姿を認めることが出来なかつた。放たれた馬が気儘に狂奔してゐるとより他は見えなかつた。
 たゞ私は、真向きに馬に面した刹那々々に、鬣の蔭に異状な鋭さを放つて靄を突き射してゐる二つの眼球を視た。馬を見失つて、光る視線に射られた。
「馬乗りなんて頼まないで、冬ちやんが出たつて平気だね。」と私は、何よりもあの眼から圧迫を感じて、言葉を代へて感嘆した。
「それア。」
 彼女は当然のことのやうに聞き流した。――「だけどお父さん達は妾がこれの傍に寄つたこともないだらうと思つてゐるのよ。叱られたつて怖くもないんだが、妾何だかそれが面白くつてワザとかくれて、これと遊んでゐるのさ。競馬の前になると、いろんな奴が集つて大騒ぎで練習をするんだが、妾程うまくやれる奴は一人も居ないわ、それを妾は知らん振りをして遠くから眺めてゐるのが、何だか好きで――」
 私は一寸と反感も覚えたが、そんな事を云つてゐる冬子の様子に得意気らしいところも見えず、嘲笑の色もなく、寧ろ寂し気な気合さへ感じられたり、その上私は彼女に安らかな依頼心が起きて、変な夢心地に陥ちてしまふのであつた。――戛々かつ/\と鳴る蹄の音を、私は和やかな自分の鼓動のやうに感じながら、もう殆んど暮れかゝつてゐる野路を駈けてゐた。行きがけと違つて自分も一個の騎手になつてゐるかのやうな面白さに打たれ、背後に冬子が居ることも忘れて、有頂天で手綱を振つた。
「お父さんは何時々分いつじぶんから競馬に凝り出したんだらう。死ぬまで妾達は気が附かなかつたが、馬の為だけでもあらまし吾家の財産は借金に代つてゐたらしいのよ」
「…………」
 凧以来であることを私は伝へ聞いたことがある。今私の胸には、あの主人が凧を追ひかけて行つた時の二つのえた眼だけが烙印になつて残つてゐるのだ。私は、主人の肖像画の後を追ひかけてゐた。
「馬鹿々々しい熱情家さ。何かしら変な目的を拵えて、それに夢中になつて、慌てゝ死んだやうなものね。……癪に触つたから妾、肖像画も懸け換へてしまつたのよ。」
「あの肖像画を見せてお呉れ!」
「厭アよ、そんな大きな声を出して!」
「何処にしまつてあるの?」
「兄さんが売つてしまつたわよ、無理におしつけて、叔父さんに。」
「叔父さんに※(疑問符感嘆符、1-8-77)
「学生時分に妾が行つてゐたことがあるでせう、英語の勉強とかに……横浜の――。此頃、外交官になつて、変な国に行つてゐる。」
「俺、俺……僕は、知らない、そんな叔父さんなんか! あゝ、それは、ほんとに……」
「兄弟の肖像だから買つたといふわけぢやないんだわ、屹度! あの見得坊が、あんな変梃な姿の絵なんぞを若し人にでも訊かれて、ハイこれは私の兄であります、なんて吹聴出来る筈はない、吾々の故郷では当時斯様な姿をしてゐたものです、それ位ひの愛嬌で、ほんの標本にされてゐるだけなんだ。」
「…………」反抗心をそゝられて私は、屹つと唇を噛んだ。
「ハヽヽヽヽ、さう思ふと、一寸と気の毒な気もする。あの保守的な親父が変な国の応接間かなんかの曝し物になつてゐるかと思ふと――」
「……君の、ものゝ云ひ振りの方が寧ろ怪しからんよ。」
「チエツ!」と冬子は、鋭く舌を鳴した。私は、ギヨツとして彼女の顔を見直したが、其処には、私の存在の気合もなかつた。彼女が何に向つて舌を鳴したのか私には、計り知れなかつた。彼女は、終始変りのない眼ばたきの少い眼を、ゆつたりと視張つてゐるばかりだつた。
「僕こそ、あの肖像画が欲しかつたんだがな――」
 私達は、別々な想ひに煙つたまゝ対坐してゐるのだ。彼女が呟く言葉は自身に取つては末梢的なものに過ぎないやうだつた。――たゞ、顔を見合せてゐるばかりだつた。
「売る奴も馬鹿なんだけれど、もう半分自暴にもなつてゐるらしい、兄さんは――」
 彼女は、近頃の青野の愚かし気な動静を語つたり、また彼等兄妹が旧知の人々から如何な風に取り扱はれてゐるかといふことも告げた。気狂ひ兄妹だと云つて、誰もが相手にしなくなつてゐる……。
