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笑う唖女(わらうおしおんな)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/11/10 10:34:16 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 彼は突然に眼を閉じ、唇を噛締(かみし)めて、雑木藪(ぞうきやぶ)の中を盲滅法(めくらめっぽう)に驀進(ばくしん)し初めた。あたかも背後から追かけて来る何かの怖ろしい誘惑から逃れようとするかのように、又は、それが当然、意志の薄弱な彼が、責罰として受けねばならぬ苦行であるかのように、袷衣(あわせぎぬ)一枚の全身にチクチク刺さる松や竹の枝、露(あら)わな向う脛(ずね)から内股をガリガリと引っ掻き突刺す草や木の刺針の行列の痛さを構わずに、盲滅法に前進した。全身汗にまみれて、息を切らした。そうして胸が苦しくなって、眼がまわりそうになって来た時、突然に、前を遮(さえぎ)る雑木藪の抵抗を感じなくなったので、彼はヒョロヒョロとよろめいて立佇(たちど)まった。
 彼はまだ眼を閉じていた。はだかった胸と、露(あら)わになった両脚を吹く涼しい風を感じながら、遠く近くから疎(まばら)に聞こえて来るツクツク法師の声に耳を傾けていた。山中(やまじゅう)の静けさがヒシヒシと身に泌(し)み透るのを感じていた。
 突然、鳥とも獣(けだもの)とも附かぬ奇妙な声がケタタマシク彼を驚ろかした。
「ケケケケケケケケケ……」
 彼はビックリして眼を見開いた。彼は山の中の空地の一端に佇(たたず)んでいたのであった。
 そこは巨大な楠や榎に囲まれた丘陵の上の空地であった。この村の昔の名主の屋敷趾(あと)で、かなりに広い平地一面に低い小笹がザワザワと生え覆(かぶ)さっている。その向うの片隅に屋根が草だらけになって、白壁がボロボロになった土蔵が一戸前、朽ち残っていた。
 その倉庫の二階の櫺子(れんじ)窓から白い手が出て一心に彼をさし招いている。その手の陰に、凄い程白く塗った若い女の顔と、気味の悪い程赤い唇と、神々(こうごう)しいくらい純真に輝く瞳と、額に乱れかかった夥(おびただ)しい髪毛が見えた。それが窓から挿(さ)し込む烈しい光線に白い歯を美しく輝やかした。
「……キキキ……ヒヒヒ……ケケケ……」
 その幽霊のように凄い美くしさ……なまめかしさ。眼も眩(くら)むほどの魅惑……白昼の妖精……。
 彼は骨の髄までゾーッとしながら前後左右を見まわした。
 彼の頭の上には真夏の青空がシーンと澄み渡って蝉の声さえ途絶(とだ)え途絶えている。彼を見守っているものは、空地の四方を囲む樹々の幹ばかりである。
 彼は全身を石のように固くした。静かに笹原を分けて土蔵の方へ近付いた。
 窓の顔が今一度嬉しそうにキキと笑った。すぐに手を引込めて、窓際から離れて、下へ降りて行く気はいであった。
 土蔵の戸前には簡単な引っかけ輪鉄が引っかかって、タヨリない枯枝が一本挿し込んで在るキリであった。それを引抜くと同時に内側で、落桟を上げる音がコトリとした。彼は眼が眩んだ。呼吸を喘(はず)ませながら重い板戸をゴトリゴトリと開けた。
「キキキキキキキキキ……」

 そこまで考え続けて来ると彼は寝床の中で一層身体を引縮めた。背後にスヤスヤと睡っているらしい花嫁……初枝の寝息を鉄瓶の湯気の音と一所に聞きながらなおも考え続けた。

 ……それは彼の生れて初めての過失であると同時に、彼の良心の最後の致命傷であった。
 その後、その重大な過失の相手である唖女のお花が行衛(ゆくえ)不明となり、そのお花の言葉を理解し得るタッタ一人の父親、門八が、彼女を無くした悲しみの余りに首を縊(くく)って死んだと聞いた時には彼は、正直のところホッとしたものであった。最早(もはや)、天地の間に彼の秘密を知っている者は一人も無い。この僅かな秘密の記憶一つを、彼自身がキレイに忘れて終(しま)いさえすれば、彼は今まで通りの完全無欠の童貞……絶対無垢の青年として評判の美人……初枝を娶(めと)る事が出来るのだ。
「おお神様。神様。どうぞこの秘密をお守り下さい。この私の罪をお忘れ下さい。もう決して……決して二度とコンナ事をしませんから……」
