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新しい婦人の職場と任務(あたらしいふじんのしょくばとにんむ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-2 10:43:46 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 たとえば賃銀についてみると、日本の男の労働者はイギリスなどに比べると一四・五%から三七%、大体三分の一ほどの賃銀で生計を立てているのであるが、婦人労働者になると、さらにその三分の一が標準となっている。昭和五年に、男が二円二十二銭一厘の実収をもっていた時、女の稼ぎは一日九十三銭であった。本年は、画期的な生産拡大による労働力の需要増と、物価騰貴、熟練工引止めなどの理由から、一般に賃銀は高くなった。もっとも低下していた昭和七年頃に比べると遙かに上っているが、男と女との差は埋められていないのである。
 婦人の性の本来は生殖に重点をおかれているのであるから、社会労働は、常に男の補助の範囲であるのが自然であり、従って賃銀も、いわゆる世帯主としての負担のにない手である男よりやすいのが当然であるとする論者がある。こういう立場の論者は、男も女も同一労働に対して賃銀が同一でなければならないという主張を、そもそも女の本然によって同一の能力があり得ないとして否定する傾きにある。たとえ労働条件が男と同じになったとしても、女が子を生むためのものである以上、男と同じ水準に達する余力をもたないというのである。
 賃銀さえ男と同じになれば婦人労働者の生活が幸福となり、内容において高まると観るのはもちろん皮相でもあるし、非現実的である。けれども、婦人が自身の性の本然と勤労の必要との間で板挾みにあっている今日の苦しさは、女という性によって働き仲間である男さえ大部分の者はまだ彼女たちを補助的なものとして見るのに、企業はきわめてリアリスティックにやすくて従順な労働力としての点から婦人を扱っているという実際の有様である。補助的なものという先入観で見られつつ現実にはその収入で一家を支えてゆかなければならない世帯主であるところに、異常な苦しみを負わされているのである。
 銃後の力としての女の労働力は、決して貴方が七分、私が三分的な和気あいあい的なものではない。その労作の面で課せられる仕事の実質は、大の男を瞠若どうじゃくたらしめるだけのものなのである。科学主義工業の提唱者は、おおうところなく明言している。例外なしに、農村の子女に適当な機械と設備とをあてがえば熟練の大衆化によって、数日にして「大の男の熟練工と同じ程度の熟練さを習得するのである」と。男の補助ではなく、男の代るものとして、婦人の労働力は計算されている。産業の合理化で男の労働者数は減少して行っている時になお、女の数は少しずつながら増大の線をたどって来ていることは女の労力が男に代り得て、しかもやすいという事実を雄弁に語っているのではなくて、何であろう。
 女の性の自然と社会事情から必然とされる勤労とを考えあわせれば、男女同一の労働条件ということでは、まだ性の本来が守られ得ない。女が男と同じ賃銀をとることができても、その上に母性が必要とする生理的休暇、健康相談、托児所がなければ、婦人の勤労者として自然にしたがった生活はあり得ないのである。
 しばしば例に引く科学主義工業の主唱者は、高賃銀低コストを目標としているのであるが、本年の春、ある村で作業場の賃銀が村の労銀の水準に対して高すぎるという苦情が出たことが報告されている。村の労銀というのは恐らく従来の救済工事の日当や日傭労働賃銀(女三十五銭ぐらい)を標準にしてのことであったろう。むしろ意外な苦情を受けた専門家たちは「労銀が多すぎる為に起る弊害について大いに考えさせられた。副業が本業になることを恐れるためである」その問題は、それらの純朴な村の娘たちが一心に精密加工をする作業場を村営とするか、個人に対して多すぎる分は村へ寄附すればよいと解決されたのであった。
 この間の消息を詳細に眺めると、やはりそこには無量の感慨を誘うものがよこたわっている。作業場の設置者、技術指導者は、きわめて公平といえばいえる率直さで娘たちが立派に男の熟練工なみどころか、外国の技術者の五倍もの能力をもっていることを承認している。ところが、それに対する賃銀となると村の標準、しかも村の女の労銀との比較で問題になって、結局彼女たちの労力に対する報酬としては全く未熟練な日傭娘に等しいものを受けなければならなくなって来る。これを、一つの社会的な矛盾と見るのは誤りであると何人がいい得るであろうか。この矛盾的な賃銀問題の落着を可能にしている根拠は、科学主義工業がどこまでも農村生活の現状を保守して、副業にとどめて置こうとしているところにひそんでいるのである。強請して小規模で分散的な副業に止めておこうとする理由は「集団作業の心理状態には被傭人の気持が多く、共同作業場あるいは家庭工業には農業精神が横溢している」とされているのである。

 これまでも、日本の女は、実に労を惜しまず、雑多な歴史の荷を足くびに引きずりつつ働き、かせぎして来た。今日はさらに一歩すすめて、この複雑な諸条件はそのままで、いっそうの刻苦精励に向ってふるい立たされているのである。生活の新しい必要は、女に新たなたくましさを与えるであろう。新たな社会的な自覚をも与え、人間としての鍛錬をも加えるだろう。しかしそれは、十文字女史のいうように、ただ、働けば人間ができる、式の簡単な手順のものであろうか。人生とは、そのように、働きかける人間の意志や努力にかまいなく、ひとりでに人間ができ上れる仕組みのものであろうか。
 新たな生活条件、古い生活条件、その間の摩擦そのものは、現実的には新たなねうちを生み出す可能性としてのみ存在するものである。一層生産面に結ばれなければならなくなった若い婦人たちが、今日の中から何を身につけて来るか、何を学んで来るかによって、その人々の経験の社会的な価値と、女の歴史とは変って来るのである。婦人が生産面により多く参加しつつあるということが、いきなり婦人の社会的条件の向上を意味しないことは明らかである。現代に処する女としての新しい義務は、今日欲する欲しないにかかわらず新しく増大され、拡大されつつある女の生活経験と、すくなからぬ犠牲との中から、やがて婦人全体の幸福を増す何ものかをつかんで来ようとする根強い努力にあるのである。

〔一九三七年十二月〕





底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:「婦人公論」
   1937(昭和12)年12月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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