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貝殻追放(かいがらついほう)006

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-27 8:54:52 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 ちひさな事を大げさに考へる事、あんまりしつつこい物にも倦きたからお茶漬にしようといふやうな輕い事を、せつぱつまつた事のやうに考へる内容の不充實が、此の比較的に長い、當然複雜な背景を要求する小説を、平淡無味なものにしてしまつた。
 たゞ面白いと思ふのは、意地張りの我儘者に對する作者の同情が、露骨に出てゐるところである。甚だ失禮な申状だが、想ふに岡田夫人は意地張りの我儘者であらう。さうしてその爲に餘計者にされる不滿と哀愁を、時に沁々感じる人であらう。その哀愁の伴ふ時、夫人は「餘計者」の冒頭數頁が持つやうな緊張した描寫を可能にし、その憤懣のみが堪へ難くすさぶ時、やけになる心地を夫人は切實に感じる人であらう。かゝる時、夫人は此の小説の朝子の心を經驗するのではないだらうか。
 やけといへば、一體に夫人の作品には、何處かに捨鉢を喜ぶ傾向があらはれる。それは捨鉢を主張したものでもなく、捨鉢に同情してゐるのでも無い。殆ど無意識に作品の基調を成してゐるのである。それ丈動かし難いものに思はれる。若し此の捨鉢が一層強く深く、色彩を鮮明にして來る日があつたら、夫人の作品には更に遙に純一性を増すに違ひ無い。
「餘計者」の朝子が家出に至る迄の心状は、正面からも、又は背景としても、殆ど描かれずに終つてしまつたが、要するに一切の事になぐさまぬ心がその原因をなしてゐるのであらう。そのなぐさまぬ心、その爲に世を捨鉢の氣まぐれともなる心持は、「青い帽子」及び「假裝」の中に共に現れる二人の女にも見出される。この二人の女は不愉快な新聞語を以て呼べば、所謂新しい女であらう。自分のやうな、女性に對しては、自分自身の主我的な要求から、寧ろ古めかしい優しさを強要する傾向の者には、反感を持たないではゐられない種類の女である。勿論茲に新しい女とは、新聞記者の理解する丈の意味に於ての新しい女で、決してよき意味に於ける進歩した女を意味するのでは無い。殊にこの二人、即ちかし子とつね子とは、決してその思想に於て新しい女ではなく、ただ單に行爲の上に、慣習を破壞したあばずれが現れてゐるきはの女なのである。兎に角今此の小説の中では、二人は何か心も躍るやうな刺戟に憧れ惱んでゐる事は確かである。「青い帽子」に於ては、夫人の得意とする細緻な觀察をほしいまゝにした端艇ボウト競爭の場景の中に明確に描かれてゐる。うまいと思つた。しかも自分の我儘は、この二人の女の態度の小憎らしさから、この作品を好む事が出來なかつた。作者が彼等の態度を是認してゐるところが、自分を不快にしたのかもしれない。「假裝」の方は散文詩のやうな感觸を持つ小品で、主としてその作品を貫くかし子の、やるせないやうな心持には自分は同感する事が出來た。或時の人の心の動搖をとらへたものとして、極めて氣の利いた作品であるが、あまりに形式を氣にしてわざとらしさがいやだ。
 右の二篇の中のつね子といふ女は、作者がより多く同情してゐるかし子よりも、す事する事が付燒刄で堪らなく「いやな奴」である。しかしその「いやな奴」よりも、明かに「いやな奴」として描かれたのは「灯」の夏子である。しかも自分には此の「いやな奴」の方が、つね子といふ「いやな奴」よりは、まだしもましに思はれる。それは作者がつね子に對してはその行爲に反感を持たず、寧ろそれを肯定しながら、夏子の態度は一々否定してゐるのが、かへつて吾々をして前者に反感を抱かせるのではないだらうか。つまらない事のやうだけれど、描寫論の一端として、心得べき事に思はれる。
