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衝突心理(しょうとつしんり)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/11/9 9:22:42 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

 昭和九年四月一日の午前十時頃、神奈川県川崎の警察署へ新聞記者が五六人集まって、交通巡査から夕刊記事を貰っていた。
 それは一寸(ちょっと)聞いたところ、極めて簡単明瞭な交通事故であった。
 その早朝の三時頃、京浜国道川崎市の東の出外(ではず)れでトラック同志が衝突した。突きかけた方は同県下子安(こやす)、妹田(いもだ)農場の一噸積(トンづみ)シボレーの使い古した牛乳車(トラック)で、衝突と同時に機械と運転台をメチャメチャにした上に、運転手の蟹口才六(かにぐちさいろく)(三十一)は頭蓋骨粉砕、頸骨、左肋骨(ろっこつ)を打折り即死、助手兼、乳搾夫(ちちしぼり)、山口猿夫(さるお)(十七)は左脚の大腿部を骨折し人事不省に陥っている。又、突っかけられた方の車は、深川の三徳製材会社用、新着のビック特製二噸(トン)半積(づみ)ダブルタイヤで、横浜市外の渋戸(しぶと)材木倉庫から米松(べいまつ)を運搬すべく、交通の少い夜半に同国道を往復していたもので、損害といってはヘッド・ライトと機械を打壊(うちこわ)し、前部右車軸を押し歪(ゆが)めて運転不能に陥り、運転手、戸若市松(とわかいちまつ)(二十九)は硝子(ガラス)の破片による前額部の裂傷、治療一週間を負うて一時失神、同乗の助手と材木仲仕の二人が、顔面や胸部に治療二三週間の打撲傷を負うて、同じく一時失神しただけであった。
 衝突の原因は小型シボレーの牛乳車(トラック)がヘッド・ライトを消したのに対して、大型ビックの材木トラックの運転手戸若市松が、ヘッド・ライトを消さなかったため、牛乳車(トラック)の運転手、蟹口が、眼を眩(くら)まされてハンドルを過(あやま)ったらしい事が、その朝になって意識を回復した同乗者、材木仲仕某の言によって判明した……というだけで新聞記者は皆満足して記事を作上(つくりあ)げて帰った……が、しかし若いロイド眼鏡をかけた交通巡査は、記者たちにそう説明しながらも何となく腑に落ちない点があるように思った。
 交通規則の中に、夜間、自動車同志がスレ違った時にヘッド・ライトを消すべしという箇条は別にない。ただ、お互い同志が眩しくて危険なために消し合うのが一つの不文律、兼、仁義(あいさつ)みたようになっているのであるが、しかし、たとい相手がヘッド・ライトを消さなかったにしてもコースの不安定な自転車ならばイザ知らず、慣れた運転手ならば眩しい方向に吸い寄せられてブッツケ合うようなヘマをする気遣いは先(ま)ずないといってもいいので、その点に就いて川崎署の交通巡査はチョッとした不審を起したらしい。傷の手当が済んで元気を恢復した大型トラックの運転手、戸若市松を巡査部長室に連れ込んで、その当時の模様を今一度聞いてみた。
「相手は、お前の車のヘッド・ライトが眩しいためにハンドルを誤ったんだな」
「……ヘエ……」
 戸若運転手は何故か返事を躊躇した。青白い魘(おび)えたような眼付きで交通巡査の顔を見た。
「どうかね。衝突の原因について、ほかに心当りはないんか。ええ?」
「……ヘエ……」
 活動俳優みたような好男子の戸若運転手は、無粋な恰好に巻いた頭の繃帯をうなだれた。
「免状を見るとお前は、かなり古い運転手やないか」
