海野十三全集 第7巻 地球要塞 |
三一書房 |
1990(平成2)年4月30日 |
1990(平成2)年4月30日第1版第1刷 |
ヒマラヤ越え
このふしぎな物語は旅客機ヤヨイ号が、ヒマラヤ山脈中に不時着した(?)事件から、はしなくも、くりひろげられる。
このヤヨイ号には、ある特別な用事をおびて、ヨーロッパへわたる特使団の一行がのっていた。道彦少年も、その中に加わっていた。彼は、団長木谷博士の小さい秘書だった。
世界地図をひろげてみるとわかるが、日本からヨーロッパへとぶには、どうしても、ヒマラヤ山脈にぶつかるのであった。ヤヨイ号は、仏領インドシナ某地点で、多量のガソリンやオイルを積みこんでから、ふわりと空へまいあがったのであった。
インドの上をとぶことができれば、都合がよかったのであるが、あいにく気象状態がよくないので、この国の上へは、なるべくとばない方がよかった。だから針路をインドの北どなりにとり、まるで天然の万里の長城のようなヒマラヤ山脈を越え、チベットやネパールやブータンの国々の間をぬい、そして一気にアフガニスタン国のカブールという都市まで無着陸の飛行をつづけなければならなかった。これは全航路の中で、一等あぶないところであった。ヤヨイ号は、ついに、この大難所にさしかかった。機の高度は、八千メートルであった。
山脈中の最高峰は、八千八百八十三メートルのエベレスト山であって、富士山の二倍半に近い。そのほかにも八千メートルを越える高い峰々がならんでいて、機の高度の方が、むしろ低い。もっと機の高度をあげればよいわけであるが、これ以上あげると、エンジンの馬力がたいへんおちるしんぱいがあった。そして、機内は、寒さのため、のりこんでいる特使団の一行はもちろん、操縦士や機関士などの乗員ですら、非常なくるしさとたたかっているのであった。機の前面には、今にもぶつかりそうな峰々が、一つまた一つ、ヤヨイ号をおどかすようにあらわれる。操縦士は、そのたびに、舵をひいて方向をかえ、白雪をいただいた峰のまわりをぐるっとうかいしなければならなかった。だいたい山々の五千メートルから上は、すっかり雪におおわれ、まっ白に光っていた。飛行地図を見ると、このへんの平均雪線は五千メートルとしるされているが、まさにそのとおりだった。
「ここから見ていると、地球全体が、雪におおわれているようですね」
道彦が、窓ガラスから外を見下して、かん心して言った。
「ああ、そうだね」
こたえたのは、木谷博士だった。博士は、部厚い本のページを開いて、しきりに読みつづけている。前の席の背中が、小さいたなになっていて、そのうえにフラスコがおいてある。フラスコの口から、かすかに湯気がたちのぼっているが、この中にはあつい紅茶が入っているのであった。
「写真で見た北極の氷原とは、だいぶんちがったけしきですね」
「それは、ちがうよ。北極の氷原は、こんなにでこぼこしていない。もっとも氷山はあるが、山脈の感じとはちがうよ。おおあそこに最高峰のエベレストの頭が見えるな」
「どれです。エベレストは……」
「ほら、あそこだ。あそこに灰色がかった雲があるが、あの雲から頭を出している」
と、いった博士は、どうしたのか、そこでまゆをひそめて、窓ガラスのところへ、ひたいをすりつけ、
「……あの雲は、いやな雲だなあ。ほう、風が出てきたらしい。雲がうずまいて、うごきだしたぞ」
と、しんぱいそうである。
「先生、すると、空はあれますか」
「うむ、一あれ、きそうだ。大吹雪がやってくるぞ。おお、機はいよいよ高度をあげだしたぞ」
そばに、高度計がかかっていたが、その指針は、生きもののように、ぐるぐるうごきだした。さっきまでは高度八千のところを指していたのが、八千五百になり、九千になり、そしてまだその上になっていく。しゅうしゅうと、酸素が室内へおくられはじめた。おしよせる雲のうえに、うまく出られればいいが……。
しかし、ついにいやな運命がやってきた。
「先生、エンジンの音がへんですね。そう思いませんか」
ヤヨイ号には、四つの発動機がついて、さっきまでは、ゴーンゴーンとこころよい響をだしていたのが、ここへ来て、急に調子がわるくなって、ときに、するするッととまる。それからしばらくして、またぶるぶるンとまわるのであった。寒冷のため、エンジンがどうかしたのだ。
雲は、いつしか機のまわりをとりかこんでいた。そして視界は、すっかりとじられてしまった。
「これはいかん。山にぶつからなければいいが……」
と、ひごろおちついた木谷博士が、しんぱいそうに席から腰をあげた。そのしゅんかん、機は、ものすごい音をたてた。そして人々は、あっという間に、てんじょうにほうりあげられた。
