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寿阿弥の手紙(じゅあみのてがみ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-7 9:39:34 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


     二十六

 次に遠く西に離れて、茱萸ぐみの木の蔭にやゝ新しい墓石があつて、これも臺石に長島氏と彫つてある。墓表には男女二人の戒名が列記してある。男女の戒名は、「淨譽了蓮居士、寛政八辰天しんてん七月初七日」と「蓮譽定生大※[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、223-下-20]、文政五午天ごてん八月二十日」とで、其中間に後に「遠譽清久居士、明治三十九年十二月十三日」の一行が彫り添へてある。了蓮は過去帳別本の十代五郎作、定生は同本の十二代五郎兵衞養母、清久は師岡久次郎即ち高野氏石の亡夫である。
 定生には父母があつて過去帳別本に見えてゐる。父は「本住院活法日觀信士、天明四年甲辰かふしん十二月十七日」、母は「靈照院妙慧日耀信女めうゑにちえうしんによ、文化十二年乙亥おつがい正月十三日」で、ならびに橋場長照寺に葬られた。日觀の俗名は別本に小林彌右衞門と註してある。然るに了蓮の祖母知性の母幽妙の下にも、別本に小林彌右衞門妻の註がある。此二箇所に見えてゐる小林彌右衞門は同人であらうか、又は父子襲名であらうか。又定生の外祖母と稱するものも別本に見えてゐる。「貞圓妙達比丘尼びくに、天明七年丁未ていび八月十一日」と書し、深川佐賀町一向宗と註してあるものがすなはちこれである。
 了蓮と定生との關係、清久の名を其間にまじへた理由は、過去帳別本の記載に由つて明にすることが出來ない。師岡氏未亡人は或はわたくしに教へてくれるであらうか。
 わたくしが光照院の墓の文字を讀んでゐるうちに、日はやうやく暮れむとした。わたくしのために香華を墓に供へたおうなは、「蝋燭らうそくとぼしてまゐりませうか」と云つた。「なに、もう濟んだからい」と云つて、わたくしは光照院を辭した。しかし江間、長島の親戚關係は、到底墓表と過去帳とにつて、明め得べきものでは無かつた。壽阿彌の母、壽阿彌の妹、壽阿彌の妹の夫の誰たるをつまびらかにするに至らなかつたのは、わたくしの最も遺憾とする所である。
 わたくしは新石町の菓子商眞志屋が文政の末から衰運に向つて、一たび二本傳次に寄り、又轉じて金澤丹後に寄つて僅に自ら支へたことを記した。眞志屋は衰へて二本に寄り、二本が眞志屋とともに衰へて又金澤に寄つたと云ふ此金澤は、そもそもどう云ふ家であらう。
 わたくしが此「壽阿彌の手紙」を新聞に公にするのを見て、或日金澤蒼夫さうふと云ふ人がわたくしに音信を通じた。わたくしは蒼夫さんを白金臺町の家に訪うて交を結んだ。蒼夫さんは最後の金澤丹後で、祖父明了軒以來西村氏の後を承け、眞志屋五郎兵衞の名義を以て水戸家に菓子を調進した人である。
 初めわたくしは澀江抽齋傳中の壽阿彌の事蹟を補ふに、其尺牘せきどく一則を以てしようとした。然るにはからずも物語は物語を生んで、斷えむと欲しては又續き、こゝに金澤氏に説き及ぼさざることを得ざるに至つた。わたくしは此最後の丹後、眞志屋の鑑札をびて維新前まで水戸邸の門を潜つた最後の丹後をまのあたり見て、これを緘默かんもくに附するに忍びぬからである。

