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富岡先生(とみおかせんせい)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-26 9:03:58 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


        三

 その翌々日の事であった、東京なる高山法学士から一つう書状てがみが村長のもとに届いた。その文意は次の如くである。
 富岡先生が折角上京されたと思うと突然帰国された、それについて自分は大に胸を痛めている、先生は相変らず偏執ひねくれておられる。我々は勿論もちろん先輩諸氏も決して先生を冷遇するのではないが先生の方で勝手にそう決定きめて怒っておられる、実に困った者で手の着けようがない。実は自分は梅子さんもらいたいと兼ねて思っていたのであるから、井下伯に頼んで梅子さんだけめて置いてあとから交渉して貰う積りでいた、然るに先生の突然の帰国でその計画も画餅がべいになったが残念でならぬ。自分は容貌ようぼうの上のみで梅子さんを思うているのでない、御存知の通り実に近頃の若い女子にはまれに見るところの美しい性質をもっておられる、自分は随分東京で種々の令嬢方を見たが梅子さんほどの癖のない、すらりとした、すなおなる女を見たことはない。女子の特質とも言うべき柔和な穏やかな何処どこまでもやさしいところを梅子さんは十二分にもっておられる。これには貴所あなたも御同感と信ずる。もし梅子さんの欠点を言えば剛という分子が少ない事であろう、しかし完全無欠の人間を求めるのは求める方が愚である、女子としては梅子さんの如きむしろ完全に近いと言ってよろしい、あるいは剛の分子の少ないところがかえって梅子さんの品性に一段の奥ゆかしさを加えておるのかとも自分は思う。自分は決して浮きたる心でなく真面目まじめにこの少女を敬慕しておる、何卒どう貴所あなたも自分のため一臂いっぴの力を借して、老先生の方をうまく説いて貰いたい、あの老人程かじの取りにくい人はないから貴所が其所そこを巧にやってくれるなら此方こっちは又井下伯に頼んで十分の手順をする、何卒か宜しく御頼おたのみします。
 ただし富岡老人に話されるには余程よほどよき機会おりを見て貰いたい、無暗むやみに急ぐと却て失敗する、この辺は貴所において決して遺漏ぬかりはないと信ずるが、元来老先生といえども人並の性情を有っておるから了解わかることは能く了解る人である。ただその資質に一点我慢強いところのある上に、維新の際妙な行きがかりから脇道わきみちへそれて遂に成るべき功名をも成し得ず、同輩は侯伯たり後進は子男たり、自分は田舎いなかの老先生たるを見、かつ思うごとにその性情は益々ますます荒れて来て、それがならせいとなり遂には煮ても焼ても食えぬ人物となったのである、であるから老先生の心底しんていには常に二個ふたりの人が相戦っておる、その一人は本来自然の富岡うじ、その一人はその経歴が造った富岡先生。