「考へるまでもなく、それも無理はないんだけれどね……。あんた知つてゐるわね、妾は子供の時分からの癇性で髪の毛を長くしてはゐられない、子供の時の儘で、ずつと斯う断つてゐるのを? こんなことまで今更、気狂ひの附け足しにして何とか云ふのよ。」
「この間うちそんな風な頭がはやつてゐたらしいが――」
「どうだか知らない。」……正当な交際を続けてゐるのは私の母より他になくなつたが、此頃では如何かすると何処か母の態度にも此方を病人扱ひにしてゐるやうなところも窺はれる、だから此方からはなるべく訪れないやうにしてゐる、今では他人と言葉を交へるやうな日は滅多にない、源爺やだけが昔ながらにたつた一人残つてゐる、そして妾達の世話をしてゐて呉れる、それは――と彼女が、続けやうとした時に、私は突然膝を打つて歓喜の声を挙げた。
「源爺やが居る! そんなら僕は今直ぐに訊きたいことがあるんだ!」
 冬子は、私の様子には気附かないやうに言葉を続けてゐた。「妾達は、爺やに給料を払ふどころかあべこべに、世話になつてゐる、この家だつて……」
「起したつて好いだらう、何処に寝てゐるの? 僕は会ひたい!」
 この家だつて彼の出費で建築されたんだ、ひよつとすると彼は少しばかりの財産を妾達に譲らうとしてゐるらしいが……などといふことを冬子は続けてゐたが、今にも私が部屋から飛び出さうとした時に、彼女は静かに私をおしとゞめた。「会つたつて駄目よ。あれも頭が妙になつてゐて妾と兄さんの顔だけしか覚えてゐないのよ。そして、酷い聾者になつてゐるの。」
 さう云つて彼女は、私も時々それに眼をつけて何に用ひるものなんだらうか? と思つたが、訊ねる隙もなかつた手製らしいメガホンを取りあげると、扉をあけて、「オーーツ」と鳴らした。
「爺やと話すんなら、あんたもこれで云はなければならないのよ。だけど、これを使つたつて言葉は通じないのよ。たゞ合図だけのことよ。私達の間には、いつの間にか十通りばかりの合図の種類が出来てしまつて、それで一通りの用事は足りてゐる。あれは、字は何も知らない。」
 私は、頭をかゝえてドンと椅子に落ちた。
 オーツといふのが呼声の代りだと見えて、間もなく源爺は直ぐ隣室から現れて冬子の傍に来ると、昔のまゝな円満な微笑を湛えて、主人の足もとに坐つてゐた。
「お前は達者で好かつたね。何よりも先に、僕はお前に訊ねたいことがあるんだよ。お前ならば屹度知つてゐるんだ。」
 私は、懐しさの情に溢れて、冬子の云つたことなどは忘れて、思はずしつかりと彼の手を握ると、烈しく打ち振つた。
「駄目よ、何と云つたつて。」と冬子は、寂しく笑ひながら徒らにメガホンを私に渡した。源爺は、にこ/\と笑ひながら、自分で持つて来た盃をとり出して、有りがたさうにいち/\戴きながら傾けてゐた。向方で独りで今頃まで晩酌をしてゐたらしい私達のとは別な酒を其処に運んで楽しさうに飲んでゐた。
「もう一度若しそれを吹くと、今度は帰つて行くのよ。時々妾達は斯うして向き合つて夜の更けるのも忘れるんだが、爺やはこれが何よりも楽しみなのよ。」
 私は、空しく壁を眺めて、涙に似たものを湛へてゐた。(あゝ、あの絵もそんな遠い国に行つてしまつたのか、俺は何処まで独りであの凧を追はなければならないのだらう、あゝ、あの主人の眼が懐しい。)
「それでも兄さんは、仕事を探すと云つて出歩いてゐるんだが、おそらくA町あたりの obscene houseナンバー・ナイン あたりにもぐつてゐるに違ひない、と妾は思ふんだが……」
「さうだ、あの辺の小料理屋は悉くナンバー・ナインの類ひらしい、A町だ、昔の吾家のあたりだ。だが、青野はあの辺には居ない。」
 私は、漠然と青野の行衛を考へたり、握つてゐるメガホンを覗いて、どうしたならば自分の意図を源爺に通じることが出来るだらうかなどといふことに空しく思案を傾けてゐた。
「ぢや、東京かも知れないね。」
「何のために行くのかと訊かれても返答の仕様もないので僕は、吾家の者にこゝに来ることは云はないでゐるんだが、吾家では僕が悪い遊びにでも行くのかと疑つてゐる。」
