多くの人の俳句を見るに自己の頭脳をしぼりてしぼり出したるは誠に少く、新聞雑誌に出たる他人の句を五文字ばかり置きかへて何知らぬ顔にてまた新聞雑誌へ投書するなり。一例を挙げていはば
○○○○○裏の小山に上りけり
といふ十二字ありとせんに初五に何にても季の題を置きて句とするなり。「長き日の」「のどかさの」「霞む日の」「炉塞いで」「桜咲く」「名月や」「小春日の」等そのほか如何なる題にても大方つかぬといふはなし。実に重宝なる十二字なり。あるいは
灯をともす石燈籠や○○○○○
といふ十二字を得たらば「梅の花」「糸柳」「糸桜」「春の雨」「夕涼み」「庭の雪」「夕時雨」などそのほか様々なる題をくつつけるなり。あるいは
広目屋の広告通る○○○○○
といふ十二字ならば「春日かな」「日永かな」「柳かな」「桜かな」「暖き」「小春かな」などを置くなり。これがためには予てより新聞雑誌の俳句を切り抜き置き、いざ句作といふ時にそれをひろげてあちらこちらを取り合せ、十句にても百句にてもたちどころに成るを直にこれを投書として郵便に附す。選者もしその陳腐剽窃なることを知らずして一句にても二句にてもこれを載すれば、投句者は鬼の首を獲たらん如くに喜びて友人に誇り示す。此の如き模倣剽窃の時期は誰にも一度はある事なれど、幾年経てもこの泥棒的境涯を脱し得ざる人あり。気の毒の事なり。
(三月十三日) 今日は病室の掃除だといふので昼飯後寐牀を座敷の方へ移された。この二、三日は右向になつての仕事が過ぎたためでもあるか漸く減じて居た局部の痛がまた少し増して来たので、座敷へ移つてからは左向に寐て痛所をいたはつて居た。いつもガラス障子の室に居たから紙障子に松の影が写つて居るのも趣が変つて初めは面白かつたが、遂にはそれも眼に入らぬやうになつてただ痛ばかりがチクチクと感ぜられる。いくら馴れて見ても痛むのはやはり痛いので閉口して居ると、六つになる隣の女の子が画いたといふ画を内の者が持つて来て見せた。見ると一尺ばかりの洋紙の小切に墨で画いてある。真中に支那風の城門(勿論輪郭ばかり)を力ある線にて真直に画いて城楼の棟には鳥が一羽とまつて居る。この城門の粉本は錦絵にあつたかも知らぬが、その城楼の窓の処を横に三分して「オ、シ、ロ」の三字が一区劃に一字づつ書いてあるのは新奇の意匠に違ひない。実に奇想だ。それから城門の下には猫が寐て居る。その上に「ネコ」と書いてある。輪郭ばかりであるが慥かに猫と見える。猫の右側には女の立つて居る処が画いてあるが、お児髷で振袖で下駄はいてしかも片足を前へ蹈み出して居る処まで分る。帯も後側だけは画いてある。城門の左側には自分の名前が正しく書けて居る。見れば見るほど実に面白い。城門に猫に少女といふ無意識の配合も面白いが棟の上に鳥が一羽居る処は実に妙で、最高い処に鳥が囀つて居て最低い処に猫が寐て居る意匠抔は古今の名画といふても善い。見て居る内に余は興に乗つて来たので直に朱筆を取つて先づ城楼の左右に日の丸の旗を一本宛画いた。それから猫に赤い首玉を入れて鈴をつけて、女の襟と袖口と帯とに赤い線を少し引いて、頭には総のついた釵を一本着けた。それから左の方の名前の下に裸人形の形をなるべく子供らしく画いて、最後に小鳥の羽をチヨイと赤くした。さてこの合作の画を遠ざけて見ると墨と朱と善く調和して居る。うれしくてたまらぬ。そこで乾菓子や西洋菓子の美しいのをこの画に添へて、御褒美だといふて隣へ持たせてやつた。
(三月十四日) 散歩の楽、旅行の楽、能楽演劇を見る楽、寄席に行く楽、見せ物興行物を見る楽、展覧会を見る楽、花見月見雪見等に行く楽、細君を携へて湯治に行く楽、紅燈緑酒美人の膝を枕にする楽、目黒の茶屋に俳句会を催して栗飯の腹を鼓する楽、道灌山に武蔵野の広きを眺めて崖端の茶店に柿をかじる楽。歩行の自由、坐臥の自由、寐返りの自由、足を伸す自由、人を訪ふ自由、集会に臨む自由、厠に行く自由、書籍を捜索する自由、癇癪の起りし時腹いせに外へ出て行く自由、ヤレ火事ヤレ地震といふ時に早速飛び出す自由。――総ての楽、総ての自由は尽く余の身より奪ひ去られて僅かに残る一つの楽と一つの自由、即ち飲食の楽と執筆の自由なり。しかも今や局部の疼痛劇しくして執筆の自由は殆ど奪はれ、腸胃漸く衰弱して飲食の楽またその過半を奪はれぬ。アア何を楽に残る月日を送るべきか。 耶蘇信者某一日余の枕辺に来り説いて曰くこの世は短いです、次の世は永いです、あなたはキリストのおよみ返りを信ずる事によつて幸福でありますと。余は某の好意に対して深く感謝の意を表する者なれども、奈何せん余が現在の苦痛余り劇しくしていまだ永遠の幸福を謀るに暇あらず。願くは神先づ余に一日の間を与へて二十四時の間自由に身を動かしたらふく食を貪らしめよ。而して後に徐ろに永遠の幸福を考へ見んか。
○正誤 関羽外科の療治の際は読書にあらずして囲碁なりと。