そして富岡先生は常に猛烈に常に富岡氏を圧服するに慣れている、その結果として富岡氏が希望し承認し或は飛びつきたい程に望んでいることでも、あの執拗ひねくれた焦熬いらいらしている富岡先生の御機嫌ごきげんに少しでもさわろうものなら直ぐ一撃のもとに破壊されてしまう。この辺のところは御存知でもあろうがく御注意あって、十分機会おりを見定めて話して貰いたい。
 という意味を長々と熱心に書いてある。村長は委細を呑込のみこんで、何卒どうか機会おりを見てうまくこの縁談をまとめたいものだと思った。
 三日ばかりって夜分村長は富岡老人をうた。機会おりを見に行ったのである。然るに座に校長細川あり、酒が出ていて老先生の気焔きえんすこぶすさまじかったので長居ながいずにかえって了った。
 その後五日経って、村長は午後二時頃富岡老人を訪う積りでその門まで来た。そうすると先生の声で
「馬鹿者! 貴様きさままで大馬鹿になったか? 何が可笑おかしいのだ、大馬鹿者!」
 と例の大声でののしるのが手に取るように聞えた。村長は驚いて誰が叱咤しかられるのかとそのまま足をとどめて聞耳をてていると、内から老僕倉蔵がそっと出て来た。
「オイ倉蔵、誰だな今怒鳴られているのは?」村長は私語ささやいた。倉蔵は手を以てこれを止めて、村長の耳のそばに口をつけて、
「お嬢様が叱咤しかられているのだ」
「エッお梅さん※(疑問符感嘆符、1-8-77)」と村長は眼を開瞳みはった。そのはずで、梅子はほとんど富岡老人に従来これまで一言ひとことたりとも叱咤しかられたことはない。梅子に対してはさすがの老先生も全然まるで子供のようで、その父子ふしの間の如何いかにも平穏にして情愛こまかなるを見る時は富岡先生実に別人のようだと誰しも思っていた位。
「マアどうして?」村長は驚ろいてたずねた。
「どうしてか知らんが今度東京から帰って来てからというものは、毎日酒ばかり呑んでいて、今まで御嬢さんにはあんなに優しかった老先生がこの二三日にさんちはちょっとしたことにも大きな声をして怒鳴るようにならしゃっただ、わしも手の着けようがないので困っていたとこで御座りますよ」さも情なそうに言って、
「あの様子では最早もう先が永くは有りますめえ、不吉なことを言うようじゃが……」と倉蔵は眼をしばだたいた。この時老先生の声で
「倉蔵! 倉蔵!」と呼ぶ声が座敷の縁先でした。倉蔵は言葉を早めて、益々小さな声で
「然し晩になると大概校長さんが来ますからその時だけは幾干いくら気嫌きげんえだが校長さんも感心に如何いくらなんと言われても逆からわないで温和おとなしゅうしているもんだから何時いつか老先生も少しは機嫌が可くなるだ……」
「倉蔵! 倉蔵は居らんか!」と又も老先生の太い声が響いた。
 倉蔵は目礼したまま大急ぎで庭の方へわった。村長は腕を組んで暫時しばらく考えていたが歎息ためいきをして、自分の家の方へ引返ひっかえした。

