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阿部一族(あべいちぞく)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/11/6 17:10:53 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

 従(じゅ)四位下(いのげ)左近衛少将(さこんえのしょうしょう)兼越中守(えっちゅうのかみ)細川忠利(ほそかわただとし)は、寛永十八年辛巳(しんし)の春、よそよりは早く咲く領地肥後国(ひごのくに)の花を見すてて、五十四万石の大名の晴れ晴れしい行列に前後を囲ませ、南より北へ歩みを運ぶ春とともに、江戸を志して参勤(さんきん)の途(みち)に上ろうとしているうち、はからず病にかかって、典医の方剤も功を奏せず、日に増し重くなるばかりなので、江戸へは出発日延べの飛脚が立つ。徳川将軍は名君の誉れの高い三代目の家光で、島原一揆(いっき)のとき賊将天草(あまくさ)四郎時貞(ときさだ)を討ち取って大功を立てた忠利の身の上を気づかい、三月二十日には松平伊豆守(まつだいらいずのかみ)、阿部豊後守(あべぶんごのかみ)、阿部対馬守(あべつしまのかみ)の連名の沙汰書(さたしょ)を作らせ、針医以策(いさく)というものを、京都から下向(げこう)させる。続いて二十二日には同じく執政三人の署名した沙汰書を持たせて、曽我又左衛門(そがまたざえもん)という侍(さむらい)を上使につかわす。大名に対する将軍家の取扱いとしては、鄭重(ていちょう)をきわめたものであった。島原征伐がこの年から三年前寛永十五年の春平定してからのち、江戸の邸(やしき)に添地(そえち)を賜わったり、鷹狩(たかがり)の鶴(つる)を下されたり、ふだん慇懃(いんぎん)を尽くしていた将軍家のことであるから、このたびの大病を聞いて、先例の許す限りの慰問をさせたのも尤(もっと)もである。
 将軍家がこういう手続きをする前に、熊本花畑の館(やかた)では忠利の病が革(すみや)かになって、とうとう三月十七日申(さる)の刻に五十六歳で亡(な)くなった。奥方は小笠原(おがさわら)兵部大輔(ひょうぶたゆう)秀政(ひでまさ)の娘を将軍が養女にして妻(めあわ)せた人で、今年四十五歳になっている。名をお千(せん)の方(かた)という。嫡子(ちゃくし)六丸は六年前に元服して将軍家から光(みつ)の字を賜わり、光貞(みつさだ)と名のって、従四位下侍従(じじゅう)兼肥後守(ひごのかみ)にせられている。今年十七歳である。江戸参勤中で遠江国(とおとうみのくに)浜松まで帰ったが、訃音(ふいん)を聞いて引き返した。光貞はのち名を光尚(みつひさ)と改めた。二男鶴千代(つるちよ)は小さいときから立田山の泰勝寺(たいしょうじ)にやってある。京都妙心寺出身の大淵和尚(たいえんおしょう)の弟子になって宗玄といっている。三男松之助は細川家に旧縁のある長岡氏に養われている。四男勝千代は家臣南条大膳(だいぜん)の養子になっている。女子は二人ある。長女藤姫(ふじひめ)は松平周防守(すおうのかみ)忠弘(ただひろ)の奥方になっている。二女竹姫はのちに有吉(ありよし)頼母(たのも)英長(ひでなが)の妻になる人である。弟には忠利が三斎(さんさい)の三男に生まれたので、四男中務(なかつかさ)大輔(たゆう)立孝(たつたか)、五男刑部(ぎょうぶ)興孝(おきたか)、六男長岡式部寄之(よりゆき)の三人がある。妹(いもと)には稲葉一通(かずみち)に嫁した多羅姫(たらひめ)、烏丸(からすまる)中納言(ちゅうなごん)光賢(みつかた)に嫁した万姫(まんひめ)がある。この万姫の腹に生まれた禰々姫(ねねひめ)が忠利の嫡子光尚の奥方になって来るのである。目上には長岡氏を名のる兄が二人、前野長岡両家に嫁した姉が二人ある。隠居三斎宗立(そうりゅう)もまだ存命で、七十九歳になっている。この中には嫡子光貞のように江戸にいたり、また京都、そのほか遠国にいる人だちもあるが、それがのちに知らせを受けて歎(なげ)いたのと違って、熊本の館(やかた)にいた限りの人だちの歎きは、わけて痛切なものであった。江戸への注進には六島少吉(むつしましょうきち)、津田六左衛門の二人が立った。
