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節操(みさを)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/11/26 9:08:53 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

『房(ふさ)、奥様(おくさん)の出る時何とか言つたかい。』と佐山銀之助(さやまぎんのすけ)は茶の間に入(はひ)ると直(す)ぐ訊(きい)た。
『今日(けふ)は講習会から後藤様(ごとうさん)へ一寸(ちよつと)廻(まは)るから少(すこ)し遅くなると被仰(おつしや)いました。』
『飯(めし)を食(くは)せろ!』と銀之助は忌々(いま/\)しさうに言つて、白布(はくふ)の覆(か)けてある長方形の食卓の前にドツカと坐(す)はつた。
 女中の房(ふさ)は手早く燗瓶(かんびん)を銅壺(どうこ)に入れ、食卓の布を除(と)つた。そして更(さら)に卓上の食品(くひもの)を彼所(かしこ)此処(こゝ)と置き直して心配さうに主人の様子をうかがつた。
 銀之助は外套(ぐわいたう)も脱がないで両臂(りやうひぢ)を食卓に突いたまゝ眼(め)を閉(とぢ)て居る。
『お衣服(めし)をお着更(きかへ)になつてから召上(めしあが)つたら如何(いかゞ)で御座(ござ)います。』と房(ふさ)は主人の窮屈さうな様子を見て、恐る/\言つた。御気慊(ごきげん)を取る積(つもり)でもあつた。何故(なぜ)主人が不気慊(ふきげん)であるかも略(ほゞ)知つて居るので。
『面倒臭い此儘(このまゝ)で食(く)ふ、お燗(かん)は最早(もう)可(い)いだらう。』
 房(ふさ)は燗瓶(かんびん)を揚(あげ)て直(す)ぐ酌(しやく)をした。銀之助は会社から帰りに何処(どこ)かで飲んで来たと見え、此時(このとき)既(すで)にやゝ酔(よつ)て居たのである。酔(よ)へば蒼白(あをじろ)くなる顔は益々(ます/\)蒼白(あをじろ)く秀(ひい)でた眉(まゆ)を寄せて口を一文字に結んだのを見ると房(ふさ)は可恐(こはい)と思つた。
 二三杯ぐい/\飲んでホツと嘆息(ためいき)をしたが、銀之助は如何(どう)考(かん)がへて見ても忌々(いま/\)しくつて堪(たま)らない。今日(けふ)は平時(いつも)より遅く故意(わざ)と七時過ぎに帰宅(かへ)つて見たが矢張(やはり)予想通り妻(さい)の元子(もとこ)は帰つて居ない。これなら下宿屋に居るも同じことだと思ふ位(くらゐ)なら未(ま)だ辛棒(しんぼう)も出来るが銀之助の腹の底には或物(あるもの)がある。
『何時頃(なんじごろ)に帰ると言つた。』
『何とも被仰(おつしや)いませんでした。』と房(ふさ)は言悪(いひにく)さうに答へる。
 後藤へ廻(ま)はるなら廻(ま)はると朝(あさ)自分が出る前にいくらでも言ふ時(ひま)があるじやアないかと思ふと、銀之助は思はず
『人を馬鹿にして居やアがる。』と唸(うな)るやうに言つた。そして酒ばかりぐい/\呑(の)むので、房(ふさ)は
『旦那様(だんなさま)何か召上(めしあ)がりませんか、』と如何(どう)かして気慊(きげん)を取る積(つも)りで優しく言つた。
『見ろ、何が食へる。薄ら寒い秋の末(すゑ)に熱い汁が一杯吸(す)へないなんて情(なさけ)ないことがあるものか。下宿屋だつて汁ぐらゐ吸はせる。』
 銀之助の不平は最早(もう)二月(ふたつき)前からのことである。そして平時(いつ)も此(この)不平を明白(あからさま)に口へ出して言ふ時は『下宿屋だつて』を持出(もちだ)す。決して腹の底の或物(あるもの)は出さない。
 房(ふさ)は『下宿屋』が出たので沈黙(だまつ)て了(しま)つた。銀之助は急に起立(たちあ)がつて。
『出て来る。』
『最早(もう)直(ぢ)き奥様(おくさん)がお帰宅(かへ)りになりませう。』と房(ふさ)は驚いて止(と)めるやうに言つた。
『奥様(おくさん)の帰宅(かへる)のを待たないでも可(い)いじやアないか。』
 銀之助はむちやくちや腹(ばら)で酒ばかし呑(の)んで斯(か)うやつて居るのが、女房の帰(か)へるのを待つて居るやうな気がしたので急に外に飛び出したくなつたのである。
『外で何を勝手な真似(まね)をして居るか解(わか)りもしない女房のお帰宅(かへり)を謹(つゝし)んでお待申(まちまう)す亭主じやアないぞ』といふのが銀之助の腹である。
『それはさうで御座(ござ)いますが、最早(もう)直(ぢ)きお帰りになりませうから。』と房(ふさ)は飽(あ)くまで止めやうとした。
『帰つたつて可(い)いじやアないか。乃公(おれ)は出るから』と言ひ放つて、何か思ひ着いたと見え、急速(いそ)いで二階に上(あが)つた。