        四

 村長は高山の依頼を言い出す機会おりの無いのに引きかえて校長細川繁はほとんど毎夜の如く富岡先生をうて十時過ぎ頃まで談話はなしている、談話はなしをすると言うよりかむしろその愚痴やら悪口あっこうやら気焔きえんやら自慢噺じまんばなしやらの的になっている。先生はこの頃になって酒をこうむること益々ますますはなはだしく倉蔵の言った通りその言語が益々荒ら荒らしくその機嫌きげん愈々いよいよむずかしくなって来た。ことに変わったのは梅子に対する挙動ふるまいで、時によると「馬鹿者! 死んでしまえ、貴様きさまるお蔭で乃公おれは死ぬことも出来んわ!」とまで怒鳴ることがある。然し梅子はくこれに堪えて愈々従順すなおに介抱していた。其処そこで倉蔵が
「お嬢様、マア貴嬢あんたのような人は御座ごわりませんぞ、神様のような人とは貴嬢のことで御座ござりますぞ、感心だなア……」と老の眼に涙をぼろぼろこぼすことがある。
 こんな風で何時いつしか秋のなかばとなった。細川繁は風邪かぜを引いていたので四五日先生を訪うことが出来なかったが熱も去ったので或夜七時頃から出かけて行た。
 家内やうちが珍らしくも寂然ひっそりとしているので細川は少し不審に思いつつ坐敷に通ると、先生の居間の次ぎの間に梅子が一人裁縫をしていた。細川が入って来てもかしらを上げないので、愈々いぶかしくく見るとあおざめたほおに涙が流れているのが洋燈ランプの光にありありとわかる。校長は喫驚びっくりして
「お梅さんどうかしたのですか」と驚惶あわただしくたずねた。梅子はなおかしらを垂れたまま運ばす針を凝視みつめて黙っている。この時次の
「誰だ?」と老先生が怒鳴った。
わたくしで御座います。細川で御座います」
此方こっちへ入らんで何をしているのか、用があるからちょっと来い!」
唯今ただいま」と校長がとうとした時、梅子は急に細川の顔を見上げた、そして涙がはらはらとそのひざにこぼれた。ハッと思って細川は躊躇ためろうたが、一言ひとことも発し得ない、とどまることも出来ないでそのまま先生の居間に入った。何とも知れない一種の戦慄せんりつが身うちにみなぎって、坐った時には彼の顔は真蒼まっさおになっていた。富岡老人は床に就いていてその枕許まくらもと薬罎くすりびんが置いてある。
「オヤ何所どこかお悪う御座いますか」と細川はしぼいだすような声でやっと言った。富岡老人一言も発しない、一間はせきとしている、細川は呼吸いきつまるべく感じた。しばらくすると、
「細川! 貴公おまえ乃公おれの所へ元来いったい何をしに来るのだ、エ?」
 寝たまま富岡先生は人をしつけるような調声ちょうし、人をあざけるような声音こわねで言った。細川は一語も発し得ない。
「エ、元来いったい何をしに来るのだ? 乃公おれの見舞に来るのか。娘の御機嫌きげんを取りに来るのか、エ? 返事をせえ!」
 校長は眼をつぶり歯をくいしばったままかしられ両のこぶしひざに乗せている。
貴公おまえは娘をねらっておるナ! 乃公の娘を自分の物にしたいと狙っておるナ! ふん」
 細川の拳は震えている。
「貴公よく考えてみろ! 貴公はたか田舎いなかの小学校の校長じゃアないか。同じ乃公の塾に居た者でも高山や長谷川は学士だ、それにさえ乃公は娘をやらんのだぞ。身の程を知れ! 馬鹿者!」
 校長の顔は見る見るくれないをさして来た。その握りしめた拳の上に熱涙がはらはらと落ちた。侯爵伯爵をののしる口からくもそんな言葉が出る、矢張人物よりも人爵の方が先生には難有ありがたいのだろう、見下げ果てた方だと口をいて出ようとする一語を彼はじっとこらえている。この先生の言としては怪むにらない、もし理窟りくつを言って対抗する積りなら初めからこの家に出入でいりをしないのである。と彼は思い返した。
「エ、それともどうしても娘が欲しいと言うのか、コラ!」
 校長は一語を発しない。
判然はっきりと言え! どうしても欲しいと言うのか、男らしく言え、コラ!」
 細川はきっとかしらをあげた。
「左様で御座います! 梅子さんを私の同伴者つれやいに貰いたいと常に願っております!」きっぱりと言い放って老先生の眼睛がんせいを正視した。
「もし乃公がらぬと言ったらどうする?」
「致し方が御座いません!」
「帰れ! 招喚よびにやるまでは来るな、帰れ!」と老人は言放って寝返ねがえりして反対むこうを向いて了った。
 細川は直ちに起ってへやを出ると、突伏して泣いていた梅子は急に起て玄関まで送って来て、
貴下あなた何卒どうか父の言葉を気になさらないで……御存知の通りな気性で御座いますから!」とおろおろ声で言った。
「イイエ決して気には留めません、何卒どうか先生を御大切ごたいせつに、貴嬢あなた御大事ごだいじ……」みなまで言うあたわず、急いで門を出て了った。
 その夜細川が自宅うちに帰ったのは十二時過ぎであった。何処どこ徘徊うろついていたのか、真蒼まっさおな顔色をしてさも困憊がっかりしている様子を寝ないで待っていた母親は不審そうに見ていたが、
「お前又た風邪を引きかえしたのじゃアないかの、未だ十分でないのに余り遅くまで夜あるきをするのは可くないよ」
「何に格別の事は御座いません」と細川は何気なく言ってそのま自分の居間へ入った。母親はその後姿を見送ってそっと歎息ためいきをした。