(三月十五日) 名前ばかり聞きたる人の容貌をとあらんかくあらんと想像するは誰もする事なるがさてその人に逢ふて見ればいづれも意外なる顔つきに驚かぬはあらず。この頃破笛の日記を見たるに左の一節あり。
東京鳴球氏より郵送せられし子規先生の写真及び蕪村忌の写真が届きしは十日の晩なり。余は初めて子規先生の写真を見て実に驚きたり。多年病魔と戦つてこの大業を成したるの勇気は凛乎として眉宇の間に現はれ居れどもその枯燥の態は余をして無遠慮にいはしむれば全く活きたる羅漢なり。『日本』紙上連日の俳句和歌時に文章如何にしてこの人より出づるかを疑ふまでに余は深き感に撃たれたり。 蕪村忌写真中余の面識ある者は鳴球氏一人のみ。前面の虚子氏はもつと勿体ぶつて居るかと思ひしに一向無造作なる風采なり。鳴雪翁は大老人にあらずして還暦には今一ト昔もありさうに思はる。独り洋装したるは碧梧桐氏にして眼鏡の裏に黒眸を輝かせり。他の諸氏の皆年若なるには一驚を喫したり。
去る頃ある雑誌に「竹の里人が禿頭を振り立てて」など書ける投書あるを見たり。竹の里人を六十、七十の老人と見たるにや。もしこれらの人の想像通りに諸家の容貌を描き出さしめば更に面白からん。
(三月十六日) 誤りやすき字につきて或人は盡の上部は聿なり※[#「門<壬」、63-11]の中は王なりなど『説文』を引きて論ぜられ、不折は古碑の文字古法帖の文字抔を目のあたり示して※[#「入/王」、63-12]※[#「内」の「人」に代えて「入」、63-12]吉などの字の必ずしも入にあらず必ずしも士にあらざる事を説明せり。かく専門的の攻撃に遇ひては余ら『康熙字典』位を標準とせし素人先生はその可否の判断すら為しかねて今は口をつぐむより外なきに至りたり。なほ誤字につきて記する所あらんとせしが何となくおぢ気つきたれば最早知つた風の学者ぶりは一切為さざるべし。 漢字の研究は日本文法の研究の如く時代により人により異同変遷あるを以て多少の困難を免れず。『説文』により古碑の文字により比較考証してその正否を研究するは面白き一種の学問ならんもそは専門家の事にして普通の人の能くする所にあらず。普通の人が楷書の標準として見んはやはり『康熙字典』にて十分ならん。ただ余が先に余り些細なる事を誤謬といひし故にこの攻撃も出で来しなればそれらは取り消すべし。されど甲の字と乙の字と取り違へたるほどの大誤謬(祟タタルを崇アガムに誤るが如き)は厳しくこれを正さざるべからず。
附記、ある人より舍の字は人冠に舌に非ず人冠に干に口なる由いひこされ、またある人より協議の協を恊に書くは誤れる由いひこされたり。
(三月十七日) 宝引(ほうびき)といふ事俳句正月の題にあれど何の事とも知らずただ福引の類ならんと思ひてありしがこの頃虹原の説明を聞きて疑解けたり。虹原の郷里(羽前)にてはホツピキと称へて正月には今もして遊ぶなりと。その様は男女十人ばかり(男三分女七分位なるが多く、下婢下男抔もまじる事あり)ある家に打ち集ひ食物または金銭を賭け(善き家にては多く食物を賭け一般の家にては多く金銭を賭くとぞ)くじを引いてこれを取るなり。くじは十人ならば四、五尺ばかりの縄十本を用意し、親となりたる者一人その縄を取りてその中の一本に環または二文銭または胡桃の殻などを結びつく。これを胴ふぐりといふ、これ当りくじなり。親は十本の縄の片端は自分の片手にまとひ他の一端を前に投げ出す。元禄頃の句に
宝引のしだれ柳や君が袖 失名
とあるは親が縄を持ちながら胴ふぐりを見せじとその手を袖の中に引つこめたる処を形容したるにや。かくて投げ出したる縄を各一本づつ引きてそのうち胴ふぐりを引きあてたる者がその場の賭物を取る。その勝ちたる者代りて次の親となる定めにて、胴ふぐり親の手に残りたる時はこれを親返りといふとぞ。
保昌が力引くなり胴ふぐり 其角 宝引や力ぢや取れぬ巴どの 雨青 時宗が腕の強さよ胴ふぐり 沾峩
などいふ句は争ふて縄を引張る処をいへるなるべく
宝引やさあと伏見の登り船 山隣
といふ句は各が縄を引く処を伏見の引船の綱を引く様に見立てたるならん。
宝引に夜を寐ぬ顔の朧かな 李由 宝引の花ならば昼を蕾かな 遊客
などいふ句あるを見れば宝引はおもに夜の遊びと見えたり。そのほか宝引の句
宝引に蝸牛の角をたゝくなり 其角 投げ出すや己引き得し胴ふぐり 太祇 宝引や和君裸にして見せん 嘯山 宝引や今度は阿子に参らせん 之房 宝引の宵は過ぎつゝ逢はぬ恋 几董
結神 宝引やどれが結んであらうやら 李流
(三月十八日) 病室の三方には襖が十枚あつて茶色の紙で貼つてあるがその茶色も銀の雲形も大方はげてしまふた。左の方の柱には古笠と古蓑とが掛けてあつて、右の方の暖炉の上には写真板の手紙の額が黒くなつて居る。北側の間半の壁には坊さんの書いた寒山の詩の小幅が掛つて居るが極めて渋い字である。どちらを見ても甚だ陰気で淋しい感じであつた。その間へ大黒様の状さしを掛けた。病室が俄かに笑ひ出した。