「……ヘエ……」
「どうしてヘッド・ライトを消さなかったんか。別に咎(とが)める訳じゃないが」
「……………」
 黙って考え込んでいた戸若運転手は、やがてゴックリと一つ大きくうなずいた。何事か決心したらしく深いため息をして顔を上げた。昂奮したらしく眼を光らして乾燥(かわ)いた唇を嘗(な)めた。
「……ハイ。実は殺されるのが恐ろしゅう御座いましたので……」
「……ナニ……殺される……」
 交通巡査はビックリしたようにロイド眼鏡をかけ直し、腕章を上の方へ押上げた。
「フーム。妙な事を云うのう。ヘッド・ライトを消やせば何故、殺されるんか……お前アタマがどうかしとらせんか」
 戸若運転手は眼をしばたたいた。気の弱い男らしく泪(なみだ)を一パイに溜めると、机の向側の端に両手を突いて頭を下げた。
「ヘイ、恐れ入ります。私はモウすっかり前非後悔をしております。何も彼(か)も白状致します」
「フーム。白状するちうて何か悪い事でもしたんか」
「ヘエ。私は大罪人です。姦通(まおとこ)と泥棒(ぬすっと)の二重の大罪人です。それを知っている者は、あの惨死しました蟹口さんだけです。蟹口さんは私から、女と二千円の金を盗まれたまま、黙っていてくれたのです。しかしあの恐ろしい死顔を見たら迷(まよい)の夢が醒めました。何もかも白状致します……ハイ……ハイ……」
 戸若運転手は机の端にヒレ伏したまま涙をバラバラと落し初めた。
「……ちょっと待て……ちょっと……」
 少々驚いたらしい交通巡査は、帳面片手に立上ってソソクサと部長室を出て行った。広間の大火鉢の前で煙草を吸っている巡査部長の傍へ近付いてコソコソと耳打ちした。
「そんな事を云い出したもんですから……どうも僕の受持ではなさそうです。ちょっと立合って頂きたいんですが」
 巡査部長は面倒臭そうにアクビしいしいうなずいた。向い合って煙草を吸っている二人の刑事をかえり見た。
「この頃ソンナ話は聞かんな。姦通とか、二千円の盗難とか……」
 二人の刑事は眼をパチパチさせて部長を仰いだ。一人が頭を左右に振った。
「おかしいですね」
「ブツカッた拍子に頭が変テコになったんじゃねえかな」
「ウム。とにかく君等も一所(いっしょ)に来てくれ給い」
 部長と二人の刑事が交通巡査を先に立てて部長室に這入(はい)った。
 四人の警官に取巻かれた戸若運転手はチョッと魘(おび)えたらしい。サッと唇の色をなくしたが、交通巡査が注(つ)いで遣った熱い茶を啜(すす)ると又一つホッと溜息をした。覚悟をきめたらしく、次のような奇怪な陳述を初めた。

 戸若運転手は鹿児島の生れで、昭和六年に同郷の先輩蟹口運転手を頼って上京し、一所に東京虎の門の千番トラックに勤めていた。蟹口は好人物の変り者という評判であったが、兄貴分だけに戸若を色々と世話して、着物や金を与えた事が度々であった。だから戸若は蟹口を深く恩に着ていた。
 戸若は千番トラックのギャレジの二階に寝泊りしていたが、蟹口は、淀橋(よどばし)で煙草店を出している妻女ツル子(二十五)の処から通勤していた。その妻女のツル子というのは、頑固な、グロテスクな顔をした蟹口とは正反対に江戸前のスッキリした別嬪(べっぴん)で、この上なしの亭主孝行、又蟹口も自烈度(じれった)いくらいの嬶(かかあ)孝行というのが評判であった。
 蟹口夫婦の間に子供はなかったが、蟹口は植木物が好きで、狭い庭に縁日から買って来た朝顔や、茄子(なす)や、トマトの鉢を並べ、店先にも見事な朝顔や、菊を飾ったりしたので、それが目印になって煙草店が益々繁昌して行くらしかった。戸若は一度、そのツル子に会って今までの礼を云いたい云いたいと思っていたが、忙しいのでツイ機会を失していた。