 三月二十四日には初七日(しょなぬか)の営みがあった。四月二十八日にはそれまで館の居間の床板(とこいた)を引き放って、土中に置いてあった棺(かん)を舁(か)き上げて、江戸からの指図(さしず)によって、飽田郡(あきたごおり)春日村(かすがむら)岫雲院(しゅううんいん)で遺骸(いがい)を荼※(「田+比」、第3水準1-86-44)(だび)にして、高麗門(こうらいもん)の外の山に葬った。この霊屋(みたまや)の下に、翌年の冬になって、護国山(ごこくざん)妙解寺(みょうげじ)が建立(こんりゅう)せられて、江戸品川東海寺から沢庵和尚(たくあんおしょう)の同門の啓室和尚が来て住持になり、それが寺内の臨流庵(りんりゅうあん)に隠居してから、忠利の二男で出家していた宗玄が、天岸和尚と号して跡つぎになるのである。忠利の法号は妙解院殿(みょうげいんでん)台雲宗伍大居士(たいうんそうごだいこじ)とつけられた。
 岫雲院で荼※(「田+比」、第3水準1-86-44)(だび)になったのは、忠利の遺言によったのである。いつのことであったか、忠利が方目狩(ばんがり)に出て、この岫雲院で休んで茶を飲んだことがある。そのとき忠利はふと腮髯(あごひげ)の伸びているのに気がついて住持に剃刀(かみそり)はないかと言った。住持が盥(たらい)に水を取って、剃刀を添えて出した。忠利は機嫌(きげん)よく児小姓(こごしょう)に髯を剃(そ)らせながら、住持に言った。「どうじゃな。この剃刀では亡者(もうじゃ)の頭をたくさん剃ったであろうな」と言った。住持はなんと返事をしていいかわからぬので、ひどく困った。このときから忠利は岫雲院の住持と心安くなっていたので、荼※(「田+比」、第3水準1-86-44)所(だびしょ)をこの寺にきめたのである。ちょうど荼※(「田+比」、第3水準1-86-44)の最中であった。柩(ひつぎ)の供をして来ていた家臣たちの群れに、「あれ、お鷹がお鷹が」と言う声がした。境内(けいだい)の杉(すぎ)の木立ちに限られて、鈍い青色をしている空の下、円形の石の井筒(いづつ)の上に笠(かさ)のように垂れかかっている葉桜の上の方に、二羽の鷹が輪をかいて飛んでいたのである。人々が不思議がって見ているうちに、二羽が尾と嘴(くちばし)と触れるようにあとさきに続いて、さっと落して来て、桜の下の井の中にはいった。寺の門前でしばらく何かを言い争っていた五六人の中から、二人の男が駈(か)け出して、井の端(はた)に来て、石の井筒に手をかけて中をのぞいた。そのとき鷹は水底深く沈んでしまって、歯朶(しだ)の茂みの中に鏡のように光っている水面は、もうもとの通りに平らになっていた。二人の男は鷹匠衆(たかじょうしゅう)であった。井の底にくぐり入って死んだのは、忠利が愛していた有明(ありあけ)、明石(あかし)という二羽の鷹であった。そのことがわかったとき、人々の間に、「それではお鷹も殉死(じゅんし)したのか」とささやく声が聞えた。それは殿様がお隠れになった当日から一昨日(おとつい)までに殉死した家臣が十余人あって、中にも一昨日は八人一時に切腹し、昨日(きのう)も一人切腹したので、家中誰(かちゅうたれ)一人(にん)殉死のことを思わずにいるものはなかったからである。二羽の鷹はどういう手ぬかりで鷹匠衆の手を離れたか、どうして目に見えぬ獲物(えもの)を追うように、井戸の中に飛び込んだか知らぬが、それを穿鑿(せんさく)しようなどと思うものは一人もない。鷹は殿様のご寵愛(ちょうあい)なされたもので、それが荼※(「田+比」、第3水準1-86-44)の当日に、しかもお荼※(「田+比」、第3水準1-86-44)所の岫雲院の井戸にはいって死んだというだけの事実を見て、鷹が殉死したのだという判断をするには十分であった。それを疑って別に原因を尋ねようとする余地はなかったのである。

