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三面一体の生活へ(さんめんいったいのせいかつへ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-22 10:15:22 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 露西亜ロシヤ人はどの国よりも逸早いちはやくこの点に覚醒して平和の解決を望んだので、その目的は極めて善いのですが、惜しいことに適当な指導者を持たなかったために、無知と短気とから不自然な過程を取って、過激派のような暴状を現出するに至りました。露西亜人の性情と境遇からはああした無茶苦茶な、間違った過程を取らねばならなかったのかも知れませんが、それに由って世界の人間は反対な教訓を受取り、どの国民も決してあの暴状をねようとは考えないのですから、露西亜人は世界人類のために前車の覆轍ふくてつを示したことになります。また露西亜人とても何時いつまで今日のような無紀律な状態が続けられるものでもありません。きっとこの颶風ぐふうが過ぎたら、その善良な平和の目的を温健に貫徹するための手腕ある代表者が現れて、世界の期待を空しくしないでしょう。
 翻って我々日本人の現状を見ると、露西亜の過激派のような常規を逸した狂的平和主義者の現れそうな国柄でないのは結構であるとして、その代りに、この世界思潮の急激な転機に対して弾力ある積極的な反応を示す所が殆ど見当りません。人々は戦争以前に比べて何らの旺盛な生活欲も加えず、何らの向上的な生活理想も建てず、何らの進歩した実際生活も開展している様子はないようです。社会の儀表たるべき人々が多数は見苦しい利己主義に専心し、その少数の尊敬に値する人々にしてもわずかに善い意味の個人主義生活に停滞しているに過ぎません。人々はなお戦前の思想を以て生きているのです。これを戦争以来の欧米諸国にみなぎる急激な思想の推移に比べると日本人の生活は甚だしく微温な、退屈な、現状維持的な、日和見ひよりみ的な、弛緩した外貌を呈しております。あるいは文壇と思想界の一部に人道主義や民主主義が唱えられております。それはきっとそれらの主張者である少数の青年学徒たちやそれを共鳴する一部の青年たちの真実の要求であるでしょうが、それが社会の各部門における代表者たちの生活に何ほどの刺戟と利益とを与えているかと思うと、思想家の主張は実際に活動している社会と今なお概ね没交渉であって、如何に熱心と真理とを以て叫ばれた事でも、それが改革運動となって実現されるに非常に縁の遠いものであることを知って憮然ぶぜんたらざるを得ません。この事は毎月毎日の新聞雑誌へ真面目まじめに筆を執っている人たちのひとしく実感せられる所であろうと思います。
 私は弛緩した日本人の生活の一例に、現代の世界的大勢に刺戟せられて特に倫理的に緊張したという様子のないのを挙げたく思います。最近に三宅雄次郎みやけゆうじろう博士は『東京朝日』紙上で故乃木のぎ将軍の遺書が伯爵寺内正毅てらうちまさたけ氏に由って書き替えられたと公言せられ、また同時に男爵後藤新平ごとうしんぺい氏の私有財産は二千万円に達している、それは後藤氏の労働から収得した正当な報酬であるかと詰問されております。これらの事件が欧米の社会で公言されたならば、二氏の人格は破滅してその首相たり内相たる地位から永久に失脚するか、あべこべに摘発者の三宅博士が裁判沙汰によって公人の生活から放逐せられるかして、いずれかの一方が由々ゆゆしき倫理的制裁を受けずにはまないでしょう。しかし寺内、後藤二氏はこの致命的事件に対して全く知らぬふりをし、同僚の閣臣も、貴衆両議院も、政党も、教育界も一般社会も平然としてこれを看過しております。寺内、後藤二氏非なるか、三宅博士是なるか、それを明らかにすることなくして、この一国の風教に関係ある重大なる問題は、軽々に取扱われてしまうのです。しかし人の母たる私たちに取っては、こういう事実が新聞紙上に現れるごとに、言い知らぬ不快と公憤とを感じます。母の心にも、子供たちの心にも、大官となるに従って、あくまでも利己的生活を遂げるために、如何なる非倫不徳の行為を重ねても――それは一般人に対しては小学の修身読本においてすら厳禁されてある事でありながら――彼らの特権として道徳的にも法律的にも制裁されないものであるということの疑惑が保留されるのを、白日はくじつの下に何人も裁決してはくれないのです。これを思うと、しばしば内閣議長となった政界の名士のカイヨウ氏を現に売国的行為の嫌疑によって厳格な審判を加えつつある仏蘭西フランス人の倫理的敏感をうらやまないでいられません。
 今一つ日本人の生活の弛緩している例には日本人の直接の指導に当る教育界の無気力無精神を挙げたく思います。この事は教育者自身に早く気の附いている所であって、その証拠には、この三、四年間の各教育雑誌ほど不平不満の文字の満載されたものはないのです。教育者たちの中の進歩主義者は、私たちが想像している以上に我国の教育と教育界とを極端に弊害の多いものとして痛論しているのです。それらの文字だけを読んでいると、これだけ多数の不平家が教育界に集っている以上、教育の改革は今にも教育界の内部から爆発しそうに頼もしく思われるのですが、それはわずかに文字に表現するまでの不平不満であり、改革的意気であることを知るに至って、その志士的口吻の溢れた文字も、唯だ日比谷ひびやの議院における喧囂けんごうと一般の感をくに過ぎなくなります。私はそれらの実行的勇気を欠いた教育者の例に教育界の如何なる名家を引証することをも辞しません。かの人たちは皆利己主義的生活または個人主義的生活に余りに忠実であって、それ以上の高級な生活への飛躍に卑怯ひきょうであるのです。