(三月十九日) 頭の黒い真宗坊さんが自分の枕元に来て、君の文章を見ると君は病気のために時々大問題に到著して居る事があるといふた。それは意外であつた。
病牀に日毎餅食ふ彼岸かな
(三月二十日) 露伴の『二日物語』といふが出たから久しぶりで読んで見て、露伴がこんなまづい文章(趣向にあらず)を作つたかと驚いた。それを世間では明治の名文だの修辞の妙を極めて居るだのと評して居る。各人批評の標準がそんなに違ふものであらうか。
(三月二十一日) 三日後の天気予報を出してもらひたい。
(三月二十二日) 大阪の雑誌『宝船』第一号に、蘆陰舎百堂なる者が三世夜半亭を継ぎたりと説きその証として「平安夜半翁三世浪花蘆陰舎」と書ける当人の文を挙げたり。されどこはいみじき誤なり。「夜半翁三世」といふは蕪村より三代に当るといふ事にて「三世夜半亭」といふ事に非ず。もし三世夜半亭の意ならば重ねて蘆陰舎といふ舎号を書くはずもあるまじ。思ふにこの人大魯の門弟にて蕪村の又弟子に当るにやあらん。
(三月二十三日) 加賀大聖寺の雑誌『虫籠』第三巻第二号出づ。裏画「初午」は道三の筆なる由実にうまい者なり。ただ蕪村の句の書き様はやや位置の不調子を免れざるか。 右雑誌の中「重箱楊枝」と題する文の中に
俳諧に何々顔といふ語は、盛に蕪村や太祇に用ゐられた、そこで子規君も多分この二人の新造語であらうとまで言はれたが、これは少し言ひすごしである。元禄二年板の其角十七条に、附句の例として 宿札に仮名づけしたるとはれ顔 とある、恐らくこの辺からの思ひつきであらう。
と書けり。余はさる事をいひしや否や今は忘れたれどもし言ひたらばそは誤なり。何々顔といふ語は俳諧に始まりたるに非ずして古く『源氏物語』などにもあり、「空も見知り顔に」といへる文句を挙げて前年『ホトトギス』随問随答欄に弁じたる事あり。されば連歌時代の発句にも
又や鳴かん聞かず顔せば時鳥 宗長
などあり。なほ俳諧時代に入りても元禄より以前に
ふぐ干や枯なん葱の恨み顔 子英
といふあり。こは天和三年刊行の『虚栗』に出でたる句なり。そのほか元禄にも何々顔の句少からず。
寺に寐て誠顔なる月見かな 芭蕉 苗代やうれし顔にも鳴く蛙 許六 蓮踏みて物知り顔の蛙かな 卜柳 雛立て今日ぞ娘の亭主顔 硯角
などその一例なり。因にいふ。太祇にも蕪村にも几董にも「訪はれ顔」といふ句あるは其角の附句より思ひつきたるならん。
(三月二十四日) 羽後能代の雑誌『俳星』は第二巻第一号を出せり。為山の表紙模様は蕗の林に牛を追ふ意匠斬新にしてしかも模様化したる処古雅、妙いふべからず。 破笛『ホトトギス』の瓦当募集に応じ今またこの雑誌の裏画を画く。前日『虫籠』に出だしたる「猿芝居」の如き小品文の上乗なる者なり。その多能驚くべし。もし俳句の上に一進歩あらば更に妙ならん。 南瓜道人『俳星』の首に題して曰く
風流たる蛸公子。また春潮に浮かれ来る。手を握つて妾が心かなしむ。君が疣何ぞ太甚だひややかなる。
と。笑はざるを得ず。 月兎の「比翼蓙」につきて『俳星』に論あり。されどこは見やうによる事か。もし道修町の薬屋の若旦那新護花嫁を迎へし喜びに祝の句を集めて小冊子となしこれを知人に配るとすれば風流の若旦那たるを失はず。もし大阪の俳人月兎物もあらうに己が新婚の句をわざわざ活版屋の小僧に拾はせて製本屋の職工に綴ぢさせてその得意さを世間に披露したりとすれば甚だ心ばせの卑しき俳人といはざるを得ず。
(三月二十五日) ある日左千夫鯉三尾を携へ来りこれを盥に入れてわが病牀の傍に置く。いふ、君は病に籠りて世の春を知らず、故に今鯉を水に放ちて春水四沢に満つる様を見せしむるなりと。いと興ある言ひざまや。さらば吾も一句ものせんとて考ふれど思ふやうに成らず。とやかくと作り直し思ひ更へてやうやう十句に至りぬ。さはれ数は十句にして十句にあらず、一意を十様に言ひこころみたるのみ。
春水の盥に鯉の かな 盥浅く鯉の背見ゆる春の水 鯉の尾の動く盥や春の水 頭並ぶ盥の鯉や春の水 春水の盥に満ちて鯉の肩 春の水鯉の活きたる盥かな 鯉多く狭き盥や春の水 鯉の吐く泡や盥の春の水 鯉の背に春水そゝぐ盥かな 鯉はねて浅き盥や春の水
(三月二十六日) 先日短歌会にて、最も善き歌は誰にも解せらるべき平易なる者なりと、ある人は主張せしに、歌は善き歌になるに従ひいよいよこれを解する人少き者なりと、他の人はこれに反対し遂に一場の議論となりたりと。愚かなる人々の議論かな。文学上の空論は又しても無用の事なるべし。何とて実地につきて論ぜざるぞ。先づ最も善きといふ実地の歌を挙げよ。その歌の選択恐らくは両者一致せざるべきなり。歌の選択既に異にして枝葉の論を為したりとて何の用にか立つべき。蛙は赤きものか青きものかを論ずる前に先づ蛙とはどんな動物をいふかを定むるが議論の順序なり。田の蛙も木の蛙も共に蛙の部に属すべきものならば赤き蛙も青き蛙も両方共にあるべし。我は解しやすきにも善き歌あり解し難きにも善き歌ありと思ふは如何に。