     二十七

 眞志屋と云ふ難破船が最後にぎ寄せた港は金澤丹後方である。當時眞志屋が金澤氏に寄つた表向の形式は「同居」で、其同居人は初め五郎作と稱し、後嘉永七年即安政元年に至つて五郎兵衞と改めたことが、眞志屋文書に徴して知られる。文書の收むる所は改稱の願書で、其願が聽許ていきよせられたか否かは不明であるが、かくの如き願が拒止せらるべきではなささうである。
 しかし此五郎作の五郎兵衞は必ずしも實に金澤氏の家に居つたとは見られない。現に金澤蒼夫さうふさんは此の如き寓公ぐうこうの居つたことを聞き傳へてゐない。さうして見れば、單に寄寓したるものゝ如くに粧ひ成して、公邊を取り繕つたのであつたかも知れない。
 蒼夫さんの知つてゐる所を以てすれば、金澤氏が眞志屋の遺業を繼承したのは、蒼夫の祖父明了軒の代の事である。これより以後、金澤氏は江戸城に菓子を調進するためには金澤丹後の名を以て鑑札を受け、水戸邸に調進するためには眞志屋五郎兵衞の名を以て鑑札を受けた。金澤氏の年々受け得た所の二樣の鑑札は、蒼夫さんの家のはこに滿ちてゐる。鑑札は白木の札に墨書して、烙印らくいんを押したものである。札はあな穿うがを貫き、おほふに革袋かはぶくろを以てしてある。革袋は黒の漆塗で、その水戸家から受けたものには、眞志の二字が朱書してある。
 想ふに授受が眞志屋と金澤氏との間に行はれた初には、よしや實に寓公たらぬまでも、眞志屋の名前人が立てられてゐたが、後に至つては特にこれを立つることをもちゐなかつたのではなからうか。兎に角金澤氏の代々の當主は、徳川將軍家に對しては金澤丹後たり、水戸宰相家に對しては眞志屋五郎兵衞たることを得たのである。「まあ株を買つたやうなものだつたのでせう」と蒼夫さんは云ふ。今の語を以て言へば、此授受の形式は遂に「併合」に歸したのである。
 眞志屋の末裔ばつえいが二本に寄り、金澤に寄つたのは、たゞに同業のよしみがあつたのみではなかつたらしい。二本は眞志屋文書に「親類麹町二本傳次方」と云つてある。又眞志屋の相續人たるべき定五郎は「右傳次方私從弟定五郎」と云つてある。皆眞志屋五郎兵衞が此の如くに謂つたのである。金澤氏は果して眞志屋の親戚であつたか否か不明であるが、試に系譜を檢するに、貞享中に歿した初代相安院清頓の下に、「長島※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)校」に嫁した女子がある。このむこは或は眞志屋の一族長島氏の人であつたのではなからうか。
 金澤氏はもと増田氏であつた。豐臣時代に大和國郡山やまとのくにこほりやまの城主であつた増田長盛の支族で、かつて加賀國金澤に住したために、商家となるに及んで金澤屋と號し、後單に金澤と云つたのださうである。系譜の載する所の始祖は又兵衞と稱した。相摸國三浦郡蘆名村に生れ、江戸に入つて品川町に居り、魚をひさぐを業とした。蒼夫さんの所有の過去帳に、「相安院淨譽清頓信士、貞享五年五月二十五日」と記してある。