 作者が明白に「いやな奴」として取扱つてゐる夏子に對して、作者が明白に贔負にしてゐる千の助は、複雜な陰影の多い半生を背景にした人らしく所々に説明されてゐながら、結局その心持は極めて淡くしか推察されない。勿論作品の性質が寫生スケッチ風のものであるから、それに對して廣い背景を要求するのは無理かもしれないが、一體に夫人の作品には、背景バックの淺い恨みがあるので、ついでを借りて云ひ度いのである。そのかはり、此の夏の夕の一※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)話は、平淡に描かれてゐる丈明るい色彩で、男も女も當代の浮世繪のやうに生々いき/\とした刺戟性を持つて印象を殘すのである。好きではないけれども、この點に於てうまい作品には違ひない。
 うまいといふ方から行くと「雨」「お伊勢」「駒鳥」などは議論無しに推稱さるべき作品である。かういふ作品にあらはれる夫人の特質は、觀察描寫共に細緻な事である。規模の大きい或事件の進展を描いた他の小説には、夫人の最も不得意らしい心理描寫性格描寫の極めて粗雜な事が、明確に觀取されるのに、これらの短篇中の短篇にはさういふ要素を比較的に必要としない爲に、無瑕の寶玉の光を帶びてゐる。夫人は人の心の深い動搖、變化、展開を描く事には拙劣だが、或一瞬時の心の浮動は、極めて親切叮嚀に同情深く描き出す。自分が推稱する作品中の「お伊勢」「駒鳥」などは正にこの好適例である。
「雨」に至つては「八千代集」中最も短いものではあるが、同時に最も完全な短篇として第一に推讚し度い。夫人の寫生家としての冴えた手腕うでが、他の作品では兎もすると、押へても押へ切れない夫人特有の片意地や、あて氣や、山氣に邪魔されて、本來の光を現さないのが、此處では立派な作品を成し、しかも藝術家に有勝ありがちの芝居氣のまじらない純粹の人の愛が、一字一句に籠つてゐて、幾度繰返して讀んで見ても、自分は歡喜に伴ふ涙ぐましい程の心地を覺えるのである。ふと乘合せた電車の中の姉弟きやうだいの、その境遇性格、全生涯迄も、僅に數頁の文字の中に暗示されてゐるばかりで無く、もつと廣い人間社會が、その背後に横たはる事さへ歴然と示されてゐるのである。集中最も完全な作品であると同時に、波瀾に富んだ長篇よりも、遙に深みのある作品である。靜止せる場合を描いて、尚且動いて止まない人生の一角をまざ/″\と見せた逸品である。紅葉時代の文脈を引いた誇張の無い氣持ちのいゝ夫人の文體は、此作に於て、初めてしつくりあてはまつたやうな氣がした。自己を語るには、思想を適確に把握し得ない恨みがあり、自己を描くには、あまりに筆の弱過ぎる嫌ひのある夫人は、要するにその持前の細かい觀察に、女性特有の温い同情の伴つた時、寫生家――寫實主義者といふ文字の與へる概念と異なると同時に、ホトヽギスの所謂寫生文を書く人とも違ふ意味で――としての本來の技能が最も自然に發露して、かゝる逸品を創作し得るのではないだらうか。敢て夫人が今後の筆硯の爲に、自分は押切つた事を云ひ添へるのである。
「雨」と並べて、自分が最も愛讀したのは「うつぎ」である。一體に他の作品の多くに見えるあまり感心しない趣味と、かなり力強く働いてゐる芝居氣から、此作品は全然免れて、極めて自然なのが、自分をして幾度も繰返して讀ませた所以である。
 元來どの作家でも、追憶囘想の作品には、不知不識詠嘆的になり勝であるが、意力の強い夫人は、全然この弱點を見せずに、飽迄客觀的な態度を持し、しかも面白い※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)話のひとつひとつを繪卷物のやうに展開した。殊に一人稱の敍述に似もやらず、作中の人のすべてが、何れも截然とした特色を持つ個々の性格として躍動してゐるのは敬服にあたひする。さうしてその個々の人々の一生及び相互の關係迄吾々は頭を痛める事なく覗ふ事が出來る。こゝにも亦夫人の寫生家としての特質と、その柔かい色彩と、その靜に寂しい韻律を持つ極めて上品な夫人の文章を推稱し度い。
 凡そ多くの作家にとつて、最も懷しい作品は、その構想表現に工風を凝らした作品ではなく、極めて自然に自分の心胸に泉の如く湧き上る感情を、そのまゝ筆にした作品であらう。其處には屡々心ある作家が、自ら冷汗を覺える小細工、脅迫、虚僞が無い。恐らくは夫人が自己の作品中最も自らなつかしとするものは「うつぎ」以外にあるまいと思ふ。