(三月二十七日) 廃刊せられたりといひ伝へたる『明星』は廃刊せられしにあらでこのたび第十一号は恙なく世に出でたり。相変らず勿体なきほどの善き紙を用ゐたり。かねての約に従ひ短歌の批評を試みんと思ふに敷多くしていづれより手を着けんかと惑はるるに先づ有名なる落合氏のより始めん。
わづらへる鶴の鳥屋みてわれ立てば小雨ふりきぬ梅かをる朝
「煩へる鶴の鳥屋」とあるは「煩へる鳥屋の鶴」とせざるべからず。原作のままにては鶴を見ずして鳥屋ばかり見るかの嫌ひあり。次に病鶴と梅との配合は支那伝来の趣向にて調和善けれどそこへ小雨を加へたるは甚だ不調和なり。むしろ小雨の代りに春雪を配合せば善からん。かつ小雨にしても「ふりきぬ」といふ急劇なる景色の変化を現はしたるは、他の病鶴や梅やの静かなる景色に配合して調和せず、むしろ初めより降つて居るの穏かなるに如かず。次に「梅かをる朝」といふ結句は一句としての言ひ現はし方も面白からず、全体の調子の上よりこの句への続き工合も面白からず。この事を論ぜんとするにはこの歌全体の趣向に渉つて論ぜざるべからず。そはこの歌は如何なる場所の飼鶴を詠みしかといふ事、即ち動物園かはた個人の庭かといふ事なり。もし個人の庭とすれば「見てわれ立てば」といふ句似あはしからず、「見てわれ立てば」といふはどうしても動物園の見物らしく思はる。もし動物園を詠みし者とすれば「梅かをる朝」といふ句似あはしからず。「梅かをる朝」といふは個人の庭の静かなる景色らしくして動物園などの騒がしき趣に受け取られず。もしまた動物園とか個人の庭とかに関係なくただ漠然とこれだけの景色を摘み出して詠みたるものとすればそれでも善けれど、しかしそれならば「見てわれ立てば」といふが如き作者の位置を明瞭に現はす句はなるべくこれを避けてただ漠然とその景色のみを叙せざるべからず。もしこの趣向の中に作者をも入れんとならば動物園か個人の庭かをも明瞭にならしむべし。これ全体の趣向の上より結句に対する非難なりき。次にこの結句を「小雨ふりきぬ」といふ切れたる句の下に置きて独立句となしたる処に非難あり。此の如き佶屈なる調子も詠みやうにて面白くならぬにあらねどこの歌にては徒に不快なる調子となりたり。筒様に結句を独立せしむるには結一句にて上四句に匹敵するほどの強き力なかるべからず。
法師らが髯の剃り杭に馬つなぎいたくな引きそ「法師なからかむ」 (万葉十六)
といふ歌の結句に力あるを見よ。新古今に「たゞ松の風」といへるもこの句一首の魂なればこそ結に置きたるなれ。しかるに「梅かをる朝」にては一句軽くして全首の押へとなりかぬるやう思はる。先づこの歌の全体を考へ見よ。こは病鶴と小雨と梅が香と取り合せたる趣向なるがその景色の内にて最も目立つ者は梅が香にあらずして病鶴なるべし。しかるに病鶴は一首の初め一寸置かれて客たるべき梅の香が結句に置かれし故尻軽くして落ちつかぬなり。せめて病鶴を三、四の句に置かばこの尻軽を免れたらん。一番旨い皿を初めに出しては後々に出る物のまづく感ぜらるる故に肉汁を初に、フライまたはオムレツを次に、ビステキを最後に出すなり。されど濃厚なるビステキにてひたと打ち切りてはかへつて物足らぬ故更に附物として趣味の変りたるサラダか珈琲菓物の類を出す。歌にてもいかに病鶴が主なればとて必ず結句の最後に病鶴と置くべしとにはあらず。病鶴を三、四の句に置きて「梅かをる朝」といふ如きサラダ的一句を添ふるは悪き事もなかるべけれどさうなりし処でこの「梅かをる朝」といふ句にては面白からず。この結一句の意味は判然と分らねどこれにては梅の樹見えずして薫のみする者の如し。さすれば極めてことさらなる趣向にて他と調和せず。何故といふに梅が香は人糞の如き高き香にあらねばやや遠き処にありてこれを聞くには特に鼻の神経を鋭くせずば聞えず。もしスコスコと鼻の神経を無法に鋭くし心をこの一点に集めて見えぬ梅を嗅ぎ出したりとすれば外の者(病鶴や小雨や)はそつちのけとなりて互に関係なき二ヶ条の趣向となり了らん。かつ「梅かをる朝」とばかりにてはさるむづかしき鼻の所作を現はし居らぬなり。もしまた梅の花が見えて居るのに「かをる」といひたりとすればそは昔より歌人の陥り居りし穴をいまだ得出ずに居る者なり。元来人の五官の中にて視官と嗅官とを比較すれば視官の刺撃せらるる事多きは論を俟たず。梅を見たる時に色と香といづれが強く刺撃するかといへば色の方強きが常なり。故に「梅白し」といへばそれより香の聯想多少起れどもただ「梅かをる」とばかりにては今梅を見て居る処と受け取れずしてかへつて梅の花は見えて居らで薫のみ聞ゆる場合なるべし。しかるに古よりこれを混同したる歌多きは歌人が感情の言ひ現はし方に注意せざる罪なり。この歌の作者は果していづれの意味にて作りたるか。次に最後の「朝」、この朝の字をここに置きたるが気にくはず。元来この歌に朝といふ字がどれほど必要……図に乗つて余り書きし故筋痛み出し、やめ。 こんな些細な事を論ずる歌よみの気が知れず、などいふ大文学者もあるべし。されどかかる微細なる処に妙味の存在なくば短歌や俳句やは長い詩の一句に過ぎざるべし。