 各種の教育雑誌に現れる議論において教育の統一と独立とを主張するのに勇気ある教育者たちが、どうして、現代教育の本義に考えてお門違いな陸軍的精神の掣肘せいちゅうを受ける兵式体操を拒絶しないのでしょうか。私は軍人のためにこそ兵式体操の必要を認めます。しかし普通教育には正当な目的があります。小学や中学において(大学においては勿論)軍人という一部の特殊な公職に就くための専門教育を施すことは肯定されません。普通教育において施すべきものは、体育のための体操の範囲に終始すべきものであると思います。山川帝大総長の如き教育者の頭目が極端な国民皆兵主義の実現と、今一つは、奉公、節制、柔順、細心というような美徳を養成する目的とで兵式体操の採用を奨励し、現役軍人をしてこれが教授の任に当らしめようとせられるのは、老人の非常識でなければ軍閥に対する気兼とでもいうものでしょうか。近世において国民皆兵主義を極端に実行したのは独逸ドイツの官僚政治家です。独逸はこれがためににわかに腕力の強者となりました。そうして平和主義的な文明諸国から嫉視された通り、その武力の過度な膨脹は果して世界の危険を馴致じゅんちしてこの度の大戦争となりました。今や世界の生活理想の方向は一転しています。国民皆兵主義の根本思想である軍閥主義や侵略主義はウィルソン大統領の宣言を待たずして、世界の反対する所です。これに気が附かないのは非常識であり、なおそれを知りながら田中参謀次長らに由って唱えられる国民皆兵主義に呼応されるのは奇体だと思います。大元帥を兼ねさせられた明治天皇の御製を拝見しても、世界人類を一視同仁の中に包容し給う御聖旨をしばしば示されているにかかわらず、侵略主義征服主義の覇王はおう的な御精神は少しもうかがうことが出来ません。日本の軍人の目的は正大です。文明諸国から独逸の国民皆兵主義と混同されるような危険な施設を、特に好んで今後の教育に添加する必要はありません。
 臨時教育会議というものが内閣に直属して現に開催されております。これなどは戦後経営の予備行動として計画されたのだといいますから、私は母たる義務としても最初からこれに注意を払おうとしたのですが、その議員の多数の顔触かおぶれを一見しただけで既に莫迦々々ばかばかしいという気がするのでした。小松原氏平田氏という風な老人の官僚たちに、戦争以来の急激な推移を看破する一隻眼があり、それを受容する敏捷な神経があり、それに対して、日本人の生活の照準を合せ得る溌剌はつらつたる見識が十分に備っているという信用を、持ち得る者が果して幾人あるでしょうか。私はこの顔触を見て、戦時の英露二国に、ロイド・ジョオジとケレンスキイとが出現した当時の百分の一の緊張をも感じることが出来ませんでした。今日は真に戦後の生活を、世界の大勢と呼応して改造しようとするなら、どの方面においても新らしい青壮年の実力ある偉材を英断に抜擢ばってきして、第一に日本人の耳目を刺戟し、気分の刷新、心情の緊張を計って、ふやけた、保守的妥協的の悪気風を一掃して掛かる意気込が必要です。抜擢しようとすれば、教育界にもその他の社会にもそれだけの実力を抱きながら、空しく雌伏しふくしている人材は無数にあります。私の考えをいえば、臨時教育会議は今のような顔触を一切廃して、東西両大学、各高等学校、男女各高等師範、私立大学、中学、高等女学校等の俊秀な青壮年教授を主として抜擢し、それに教育界以外の同じく青壮年の識者をあらゆる社会から代表的に選択して組織すべきであって、その議題は少数の時代遅れな老政治家、老教育家達に由って決定されるほどの閑問題でないのですから、その討議も今のように秘密主義で通すことなく、一々これを国民の前に公表すべきものであると思います。私は一人の婦人教育家をも加えない教育会議というものは全く世界の趨勢すうせいを透察せず、日本の女子を蔑視べっしした不親切きわまる組織だと考えます。
 果して私の想像していた通り、あの顔触で出来上った臨時教育会議からは、今日まで、一九一七年の春に英国の議院でなされた彼国の新文部大臣フィッシャア氏の大演説が異邦の我々さえもえりを正さしめたような、時代と国情とに痛切な、合理的勇断的な教育上の改革意見を聴く事が出来ません。世界の尊敬に価するような教育上の対現代的見識も持たずに――即ち基礎となる正大な見識も持たずに――高等学校を甲と乙と二種設ける程度の、姑息な学制の改変に留まるような教育会議に、私たちは大した信頼が払われましょうか。これに対して実力ある抗議が教育界から起らないのを見ても、教育者たちの平生の不平や改革意見が甚だ頼もしくない、微温な、物蔭の泣言や大言壮語に過ぎなくなってしまいます。(一九一八年一月)

(『太陽』一九一八年一月)





底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年8月16日初版発行
   1994(平成6年)年6月6日10刷発行
底本の親本:「若き友へ」白水社
   1918(大正7)年5月初版発行
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志
2002年5月14日作成
2003年5月18日修正
青空文庫ファイル:
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