     二十八

 増田氏の二代三右衞門は、享保四年五月九日に五十八歳で歿した。法諡ほふし實相院頓譽淨圓居士である。此人が菓子商の株を買つた。
 三代も亦同じく三右衞門と稱し、享保八年七月二十八日に三十七歳で歿した。法諡寂苑院じやくをんゐん淨譽玄清居士である。四代三右衞門の覺了院性譽一鎚いつつゐ自聞居士は、明和六年四月二十四日に四十六歳で歿した。五代三右衞門の自適齋眞譽東里威性居士は、天保六年十月五日に八十四歳で歿した。此人は増田氏累世中で、最も學殖あり最も文事ある人であつた。所謂いはゆる田威、あざな伯孚はくふ、別號は東里である。詩を善くし書を善くして、一時の名流に交つた。文政四年に七十の賀をした時、養拙齋高岡秀成、字は實甫じつぽと云ふものが壽序を作つて贈つた。二本傳次の妻は東里が長女の第八女であつた。眞志屋が少くも此家と間接に親戚たることは、此一條のみを以てしても證するに足るのである。六代三右衞門はわたくしのけみした系譜に載せて無い。増田氏はよゝ駒込願行寺を菩提所としてゐるのに、獨り此人は谷中長運寺に葬られたさうである。七代三右衞門は天保十一年十月二日に四十四歳で歿し、寶龍院乘譽依心連戒居士と法諡ほふしせられた。
 あんずるに此頃に至るまでは、金澤三右衞門は丹後と稱せずして越後と稱したのではなからうか。文化の末に金澤瀬兵衞と云ふものが長崎奉行ぶぎやうを勤めてゐたが、此人は叙爵の時越後守ゑちごのかみとなるべきを、菓子商の稱を避けて百官名を受け、大藏少輔おほくらせういうにせられたと、大郷信齋の道聽塗説どうていとせつに見えてゐる。或はおもふに道聽塗説の越後は丹後の誤か。
 八代は通稱金藏で、天保三年七月十六日に六十一歳で歿した。法諡ほふし梅翁日實居士である。九代は又三右衞門と稱し、後に三すけと改めた。素細工頭もとさいくがしら支配玉屋市左衞門の子である。明治十年十一月十一日に六十四歳で歿し、明了軒唯譽深廣連海居士と法諡ほふしせられた。十代三右衞門、後の稱三左衞門は明治二十年二月二十六日に歿し、榮壽軒梵譽利貞至道居士と法諡せられた。此榮壽軒の後を襲いだ十一代三右衞門が今の蒼夫さんで、大正五年に七十一歳になつてゐる。その丹後掾たんごのじようと稱したのは前代の勅賜に本づく。
 天保元年に眞志屋十二代の五郎兵衞清常が歿した時、増田氏の金澤には七十九歳の自適齋東里、五十九歳の梅翁、三十四歳の寶龍院依心、十七歳の明了軒深廣、十歳の榮壽軒利貞が並存してゐた筈である。嘉永七年に最後の眞志屋名前人五郎作が五郎右衞門と改稱した時に至ると、明了軒が四十一歳、榮壽軒が三十四歳、弘化二年生の蒼夫さんが九歳になつてゐた筈である。
 わたくしはさきに、眞志屋最後の名前人五郎作改め五郎兵衞は定五郎ではなからうかと云つた。それは定五郎が眞志屋文書に載する所の最後の家督相續者らしく見えるからであつた。しかし更に考ふるに、此定五郎はいくばくならずしてめられ、天保弘化の間に明了軒がこれに代つてゐて、所謂五郎作改五郎兵衞は明了軒自身であつたかも知れない。
 眞志屋の自立してゐた間の菓子店は、既にしば/\云つたやうに新石町、金澤の店は本石町二丁目西角であつた。

     二十九

 わたくしは駒込願行寺に増田氏の墓を訪うた。第一高等學校寄宿舍の西、こうぢに面した石垣の新に築かれてゐるのが此寺である。露次を曲つて南向の門に入ると、左に大いなる鑄鐵の井欄せいらんを見る。井欄の前面に掌大しやうだい凸字とつじを以て金澤と記してある。恐らくは増田氏の盛時のかたみであらう。
 墓は門を入つて右に折れて往く塋域えいゐきにある。上に佛像を安置した墓の隣に、屋盖形やねがたのある石が二基並んで、南に面して立つてゐる。臺石には金澤屋とり、墓には正面から向つて左の面に及んで、許多あまたの戒名が列記してある。讀んで行く間に、明了軒のおくりなが系譜には運海と書してあつたのに、此には連海に作つてあるのに氣が付いた。金石文字は人の意を用ゐるものだから、或は系譜の方が誤ではなからうか。
 拜し畢つて歸る時、わたくしは曾ておもてを識つてゐる女子に逢つた。恐くは願行寺の住職の妻であらう。此女子はさきの日わたくしに細木香以の墓ををしへてくれた人である。
「けふは金澤の墓へまゐりました。先日金澤の老人に逢つて、先祖の墓がこちらにあるのを聞いたものですから。」とわたくしは云つた。
「さやうですか。あれはこちらの古い檀家だんかだと承はつてゐます。昔の御商賣は何でございましたでせう。」
「菓子屋でした。徳川家の菓子の御用を勤めたものです。維新前の菓子屋の番附には金澤丹後が東の大關になつてゐて、風月堂なんぞは西の幕の内の末の方に出てゐます。本郷の菓子屋では、岡野榮泉だの、藤村だの、船橋屋織江だのが載つてゐますが、皆幕外まくそとです。なんでも金澤は將軍家や大名ばかりを得意先にしてゐたものだから、維新の時に得意先と一しよに滅びたのださうです。今の老人の細君は木場の萬和のむすめです。里親の萬屋和助なんぞも、維新前の金持の番附には幕の内に這入はひつてゐました。」
 わたくしはこんな話をして女子に別を告げた。美しい怜悧れいりらしい言語の明晰めいせきな女子である。
 増田氏歴代の中で一人谷中長運寺に葬られたものがあると、わたくしは蒼夫さんに聞いた。家に歸つてから、手近い書に就いて谷中の寺を※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)したが、長運寺の名は容易たやすく見附けられなかつた。そこでわたくしはあやまり聞いたかも知れぬと思つた。後に武田信賢著墓所集覽で谷中長運寺を※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)出して往訪したが、増田氏の墓は無かつた。寺は渡邊治右衞門別莊の邊から一乘寺の辻へ拔ける狹い町の中程にある。
 蒼夫さんはわたくしの家を訪ふ約束をしてゐるから、若し再會したら重ねて長運寺の事をも問ひたゞして見よう。

