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津下四郎左衛門(つげしろうざえもん)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-7 9:54:45 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 薫子の書は田中不二麿若くは丹羽淳太郎、後の名賢の手より出で、前海相八代やしろ氏の実兄尾藩※(「石+(蒲/寸)」、第3水準1-89-18)はうはく隊士松山義根よしねを経て、尾張小牧郵便局倉知伊右衛門さんの有に帰し、倉知氏はわたくしを介してこれを津下氏に贈与した。倉知氏はその薫子の自筆なることを信じてゐる。一説に薫子の書の正本は丹波国船井郡新荘しんしやう村船枝の船枝神社の神職西田次郎と云ふ人が蔵してゐると云ふ。是は三宅武彦さんの語る所である。
 薫子の書は既に印行せられたことがある。それは「開成学校御構内辻(新次)後藤(謙吉)両氏蔵版遠近新聞第五号、明治二年四月十日発兌はつだ」の冊中にある。新聞は尾佐竹氏が蔵してゐる。上に載する所は倉知本を底本とし、遠近新聞の謄本を以て対校した。二本には多少の出入がある。倉知本の自筆なることはやゝ疑はしい。
 御牧みまき基賢さんの云ふを聞くに、薫子は容貌が醜くかつたが、女丈夫ぢよぢやうふであつた。昭憲皇太后の一条家におはしました時、経書を進講した事がある。又自分も薫子の講書を聴いた事がある。国事を言つたために謹慎を命ぜられ、伏見宮家職かしよく田中氏にあづけられた。後に失行があつたために士林のよはひせざる所となり、須磨明石すまあかし辺に屏居へいきよして歿したらしいと云ふことである。
 薫子の詩歌は往々世間に伝はつてゐる。三宅武彦さんは短冊を蔵してゐる。大正四年六月明治記念博覧会が名古屋の万松寺に開かれた。其出品中に薫子の詩幅があつた。「幽居日日易凄涼いうきよ ひびせいりやうたりやすく兀坐愁吟送夕陽こつざ しうぎん せきやうをおくる午枕清風知暑退ごちん せいふう しよのしりぞくをしり暁窓残雨覚更長げうさう ざんう かうのながきをおぼゆ人間褒貶事千古じんかんのほうへん ことせんこ身世浮沈夢一場しんせいのふちん ゆめいちぢやう設使幾回遭挫折たとひいくくわいかざせつにあふも依然不変旧疎狂いぜんかはらずきうそきやう早秋囚居さうしうしうきよにて。薫子。」いんくわがあつて、文に「菅氏」とつてあつた。若江氏は菅原姓であつたと見える。是は倉知氏の写して寄せたものである。又薫子が「神州男子幾千万しんしうだんしいくせんまん歎慨有誰与我同たんがいす たれかわれとおなじきものあらんやと」の句を書したのをたと云ふ人がある。
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 若江修理大夫のむすめ薫子の事は、既に一たび上に補説したが、わたくしは其後本多辰次郎さんに由つて、修理大夫の名を量長かずながと云ひ、かつ諸陵頭しよりようのかみたりしことを聞いた。それゆゑ芝葛盛さんに乞うて此等の事を記してもらつた。下の文がすなはち此である。
 女子薫子の父若江量長は伏見宮家職の筆頭で、殿上人てんじやうびとの家格のあつた人である。この若江氏はもと菅原氏で、その先は式部しきぶ権大輔ごんのたいふ菅原公輔のだん在公から出てゐる。初め壬生坊城と号し、後に中御門といひ、更に改めて若江と称した。在公より十代目に当る長近の時、初めて伏見宮に候することになつた。長近は寛文四年三月廿九日に生れ、享保五年七月九日五十七歳で卒した人である。量長は長近より五代目に当る公義の子で、文化九年十二月十三日誕生、文政八年三月廿八日十四歳を以て元服、越後権介ごんのすけに任じ、同日院昇殿をゆるされ、その後弾正少弼だんじやうせうひつを経て修理大夫に至り、位は天保十三年十二月廿二日従四位上に叙せられたことまでは、地下家伝ぢげかでんによつて知ることが出来る。更に又野宮定功のゝみやさだいさの日記によるに、元治元年二月二十四日に諸陵寮再興の事が仰出されたがその時諸陵頭に任ぜられたものはこの量長であつた。併し量長は山陵の事に就て格別知識があつた訳ではないらしい。山陵の事に関しては専らその下僚たる大和介やまとのすけ谷森種松と筑前守ちくぜんのかみ鈴鹿勝芸との両人に打ちまかしたやうである。さてその娘薫子については面白い事がある。薫子が女丈夫であつて、学和漢にわたり、とりわけ漢学をくした所から、昭憲皇太后の一条家におはしました時、経書を進講したといふ事は御牧基賢さんの話にも見えて居るが、戸田忠至履歴といふものに次の如き記事がある。