(三月二十八日) 『明星』所載落合氏の歌
いざや子ら東鑑にのせてある道はこの道はるのわか草
この歌一読、変な歌なり。先づ第一句にて「子ら」と呼びかけたれば全体が子らに対する言葉なるべしと思ひきや言ひかけは第四句に止まり第五句は突然と叙景の句を出したり。変な歌といはざるを得ず。あるいは第五句もまた子らにいひかけたる言葉と見んか、いよいよ変なり。また初に「いざや」とあるは子らを催す言葉なれどもこの歌一向に子らを催して何をするとも言はず。どうしても変なり。この歌のために謀るに最上の救治策は「いざや子ら」の一句を省くに如かず。代りに「いにしへの」とか何とか置くべし。さすれば全体の意味通ずる故少々変なれども大した変にもならざるか。そはとにかくに前の歌の結句といひこの歌の結句といひ思ひきりて佶屈に詠まるる処を見れば作者も若返りていはゆる新派の若手と共に走りツこをもやらるる覚悟と見えて勇ましとも勇ましき事なり。次の歌は
亀の背に歌かきつけてなき乳母のはなちし池よふか沢の池
いよいよ分りにくき歌となりたり。この歌くり返して読むほど益分らず、どうしても裏面に一条の小説的話説でもありさうに思はるるなり。先づこの歌の趣向につきて起るべき疑問を列挙せんか。第一、この歌の作者の地位に立つべき者は少年なるか少女なるか、かつその少年か少女かは如何なる身分の人なるか。第二、亀の背に歌書きたるは何のためか、いたづらの遊びか、何かのまじなひか、あるいは紅葉題詩といふ古事に傚ひて亀に恋の媒でも頼みたる訳か。第三、乳母は如何なる素性の女にて、どれほどの教育ありしか。第四、乳母の死にしは何年前にして、病死か、はた自殺か。第五、乳母の死と亀の事と何らの関係なきかあるか。凡そこれらの事をたしかめたる後に非ざればこの歌の評に取り掛る能はず。もしそんな複雑な事も何もあらずただこの表面だけの趣向とすればまるで狐につままれたやうな趣向なり。なぜといふに亀の背に歌かくといふ事既に不思議にして本気の沙汰と思はれぬに、しかもその歌の書き主が乳母である事いよいよ不思議なり。普通には無学文盲にていろはすら知らぬが多き乳母(の中にて特に歌よみの乳母)を持ち出したるは何故ぞ。はたその乳母が既に死んで居るに至つては不思議といふも愚なる次第なり。されどかかる野暮評は暫く棚に上げてずつと推察した処で、池を見て亡き乳母を懐ふといふある少女の懐旧の歌ならんか。仮りにそれとして結句ばかりを評すれば「深沢の池」とばかりにては固有名詞か普通名詞かそれも判然せず、気ぬけのしたるやうに思はる。普通名詞としては無論面白からず。小説的固有名詞なりとすれば乳母の名も「おたよ」とか「おふく」とかありたき心地す。以上はこの歌を小説的の趣向と見て評したる者なれど、もし深沢の池は実際の固有名詞にして亀に歌書くなどいふ事実もあるものとすれば更に入口を変へて評せざるべからず。しかし余り長くなる故に略す。
(三月二十九日) 『明星』所載落合氏の歌
簪もて深さはかりし少女子のたもとにつきぬ春のあわ雪
簪にて雪のふかさをはかるときは畳算と共に、ドド逸中の材料らしくいやみおほくしてここには適せざるが如し。「はかりし」とここには過去になりをれど「はかる」と現在にいふが普通にあらずや。「つきぬ」とは何の意味かわからず、あるいはクツツクの意か。それならば空よりふる雪のクツツキたるか下につもりたる雪のクツツキたるか、いづれにしても穏かならぬやうなり。結句に始めて雪をいへる歌にして第二句に「ふかさ」といへるは順序顛倒ししかもその距離遠きは余り上手なるよみ方にあらず。
(三月三十日) 『明星』所載落合氏の歌
舞姫が底にうつして絵扇の影見てをるよ加茂の河水
この歌は場所明かならず。固より加茂川附近といふ事だけは明かなれどこの舞姫なる者が如何なる処に居るか分らぬなり。舞姫は、河岸に立ちて居るか、水の中に立ちて居るか、舟に乗りて居るか、河中に置ける縁台の上に居るか、水上にさし出したる桟敷などの上に居るか、または水に臨む高楼の欄干にもたれて居るか、または三条か四条辺の橋の欄干にもたれて居るか、別にくはしい事を聞くに及ばねど橋の上か家の内か舟の中か位は分らねば全体の趣向が感じに乗らぬなり。次に第二句の始に「底」といふ字ありて結句に「加茂の河水」と順序を顛倒したるは前の雪の歌と全く同一の覆轍に落ちたり。「うつして」といひて「うつれる」といはざるは殊更にうつして遊ぶ事をいへるなるべく、この殊更なる処に厭味あり。この種の厭味は初心の少年は甚だ好む事なるが、作者も好まるるにや。「見てをるよ」といふも少しいかがはしき言葉にて「さうかよ」と悪洒落でもいひたくなるなり。
(三月三十一日) 『明星』所載落合氏の歌
むらさきの文筥の紐のかた/\をわがのとかへて結びやらばいかに