 中陰の四十九日が五月五日に済んだ。これまでは宗玄をはじめとして、既西堂(きせいどう)、金両堂(こんりょうどう)、天授庵(てんじゅあん)、聴松院(ちょうしょういん)、不二庵(ふじあん)等の僧侶(そうりょ)が勤行(ごんぎょう)をしていたのである。さて五月六日になったが、まだ殉死する人がぽつぽつある。殉死する本人や親兄弟妻子は言うまでもなく、なんの由縁(ゆかり)もないものでも、京都から来るお針医と江戸から下る御上使との接待の用意なんぞはうわの空でしていて、ただ殉死のことばかり思っている。例年簷(のき)に葺(ふ)く端午の菖蒲(しょうぶ)も摘(つ)まず、ましてや初幟(はつのぼり)の祝をする子のある家も、その子の生まれたことを忘れたようにして、静まり返っている。
 殉死にはいつどうしてきまったともなく、自然に掟(おきて)が出来ている。どれほど殿様を大切に思えばといって、誰でも勝手に殉死が出来るものではない。泰平(たいへい)の世の江戸参勤のお供、いざ戦争というときの陣中へのお供と同じことで、死天(しで)の山三途(さんず)の川のお供をするにもぜひ殿様のお許しを得なくてはならない。その許しもないのに死んでは、それは犬死(いぬじに)である。武士は名聞(みょうもん)が大切だから、犬死はしない。敵陣に飛び込んで討死(うちじに)をするのは立派ではあるが、軍令にそむいて抜駈(ぬけが)けをして死んでは功にはならない。それが犬死であると同じことで、お許しのないに殉死しては、これも犬死である。たまにそういう人で犬死にならないのは、値遇(ちぐう)を得た君臣の間に黙契があって、お許しはなくてもお許しがあったのと変らぬのである。仏涅槃(ぶつねはん)ののちに起った大乗の教えは、仏(ほとけ)のお許しはなかったが、過現未(かげんみ)を通じて知らぬことのない仏は、そういう教えが出て来るものだと知って懸許(けんきょ)しておいたものだとしてある。お許しがないのに殉死の出来るのは、金口(こんぐ)で説かれると同じように、大乗の教えを説くようなものであろう。
 そんならどうしてお許しを得るかというと、このたび殉死した人々の中の内藤長十郎元続(もとつぐ)が願った手段などがよい例である。長十郎は平生(へいぜい)忠利の机廻りの用を勤めて、格別のご懇意をこうむったもので、病床を離れずに介抱をしていた。もはや本復は覚束(おぼつか)ないと、忠利が悟ったとき、長十郎に「末期(まつご)が近うなったら、あの不二と書いてある大文字の懸物(かけもの)を枕もとにかけてくれ」と言いつけておいた。三月十七日に容態が次第に重くなって、忠利が「あの懸物をかけえ」と言った。長十郎はそれをかけた。忠利はそれを一目見て、しばらく瞑目(めいもく)していた。それから忠利が「足がだるい」と言った。長十郎は掻巻(かいまき)の裾(すそ)をしずかにまくって、忠利の足をさすりながら、忠利の顔をじっと見ると、忠利もじっと見返した。
「長十郎お願いがござりまする」
「なんじゃ」
「ご病気はいかにもご重体のようにはお見受け申しまするが、神仏の加護良薬の功験で、一日も早うご全快遊ばすようにと、祈願いたしておりまする。それでも万一と申すことがござりまする。もしものことがござりましたら、どうぞ長十郎奴(め)にお供を仰せつけられますように」
 こう言いながら長十郎は忠利の足をそっと持ち上げて、自分の額(ひたい)に押し当てて戴いた。目には涙が一ぱい浮かんでいた。