     三十

 諸書の載する所の壽阿彌の傳には、西村、江間、長島の三つの氏を列擧して、曾て其交互の關係に説き及ぼしたものが無かつた。わたくしは今淺井平八郎さんのもたらし來つた眞志屋文書に據つて、記載のもつれを解きほぐし、あきらめ得らるゝだけの事を明めようと努めた。次で金澤蒼夫さんを訪うて、系譜をけみし談話を聽き、壽阿彌去後の眞志屋のなりゆきを追尋して、あらゆるトラヂシヨンの絲を斷ちつた維新の期に※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53)およんだ。わたくしの言はむと欲する所のものはほゞこゝに盡きた。
 然るに淺井、金澤兩家の遺物文書の中には、※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)閲の際にわたくしの目に止まつたものも少く無い。左に其二三を録存することゝする。
 淺井氏のわたくしに示したものゝ中には、壽阿彌の筆跡と稱すべきものが少かつた。袱紗ふくさに記した縁起、西山遺事の書後並に欄外書等は、自筆とは云ひながらはなはだ意を用ゐずして寫した細字に過ぎない。これに反してわたくしは遺物中に、小形の短册二葉を絲でぢ合せたものゝあるのを見た。其一には「七十九のとしのくれに」と端書して「あすはみむ八十やそのちまたのかどの松」と書し、下に一の壽字が署してある。今一葉には「八十やそになりけるとしのはじめに」と端書して「今朝ぞ見る八十のちまたの門の松」と書し、下に「壽松」と署してある。
 此二句は書估しよこ活東子が戲作者小傳に載せてゐるものと同じである。小傳には猶「月こよひ枕團子まくらだんごをのがれけり」と云ふ句もある。活東子は「或年の八月十五夜に、病重く既に終らむとせしに快くなりければ、月今宵云々と書いて孫に遣りけるとぞ」と云つてゐる。
 壽阿彌は嘉永元年八月二十九日に八十歳で歿したから、歳暮の句は弘化四年十二月晦日みそかの作、歳旦の句は嘉永元年正月ついたちの作である。後者は死ぬべき年の元旦の作である。これより推せば、月今宵の句も同じ年の中秋に成つて、後十四日にしてやまひすみやかなるに至つたのではなからうか。活東子は月今宵の句を書いて孫に遣つたと云つてゐるが、壽阿彌には子もなければ孫もなかつただらう。別に「まごひこに別るゝことの」云々と云ふ狂歌が、壽阿彌の辭世として傳へられてゐるが、わたくしは取らない。
 月今宵は少くも灑脱しやだつの趣のある句である。歳暮歳旦の句はこれに反して極て平凡である。しかし萬葉の百足もゝたらず八十のちまたを使つてゐるのが、壽阿彌の壽阿彌たる所であらう。
 短册の手迹しゆせきを見るに、壽阿彌は能書であつた。字に※(「女+無」、第4水準2-5-80)びぶの態があつて、老人の書らしくは見えない。壽の一字を署したのは壽阿彌の省略であらう。壽松の號は他に所見が無い。