 火鉢には桜炭(さくらずみ)が埋(い)かつて、小さな鉄瓶(てつびん)からは湯気を吐いて居る。空気洋燈(らんぷ)が煌々(くわう/\)と燿(かゞや)いて書棚の角々(かど/\)や、金文字入りの書(ほん)や、置時計や、水彩画の金縁(きんぶち)や、籐(とう)のソハに敷(しい)てある白狐(びやくこ)の銀毛(ぎんまう)などに反射して部屋は綺麗(きれい)で陽気である、銀之助はこれが好(すき)である。しかし今夜は此等(これら)の光景も彼を誘引(いういん)する力が少しもない。机の上に置いてある彼が不在中に来た封書や葉書(はがき)を手早く調べた。其中(そのうち)に一通差出人(さしだしにん)の姓名の書いてない封書があつた。不審に思つて先(ま)づ封を切つて見ると驚くまいことか彼が今の妻と結婚しない以前に関係のあつた静(しづ)といふ女からの手紙である。
 銀之助は静(しづ)と結婚する積(つも)りであつたけれど教育が無いとか身分が卑(いや)しいとかいふ非難が親族や朋友(ほういう)の間に起(おこ)り、且(か)つ其(その)純潔すら疑(うた)がはれたので遂(つひ)に何時(いつ)とはなしに銀之助の方から別れて了(しま)つたのであつた。別れて今の妻(さい)と結婚して後(のち)は静(しづ)の成行(なりゆき)に就(つ)き銀之助は全く知らなかつた。
 ところが五年目に突然此(この)手紙、何事かと驚いて読み下(くだ)すと其(その)意味は――お別れしてから種々の運命(め)に遇(あつ)た末(すゑ)今は或(ある)男と夫婦同様になつて居る、然(しか)るに貴様(あなたさま)との関係と同じく矢張(やはり)男の家で結婚を許さない、その為(た)め男は遂(つひ)に家出して今は愛宕町(あたごちやう)何丁目何番地小川方(をがはかた)に二人して日蔭者(ひかげもの)の生活(くらし)をして居る。窮迫(きゆうはく)に窮迫(きゆうはく)を重ね、ちび/\した借金も積(つも)りて今は何としても立行(たちゆ)かぬ様(さま)となつた。そこで如何(いか)なることがあつても貴様(あなたさま)にはと誓つて居たけれど其(その)誓(ちかひ)も捨て義理も忘れてお願ひ申すのである、何卒(どうか)二十円だけ用意して明晩(みやうばん)来て呉(く)れまいか――といふのである。
 明晩とは今夜である銀之助はしみ/″\静(しづ)の不幸(ふしあはせ)を思つた。静(しづ)は男に愛着(おも)はれ又(ま)た男を愛着(おも)ふ女である。そして可憐(かれん)で正直で怜悧(れいり)な女であるが不思議と関係のない者からは卑(いや)しい人間のやうに思はれる女で実に何者にか詛(のろ)はれて居るのではないかと思つた。しかし銀之助には以前(もと)の恋の情(こゝろ)は少(すこし)もなかつた。
 どうせ飛び出すのだ、何しろ訪ねて見ようと銀之助は先(ま)づ懐中(くわいちゆう)を改めると五円札が一枚と余(あと)は小銭(こせん)で五六十銭あるばかり。これでも仕方がない不足の分は先方(むかふ)の様子を見てからの事と直(す)ぐ下に降(お)りた。
『房(ふさ)、遅くなつたら閉(し)めても可(い)いよ。』
『アラ如何(どう)してもお出(で)になりますので御座(ござ)いますか。』と房(ふさ)はきよと/\して気が気でない。
『何(な)に心配しないでも可(い)いよ。奥様(おくさん)に急に用が出来たから出たつて言つてお呉(く)れ。』
 外は星夜(ほしづくよ)で風の無い静かな晩である。左へ廻(まが)れば公園脇の電車道、銀之助は右に折れてお濠辺(ほりばた)の通行(ひとゞほり)のない方を選んだ。ふと気が着いて自家(じたく)から二三丁先の或家(あるいへ)の瓦斯燈(がすとう)で時計を見ると八時過(すぎ)である。
 外で冷(ひやゝ)かな空気に触れると酔(よひ)が足りない。もすこし飲んで出れば可(よ)かつたと思つた。
 愛宕町(あたごちやう)は七八丁の距離しかないので銀之助は静(しづ)のこと、今の妻(さい)の元子(もとこ)のことを考へながら、歩(あゆ)むともなく、徐々(のろ/\)歩(あ)るいた。
 成程(なるほど)比べて見ると静(しづ)には何処(どこ)か卑(いや)しいところがあつて、元子にはそれがない。
 静(しづ)の卑(いや)しいやうに他(ひと)から思はれるところは何故(なぜ)であるかと考へた。静(しづ)には何処(どこ)かに色ッぽい風(ふう)がある。女性(によせい)にはなくてならぬ節操(みさを)といふ釘(くぎ)が一本(ぽん)足りないで、其(その)為(た)め身体(からだ)全体に『たるみ』が出来て居る、其(その)『たるみ』が卑(いや)しい色を成して居るのだ、それが証拠には自分の前に静(しづ)には情夫(をとこ)が有つたらしく、自分の後(のち)に今の男があるではないか。

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