        五

 その翌日より校長細川は出勤して平常ふだんの如く職務を執っていたが彼の胸中には生れ落ちて以来未だ経験したことのない、苦悩が燃えているのである。
 もし富岡先生にののしられたばかりなら彼は何とかして思切るほうにもがいたであろう、その煩悶はんもんも苦痛には相違ないが、これたたかいである、彼の意力はくこの悩にえたであろう。
 しかし今の彼の苦悩はみずから解く事の出来ないまどいである、「何故なぜ梅子はあの晩泣いていたろう。自分が先生に呼ばれてその居間に入る時、梅子は何故あんな相貌かおつきをして涙を流して自分を見たろう。自分が先生にむかって自分の希望のぞみを明言した時に梅子は隣室で聞いていたに違いない、もし自分の希望のぞみを全くいなむ心なら自分が帰る時あんなに自分を慰めるはずはない……」
「梅子は自分を愛している、少くとも自分が梅子をこいていることを不快には思っていない」との一念が執念しゅうねくも細川の心に盤居わだかまっていて彼はどうしてもこれを否むことが出来ない、然し梅子が平常ふだん何人なんびとに向ても平等に優しく何人に向ても特種の情態こころもちを示したことのないだけ、細川は十分この一念を信ずることが出来ぬ。梅子が泣いて見あげた眼の訴うるが如くわびるが如かりしを想起おもいおこす毎に細川はうっとりと夢見心地になり狂わしきまでに恋しさのこころ燃えたつのである。恋、惑、そして恥辱はじ、夢にもうつつにもこの苦悩は彼より離れない。
 或時は断然倉蔵に頼んでひそかにふみを送り、我情わがこころのままを梅子に打明けんかとも思い、夜の二時頃まで眠らないで筆を走らしたことがある、然し彼は思返してその手紙を破ってしまった。こういう風で十日ばかりった。或日細川は学校を終えて四時頃、丘のふもとを例の如く物思に沈みつつ帰って来ると、倉蔵に出遇であった。倉蔵は手に薬罎くすりびんを持ていた。
「先生! どうしてこの頃は全然まるきりお見えになりません?」倉蔵はないない様子を知りながら素知らぬ風で問うた。
「老先生の御病気はどうかね?」と校長も又た倉蔵の問に答えないで富岡老人の様子をたずねた。
「この頃はめっきりお弱りになって始終床にばかり就ていらっしゃるが、別に此処ここというて悪るい風にも見えねえだ。然し最早もう長くは有りますめえよ!」と倉蔵は歎息ためいきをした。
「ふうん、そうかな、一度見舞に行きたいのだけれど……」と校長の声も様子も沈んで了った。
「おいでなされませ、かまうもんかね、疳癪かんしゃくまぎれに何言うたて……」
「それもそうだが……お梅さんの様子はどうだね?」と思切って問うた。
「何だかこの頃は始終鬱屈ふさいでばかり御座るが、見ていても可哀そうでなんねえ、ほんとに嬢さんは可哀そうだ……」と涙にもろい倉蔵はわきを向いて田甫たんぼの方をなが最早もう眼をしばだたいている。
「困ったものだナ、先生は相変らずやかましく言うかね?」
「ナニこの頃は老先生も何だか床の中で半分眠ってばかり居て余り口をかねえだ」
「妙だねえ」と細川は首をかしげた。
「これまでわずらったことがあっても今度のように元気のないことはえが、矢張やっぱり長くないしるしであるらしい」
「そうかも知れん!」と細川はまゆひそめた。
「それに何だか我が折れて愚にかえったような風も見えるだ。それを見ると私も気の毒でならん、やかまし人は矢張やっぱり喧しゅうしていてくれる方がえと思いなされ」
「今夜見舞に行ってみようかしらん」
「是非来なさるが可え、関うもんか!」
「うん……」と細川は暫時しばらく考えていたが、「お梅さんに宜しく言っておくれ」
「かしこまりました、是非今夜来なさるがえ」
 細川は軽く点頭うなずき、二人は分れた。いろいろと考え、種々いろいろもがいてみたが校長は遂にその夜富岡を訪問とうことが出来なかった。
 それから三日目の夕暮、倉蔵が真面目まじめな顔をして校長のうちへ来て、梅子からの手紙を細川の手に渡した、細川が喫驚びっくりして目をまるくして倉蔵の顔を見ているうちに彼は挨拶あいさつないで帰ってしまった。
 梅子からの手紙! 細川繁の手はるえた。無理もない、かつて例のないこと、又有りべからざること、細川に限らず、梅子を知れる青年わかものの何人も想像することの出来ないことである!
 封を切て読み下すと、すこぶる短いふみで、ただ父に代ってこの手紙を書く。今夜直ぐ来て貰いたい是非とのことである、何か父から急にお話したいことがあるそうだとの意味。
 細川は直ぐ飛んでった。「呼びにやるまで来るな!」との老先生の先夜の言葉を今更のように怪しゅう思って、彼は途々みちみちこの一言いちごんを胸に幾度いくたびか繰返した、そして一念はしなくもその夜の先生の怒罵どばに触れると急に足がすくむよう思った。
 然し「呼びに来た」のである。不思議の力ありて彼を前より招きあとよりたちまち彼を走らしめつ、彼は躊躇ためらうことなく門を入った。
 居間に通って見ると、村長が来ている。先生は床に起直って布団ふとん倚掛よっかかっている。梅子も座に着いている、一見一座の光景ようす平常ふだんと違っている。真面目で、沈んで、のみならず何処どこかに悲哀の色が動いている。

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