「墜落だ。早く機から外へ出ろ……」
道彦の耳に、だれかの声がはいったが、彼は、その後のことをよくおぼえていない。
遭難に乱れず
道彦が気がついたときは、彼は、くらやみの中にいた。ガソリンの、たまらない匂いが、彼の鼻をつよくつきさすので、彼はたまらなくなって、大きなくしゃみをした。
「おお道彦か。気がついたらしいな。どうじゃ、気分は、どこか痛まないか」
くらやみの声は、木谷博士にちがいなかった。
「あっ、先生、ぼくは、大丈夫です。しかし、からだがうごきません」
「そうか。お前のからだが冷えないように、ありったけの毛布でくるんであるんだ」
「ああ、そうですか。――飛行機は、ついらくしたんですね」
「うむ、山の斜面にのりあげたんだ」
「みなさんは、どうしました」
「……む」
博士は、しばらくうなっていたが、
「かなり、ひどいけがをした。が、まあ、そのことに気をつかわないのがいい。とにかく、お前が大丈夫なら、こんな幸いなことがない。風邪をひかないようにして、夜の明けるのを待とうよ」
博士は、やさしいうちに、道彦を力づけた。そして彼の口にぷーんといい匂いのする葡萄酒の壜をあてがった。夜明までにずいぶんながい時間がかかったように思った。しかし、東の空が、うっすらと白みかかったのがわかったとき道彦は、とびたつほどうれしかった。
「先生、夜が明けてきました」
博士は、横の座席で、これも毛布をうんとからだにまきつけ、だるまさんのようなかっこうになってねむっているようであった。
「先生、先生!」
道彦は、博士をよんだ。しかし博士は、それにこたえなかった。
道彦は、立ちあがって、博士をゆりおこしにかかった。だがそれはむだであった。博士は、こんこんとしてねむっていた。
「……もしや、先生は、死にかかっていられるのではないかしら。そうだとすると、だれかをよんで、なんとかして助けなくては……」
道彦は、明かるくなった機内を見まわしたが、ふしぎにも、博士のほかにはだれもいなかった。
「みんな、どうしたのであろうか」
彼は、通路をあるいていった。通路の正面の扉があいている。そこを入ると、戸口が見える。その戸口もあいていた。そして、あけかかった空を背にして、雪山がひどくかたむいていた戸口までいくと、はっきり事情がわかった。なるほど、ヤヨイ号は、かたい雪の斜面に、ななめにかしいだまま、腹ばいになっているのであった。左の翼が、根もとから、もぎとられている。機首は雪の中につっこんでいた。
道彦はびっくりしたが、しいて気をおちつけ、雪のうえに下りた。すると、機から十メートルばかりへだったところに、テントが、柱もしないで、雪のうえにひろげられていた。なにをするために、そんなことをしてあるのかと、彼はその方にあるいていったが、とちゅうで彼は、うむとうなって立ちどまった。それはテントの下から、人間の足が見えたからであった。
テントをめくって、その下を見る必要はない。道彦は、急に頭が、ふらふらとしてきたが、こんなことで、よわい気を出してはならないと思い、げんこをかためると、われとわがあたまをがーんとなぐりつけた。
(……生き残ったのは、先生と自分だけらしいようだ。いや、先生も、このままにしておけば死んでしまうぞ)
道彦はしっかりしなくてはならないと、自分の心をはげました。なんとかして、先生をたすけること、それから、この大椿事を東京へ知らせること、この二つを早くやらなければ、彼のつとめがすまない。彼は、決心をした。どうやら、ここは、ヒマラヤ山脈の高峰らしいが、どこかに、人間はいないであろうか。登山者がいてくれるといいのだが、あるいは山番でもいい。
太陽は山のはしからのぼって、雪山一たいをぎらぎらとてりつける。道彦は、かたい雪のうえを、いくたびかすべりそうになって、それでもやっとがけのふちまで、たどりついた。そして、谷の方を、おそるおそる見下ろしたのであった。
雪のほかに、何一つ見えない大雪谿が、はるか下の方へのびている。向いの山も、まっ白であって、山小屋はもちろん、石室らしいものさえ見えなかった。そうでもあろう。ここはよほどの奥山らしい。
それでも道彦は、のぞみをすてなかった。小手をかざして、どぎつい太陽の光をさえぎりつつ、なおも峰々へ眼をやった。
すると、だしぬけに、彼のうしろで、声をかけた者があった。
「おい、お前さん。わしに、力を貸してくれないか」
そういった声は、聞きなれない外国語であった。
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