「わがのと」とは「わが紐と」といふ事なるべけれど我の紐といふ事十分に解せられず。我文筥の紐か、我羽織の紐か、我瓢箪の紐か、はたその紐の色は赤か青か白か黒か、もしまた紫ならば同じ濃さか同じ古さか、それらも聞きたくなきにはあらねど作者の意はさる形の上にあらずして結ぶといふ処にあるべく、この文筥は固より恋人の文を封じ来れる者と見るべければ野暮評は切りあげて、ただ我らの如き色気なき者にはこの痴なる処を十分に味ひ得ざる事を白状すべし。一つ気になる事は結ばれたるかたかたの紐はよけれど、それがために他のかたかたの紐の解かれたるは縁喜悪きにあらずや。売卜先生をして聞かしめば「この縁談初め善く末わろし狐が川を渉りて尾を濡らすといふかたちなり」などいはねば善いがと思ふ。
(四月一日) 『明星』所載落合氏の歌
君が母はやがてわれにも母なるよ御手とることを許させたまへ
男女のなからひか義兄弟の交りかいづれとも分らねど今の世に義兄弟といふやうな野暮もあるまじく、ここは男女の中なる事疑ひなし。男女の中とした処で、この歌は男より女に向ひていへる者か女より男に向ひていへる者か分らず。昔ならばやさしき女の言葉とも見るべけれど今の世は女よりも男の方にやさしきにやけたるが多ければ、ここも男の言葉と見るが至当なるべし。「御手とる」とは日本流に手を取りて傍より扶くる意にや。西洋流に握手の礼を行ふ意にや。日本流ならば善けれどもし西洋流とすれば母なる人の腕が(老人であるだけ)抜けはせずやと心配せらるるなり。それから今一つ変に思はるるは母なる人の手を取ることの許可を母その人に請はずしてかへつてその人の娘たる恋人に請ひし事なり。されど手を取るといふ事及びかくいひし場合明瞭ならざれば詳しく評せんに由なし。
この身もし女なりせでわがせことたのみてましを男らしき君
「せで」は「せば」の誤植なるべし。「女にて見たてまつらまし」など『源氏物語』にあるより翻案したるか。されどそれは男の形のうつくしきを他の男よりかく評せるなり。しかるにこの歌は男の男らしきを側の男よりほめて「君はなかなか男らしくて頼もしい奴だ、僕が女ならとうから君に惚れちよるよ」抔いふのであるから殺風景にして少しも情の写りやうなし。前者は女的男を他の男が評する事故至極尤と思はるれど、この歌の如きは男的男を他の男が評する事故余り変にして何だかいやな気味の悪い心持になるなり。畢竟この歌にて「男らしき」といふ形容詞を用ゐたるが悪きにて、かかる形容詞はなくてもすむべく、また他の詞を置きてもよかりしならん。
(四月二日) 『明星』所載落合氏の歌
まどへりとみづから知りて神垣にのろひの釘をすてゝかへりぬ
この種の歌いはゆる新派の作に多し。趣向の小説的なる者を捕へてこれを歌に詠みこなす事は最も難きわざなるにただ歴史を叙する如き筆法に叙し去りて中心もなく統一もなき無趣味の三十一文字となし自ら得たりとする事初心の弊なり。この歌もまた同じ病に罹りたるが如し。先づこの歌の作者の地位に立つべき者はのろひ釘の当人と見るべきか、もし当人が自分の事を叙すとせば「すてゝかへりぬ」といふ如き他人がましき叙しやうあるべからず。また傍観者の歌とせんか、秘密中の秘密に属するのろひ釘を見る事もことさらめきて誠しからず、はた「惑へりと自ら知りて」とその心中まで明瞭に見抜きたるもあるべき事ならず。されど場合によりては小説家が小説を叙する如く、秘密なる事実は勿論、その心中までも見抜きて歌に詠む事全くなきにあらねどそは至難のわざなり。この歌の如く「すてゝかへりぬ」と結びては歴史的即ち雑報的の結末となりて美文的即ち和歌的の結末とはならず。つまりこの歌は雑報記者が雑報を書きたる如き者にして少しも感情の現れたる処なし。これでは先づ歌の資格を持たぬ歌ともいふべきか。釘をすてて帰るなどいふ事も随分変的な想像なれど一々に論ぜんはうるさければ省く事とすべし。妄評々々死罪々々。
(四月三日) 春雨の朝からシヨボシヨボと降る日は誠に静かで小淋しいやうで閑談に適して居るから、かういふ日に傘さして袖濡らしてわざわざ話しに来たといふ遠来の友があると嬉しからうがさういふ事は今まであつた事がない。今日も雨が降るので人は来ず仰向になつてぼんやりと天井を見てゐると、張子の亀もぶら下つてゐる、芒の穂の木兎もぶら下つてゐる、駝鳥の卵の黒いのもぶら下つてゐる、ぐるりの鴨居には菅笠が掛つてゐる、蓑が掛つてゐる、瓢の花いけが掛つてゐる。枕元を見ると箱の上に一寸ばかりの人形が沢山並んでゐる、その中にはお多福も大黒も恵比寿も福助も裸子も招き猫もあつて皆笑顔をつくつてゐる。こんなつまらぬ時にかういふオモチヤにも古笠などにも皆足が生えて病牀のぐるりを歩行き出したら面白いであらう。