「うつぎ」に比べると、同じやうな味ひを多分に持ちながら、比較的に劣るのは「指輪」である。これは事實の面白さを羅列する忙しさに、作者の理解同情が、物語らるゝ事象の中に、滲透し切れなかつた結果であらう。しかしそれも「うつぎ」に比べての事で、他の作品の中では、矢張り自分の好む物のひとつに數へて憚らない。
 自分が最もつまらない、馬鹿々々しい作品だと思つたのは「横町の光氏」である。低級子女が見て光氏とする横町の若い人を、夫人も亦同じ程度に肯定してゐるのが馬鹿々々しい。且その男の口吻の氣障な事は、當然カリカチュアとして現さるべきであつたと思ふ。こゝに又不幸にして夫人の惡趣味の流露を見た。
「堂島裏」も「横町の光氏」に見る同じいやみを感じるけれど、この方は作品としての纏りのいゝ事が、彼に比して遙に勝つてゐる。
「鷹の夢」は久保田万太郎氏が、岡田夫人の噂が出ると、必ず「新緑」と共に引張り出して、誇大に感服して見せる作品であるが、それはたま/\久保田万太郎氏の淡い趣致を喜ぶ獨特の好みを表白したものとして、久保田氏を評する時により多く面白い證明のよすがとなる可きはなしで、作品としては可も無く不可も無い、極めて平凡なものだと思ふ。
 自分は最後に、上來述べて來たところを綜合して、夫人の作品の特質傾向及び夫人の作品の弱點短所を簡略に抽出し度いと思つてゐたが、それはこゝ迄の長々しい批評の中に斷片的ながら云ひ盡されて居るやうに考へられるのでやめる事にした。
 或文壇の老大家が曾て人に語つて「俺は女の書いた物は何でも面白い。女の書いた物だと思ふと惡口は云へない。」と云つたといふちまたの噂を聞いた事がある。けれども明治大正にかけて、吾々の時代が生んだ女流作家中、歌人與謝野晶子氏と小説家樋口一葉女史以外に、無條件に推讚し得る人が何處にあるか。殆どすべての女流作家は、單に女だといふ先天性の爲に、文壇の色どりとして介在してゐるに過ぎない。たま/\野上彌生、中條百合子二氏の如き、かなりいゝ素質を持つてゐるらしい人が現れても、自制心の缺乏から、中途にして邪路に踏入つてしまふ時、同じくよき素質を持ちながら、多年創作の筆を續けながら、尚且自己の特質を自覺しないらしい岡田夫人を惜しいと思ふ。
 あまり度々引合ひに出して濟まないが、久保田万太郎氏の如きは、今日迄の岡田夫人の作品を見ても、夫人は現代女流作家中唯一の勝れた作家だと云つてゐるが、自分は左程に思はない。しかし夫人が今後ほんとに自己の持つてゐるいゝ物を見出し、しつかりとそれを把握した時、必ず勝れたる作品を發表されるに違ひないと、確く信じて疑はない。
 乍末すゑながら岡田夫人の「八千代集」を贈つて下さつた厚情を感謝し、併せて夫人の健康を祈りつゝ筆をおく。(大正七年四月二日)

――「三田文學」大正七年五月號





底本:「水上瀧太郎全集 九卷」岩波書店
   1940(昭和15)年12月15日発行
※以下のルビ中の拗音、促音などを、小書きしました。
寫生スケッチ背景バック
※踊り字(/\、/″\)の誤用は底本の通りとしました。
入力:柳田節
校正:門田裕志
2005年1月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
  • このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
  • 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
  • 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
  • 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。

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