     三十一

 連歌師としての壽阿彌は里村昌逸の門人であつたかと思はれる。わたくしは眞志屋の遺物中にある連歌の方式を書いた無題號の寫本一册と、弘化嘉永間の某年正月十一日柳營之御會と題した連歌の卷數册とを見た。無題號の寫本は表紙に「如是縁庵によぜえんあん」と書し、「壽阿彌陀佛印」の朱記がある。卷尾には「享保八年癸卯きばう七月七日於京都、里村昌億翁以本書、乾正豪寫之」と云ふ奧書があつて、其次の餘白に、「先師次第」と題した略系と「玄川先祖より次第」と題した略系とが書き添へてある。連歌の卷々には左大臣として徳川家慶いへよしの句が入つてゐる。そして嘉永元年前のものには必ず壽阿彌が名を列して居る。
 先師次第にはかう記してある。「宗祇そうぎ、宗長、宗牧、里村元祖昌休しやうきう紹巴せうは、里村二代昌叱しやうしつ、三代昌琢しやうたく、四代昌程、弟祖白、五代昌陸、六代昌億、七代昌迪しやうてき、八代昌桂、九代昌逸、十代昌同」である。玄川先祖より次第にはかう記してある。「法眼はふげん紹巴、おなじく玄仍げんじよう、同玄陳、同玄俊、玄心、紹尹せうゐん、玄立、玄立、法橋ほつけう玄川寛政六年六月二十日法橋」である。
 二種の略系は里村兩家の承統次第を示したものである。宗家昌叱のすゑよゝ京都に住み、分家玄仍の裔は世江戸石原に住んでゐた。しかし後には兩家共京住ひになつたらしい。
 わたくしは此略系を以て壽阿彌の書いたものとして、宗家の次第に先師と書したことに注目する。里村宗家は恐くは壽阿彌の師家であつたのだらう。然るに十代昌同は壽阿彌の同僚で、連歌の卷々に名を列してゐる。其「先師」は一代をさかのぼつて故人昌逸とすべきであらう。昌逸昌同共に「百石二十人扶持京住居」と武鑑に註してある。
 壽阿彌の連歌師としての同僚中、坂昌功は壽阿彌と親しかつたらしい。眞志屋の遺物中に、「壽阿彌の手向たむけに」と端書して一句を書し、下に「昌功」と署した短册たんざくがある。坂昌功は初め淺草黒船町河岸に住し、後根岸に遷つた。句は秋季である。しかし録するに足らない。川上宗壽が連歌を以て壽阿彌に交つたことは、※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)ひつだうに遣つた手紙に見えてゐた。
 眞志屋の扶持は初め河内屋島が此家に嫁した時、米百俵づつ三季に渡され、次で元文三年に七人扶持に改められ、九代一鐵の時寛政五年に暫くの内三人半扶持を減して三人半扶持にせられたことは既に記した。眞志屋文書中の「文化八年ひつじの正月御扶持渡通帳おんふちわたしかよひちやう」に據るに、此後文化五年戊辰ぼしんに「三人半扶持の内一人半扶持借上二人扶持被下置くだしおかる」と云ふことになつた。これは十代もしくは十一代の時の事である。眞志屋文書はこれより後の記載をいてゐる。然るに金澤蒼夫さんの所藏の文書に據れば、天保七年丙申に又「一人扶持借上暫くの内一人扶持被下置」と云ふことになり、終に初の七人扶持が一人扶持となつたのである。しかし此一人扶持は、明治元年藩政改革の時に至るまで引き續いて、水戸家が眞志屋の後繼者たる金澤氏に給してゐたさうである。