(四月四日) 恕堂が或日大きな風呂敷包を持て来て余に、音楽を聴くか、といふから、余は、どんな楽器を持て来たのだらうと危みながら、聴く、と答へた。それから瞳を凝して恕堂のする事を見てゐると、恕堂は風呂敷を解いて蓄音器を取り出した。この器械は余は始て見たので、一尺ほどのラツパが突然と余の方を向いて口を開いたやうにしてゐたのもをかしかつた。それからまた箱の中から竹の筒を六、七寸に切つたやうなものを取り出した。これが蝋なので、この蝋の表面に極めて微細な線がついてをるのは、これが声の痕であるさうな。これを器械にかけてねぢをかけると、ひとりでにブル/\/\/\といひ出す。この竹の筒のやうなものが都合十八あつたのを取り更へ取り更へてかけて見たが、過半は西洋の歌であるので我々にはよくわからぬ。しかし日本の唱歌などに比べると調子に変化があつて面白く感じる。日本のは三つほどの内に越後獅子の布を晒す所ぢやといふのが一つあつた。それは甚だ面白かつた。西洋の歌の中にラフイング、ソング(笑歌)と題するのがあつて何の事だかわからぬが、調子は非常な急な調子で、ところどころに笑ひ声が這入つてゐる歌であつた。これは笑ひ声に巧みなといふ評判の西洋音楽師が吹き込むだんださうで今試みにこの歌を想像して見ると、
鴉が五、六羽飛んで来て、権兵衛の頭に糞かけた。アツハハ、ハツハ、アツハハハ 神鳴り四、五匹ゴロ/\/\、雲の上からスツテンコロ/\、物ほし台にひかかつた。太鼓が破れて滅茶々々だ。アツハハ、ハツハ、アツハハハ 猫屋の婆さん四十島田、猫の子十匹産み居つた。白猫黒猫三毛猫山猫招き猫。アツハハ、ハツハ、アツハハハ
といふやうにも聞えた。しかし原作がこんなに俗であるかどうかそれは知らぬ。
(四月五日) 故陸奥宗光氏と同じ牢舎に居た人に、陸奥はどんな人か、と問ふたら、眼から鼻へ抜けるやうな男だ、といふ答であつた。今生きて居る人にも眼から鼻へ抜けるほどの利口者といはれて居るのが二、三人はある。自分も一度かういふ人に逢ふて、眼から鼻へ抜ける工合を見たいものだ。
(四月六日) この頃は左の肺の内でブツ/\/\/\といふ音が絶えず聞える。これは「怫々々々」と不平を鳴らして居るのであらうか。あるいは「仏々々々」と念仏を唱へて居るのであらうか。あるいは「物々々々」と唯物説でも主張して居るのであらうか。
(四月七日) 僕は子供の時から弱味噌の泣味噌と呼ばれて小学校に往ても度々泣かされて居た。たとへば僕が壁にもたれて居ると右の方に並んで居た友だちがからかひ半分に僕を押して来る、左へよけようとすると左からも他の友が押して来る、僕はもうたまらなくなる、そこでそのさい足の指を踏まれるとか横腹をやや強く突かれるとかいふ機会を得て直に泣き出すのである。そんな機会はなくても二、三度押されたらもう泣き出す。それを面白さに時々僕をいぢめる奴があつた。しかし灸を据ゑる時は僕は逃げも泣きもせなんだ。しかるに僕をいぢめるやうな強い奴には灸となると大騒ぎをして逃げたり泣いたりするのが多かつた。これはどつちがえらいのであらう。
(四月八日) 一 人間一匹 右返上申候但時々幽霊となつて出られ得る様以特別御取計可被下候也 明治三十四年月日 何がし 地水火風御中
(四月九日) 余の郷里にては時候が暖かになると「おなぐさみ」といふ事をする。これは郊外に出て遊ぶ事で一家一族近所合壁などの心安き者が互にさそひ合せて少きは三、四人多きは二、三十人もつれ立ちて行くのである。それには先づ各自各家に弁当かまたはその他の食物を用意し、午刻頃より定めの場所に行きて陣取る。その場所は多く川辺の芝生にする。川が近くなければ水を得る事が出来ぬからである。また川辺には適当な空地があるからでもある。そこに毛氈や毛布を敷いて坐り場所とする、敷物が足らぬ時には重箱などを包んである風呂敷をひろげてその上に坐る。石ころの上に坐つて尻が痛かつたり、足の甲を茅針につつかれたりするのも興がある。ここを本陣として置いて食時ならば皆ここに集まつて食ふ、それには皆弁当を開いてどれでも食ふので固より彼我の別はない。茶は川水を汲んで来て石の竈に薬鑵掛けて沸かすので、食ひ尽した重箱などはやはりその川水できれいに洗ふてしまふ。大きな砂川で水が清くて浅くて岸が低いと来て居るから重宝で清潔でそれで危険がない。実にうまく出来て居る。食事がすめばサア鬼ごとといふので子供などは頬ぺたの飯粒も取りあへず一度に立つて行く。女子供は普通に鬼事か摘草かをやる。それで夕刻まで遊んで帰るのである。余の親類がこぞつて行く時はいつでも三十人以上で、子供がその半を占めて居るからにぎやかな事は非常だ。一度先生につれられて詩会をかういふ芝生で開いた事もあつた。誠に閑静でよかつた。しかし男ばかりの詩会などは特別であつて、普通には女子供の遊びときまつて居る。半日運動して、しかも清らかな空気を吸ふのであるから、年中家に籠つて居る女にはどれだけ愉快であるか分らぬ。固よりその場所は町の外で、大方半里ばかりの距離の処で、そこら往来の人などには見えぬ処である。歌舞伎座などへ往て悪い空気を吸ふて喜んで居る都の人は夢にも知らぬ事であらう。