 ところが一昨昭和七年の夏、蟹口は突然に二三日の予定で神戸に行く事になった。何でも千番トラックの主人の命令で、神戸へ行って、中古(ちゅうぶる)のトラックを二台仕入れて来る……という話であったが、出かける時に、
「戸若君。済まんが俺の留守中に、植木鉢へ水を遣ってくれんか。朝はツル子が遣るが、午後になると店からドウしても手が離されんけに……な。頼んますど……」
 と呉々(くれぐれ)も云いおいて行った。
 戸若は喜んで引受けた。翌(あく)る日は午後から半日、暇を貰って頼まれた通りに蟹口の処へ来て、ツル子に色々と永々(ながなが)の礼を述べた。それから植木鉢の世話をツル子の指図通りにしたが、その時に、お互いに魔がさしたとでも云おうか。ツル子が無理に引止めて戸若に夕飯の御馳走をしたのがキッカケとなって、二人は退引(のっぴき)ならぬところへ陥込んでしまった。

 二人がズルズルと深間(ふかま)に陥る早さよりも、そうした噂(うわさ)の立つスピードの方が早かった。
 すると、その噂を聞いたものか、どうだかわからないが、蟹口は突然に、戸若にもダンマリで千番トラックを引いて、ツル子と共に淀橋の煙草店まで引払い、子安の妹田農場の専属運転手となった。そうしてその中(うち)に、だんだんと園芸の方へ頭が傾いて来たらしく、農場内の自宅の庭へ苺(いちご)や胡瓜(きゅうり)の小さな温床(フレーム)を造ったり、屋根一面に南瓜(かぼちゃ)の蔓(つる)を這わしたりして肥料(こやし)の異臭(におい)を着物まで沁(し)み込まして喜んでいた。……今にどこかで小さな土地を買って速成栽培でも遣ろうか。毛唐相手にすれば苺一粒が十二銭……胡瓜一本が三十銭もするんだから……などと妻のツル子へ相談することがあった。
 しかしツル子は極力不賛成を唱えた。折角油の異臭(におい)に慣れたところに、肥料(こやし)のにおいなんか押し付けられちゃ、たまらない……なぞと我儘を突張(つっぱ)った。無理にも亭主に運転手稼業を止めさせまいとした。
 ツル子と戸若の関係は切れていないのであった。結局蟹口がどうしても農業に転向するものと見込をつけた姦夫姦婦は、蟹口が汗を絞った貯金二千余円を捲上げる計劃を立てた。
 戸若は一昨昭和七年の十二月の初めの或る夕方、日が暮れると直ぐに、蟹口の留守宅に忍び入り、ツル子を細帯で縛り上げ、猿轡(さるぐつわ)を噛ました上で、二千円の貯金の通帳と印形(いんぎょう)を奪って逃走した。アトにはオモチャのピストルを一梃落しておいた。
 程なく帰って来た蟹口は、この体(てい)を見て大いに狼狽し、警察に訴えようとしたが、ツル子は私の恥が明るみに出るから厭(いや)だと主張して、とうとう訴えさせなかった。そうして、それから三日ばかり経った頃、
「妾(わたし)は一旦、泥棒に身を穢(けが)された以上、貴方(あなた)のような潔白な、正しい人の妻になる事は出来ません。思い切って死にますから縁のない昔と諦めて下さい。貴方の好きな人と結婚して下さい。妾は人の知らない処に死骸を隠したいのですから、どうぞ警察に届けないで下さい。妾の恥を曝(さら)さないようにして下さい。妾の一生のお願いです。
 妾は泣きながら死にます。死んで貴方の幸福を祈ります」
 という意味の遺書(かきおき)を残して、真昼間(まっぴるま)、家出してしまった。好人物の蟹口はこの遺書(かきおき)を真面目に信じて、届出(とどけで)なかったらしい。

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