「あんたと同じやうなことを兄さんも何処かで演じてゐるのかも知れないね。」
「えツ、何が? どうして!」と私は、何だか訳がわからぬ気がして問ひ返したが、彼女は、私の言葉は耳にも入らぬやうに、変らぬおだやかな調子で呟いてゐた。
「あゝいふ種類の熱情家が、財産を失ふといふことは悲惨ね。」
「あゝ、俺はあいつに遇ひたい!」と私も私で独り言のやうな嘆息を洩した。
「兄さんは、顔は、妾の知らないお母さんにそつくりなさうだけれど、心はお父さんそつくりなのよ。」
「さうかしら……」と私は、わけもなく声を震はせて叫んだ。
「そして妾はね、兄さんとは反対で顔はお父さん似――」と云つた冬子の声が、私の耳に奇妙な新しさを持つて響いた。彼女の言葉は、私の心持を洞察しきつてゐるかのやうに響いて、私に、安んじて依頼せしめるやうな朗らかさを感じさせた。「お父さんの顔を思ひ出したかつたら、好く私の顔を見ると好いんだ……」
「…………」
 何かに打たれたやうにぴりツとした私の眼の先に、
「ほうら!」
 さう云ひながら、戯れるやうに眼を視張つて彼女が顔を突き出した。凝つと私はその眼を視詰めて、
「さうだ! 俺は今迄気がつかなかつた。」と云ひ放つた。……(だが、主人の眼とは違ふ。主人の眼は俺にこのやうな静けさは与へて呉れない?)
 冬子は、私に示したことは忘れたかのやうに、いつまでも、無心気に、私の眼近かで視張つてゐた。私は、その視線に、鋭く、小気味好く、快く、突き刺された。――耳を澄すと、蹄の音がした。爽やかな鬣が私の頬をさら/\と打ち撫でた。風笛のやうに鳴る口笛を感じた。私は、巧妙な騎手になつて、風を切つて駿馬を飛ばしてゐた。夕靄の中に光つた、彼女の眼があつた。――私は、「ボーフラ」の姿が、次第に近づいて来るのを、凝つと鬣の蔭から打ち仰いで、微笑を感じた。
「さう思はない?」
「…………」
 私は、はつきりと展開されてゐる私のあの幻の中だけに生きた。私の心は、五体を鞭にして、唇を鳴し、馬を駆つて、まつしぐらに凧を追つてゐた。――私は、一寸眼近かに冬子の瞳に自分の視線を吸ひとられた刹那に、極度の痴酔に感極まり、其処に源爺のゐることも忘れて、奇声を放つと同時に彼女の頬を両手の平でぴつたりとはさんだ。……。

          *

 同じやうな夜ばかりが私に繰り返されてゐたのだ。だから幾部分かのこの章の動詞は寧ろ Present Naration に綴るべきが、現在の私の心域に照しても順当なのだが、今は青野兄弟も共々に面会の許されない或る脳病院に入院してゐるのでもある故、一先づ過去のかたちに統一して叙したのである。

(昭和二年一月)





底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
   2002(平成14)年5月20日初版第1刷発行
初出:「中央公論 第四十二巻第三号」中央公論社
   1927(昭和2)年3月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:小林繁雄
2006年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
  • このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
  • [#…]は、入力者による注を表す記号です。
  • 「くの字点」は「/\」で表しました。
  • 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
  • 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。

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