 と彼は人知れず物蔭で、手を合わせた事さえ在ったくらい、そうした思い出そのものを恐れ、戦(おのの)き、後悔していた。そうして彼は幸福にも一日一日と日を送って行くうちに、もう殆んど、そうした良心の傷手(いたで)を忘れかけていた。彼は彼自身の社会に対する一切の野心と慾望を擲(なげう)って、美人の妻と一所に田舎に埋もれるという、涙ぐましいほどに甘美な夢を、安心して、夜となく昼となく逐(お)い続けているところであった。
 その甘美な夢が、今、無残(むざん)にもタタキ破られてしまったのであった。
 時も時……折も折……忘れるともなく忘れて、消えるともなく消え失せていた彼の過去の微(かす)かな秘密が、突然に、何千、何万、何億倍された恐ろしい現実となって彼の眼の前に出現し、切迫して来たのであった。
 見るも浅ましい孕(はら)み女。物を得(え)言(い)わぬ聾唖者。それが口にこそ云い得ね、手真似にこそ出し得ね、正当な彼の妻である事を現実に立証し、要求すべく立現われて来たのであった。それは、ほかの人間たちには絶対にわからない、ただ彼にだけ理解される恐ろしい、不可抗的な復讐に相違なかった。
 ……もしも彼女がタッタ一言でも物を云い得たら……否々(いないな)。一人でも彼女の手真似を正当に理解し得る者が居たら……そうして、それだけの恐怖、不安、戦慄を、今日の日に限ってこの家の玄関に持込んで来たのが、彼女の意識的な計劃であったら……。
 ……それがさながらに悪魔の智慧(ちえ)で計劃された復讐のように残酷な、手酷(てきび)しい時機と場面を選んで来た事はトテモ偶然と思えない。白痴の一つ記憶(おぼえ)式の一念で、云わず語らずのうちに彼女がそうしたところを狙って、時機を待っていたかのようにも思える。又は全然そうでないかのようにも思える……。
 ……そうした判断の不可能な事を考え合せると、その恐怖、不安、戦慄が更に更に神秘数層倍されて来るのであった。
 彼は思わず今一度ゾッとして身体を縮めた。パッチリと眼を見開いて、静かに振返ってみると花嫁の初枝は、夜具の襟に顔を埋めてスヤスヤと眠っているようである。
 彼は極めて注意深くソロソロと夜具を脱け出した。枕元の障子をすこしずつすこしずつ音を立てないように開けて廊下に出て、足音を窃(ぬす)み窃み渡殿(わたりどの)伝いに母屋(おもや)の様子を窺った。
 家中が森閑(しんかん)と寝静まって給仕人の足音も途絶えている。勝手の方の灯も消えてしまって、ただ奥座敷に寝ているらしい伝六郎の寝言(ねごと)とも歌とも附かぬグウダラな呆(ぼ)け声が聞えている……その声を聞き聞き彼は真暗な中廊下を抜けて、玄関脇の薬局の扉を開いた。
 薬局の三方硝子(ガラス)窓の外は雪のように輝やいていた。西に傾いて一段と冴え返った満月に眩しく照らされた巴旦杏(はたんきょう)の花が、鉛色の影を大地一面に漂(ただよ)わしていた。
 中央の調薬台の前に立った彼は恍惚としてその白い光りに見惚(みと)れていた。そうして今日までに彼が見たり聞いたりした幾多の所謂(いわゆる)成功者、すなわち立志伝中の人々が……如何に残忍な、血も涙も無い卑怯な方法をもって弱者を蹂躙(じゅうりん)し、踏殺(ふみころ)して来たかを聯想し、想起し続けていた。
 ……俺もその一人にならなければならぬ。否々。もっともっと強い人間にならねばならぬ。貴い俺自身の一生涯……これだけの頭脳と、智識と……この若い血と、肉と、豊かな情緒とをあの見苦しい、淋(さび)しい廃物同然の唖女の一生と釣換(つりか)えにしてたまるものか……これは当然の事なのだ、天地自然の理法なのだ。ちっとも恥ずるところはない。咎(とが)められるところもない。ただ他人に見咎(みとが)められさえしなければ……疑われさえしなければいいのだ。ちっとも構わない。何でもない事なのだ。
 そんな事を考えまわしているうちに、いつの間にか、雪の光りに包まれたような寒さを感じ初めたので、彼はハッとして吾(われ)に帰った。
 頭のシンは睡(ね)むくてたまらないのに、意識だけはシャンシャンと冴え返っているような気持で彼は、正面の薬戸棚の抽出(ひきだし)から小さなカプセルを一個取出した。それから突当りの薬戸棚の硝子戸を開いて、きょう昼間、頓野老人が持出した黒柿の秘薬箱を今一度取出して、調合棚の上に置いた。その中から、やはり今日頓野老人が扱った塩酸モルヒネの小瓶を抓(つま)み出して、その中の白い粉末の小量を、月の光りに透かしながらカプセルに落し込んだが、多過ぎると思ったらしく又、その中の極微量を小瓶の中へ落し返してからカプセルの蓋をシッカリと蔽(おお)うた。それから何もかもモト通りに直して、薬戸棚の硝子戸をピッタリと閉じた。
