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武蔵野(むさしの)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-26 9:09:59 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


     八

 自分は以上の所説にすこしの異存もない。ことに東京市の町外まちはずれを題目とせよとの注意はすこぶる同意であって、自分もかねて思いついていたことである。町ずれを「武蔵野」の一部にれるといえば、すこしおかしく聞こえるが、じつは不思議はないので、海を描くに波打ちぎわを描くも同じことである。しかし自分はこれを後廻わしにして、小金井堤上の散歩に引きつづき、まず今の武蔵野の水流を説くことにした。
 第一は多摩川、第二は隅田川、むろんこの二流のことは十分に書いてみたいが、さてこれも後廻わしにして、さらに武蔵野を流るる水流を求めてみたい。
 小金井の流れのごとき、その一である。この流れは東京近郊に及んでは千駄ヶ谷、代々木、角筈つのはずなどの諸村の間を流れて新宿に入り四谷上水となる。また井頭池いのかしらいけ善福池などより流れ出でて神田上水かんだじょうすいとなるもの。目黒辺を流れて品海ひんかいに入るもの。渋谷辺を流れて金杉かなすぎに出ずるもの。その他名も知れぬ細流小溝さいりゅうしょうきょに至るまで、もしこれをよそで見るならば格別の妙もなけれど、これが今の武蔵野の平地高台の嫌いなく、林をくぐり、野を横切り、かくれつ現われつして、しかもまがりくねって(小金井は取除け)流るるおもむきは春夏秋冬に通じて吾らの心をくに足るものがある。自分はもと山多き地方に生長せいちょうしたので、河といえばずいぶん大きな河でもその水は透明であるのを見慣れたせいか、初めは武蔵野の流れ、多摩川をのぞいては、ことごとく濁っているのではなはだ不快な感をいたものであるが、だんだん慣れてみると、やはりこのすこし濁った流れが平原の景色にかなってみえるように思われてきた。
 自分が一度、今より四五年前の夏の夜の事であった、かの友と相たずさえて近郊を散歩したことを憶えている。神田上水の上流の橋の一つを、夜の八時ごろ通りかかった。この夜は月えて風清く、野も林も白紗はくしゃにつつまれしようにて、何ともいいがたき良夜りょうやであった。かの橋の上には村のもの四五人集まっていて、らんって何事をか語り何事をか笑い、何事をか歌っていた。その中に一人の老翁ろうおうがまざっていて、しきりに若い者の話や歌をまぜッかえしていた。月はさやかに照り、これらの光景を朦朧もうろうたる楕円形だえんけいのうちに描きだして、田園詩の一節のように浮かべている。自分たちもこの画中の人に加わって欄に倚って月を眺めていると、月はるやかに流るる水面に澄んで映っている。羽虫はむしが水をつごとに細紋起きてしばらく月のおも小皺こじわがよるばかり。流れは林の間をくねって出てきたり、また林の間に半円を描いて隠れてしまう。林の梢にくだけた月の光が薄暗い水に落ちてきらめいて見える。水蒸気は流れの上、四五尺の処をかすめている。
 大根の時節に、近郊きんごうを散歩すると、これらの細流のほとり、いたるところで、農夫が大根の土を洗っているのを見る。

     九

 かならずしも道玄坂どうげんざかといわず、また白金しろがねといわず、つまり東京市街の一端、あるいは甲州街道となり、あるいは青梅道おうめみちとなり、あるいは中原道なかはらみちとなり、あるいは世田ヶ谷街道となりて、郊外の林地りんち田圃でんぽに突入する処の、市街ともつかず宿駅しゅくえきともつかず、一種の生活と一種の自然とを配合して一種の光景をていしおる場処を描写することが、すこぶる自分の詩興をび起こすも妙ではないか。なぜかような場処が我らの感をくだらうか[#「だらうか」はママ]。自分は一言にして答えることができる。すなわちこのような町外まちはずれの光景は何となく人をして社会というものの縮図でも見るような思いをなさしむるからであろう。言葉を換えていえば、田舎いなかの人にも都会の人にも感興を起こさしむるような物語、小さな物語、しかも哀れの深い物語、あるいは抱腹ほうふくするような物語が二つ三つそこらの軒先に隠れていそうに思われるからであろう。さらにその特点とくてんをいえば、大都会の生活の名残なごりと田舎の生活の余波よはとがここで落ちあって、ゆるやかにうずを巻いているようにも思われる。
 見たまえ、そこに片眼の犬がうずくまっている。この犬の名の通っているかぎりがすなわちこの町外まちはずれの領分である。
 見たまえ、そこに小さな料理屋がある。泣くのとも笑うのとも分からぬ声を振立ててわめく女の影法師が障子しょうじに映っている。外は夕闇がこめて、煙のにおいとも土の臭いともわかちがたき香りがよどんでいる。大八車が二台三台と続いて通る、その空車からぐるまわだちの響がやかましく起こりては絶え、絶えては起こりしている。
 見たまえ、鍛冶工かじやの前に二頭の駄馬が立っているその黒い影の横のほうで二三人の男が何事をかひそひそと話しあっているのを。鉄蹄てっていの真赤になったのが鉄砧かなしきの上に置かれ、火花が夕闇を破って往来の中ほどまで飛んだ。話していた人々がどっと何事をか笑った。月が家並やなみの後ろの高いかしの梢まで昇ると、向う片側の家根がろんできた。
 かんてらから黒い油煙ゆえんが立っている、その間を村の者町の者十数人駈け廻わってわめいている。いろいろの野菜が彼方此方に積んで並べてある。これが小さな野菜市、小さな糶売場せりばである。
 日が暮れるとすぐ寝てしまううちがあるかと思うとの二時ごろまで店の障子に火影ほかげを映している家がある。理髪所とこやの裏が百姓で、牛のうなる声が往来まで聞こえる、酒屋の隣家となり納豆売なっとううりの老爺の住家で、毎朝早く納豆なっとう納豆と嗄声しわがれごえで呼んで都のほうへ向かって出かける。夏の短夜が間もなく明けると、もう荷車が通りはじめる。ごろごろがたがた絶え間がない。九時十時となると、せみが往来から見える高い梢で鳴きだす、だんだん暑くなる。砂埃すなぼこりが馬のひづめ、車のわだちあおられて虚空こくうに舞い上がる。はえの群が往来を横ぎって家から家、馬から馬へ飛んであるく。
 それでも十二時のどんがかすかに聞こえて、どことなく都の空のかなたで汽笛の響がする。





底本:「日本文学全集12 国木田独歩 石川啄木集」集英社
   1967(昭和42)年9月7日初版
   1972(昭和47)年9月10日9版
底本の親本:「国木田独歩全集」学習研究社
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:j.utiyama
校正:八巻美惠
1998年10月21日公開
2004年6月17日修正
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