「皇后陛下御入輿じゆよの儀に付ては、維新前年より二条殿、中山殿等ことほか心配致され、両卿より忠至に心懸御依頼に付奔走の折柄、兼て山陵の事に付懇意たりし若江修理大夫娘薫儀、一条殿姫君御姉妹へ和歌其外の御教授申上居事を心付き、同人へ皇后宮の御事相談に及び候処、一条殿御次女の方は特別の御方に渡らせられ候由薫申聞候に付、右の段二条、中山両卿へ内申に及び候処忠至参殿の上とくと御様子見上げ参るべき様にとの御内おんうち沙汰ざたかうむり、右薫と申談じ、同人同道一条殿へ参殿の上御姉妹へ拝謁、御次女の御方御様子復命に及びたり。此場合に二条殿には御嫌疑の為め御役御免に相成、御婚姻御用係を命ぜらる、万事御用向担当とゞこほり無く御婚儀相済あひすませられたり云々。」此によつて見れば、昭憲皇太后の御入内ごじゆだいには、薫子の口入があづかつて力があつたらしく見える。慶応三年六月昭憲皇太后の入内治定じゆだいぢぢやうの事が発表せられ、つい御召抱おめしかゝへ※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)じやうらふ、中※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)等の人選があつたが、その際この薫子にも改めて御稽古の為参殿の事を申付けられた。橋本実麗さねあきら卿記是年このとし八月九日の条に、「又若江修理大夫妹年来学問有志がくもんにこゝろざしあり於今天晴いまにおいてあつぱれ宏才之きこえ有之候間、女御にようご為御稽古参上可然哉否しかるべきやいなや、於左大将殿可宜御沙汰よろしかるべきごさたに付被談由だんぜられしよし、於予可然しかるべく存候間其旨申答了そのむねまうしこたへをはんぬ」と見えて居るが、一条家の書類御入用御用記を見ると、九月三日の条に、「伏見宮御使則賢出会之処、過日御相談被進候若江修理大夫女おふみ女御様御素読そどく御頼に被召候而も御差支無之旨御返答也」とあつて、その十日には、「女御御方、此御方御同居中御本御講釈之儀、お文殿に御依頼被成度候事」と見えて、十五日には御稽古の為局口つぼねぐち御玄関より参殿、孝経を御教授申上げたことが見えて居る。是はけだし女御御治定に付き改めてこの御沙汰があつたもので、この時初めて御稽古申上げたものではあるまい。但し実麗卿記に修理大夫の妹とせるは如何なる訳であらうか。又その名のお文といへるは薫子の前名であつたのであらうか。昭憲皇太后御入内後薫子の宮中に出入した事に就ては、その徴証を見出さない。恐くは国事に奔走した事などの為め、御召出しのはこびに行かなかつたものであらう。のち失行があつて終をよくしなかつたのも惜しむべきである。上田景二君の昭憲皇太后史には、「皇太后御入内後も薫子は特別の御優遇を賜つたが、明治十四年に讃岐さぬきの丸亀において安らかに歿し、その遺蹟は今もなほ残つてゐる」と書かれて居るが、その拠る処をあきらかにしがたい。
 私(芝氏)は量長が一時諸陵頭であつた関係から、其の寮官であつた故谷森種松(後に善臣)翁の次男建男さんに就いて何か見聞して居ることはないかを聞かうと試みた。(善臣翁は私の外祖父、建男さんは叔父に当るのである。)その言はるゝ所はかうである。京都の出水でみづ辺に若江の天神といふ小祠があつて、その側に若江氏は住んで居た。十歳位の時でもあつたか、或日父につれられて若江氏の宅を訪うた事があつた。その時量長の娘であるといふ二人の女子にも会つた。妹の方は普通の婦女で、髪もすべらかしにして公卿の娘らしい風をしてゐたが、姉の方は変つた女で、色も黒く、御化粧もせず、髪も無造作に一束につかねて居つた。男まさりの女で、しきりに父に向つて論議をいどんで居つたことを記憶する。父もかういふ女には辟易へきえきすると云つてゐた。これが即ち薫子であつただらう。後に不行跡のあつた事も聞いてゐるが、何分家の生計も豊かでなかつたから、誘惑を受けたについては、むしろ同情に値するものがあつたであらう。讃岐辺で死んだ事も事実であらうが、普通の死ではなかつたかと思ふ。自分はこの婦人が量長の妹であつたとは思はない。娘として引きあはされたやうに記憶するといふことであつた。





底本:「鴎外歴史文學集 第三巻」岩波書店
   1999(平成11)年11月25日発行
※漢詩に添えられた訓読文は略し、代えてルビ形式で書き下しを添えた。書き下しに当たっては、底本の訓読文を参考とした。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2001年8月28日公開
2006年5月6日修正
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    「やまいだれ+可」    163-11

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