 その時に彼の背後の、開放(あけはな)しにして来た廊下の暗闇で微かな、深い溜息が聞こえたように思ったので、彼はハッとばかり固くなった。慌ててカプセルを右手に握り込んだまま、指先走りに廊下に出てみたが、しかしそこには何の人影も無く、真暗な中廊下の向うの、閉め忘れて来た渡殿(わたりどの)の入口の片側に、白桃の花が白々と月あかりに見えたので、今度は彼自身が思わず、深いタメ息をさせられた。
 彼は彼自身を勇気付けるかのようにタッタ一人で微笑した。悠々と薬局に帰って、小型のビーカーを取上ると常水を六分目程満たした。塩酸モルヒネ入りのカプセルと一所に左手に持って、薬局用のスリッパを爪探(つまさぐ)った。薬局の横の扉の掛金を外(はず)して、勝手口の外側に出た。
 軒下の暗がり伝いに足音を窃(ぬす)み窃み、台所の角に取付けた新しいコールタ塗(ぬり)の雨樋(あまどい)をめぐって、裏手の風呂場と、納屋の物置の廂合(ひさしあ)いの下に来た。
 そこでは西へ傾いた月が、かなり深い暗がりを作って、直ぐ横手の白光りする土蔵の壁を、真四角に区切っていた。

 彼は絶対に音を立てないように……まだ痲酔(まひ)しているであろう唖女の眼を醒まさないように、用心しいしい納屋の扉の掛金を外した。
 ……すると……納屋の中の暗がりで、突然にガサガサと藁(わら)の音がし初めた。たまらない乞食臭い異臭がムウと襲いかかって来た。……と思う間もなく獣のように髪を振乱した怪物……逞ましい、………………………唖女が飛出して来て、イキナリ彼に抱き付いた。心から嬉しそうに笑った。
「キイキイキイ……キキキキキ……」
 その鵙(もず)さながらの声は月夜の建物と、その周囲をめぐる果樹園に響き渡って消え失せた。
 彼は一切が破滅したように思った。眼も眩むほど胸がドキンドキンとした。全身にゾーッと生汗(なまあせ)を掻きながら今一度、静かに左右を振返ってみたが、その彼の怯(おび)えた視線は、タッタ今通って来た台所の角の、新しい黒い雨樋の処へピタリと吸い寄せられた。同時に彼の全神経が水晶のように凝固してしまった。
 そこには離座敷から、彼の行動を跟(つ)けて来たらしい花嫁の初枝の、冴え返った顔が覗いていた。昨夜のままの濃化粧と、口紅のクッキリとした、高島田の金元結(きんもとゆい)の艶(なま)めかしい、黒い大きな瞳を一パイに見開いた人形のような瓜実顔(うりざねがお)が、月の光りに浮彫(うきぼ)りされたまま、半分以上雨樋の蔭から覗き出して、彼の姿を一心に凝視しているのであった。
 彼はソレを月の光りに照し出された巴旦杏の花の幻覚かと思った。右手で左右の眼をグイグイと強くコスッて今一度よく見直した。
 それは、たしかに花嫁の初枝の顔に相違なかった。鬢(びん)のホツレ毛が二三本、横頬に乱れかかっているのが、傾いた月の光りでハッキリと見えた。その二つの黒い瞳が、マトモに此方を凝視したまま大きく、ユックリと二つばかり瞬(またた)いたのが見えた。同時に、その真白い頬から大粒の涙の球が、キラリキラリと月の光りを帯びて、土の上に滴(した)たり落ちるのが見えた。
 彼は、彼の足元の大地が、その涙の落ちて行く方向にグングンと傾いて行くように感じた。持っているビーカーを取落しそうになった。
 その時に彼に取縋(とりすが)っているオドロオドロしい姿が、泥だらけの左手をあげて、初枝の顔を指した。勝誇るように笑った。
「ケケケケ……エベエベエベ……キキキキ……」
 人形のような高島田の顔が、静かに雨樋の蔭から離れた。長々と地面に引擦(ひきず)った燃立つような緋縮緬(ひぢりめん)の長襦袢(ながじゅばん)の裾に、白い脛(すね)と、白い素足が交(かわ)る交る月の光りを反射しいしい、彼の眼の前に近付いて来た。
 彼はカプセルを自分の口に入れた。ビーカーの水を……その中にゆらめく月の光りを凝視しつつ……思い切ってガブガブと飲んだ。





底本:「夢野久作全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年9月24日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:小林繁雄
2000年6月21日公開
2006年3月14日修正
青空文庫作成ファイル:
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