「それはいかんぞよ」こう言って忠利は今まで長十郎と顔を見合わせていたのに、半分寝返りをするように脇(わき)を向いた。
「どうぞそうおっしゃらずに」長十郎はまた忠利の足を戴いた。
「いかんいかん」顔をそむけたままで言った。
 列座の者の中から、「弱輩の身をもって推参じゃ、控えたらよかろう」と言ったものがある。長十郎は当年十七歳である。
「どうぞ」咽(のど)につかえたような声で言って、長十郎は三度目に戴いた足をいつまでも額に当てて放さずにいた。
「情の剛(こわ)い奴(やつ)じゃな」声はおこって叱(しか)るようであったが、忠利はこの詞(ことば)とともに二度うなずいた。
 長十郎は「はっ」と言って、両手で忠利の足を抱(かか)えたまま、床の背後(うしろ)に俯伏(うつぶ)して、しばらく動かずにいた。そのとき長十郎の心のうちには、非常な難所を通って往き着かなくてはならぬ所へ往き着いたような、力の弛(ゆる)みと心の落着きとが満ちあふれて、そのほかのことは何も意識に上らず、備後畳(びんごたたみ)の上に涙のこぼれるのも知らなかった。
 長十郎はまだ弱輩で何一つきわだった功績もなかったが、忠利は始終目をかけて側近(そばちか)く使っていた。酒が好きで、別人なら無礼のお咎(とが)めもありそうな失錯(しっさく)をしたことがあるのに、忠利は「あれは長十郎がしたのではない、酒がしたのじゃ」と言って笑っていた。それでその恩に報いなくてはならぬ、その過(あやま)ちを償(つぐの)わなくてはならぬと思い込んでいた長十郎は、忠利の病気が重(おも)ってからは、その報謝と賠償との道は殉死のほかないとかたく信ずるようになった。しかし細かにこの男の心中に立ち入ってみると、自分の発意で殉死しなくてはならぬという心持ちのかたわら、人が自分を殉死するはずのものだと思っているに違いないから、自分は殉死を余儀なくせられていると、人にすがって死の方向へ進んでいくような心持ちが、ほとんど同じ強さに存在していた。反面から言うと、もし自分が殉死せずにいたら、恐ろしい屈辱を受けるに違いないと心配していたのである。こういう弱みのある長十郎ではあるが、死を怖(おそ)れる念は微塵(みじん)もない。それだからどうぞ殿様に殉死を許して戴こうという願望(がんもう)は、何物の障礙(しょうがい)をもこうむらずにこの男の意志の全幅を領していたのである。
 しばらくして長十郎は両手で持っている殿様の足に力がはいって少し踏み伸ばされるように感じた。これはまただるくおなりになったのだと思ったので、また最初のようにしずかにさすり始めた。このとき長十郎の心頭には老母と妻とのことが浮かんだ。そして殉死者の遺族が主家の優待を受けるということを考えて、それで己(おのれ)は家族を安穏な地位において、安んじて死ぬることが出来ると思った。それと同時に長十郎の顔は晴れ晴れした気色になった。

 四月十七日の朝、長十郎は衣服を改めて母の前に出て、はじめて殉死のことを明かして暇乞(いとまご)いをした。母は少しも驚かなかった。それは互いに口に出しては言わぬが、きょうは倅(せがれ)が切腹する日だと、母もとうから思っていたからである。もし切腹しないとでも言ったら、母はさぞ驚いたことであろう。
 母はまだもらったばかりのよめが勝手にいたのをその席へ呼んでただ支度が出来たかと問うた。よめはすぐに起(た)って、勝手からかねて用意してあった杯盤を自身に運んで出た。よめも母と同じように、夫がきょう切腹するということをとうから知っていた。髪を綺麗(きれい)に撫(な)でつけて、よい分のふだん着に着換えている。母もよめも改まった、真面目(まじめ)な顔をしているのは同じことであるが、ただよめの目の縁(ふち)が赤くなっているので、勝手にいたとき泣いたことがわかる。杯盤が出ると、長十郎は弟左平次を呼んだ。
 四人は黙って杯を取り交わした。杯が一順したとき母が言った。