     三十二

 西村廓清の妻島の里親河内屋半兵衞が、西村氏の眞志屋五郎兵衞と共に、よゝ水戸家の用達であつたことは、はやく海録の記する所である。しかしわたくしは眞志屋の菓子商たるを知つて、河内屋の何商たるを知らなかつた。そのこれを知つたのは、金澤蒼夫さんを訪うた日の事である。
 わたくしは蒼夫さんの家に於て一の文書を見た。其中に「河内屋半兵衞、元和中より麪粉類めんふんるゐ御用相勤」云々しか/″\の文があつた。河内屋は粉商であつた。島は粉屋の娘であつた。わたくしの新に得た知識はたゞにそれのみではない。河内屋が古くより水戸家の用達をしてゐたとは聞いてゐたが、いつからと云ふことを知らなかつた。その元和以還の用達たることは此文に徴して知られたのである。慶長中に水戸頼房入國の供をしたと云ふ眞志屋の祖先に較ぶれば少しく遲れてゐるが、河内屋も亦早く元和中に威公頼房の用達となつてゐたのである。
 金澤氏六代の増田東里には、弊帚集へいさうしふと題する詩文稿があることを、蒼夫さんに聞いた。わたくしはにはかに聞いて弊帚の名の耳に熟してゐるのを怪んだ。後に想へば、水戸の栗山潜鋒くりやませんぽうに弊帚集六卷があつて火災にかゝり、弟敦恒とんこうが其燼餘じんよを拾つて二卷を爲した。載せて甘雨亭叢書かんうていそうしよの中にある。東里の集はたま/\これと名を同じうしてゐたのであつた。
 わたくしの言はむと欲した所は是だけである。只最後に附記して置きたいのは、師岡未亡人石と東條琴臺の家との關係である。
 初め高野氏石に一人の姉があつて、名をさくと云つた。さくは東條琴臺の子信升しんしように嫁して、名をふぢと改めた。ふぢの生んだ信升の子はえうし、其むすめが現存してゐるさうである。
 淺井平八郎さんの話に據るに、石はかつて此縁故あるがために、東條氏の文書を託せられてゐた。文書は石が東條氏の親戚たる下田歌子さんに交付したさうである。
 わたくしは琴臺の事蹟をつまびらかにしない。聞く所に據れば、琴臺は信濃しなのの人で、名は耕、あざな子臧しざう小字をさななは義藏である。寛政七年六月七日芝宇田川町に生れ、明治十一年九月二十七日に八十四歳で歿した。文政七年林氏の門人籍に列し、昌平黌しやうへいくわうに講説し、十年榊原遠江守政令さかきばらとほたふみのかみまさなりに聘せられ、天保三年故あつて林氏の籍を除かれ、弘化四年榊原氏の臣となり、嘉永三年伊豆七島全圖をあらはして幕府の譴責けんせきを受け、榊原氏の藩邸に幽せられ、四年たくせられて越後國高田に往き、戊辰ぼしんの年にはなほ高田幸橋町みゆきばしちやうに居つた。明治五年八月に七十八歳で向島龜戸かめゐど神社の祠官しくわんとなり、眼疾のために殆ど失明して終つたと云ふことである。先哲叢談續編に「先生後獲罪せんせいはのちにつみをえて謫在越之高田ながされてえつのたかだにあり、(中略)無幾王室中興いくばくもなくわうしつちゆうこうす先生嘗得列官于朝せんせいはかつてくわんをてうにれつすることをう」と書してある。琴臺の子信升の名は、平八郎さんに由つて始て聞いたのである。

(大正五年五・六月)





底本:「筑摩全集類聚森鴎外全集第四巻」筑摩書房
   1971(昭和46)年11月5日初版第1刷発行
   1972(昭和47)年6月20日初版第2刷発行
※「道聽途説」と「道聽塗説」の混在は底本通りにしました。またルビの混在(p203-下-11では「だうていとせつ」、p226-上-23では「どうていとせつ」)も底本通りにしました。
入力:篠森
校正:小林繁雄
2005年1月26日作成
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    「蒙-くさかんむり」    196-下-16
    「去/廾」    204-下-9
    「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」    222-下-19、222-下-229、223-上-1、223-上-10、223-下-1、223-下-2、223-下-3、223-下-8、223-下-20

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