(四月十日) 虚子曰、今まで久しく写生の話も聞くし、配合といふ事も耳にせぬではなかつたが、この頃話を聴いてゐる内に始めて配合といふ事に気が附いて、写生の味を解したやうに思はれる。規曰、僕は何年か茶漬を廃してゐるので茶漬に香の物といふ配合を忘れてゐた。
(四月十一日) 我試みに「文士保護未来夢」といふ四枚続きの画をかいて見ようか。 第一枚は、青年文士が真青な顔して首うなだれて合掌して坐つて居る。その後には肩に羽のある神様が天の瓊矛とでもいひさうな剣を提げて立つて居る。神様は次の如く宣告する。汝可憐なる意気地なき、心臓の鼓動しやすき、下腹のへこみやすき青年文士よ、汝の生るる事百年ばかり早過ぎたり、今の世は文士保護論の僅かに芽出したる時にして文士保護の実の行はるる時にあらず、我汝が原稿を抱いて飯にもありつけぬ窮境を憐んで汝を一刀両断せんとす、汝出直して来れ。 第二枚は、文士の首は前に落ちて居る処で、斬られたる首の跡から白い煙が立つて居る。その煙がまゐらせ候といふ字になつて居て、その煙の末に裸体美人がほのかに現はれて居る。神様の剣の尖からは紫色の血がしたたつてそのしたたりが恋愛文学といふ字になつて居る。 第三枚は、芝居の舞台で、舞台の正面には「嗚呼明治文士之墓」といふ石碑が立つて居る。墓のほとりには菫が咲いて居て、墓の前の花筒には白百合の枯れたのが挿してある。この墓の後から西洋風の幽霊が出て来るので、この幽霊になつた俳優が川上音二郎五代の後胤といふのである。さてこの幽霊がここで大に文士保護の演説をすると、見物は大喝采で、金貨や銀貨を無暗に舞台に向つて投げる、投げた金貨銀貨は皆飛んで往て文士の墓へひつついてしまふ。 第四枚は、大宴会の場で、正面の高い処に立つて居るのが川上音二郎五代の後胤である。彼は次の如く演説する、このたび「明治文士」といふ演劇大入に付当世の文士諸君を招いて聊か粗酒を呈するのである、明治文士の困難は即ち諸君の幸福と化したのである、明治文士の灑いだる血は今諸君杯中の葡萄酒と変じたのである、明治文士は飯の食へぬ者ときまつて居たが、今は飯の食へぬ者は文士になれといふほどになつた、明治文士は原稿を抱いて餓死した者だが今は文士保護会へ持つて行けばどんな原稿も価よく買ふてくれる、それがために原稿の価が騰貴して原稿取引所で相場をやるまでになつた、云々。拍手喝采堂に満ちて俳優万歳、文士万歳を連呼する。
(四月十二日) 美しき花もその名を知らずして文にも書きがたきはいと口惜し。甘くもあらぬ駄菓子の類にも名物めきたる名のつきたらむは味のまさる心地こそすれ。
(四月十三日) 左千夫いふ、俳句に畑打といふ題が春の季になり居る事心得ず、畑を打ち返すは秋にこそあれ、春には畑を打ち返す必要なきなり、もし田を打ち返す事ならばそれは春やや暖くなる頃に必ずするなり、云々。我この言を聞いて思ひ見るに、こは田打を春の季としたるが始めにて、後に畑打をも同じ事のやうに思ひ誤りたるならんか。連歌の発句にも
すき返せ草も花咲く小田の原 紹巴 山川のめぐり田かへす裾輪かな 同 濁りけり山田やかへす春の水 同
など田をかへすといふ事は既にいへり。その後寛文頃の句に
沼津にて ぬまつくや泥 田をかへす島 俊治 これも田をかへすと詠めり。しかるに元禄に入りて「あら野」に左の三句あり。
動くとも見えで畑打つ麓かな 去来 万歳をしまふて打てる青田かな 昌碧 子を独もりて田を打孀かな 快宣
そのうち他の二句は皆田を打つとあるに去来ばかりのは畑打つとあり、あるいはこの句などが俑を作りたるにやあらん。 このほか元禄の句にて畑打とあるは
畑打に替へて取つたる菜飯かな 嵐雪 ちら/\と畑打つ空や南風 好風
などなり。それより後世に至れば至るほど田打といふ句少くなりて畑打といふ句多くなりたるが如し。 かく田打と畑打とが誤り置かれたる理由如何といふに大方次の如くなるべし。関東北国などにては秋の収穫後、田はそのままに休ませある故春になりてそを打ち返すものなれど、関西にては稲を刈りたる後の田は水を乾して畑となし麦などを蒔くならひなれば春になりても打ち返すべき田なきなり。麦を刈りて後その畑を打ち返して水田となす事はあれどそは夏にして春にあらず、それ故関西の者には春季に田を打つといふ事かへつて合点行かず、何とはなしに畑打と思ひ誤りたる者ならん。されど古来誤り詠みたる畑打の句を見また我々が今まで畑打と詠み来りたる心を思ふに、固より田と畑とを判然と区別して詠めるにもあらず、ただ厳寒の候も過ぎ春暖くなるにつれて百姓どもの野らに出て男も女も鍬ふりあぐる様ののどかさを春のものと見たるに過ぎず。さはれ左千夫の実験談は参考の材料として聞き置くべき値あり。
(四月十四日) ガラス玉に金魚を十ばかり入れて机の上に置いてある。余は痛をこらへながら病床からつくづくと見て居る。痛い事も痛いが綺麗な事も綺麗ぢや。
(四月十五日)
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