「長十郎や。お前の好きな酒じゃ。少し過してはどうじゃな」
「ほんにそうでござりまするな」と言って、長十郎は微笑を含んで、心地(ここち)よげに杯を重ねた。
 しばらくして長十郎が母に言った。「よい心持ちに酔いました。先日からかれこれと心づかいをいたしましたせいか、いつもより酒が利いたようでござります。ご免をこうむってちょっと一休みいたしましょう」
 こう言って長十郎は起って居間にはいったが、すぐに部屋の真ん中に転がって、鼾(いびき)をかきだした。女房があとからそっとはいって枕を出して当てさせたとき、長十郎は「ううん」とうなって寝返りをしただけで、また鼾をかき続けている。女房はじっと夫の顔を見ていたが、たちまちあわてたように起って部屋へ往った。泣いてはならぬと思ったのである。
 家はひっそりとしている。ちょうど主人の決心を母と妻とが言わずに知っていたように、家来も女中も知っていたので、勝手からも厩(うまや)の方からも笑い声なぞは聞こえない。
 母は母の部屋に、よめはよめの部屋に、弟は弟の部屋に、じっと物を思っている。主人は居間で鼾をかいて寝ている。あけ放ってある居間の窓には、下に風鈴をつけた吊荵(つりしのぶ)が吊ってある。その風鈴が折り折り思い出したようにかすかに鳴る。その下には丈(たけ)の高い石の頂(いただき)を掘りくぼめた手水鉢(ちょうずばち)がある。その上に伏せてある捲物(まきもの)の柄杓(ひしゃく)に、やんまが一疋(ぴき)止まって、羽を山形に垂れて動かずにいる。
 一時(ひととき)立つ。二時(ふたとき)立つ。もう午(ひる)を過ぎた。食事の支度は女中に言いつけてあるが、姑(しゅうとめ)が食べると言われるか、どうだかわからぬと思って、よめは聞きに行こうと思いながらためらっていた。もし自分だけが食事のことなぞを思うように取られはすまいかとためらっていたのである。
 そのときかねて介錯(かいしゃく)を頼まれていた関小平次が来た。姑はよめを呼んだ。よめが黙って手をついて機嫌を伺っていると、姑が言った。
「長十郎はちょっと一休みすると言うたが、いかい時が立つような。ちょうど関殿も来られた。もう起こしてやってはどうじゃろうの」
「ほんにそうでござります。あまり遅くなりません方が」よめはこう言って、すぐに起(た)って夫を起しに往った。
 夫の居間に来た女房は、さきに枕をさせたときと同じように、またじっと夫の顔を見ていた。死なせに起すのだと思うので、しばらくは詞(ことば)をかけかねていたのである。
 熟睡していても、庭からさす昼の明りがまばゆかったと見えて、夫は窓の方を背にして、顔をこっちへ向けている。
「もし、あなた」と女房は呼んだ。
 長十郎は目をさまさない。
 女房がすり寄って、そびえている肩に手をかけると、長十郎は「あ、ああ」と言って臂(ひじ)を伸ばして、両眼を開いて、むっくり起きた。
「たいそうよくお休みになりました。お袋さまがあまり遅くなりはせぬかとおっしゃりますから、お起し申しました。それに関様がおいでになりました」
「そうか。それでは午(ひる)になったと見える。少しの間だと思ったが、酔ったのと疲れがあったのとで、時の立つのを知らずにいた。その代りひどく気分がようなった。茶漬(ちゃづけ)でも食べて、そろそろ東光院へ往かずばなるまい。お母(か)あさまにも申し上げてくれ」
 武士はいざというときには飽食(ほうしょく)はしない。しかしまた空腹で大切なことに取りかかることもない。長十郎は実際ちょっと寝ようと思ったのだが、覚えず気持よく寝過し、午(ひる)になったと聞いたので、食事をしようと言ったのである。これから形(かた)ばかりではあるが、一家(いっけ)四人のものがふだんのように膳(ぜん)に向かって、午の食事をした。

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